変種ヘルペスウイルス  がん細胞好んで攻撃

 「これはすごい。こんなにがんが消えるのか」。昨年五月末、名古屋大学附属病院の病理実験室で、再発乳がん患者の患部標本を顕微鏡で見ていた同大大学院医学系研究科病態制御外科学の中尾昭公教授(消化器外科)(56)は、思わず声をあげた。治療前と比べ、がん細胞の数が格段に少なくなっていた。

 中尾教授のグループは、人体に悪影響がなくて、がん細胞だけを攻撃するウイルスによるがん治療法の開発に取り組んでいた。その最初の臨床試験で、予想以上の結果を得たのだ。

 中尾教授の使ったウイルスは、一九九〇年に同研究科分子総合医学専攻の西山幸広教授(ウイルス学)(56)が発見した「単純ヘルペスウイルスHF10」だった。

 HF10は、口の周りに水泡ができる口唇ヘルペスなどを起こす単純ヘルペスウイルスの変種。このウイルスは、ほとんどの人が体内に持っている。神経細胞にこっそり潜んでいて、健康なときは何もしないが、抵抗力が落ちたときに現れて、口唇ヘルペスなどを引き起こす。

 西山教授は、ヘルペスウイルスの増殖についての基礎研究中に、偶然、HF10を見つけた。いわば「メード・イン・名大」のウイルスだった。

 特徴は病原性(毒性)は弱いのだが、がん細胞を好んで攻撃することだった。マウス実験では、がん細胞の中に入ったHF10は動きを活発化させ、次々とがん細胞を死滅させていった。

 また、副作用もほとんどなく、「実に効率的にがんをやっつけた」と中尾教授は言う。この結果を基に、昨年から今年にかけて、再発乳がん患者六人の患部にウイルスを注射して、がん細胞の変化を見る第一段階の臨床試験を始めた。

 試験に入ると間もなく、中尾教授らはHF10の威力を知ることになる。六人の患部のがん細胞は、30|100%死滅したことが確認できたのだ。

 最初の臨床試験とあって、副作用を懸念して、多量のウイルス注射を控えた。「副作用が出ないことを確認できれば良し、というくらいのつもりだった」と、中尾教授は振り返るが、うれしい誤算だった。

 遺伝子組み替えをした単純ヘルペスウイルスを使い、名大と同様なウイルス療法の確立を目指している、大阪府立成人病センター研究所の高橋克仁・遺伝子治療室長は、「米国で遺伝子組み替えヘルペスウイルスを使った脳腫瘍(しゅよう)の臨床試験はあるが、名大の症例は少ない投与量で効いており、安全性にも優れたウイルスと言える」と評価する。「国内では、名大のほかにヘルペスウイルスを使った臨床試験はしていない。成功すれば次世代のがん治療の先駆けとなる」とライバルの好結果に拍手を送る。

 中部地方の医療機関は、がんなどの難病治療をはじめ、再生医療や遺伝子解析を応用した予防医療など、全国でもトップクラスの研究を続けている。また、高齢者や子供を対象とする研究機関も多い。

 医療の最前線に立つ医師や病に正面から向き合う患者たちの姿を通して、現代医療の方向性を探りたい。

 第一部は、名古屋大が取り組む、がん治療では最先端とされる「ウイルス療法」の研究現場を追う。

 写真=ヘルペスウイルスを使ってがん治療法開発に取り組む中尾昭公教授(名古屋市昭和区の名大病院で)

(中部発 : YOMIURI ONLINE  2004/10/07 更新)


頭頸部がん機能温存も期待

 「単純ヘルペスウイルスHF10」を使った乳がん患者の臨床試験で、好結果を得た名古屋大大学院医学系研究科病態制御外科学の中尾昭公(あきまさ)教授(56)(消化器外科)らのグループが、次に取り組もうとしているのは、すい臓がんのウイルス治療だ。HF10による第二段階の臨床試験として、近く、大学の倫理委員会に承認申請をする予定だ。

 「すい臓がんは発見が難しく、発見時にはすでに転移が広がっていることも多い難治がんの一つ」と中尾教授は語る。そのすい臓がんをウイルスで治すことができれば、画期的な治療法となる。

