美術家斎藤義重の97年の生涯の年表を作成しました。
                ホームぺージの特徴を生かし、縦軸にこれまでの斎藤義重展の図録を参考に
                年譜を作成し、横軸に各項目に対する注釈・補足や関連サイトをリンク表記し
                ました。これらを通して美術家斎藤義重の全体像に少しでも迫れたらと考えま
                す。
                 わが師、斎藤義重は2001年6月13日未明に永眠されました。まさに「現代
                美術の巨星墜つ」です。変遷を重ねた20世紀美術を真摯に受けとめ、その流れ
                を自らの作品の内に体現した作家は他に見当たりません。まさに20世紀という
                時代が醸し出した作家でした。斎藤義重先生を検証し語り継ぐことが、30年以
                上も身近に接し、あれこれ薫陶を受けた弟子の一人としての私の努めだと思い
                このページを立ち上げました。 このページは多くの方々から寄せられる新事実
                や注釈情報によって、随時更新して行きたいと思っています。ご意見、斎藤義重
                に関する情報をお寄せください。お待ちしています。                   
          遊 民 期  1904−’45              
  
             明治時代も後半に入り「国民国家」としての体裁も整い、やがて「大正デモク
            ラシー」がおとずれ,西洋文明が社会の隅々に浸透し、自由で豊かさを謳歌した時
            代をへて「大恐慌」による不況と貧困からの脱出を求めて、昭和の国粋的民族主義
            国家へ突き進むそんな日本社会の、大都市東京で、斎藤義重はその前半生を送って

            いる。                   

                    職業軍人の家に生まれ、比較的裕福で都市文化的な生活の中で成長したが、鋭敏
            な感性のためか、次第に反逆的・虚無的意識を培ってゆき、現実社会に対して「7
/3
                  
の構え」で接していたようだ。つまり、国家や社会の旧弊を批判する覚めた理性が7分
            で、生存のための順応と肯定の感情が3分の割合で生きていたのだろう。そのためか
            定職にも就かず、体制に批判的なマルキシズムやシュールレアリズム運動の周辺に身
            を置きながら、熱心な革命運動家にもなりきれず、かといって、職業美術家になろう
            とする強い意識もなく、独自の構成的作品を気の向くままに作る、日本的伝統の文人
            画家のような生活を送る「高等遊民」それが、斎藤義重の前半生ではなかったのか。   
            この遊民期と名付けた斎藤義重の前半生を知る人は少なく、わずかの資料と本人の
            回想から推測するしかないようだ。


 年代                 関連事項
1904
明治37年 
(0)
: 5月4日青森県弘前市に生まれる
: 父、斎藤長義は南部藩士の子息。母、サキは薩摩藩士の子女。
  7人兄弟の二男。上に兄一人、姉二人、下に妹二人、弟一人 注ー1−2
  日露戦争勃発
1907
(3)
: 父長義に陸軍第14師団輜重兵14大隊本部隊長大佐が下命される
 注ー1
1908
(4)
: 第14師団の宇都宮移駐により家族も宇都宮の大隊長官舎に移る
1910 
(6)
: 栃木県尋常師範学校付属幼稚園(現宇都宮大学教育学部付属幼稚園)
  に通う。この頃、父の書斎で英国ヴィクトリア朝絵画やフランス宮殿の写真
  アルバムを興味深く見るなど、最初の教養的体験をする。
注ー2
1911
(7)
: 父の任地変更にともない、東京に転居、新宿区牛込加賀町に住む。
  さらに、牛込薬王子町の旧島村抱月宅に移る。
: 牛込尋常小学校に入学。
1917
大正6
(13)
: 尋常小学校を卒業。父の勧めで日本主義思想家杉浦重剛が校長を
: 勤める日本中学に入学。
: 滝の川に転居。
  ロシア革命起こる。ロシア構成主義運動が盛んになる。
1918
(14)
: 美術クラブに属し、油絵を描き始める。上級生に中西利雄(後に
  水彩画家)がいた。校内展をたびたび開き、又、外国文学を乱読し、
: 草創期のヨーロッパ・ハリウッド映画をしばしば見に行く。注ー3
: この年、父56歳で死去。青山墓地に葬る注ー4
: 陸軍幼年学校を受験するが合格せず。注ー5

