博士に関して

博士課程在籍者の行方(2004年12月15日)  大学院での研究(2004年12月14日)  私の場合(2005年1月2日)  私の博士課程の研究(2005年1月12日)  幸福な生き方(2005年1月3日)  期待と評価(2005年1月4日)  士農工商の復活(2005年1月7日)  30代独身女性は「負け犬」か?(2005年1月8日)  質問・忠告メールへの返答(2005年1月10日)  団塊世代の夢の果て(2005年1月11日)  「研究が趣味」なんて、誰が言った!(2005年1月16日)  団塊世代との衝突(2005年2月10日)  昨晩のこと(2005年2月20日)  Welcome great troubles !(2005年4月5日)  昆虫博士I(2005年4月15日)  勿体ない話(2005年5月15日)  研究に向いている人(2005年5月23日)  無能なポスドク(2005年5月27日)  組織社会と個人社会(2005年6月2日)  精神障害や過労自殺の労災認定(2005年6月18日)  健康診断(2005年6月24日)  社宅・官舎の使い方(2005年9月11日)  某地方大学の面接(2005年9月11日)  二極化(2005年9月21日)  研究の道(2005年9月22日)  勘違いエリート(2005年9月28日)  社会における役割分担(2005年10月6日)  納骨式に参列して(2005年10月7日)  漂う“ポスドク”1万人(2005年11月2日)  非効率主義のススメ(2005年11月16日)  星を目指して(2005年11月18日)  生きる力(2005年11月19日)  バディーの資格(2005年11月20日)  博士の就職活動(2005年12月14日)  美しく輝ける過程(2006年1月11日)  懸念(2006年1月13日)  人材への先行投資(2006年1月18日)  両極端(2006年1月24日)  超ポジティブ・シンキング(2006年2月7日)  反骨の意味(2006年2月9日)  ニート問題(2006年2月10日)  若年就労問題と余剰博士(2006年2月11日)

関連サイト

博士課程在籍者の行方(2004年12月15日の日記)

 昨日の日記に、博士号を取得しても職がなく、借金を返すことさえできず、自殺する人が結構いるのではないかと書いた。少し気になったので調べてみると、文部科学省の科学技術政策研究所が「博士号取得者の就業構造に関する日米比較の試み」という報告書(平成15年12月)を出していた。日本では体系的な調査が実施されていないために、博士号取得者の就業構造を把握するのは困難としながらも、科学技術分野の博士課程修了者(博士号取得者ではない)については就職状況が把握可能としていた。平成14年度のデータでは、修了者数10,032人のうち就職したのは6,289人(62.7%)で、研究生や無業者は3,048人(30.4%)、死亡者や行方不明者は695人(6.9%)だった。理学の場合、修了者数1,607人のうち就職したのは803人(50.0%)で、研究生や無業者は667人(41.5%)、死亡者や行方不明者は137人(8.5%)だった(博士課程を修了せず、中退して行方不明になる者も結構いる)。ちなみに就職とは言っても、ほとんどが1-3年の任期付のポストである。一般の方は、この数字に驚くかもしれないが、現状を良く知っている者にとって、この数字は妥当だろうと思う。

 一方、自殺者の方は、警察庁の生活安全局地域課が「平成15年中における自殺の概要資料」という報告書(平成16年7月)を出していた。平成15年度の自殺者は34,427人で、10年前(21,851人)に比べ57.6%増加していた。男性の自殺者は、10年前(14,468人)に比べ72.5%増加(24,963人)していた。30代の自殺者は4,603人で、全体の13.4%であるが、10年前(2,473人)に比べ86.1%増加していた(30代男性の自殺増加率はもっと高いかもしれない)。30代の自殺率の増加は、この(第二次ベビーブーム)世代が多いことを考慮しなければいけないが、この世代の未婚問題との関係も慎重に議論する必要があるだろう。また、無職の自殺者は16,307人で、全体の47.4%であり、10年前(9,873人)に比べ65.2%増加していた(全体の自殺増加率とほぼ同じ)。この自殺者の増加傾向は、平成15年度の交通事故死者数(7,702人)が、10年前(10,942人)に比べ29.6%減少しているのとは対照的である(交通局交通企画課「平成15年中の交通事故死者数について」平成16年1月2日)。