 単純ヘルペスウイルスによるがん治療の臨床試験は、米国などでも試みられてきたが、いずれもめぼしい成果は得られていない。国内では、大阪府立成人病センターが、遺伝子操作した単純ヘルペスウイルスで、マウスの体内の腫瘍(しゅよう)を消滅させる研究をしてきたが、臨床試験には至っていない。それだけに、第二段階へ進むことは大きな意味を持つ。

 この動きと並行して、七月からは同研究科の耳鼻咽喉(いんこう)科でも、中島務教授(54)の下で、藤本保志助手(39)による頭頸(とうけい)部のがんに対する臨床試験が始まった。

 耳鼻咽喉科での試験を勧めたのは、HF10を発見した西山幸広教授(56)(ウイルス学)だ。頭頸部のがんは乳がん同様、体表に近いところにでき、局所注射がしやすいことから「ウイルス投与に適しているのではないか」と判断したのだった。

 藤本助手は、当初は迷った。「それほどうまい話があるだろうか」という思いが頭をよぎったのだ。だが、乳がん臨床試験の結果が、背中を押した。

 頭頸部のがんには、切除のほかにも、放射線治療や抗がん剤などの標準的医療がある。手術を避け、それらを選ぶ患者も多い。食べられない、声が出ないなどの機能障害が特に現れやすい部位だからだ。その結果、副作用に苦しむ姿も多く見てきた。副作用がないHF10の投与が治療法として確立されれば、機能温存も期待できる。

 また、頭頸部がんは、付近に複数のがんができる多重がんも多い。「多重がんも防げるかもという期待もあった」と藤本助手は決断したときを振り返る。

 今後、藤本助手は五例ほど臨床試験を実施して、HF10の効果をみるつもりだ。「患者のQOL(生活の質)を重視した治療を施せる選択肢となる可能性は、十分にある」と、力強く語った。

 写真=頭頸部のがんのウイルス療法の臨床試験を始めた藤本助手

(中部発 : YOMIURI ONLINE  2004/10/21 更新)


転移がん抹殺効果向上へ

 名古屋大大学院医学系研究科が開発している「単純ヘルペスウイルスHF10」を使ったがんのウイルス療法では、臨床試験と並行して、HF10の発見者、西山幸広教授(56)(ウイルス学)によるがんへの攻撃力を強めたウイルス改良の試みも始まっている。

 同療法では、ウイルスを局所注射した部分以外に、転移したがんをどこまで殺せるかが研究課題の一つになっている。今のところ、HF10は注射した場所についてだけ効果が確認されており、西山教授はHF10をパワーアップし、転移がんにも効果を及ぼせないかと研究を進めている。

 具体的には、免疫増強効果を持つたんぱく質の遺伝子(サイトカイン遺伝子)を、HF10に組み込むという遺伝子組み換えで、よりがんに強いものに変えようというものだ。患者のがん病巣にHF10を注射すると、サイトカイン遺伝子が体内の腫瘍(しゅよう)免疫も増強、がん細胞を殺すリンパ球を増やすことで、他の部位のがんへの効果をもたらすことが期待されている。

 また、HF10の投与量についても改良が進められている。同研究科病態制御外科学の中尾昭公(あきまさ)教授(56)(消化器外科)の乳がん患者への臨床試験では、投与したHF10の量は、マウス実験で使った百分の一だった。それでも効果があり、副作用もなかった。このため、西山教授は「人体への投与量を増やすことで、より大きな効果を得る可能性がある」としている。

 これらの西山教授の基礎研究は、いずれも将来、臨床応用につなげられるが、このような基礎と臨床の連携は、「トランスレーショナル・リサーチ(TR)」と呼ばれ、米国などでは積極的に取り入れられている。基礎と臨床の連携が必ずしも緊密ではなかった国内でも、近年、広がりつつあり、名大のウイルス療法開発は、TRという先端医療の手法にも取り組んでいることになる。

 ただ、TRの進め方については、臨床試験の企画・管理の専門機関と連携し、場合によっては基礎と臨床を別の所で実施すべきだという意見もある。これに対し、西山教授は「理解できるし、そうあるべき場合もあると思う」と話し、将来は臨床試験の方法についても、いろいろ検討したいとしている。

 着実に歩を進める名大のウイルス療法開発だが、西山教授は「完成までには、まだまだ時間と研究が必要だ。ただ、HF10は将来性のあるものであることは、確信している」と力強く語った。

 写真=ウイルスを投与したマウスの経過をみる西山教授(左)

(中部発 : YOMIURI ONLINE 2004/10/28 更新)