  11月第一次世界大戦終結する。
  ベルリンでダダイズムの運動起きる。
1920
(16)
: 南伝馬町の星製薬会社で開かれたロシア未来派の亡命作家の
  作品展を見て、その新しさに衝撃を受ける。
注ー6
1923
(19)
: この頃、大正デモクラシーの下で活発に開かれた前衛美術展に
  強い関心を寄せる。特に、村山知義が「意識的構成主義」の主張を掲げて
  開催された「マヴォ第一回展覧会」を興味深く見る。
  関東大震災
1924
(20)
: 築地小劇場で公演されたゲオルグ・カイザーの演劇「朝から夜まで」
  の村山知義の舞台装置に感動する。
1925
(21)
: 写実的再現性の絵画への嫌悪感や、先の未来派作家達の影響か、
  絵を描くとに行き詰まり、文学への傾斜を深める。注ー7
1928
昭和3
(24)
: 小石川の喫茶店に立体作品を持ち込み、展示する。
: 白樺派的思潮に対する反動から、マルキシズムに傾倒し、ブバーリンの
  「史的唯物論」の購読会を開く。政治と芸術の関係をめぐって
  意見が対立し会から離脱する。
1929
(25)
: ドイツから帰国したばかりの某氏が小石川の喫茶店に展示された立体作品
  に興味を示して、知り合いになる。この某氏の家でヨーロッパ前衛美術の
  画集・雑誌等を見て、構成主義やダダイズムに魅せられる。注ー8
  世界恐慌始まる。
1931
(27)
: 構成的抽象的な作品を制作する。
: レリーフ状の作品を<二科会>に出品しようとするが、絵画にも彫刻
  としても扱われず持ち帰る。
: この頃、滝の川の実家近で、一人暮らしを始める。注ー9
1933
(29)
: 家族を納得させるため二科展に入選する必要を感じ、古賀春江・東郷青児
  らが主宰する「アバンギャルド洋画研究所」に入る。ここで桂ユキ・山本蘭村
  らに出会う。注ー10
: この頃、機械の構造を記述し、そこに多少の身辺雑記を盛り込んだ物語性
  の無い文章を制作し、武田麟太郎の評価を得る。
  後に、彼の主宰する『人民文庫』の挿絵・装丁を手がける。また、スフィスト
  の影響からカニバリズムをテーマにした小説を創作する。
  この2作が文学との傾倒の区切りとなる。注ー11
1935
(31)
: 古賀春江が亡くなり、アカデミックな内容になった「アバンギャルド洋画研究
  所」を離籍。
: この頃、詩人の瀧口修造・北園克衛に出会う。
注ー12
1936
(32)
: 第23回二科展に<出立><アブストラクト>を出品し、初入選する。
  作品は二科の第9室に展示される。
  2・26事件勃発。
1938
(34)
: 「二科九室会」の結成に会員として参加。注ー13
  この頃から<トロウッド>と名付けられた合板レリーフの作品を制作する。
1939
(35)
: 第1回九室会展に4点出品(出品は第1回のみ)
: 福沢一郎らシュールレアリズムの作家を中心に「美術文化協会」が結成され、
  創立同人に加わる。注ー14
  第2次世界大戦勃発
1940
(36)
: 第1回美術文化協会展に出品。
1941
(37)
: 美術文化協会奉祝紀元二千六百年秋季展に2点出品。
: 特別高等警察(特高)の官憲に自宅を捜査される。黒色のレリーフ
  や書籍から「無政府主義者」と疑われる。
: 瀧口修造・福沢一郎が検挙される。注ー15
  太平洋戦争勃発。
1942
(38)
: 経済誌「ダイアモンド」の出版に携わる。また、軍用石鹸工場の事務所に籍を置き  雑誌の発行を計画するが、紙の獲得ができず実現せず。
1945
(41)
: 滝の川のアパートが空襲で焼失。作品、書きためた小説原稿、書籍等
  すべてを失う。注ー16
  8月・日本無条件降伏
: 兵役につくことなく敗戦を迎える。



 

 





  


 

   




































1937年「人民文庫」第2巻2号








 


<カラカラ>1973 90x72cm
原作は1936年作
油彩・カゼイン・木・絹糸



<トロウッド>120x100cm
1938年の原作写真
合板レリーフ・油彩・カゼイン



<作品>100x120cm
1939〜40年の原作写真
合板レリーフ・油彩・カゼイン