 さて、博士号取得者の自殺であるが、状況から判断して増加していることは間違いないだろう。しかし、博士課程に在籍した無職者が、全員自殺するとも思えない。一部は、裏の世界に身を投じる可能性が高い。実際に、裏の世界への入り口は、比較的身近なところ(アルバイト情報誌やインターネット等)にある。最近のハイテク犯罪や巧妙な詐欺には、このような行き場のない専門家達が関与しているような気がしてならない。

 多額の税金と長い年月をかけて育てた専門家達を、このような裏の世界に落としてはいけない。一刻もはやく、彼等に表の世界で活躍の場を与えなければ、高度な専門知識を持った犯罪者を増やすことになるだろう(近い将来日本は、科学技術創造立国ではなく、ハイテク性犯罪技術創造立国になるかもしれない)。

博士課程修了者の就職状況

 文部科学省の報告書では、保険医療関係を除いて、博士課程修了者の就職状況は似たようなものである。つまり、10人中1人は自殺するか行方不明になり、4人は職がなく、5人はポスドクで1-3年状況を先送りするだけである。定職に就けるのは、(助手の公募は約100倍なので)100人中1人くらいで、民間にその受け皿はない。ちなみに、保険医療関係の博士は、自分で実験せずに(他人のデータで)、しかも自分で論文を書かずに取れるらしい(実験データと論文を提供した人からの証言)。それに、医学生理学関係の実験室研究は、あまり時間がかからず、インパクトファクターも高い(研究業績があげやすい)。

 この報告書のまとめに、「米国に比べ、博士号取得者が、民間営利企業にあまり就職しない傾向がある」「今後、日本が科学技術創造立国を実現するためには、博士号取得者の優れた能力が「新たな知の創造の場」である大学で十分に発揮されるべきであることは勿論、「新たな知の活用の場」として産業界でも十分に活用されるべきである」と書いてある。博士号取得者の優れた(創造および応用)能力を理解しているのであれば、彼等が民間営利企業に就職したくても就職できない現状を理解して、早急に対策を立てて欲しい。

 英国にいると、日本人のサイエンスへの関心の低さを感じる。日本を欧米並みの科学技術創造立国したいのであれば、博士号を持った若いサイエンスライターが、もっと日本にいても良いのではないだろうか?

ハイテク犯罪の増加

 ハイテク犯罪に関しては、警察庁が「サイバー犯罪の検挙数と相談受理数」を平成12年度から調べていた(警察庁ウェブサイト)。平成12年に、検挙913件、相談受理11,135件(平成11年は2,965件)だったものが、平成15年には、検挙1,849件(2倍増)、相談受理41,754件(4倍増)に増加していた。平成16年は前期だけで、検挙1,063件、相談受理33,066件で、前年を上回ることは必至だろう。

 このようなサイバー犯罪増加の背景に、ITバブル(携帯電話とパソコンの普及)とIT世代(第二次ベビーブーム世代)の博士課程に在籍した無職者の関与が考えられるが、この手の犯罪に関して、現在の日本ほどアダルト産業が盛んな国もないのではなかろうか?(このアダルト産業を支えているのも、第二次ベビーブーム世代?)最近の英国のニュースで、日本の若者の間(第二次ベビーブーム後の現在20歳前後の世代)でHIV感染が広まっている事が取り上げられていた。環境ホルモンもそうだが、あまり子孫に負の遺産を残さないように注意しよう。

大学院での研究(2004年12月14日の日記)

 世間の多くの人は大学院で研究した経験がないので、研究に関して誤解している人が多い。大学の学部卒でも、単なる試験勉強しかしたことがない人は、大学院での研究を誤解している。大学院の現実を以下に示す。

 1.試験勉強と違い、研究には範囲がないので、遊んでいる時間など無い

 2.忙しくてアルバイトもできず、遊ぶお金も無い

 3.研究には、お金がかかる(書籍、パソコン、サンプリング及び学会旅費、コピー代、印刷代…)

 4.研究には、当たり外れがある(一生懸命やったからといって、報われるとは限らない)

 5.時間のかかる研究と時間のかからない研究がある

 6.研究結果は、必ずしも正当に評価されない

 7.博士号を取得しても職がなく、借金(奨学金)を返すことさえできない

 このような現状を理解せずに、大学院で研究する苦学生に対して「大学で遊んでいないで、早く卒業するか就職しろ」と言う人がいるが、遊ぶ時間もないほど一生懸命やっても、卒業も就職もできないのが大学院なのである。大学院のことを知らない人は、こういう無神経な事を言わないように注意して欲しいと思う。

 一方、大学院に進む人は、最低5年間(20代のほぼすべて)、禁欲生活をする覚悟をして来た方が良いと思う。そして指導教官といえども当てにせず、自分の頭で考えて、自信と責任を持って研究することを勧める。また、就職できなかったという理由で博士課程に進むのは、自分の置かれている状況を一層悪くするだけでなく、真剣に研究者を目指す他の人達にも迷惑がかかるので、是非やめて欲しい。大学の教官達も、そのような人達を博士課程に入学させてはいけないし、いつまでも研究室にいて仕方ない(はやく追い出したい)からといって、そのような人達に博士号を与えてはいけない。はやめに研究者を諦めさせるのも「親心」である(注)。

 もし、真剣に研究者を目指して、20代のすべてを研究に捧げ、それなりの成果をあげたにも関わらず、7.のような状態に陥ったとしても、決して希望を捨てないで欲しい。統計を取ったことはないが、このような状況での自殺者が結構いるのではないかと思う。この状況は、1990年前後の受験戦争よりも、はるかに厳しい生きるか死ぬかの戦争である。しかし、「勝ち負け」にこだわりすぎて、本当に死なないで欲しい。

(注)誤った温情で、多くの若者達を博士課程に入れ、博士号を与えた人に、「君らの世代が、この状況を変えてくれ」と言われたので、「この責任をとるのは、あなた達でしょ」と言ったら、「人の責任にするな」と言われた。今の私達は被害者であって、このような状況を改善できる立場にはなく、また急を要する事態であることを分かっていないのだろうか?

第二次ベビーブーム世代 1970-5年生まれ: 化学汚染物質暴露量最大?

 1970-80年代: 高度経済成長〜ピーク、急激な都市化に伴う生活環境と価値観の変化

 1990年前後: 大学受験戦争、バブル崩壊

 1995年前後: 新興宗教(オウム事件)、リストラ、就職難、大学院重点化

 2000年前後-現在: 自殺者増加、サイバー犯罪増加、年金未納問題、未婚問題、余剰博士問題

感想: あらためて振り返ってみると、踏んだり蹴ったりである。こんな世の中に、自分がいるのも、子孫を残すのも、嫌になるは仕方ない。なかには、世の中に恨みを持ち、復讐する人達も結構いるだろう。

私の場合(2005年1月2日の某掲示板投稿文)

 学部4年生の時、大学院重点化のために研究室が本学に合併され、そのまま修士課程に進むことにしました。しかし、2度の研究室の引越、研究設備の準備調整等で、思うように研究が進まず、私の周囲でも、休学、中退、留年者が、毎年何人も出てきました。そのために、指導教官と衝突した私に、裏では「その通りだ」という学生も、表では自分に被害が及ぶのを恐れ、避けていました。修士までに殆ど成果が上がらなかった私が博士課程に進学したのも、このままでは終われないという意地があったからだと思います。

 博士課程では、すべて自分の考えで研究をしようと思いました。そうすれば、たとえ失敗したとしても納得できると考えたからです。そして、どうにか4年で博士号を取得しましたが、最後の1年は育英会の奨学金が切れ、両親が退職して実家からの仕送りもなくなり、アルバイト情報誌で見つけた怪しげな仕事をして、どうにか生活の糧を得ていました。博士号取得後はポスドクにも就けず、友人が派遣会社の営業をしていたので、オーバードクター(研究生)にはならずに派遣の仕事をしました。

 博士取得1年後に国立研究所のポスドクになりました。しかし、ポスドクとは言っても1年契約の共同研究員で、ベンチャー企業の契約社員でした。その研究所の統括研究官に、学振の特別研究員への応募を勧められ、書類を提出したところ採用され、現在は学振PDの2年目で、英国の研究機関で研究をしています。

私の博士課程の研究(2005年1月12日の日記)

 博士号を取得して4年目になるが、博士課程の研究内容をセミナー等で話したことがない。私の博士課程の研究は、それほど軽く見られている。研究ポストの公募に出しても、ほとんど書類審査で落とされるので、面接で博士課程の研究内容を話すこともない。唯一、今いる英国のPMLだけは、書類審査に通り面接まで行った。

 国環研でも、私の博士課程の研究内容を話したことがない。「使い捨て部品」や「粗大ゴミ」の研究なんて聞く価値もないのだろう(注)。1年前、JAMSTECのシンポジウムで初めて座長を務めた時、マリンワークに就職した同期の女性から「セミナーは良くやっているの?」と聞かれた。やっている訳がない。そのシンポジウムで初めて話した内容だからだ。

 以前、JEOL(日本電子)の主任から「そんな薄情な分野からは離れた方が良い」「君なら他の分野でも大丈夫」「むしろ他の分野の方が活躍できるかもしれない」と言われ、ビートたけし等の映画監督の話をされた。まあ、ポスドクさえ書類審査で落とされる状況だから、徐々に排除されつつあると言えるだろう。消耗して粗大ゴミになりつつあると言うことだろうか?50-60歳代の何人からは「今度は君等の出番」などと言われたが、「私の出番が来る時に、この分野にはいないと思います」と答えておいた。冷静な状況判断だろう。

 実は、いま所属している日本の学会から退会しようと考えている。一般会員の年会費は1万円くらいで、4つの学会に所属すると年間4万円もかかる。しかも、年会費は研究費からは出ない。また、そこまでして所属しているメリットもない。 おそらく、これらの分野には私よりも有能な博士が大勢いるので、私がいる意味がないのだろう。欧米の方が、私の研究能力(研究実績ではない)を評価してくれているようなので、そちらで必要とされる場所を探した方が良いのかもしれない。

(注)実際にポスドクの待遇なんて、院生やテクニシャン以下だろう。セミナー等の勉強会からは蚊帳の外、自分のしている研究に対する意見も言えない、盆や正月の休みもない、健康診断も受けられない。研究所にいながら、研究所のウェブサイトに名前もないし、研究施設もなかなか使えない。なぜなら、フリーターだからだ。(任期付にしろ)正職員にしてみれば、ポスドクは研究費で買う「消耗品」と同じで、使えなくなったら「粗大ゴミ」、正直な意見だ。それでもポスドクは給料が多いので、本当のフリーターよりは随分マシだと思う。

 ちなみに、私は国環研のポスドクとして雇われたことはない。したがって、国環研のポスドクの待遇はもっと良いはずだし、この待遇は年々改善されていることを付け加えておく。

幸福な生き方(2005年1月3日の日記)

 最近、「博士課程在籍者の行方」のアクセスが増えた。博士号を取得した同期の行方が心配になった友人からのメッセージも届いた。博士号を取得し、ポスドクを経験しても、職がなく、音信不通になってしまう人もいるようだ。明日は我が身かもしれないと考えたりするが、世界中どこでも研究者として生きていける自信がついたので、野垂れ死にすることはないだろう。

 何人かの博士号取得者を見ると、研究者として生きることが必ずしも幸福だとは限らないようだ。特に女性の場合は、出産の関係もあるので、研究者として生きることには、かなりのリスクが伴う。女性には「サムライの生き方」は似合わない。私の妹の子供達(双子)が今年で3歳になるが、子供を産んで育てることは、人間の最も根元的な幸福だと思う。子供が自分の命よりも大切だという気持ちも良く分かる。男性の場合だって、いつまでも研究者にしがみついていることが幸福だとは言えない。早く自分の生きる場所を見つけた方が幸福だと思う。

 私は「サムライの生き方」を自分自身に課しているので、「幸福な生き方」としては参考にしない方が良い。ただし、現在の日本には「生かされている」だけで、「生きている」実感がない人が多いようなので、こういう生き方で「生きている」という実感を得ることはできるだろう。

期待と評価(2005年1月4日の日記)

 ここ2-3年、私の命の心配をしてくれる人が出てきた。無理をしすぎて、死んでしまうのではないかと心配してくれているらしい。まあ、この世界で生きてゆくには、多少死ぬ気で頑張らなければいけないので仕方ない。途中で死んでしまったら、それも運命だと思うしかない。「消極的な死」よりは「積極的な死」を選ぶ方が、「充実した生」を得られる可能性が高い。しかし、死ぬ直前のコンディションでは良い仕事は出来ないので、過労死するほどの無理はしないだろう。

 自分の「生」は両親から授かったものであるが、どのように活用するかは自分自身に委ねられていると思う。「期待」してくれるのは勝手だが、他人の「期待」ほど当てにならないものはない。単に邪魔なだけである。そして、どんな見返りを期待しているのか、不気味でさえある。この「期待」を評価する方法として、私が昔から採用しているのは、わざと「期待」を裏切ってみることである。この反応は、人それぞれ違っていて面白い。このことが分かると傷付く人もいるかもしれないが、昔の私にはもっと厳しい環境が必要だったのかもしれない。「受験」だって「研究」だって、別に負けたって死ぬわけじゃない。生きていれば、いつでも復帰可能である。小さな勝ちが続いて浮かれている人、小さな負けが続いて落ち込んでいる人に対して、それを証明したかっただけなのかもしれない。

 そういう事を繰り返していると、それぞれの人が私の何を見ているのかも判断できる。私に対する評価のバラツキも、この辺に起因していると思うが、私自身は他人の「期待」同様、他人の「評価」も気にしない。「期待」と「評価」は同じようなもので、こんな曖昧なもののために必死になるのは滑稽である。最近見た日本のアニメにも、このような日本人の姿が扱われていた。私は、私のことを本当に評価できる人にだけ、期待してもらえれば良いし、別に期待されることも望んではいない。

士農工商の復活(2005年1月7日の日記)

 日本の社会は、博士課程〜研究生を「プータロー」(最近では「ニート」)、ポスドクや任期付研究員を「フリーター」とみなす傾向がある。ただでさえ博士には、「ネクラ」や「オタク」といったマイナスのイメージがついており、このような認識は「博士=社会不適合者」という考えを裏打ちする材料にもなるだろう。

 現在の「博士」は昔の「武士」と似ており、「博士道」は「武士道」に通じるという考えは、「博士」が「バカセ」であると考えるよりは随分マシだと思う。密かに私が提案したいことは、「士農工商の復活」である。ここで「士」とは博士、「農」とは第一次産業従事者(農民等)、「工」とは第二次産業従事者(技術開発者等)、「商」とは第三次産業従事者(金融業者等)である。現在の日本は「商」に利権が偏り過ぎているので、社会システムのバランスをとるためにも、これはそれほど悪くないアイデアだと思う。大量生産・大量消費型の都会生活から脱却するための「参勤交代の復活」と併せて考えてみるのも面白いだろう。

 博士課程在籍者を「パラサイト」「引きこもり」扱いしていたバカに、半分冗談、そして半分本気で、このアイデアを言ったところ、とうとう頭がおかしくなったと思われた。しかし、一つの組織の中に安住している人達の方が、よっぽど「パラサイト」であり「引きこもり」だと思う。

30代独身女性は「負け犬」か?(2005年1月8日の日記)

 私の日記には、女性は利己的であるとか、女性には研究者の生き方は似合わないとか、士農工商や参勤交代の復活ということが書いてあるので、私のことを前時代的な男尊女卑の考えの持ち主ではないかと考える人がいるかもしれない。しかし、私の主張は、戦後日本の欧米追従模倣主義のアンチテーゼにすぎない。

 私は、研究能力には性差よりも、個人差の方が大きいと考えているが、一般的に見れば、研究に必要な視覚的注意力(一点集中型ではなく空間把握型)、言語能力、忍耐力(継続性)は女性の方が優れていると思う。実際に欧米では、研究者の数に男女差はあまり無いようであるし、国際学会で議論する女性研究者の姿には正直言って驚かされる。 本心を言えば、夫に傅き生きている女性より、自分の力で逞しく生きている女性の方が好きだ。日本の社会では、現在の30代独身女性を「負け犬」扱いしているようだが、私は「余剰博士」と同様に、彼女達のことを「被害者」だと思っている。女性には研究者の生き方は似合わないという事に関して書くと、現在の日本では研究者になるまでの社会的待遇が悪すぎる(学生はプータロー、任期付はフリーター扱いな)ので、それなりの経済的・精神的余裕が得られる頃には、30代半ば以降になってしまうことが多い。男性の場合はそれからでも遅くないが、女性の場合はそれからでは遅すぎると思う。(研究職を含め)現在30代半ば以降で仕事に生きている独身女性には、仕方なくそういう状況になってしまっている人が多い気がする。しかし、現在20代の男性に専業主夫になりたい人が増えているようなので、彼女達はそういう若い男性をつかまえるのが良いかもしれない。

 実は、現在の日本で30代半ば以降になって経済的・精神的余裕が得られた独身男性にとって、結婚相手は選り取り見取りの状況である。なぜなら、現在20代の女性の結婚願望が高まっている上、外国人(中国人、フィリピン人等)の美女達は、このような日本人男性と結婚したがっているからである。40代や50代でも、20代の美女と結婚することは珍しくない。ITの普及等で出会いの機会が拡大した現在、30代半ば以降の独身男性の中には、このような状況を楽しんでいる輩が少なくない。

 しかし、現在30代の独身女性の場合は、人数が多い上、時間的にも余裕がない。そして、優秀な女性ほど「負け犬」になってしまっている。ITで出会いを探したとしても、もはや彼女達は売り手ではない。仕方なくホストクラブに行き、彼等に貢ぐ事になる。このような状況で、仕事や趣味に生きていても、彼女達を責めようがない。彼女達は「負け犬」ではなく、欧米追従模倣主義が生んだ「被害者」なのだ。

質問・忠告メールへの返答(2005年1月10日の日記)

 今日は冷たい雨が降っていた。買い物と洗濯をした後、メールのチェックと日記を書きに研究室に行った。自分のウェブサイトを見ると、100件以上もアクセス数が増加していた。何か起きたのだろうか?少し不安になった。友人からメールがあったので、それに答えることにする。

1.江戸時代の士農工商の士は、現代では公務員ではないのか?侍(または武士)と言ってもイメージする像は人によって違う。武蔵なのか忠臣蔵なのか竜馬なのか・・・

 これは、数日前に書いた以下の文章を参考に、武蔵のような「浪人」をイメージしている。現在の「博士」は、道場(研究室)で免許皆伝(博士号)を受け、それから武者修行の旅を続け、合戦(研究プロジェクト)があれば参加し、そこで手柄を立て(良い論文を書き)、知行や俸禄(研究費)を得て、藩主に召し抱えられ(パーマネントポスト(君の言う公務員)に就き)、一国一城の主になる(自分の研究室を持つ)ことを夢見た当時の「浪人」に似ている。多くの者は志半ばで死んでゆき、運良く生き残っても、気付いた時には、親も家族もいなくなっている当時の「浪人」そのものである。それが「博士道」が「武士道」に通じる所以でもある。

2.個人のページとはいえウェブ上で個人を特定できる情報や「バカ」だの何だのは余り美しくない。(侍には美学が必要) 研究関連の書き込みが増えて形になった時にそう感じると思う。

 個人情報に関しては注意している。分かる人には分かり、分からない人には分からないように書いているつもり。「バカ」という言葉は美しくないが、そうでも言わないと分からない人には、そういう表現を使った方が親切だと思う。しかし、「本当のバカ」というのは「バカ」という言葉さえ通じない。数年前に札幌で、「バカ」と書いたD氏を蹴り倒して、彼の荷物を外に捨て、雪の中に置き去りにしたことは覚えているだろうか?たぶん彼は、それでも分かっていないと思う。

3.D氏が「パラサイト」と言ったのは、博士全体に対してでは無くて、君個人の事だとの印象を受けるが。二人の論争は飲み会の肴としても味は濃いかな・・・

 同じような境遇の人が大勢いた(いる)以上、博士課程在籍者全体に対して言ったのと同じ。またD氏の発言のように考えている人が、現在30代半ば以降に多いのも事実。今でも彼の暴言を思い出すと、腑が煮えくり返る。彼は、人の話をまるで聞かず、現状を理解しようともせず、単に相手を貶すだけで、まるで議論にならなかった。

4.博士で一括りにして論じる事が多いがそれでいいのか?専門性がある以上個人差が大きくないか? それしか自分のプライドが拠る所が無いのではと心配している。(私は生活の為に会社の奴隷になった学士の負け犬だが)

 日本には、「博士」は「バカセ」と言う研究者(博士)が結構いる。また「博士」を「足の裏に付いた米粒」にたとえる表現がある。謙遜のつもりなのか、自分のプライドが「博士」に拠っていないというつもりなのか知らないが、欧米の(特に英国の)Ph.D.取得者は、Ph.D.や自分の研究に対して、皆プライドを持っている。国際的に、日本の「博士」の評価が低い原因はいろいろあると思うが、研究者自身が「博士」にプライドを持っていないのも大きな原因の1つだと思う。専門性や個人差に関係なく、「博士」には、それなりの(プロとしての)プライドと責任感が必要なことを、もっと自覚しないといけない。

 それと、自分のしている仕事以外に自分のプライドの拠り所が無いことが、なぜ心配なのか聞きたい。スポーツや芸術の世界で活躍している多くのプロは、それが無ければ自分が何をしていたのか分からないと答える人達ばかりである。私には、それが羨ましいし、素晴らしいことだと思う。逆に、自分のしている仕事以外(趣味)に、プライドを持つ人は情けない。所詮はアマでしかないような事(趣味)にプライドを持つこと自体、自分のしている仕事がアマ(趣味)以下だということを証明しているからだ。変なプライドなんか持たずに、趣味は趣味として楽しめば良い。

(注)D氏のことだけを非難しているようだが、そうではない。何度も言うように、現在30代半ば以降の多くの日本人は、D氏のように考えている。そのような人達は、「博士」を単なる卒業資格とみなしているし、「博士」が取れないのは遊んでいるからだと考えている。しかも彼等は、自分の仕事にプライドがなく(反体制のつもり)、仕事以外(趣味)にプライドを持っている人が多い(単なる欧米個人主義に対する憧れ)。自分の子供にしても、自分のプライドを満たすためのものでしかない。現在30代前半以前の若い人達は、そのような自分勝手な団塊(親)世代の寝言に振り回されてはいけない。D氏のような団塊世代クローン人間は、もうウンザリである。

団塊世代の夢の果て(2005年1月11日の日記)

 団塊世代は好き勝手なことをして、戦後日本の社会システムを混乱に陥れたにも関わらず、その責任は一切取らずに、高度経済成長社会に長らく寄生し、バブルが崩壊した後は、退職金を貰って気ままな年金生活を送ることだけを考えている。今度は年金生活者として、その子供達に寄生しようとしているのだ。にもかかわらず、その子供達が自殺する状況を根性がないからだと切り捨て、「フリーター」「パラサイト」「引きこもり」「ニート」だなんやと非難し、自分達の世代がリストラで路頭に迷う状況に大慌てする。この団塊世代こそが、日本社会の「パラサイト」だろう。おそらく団塊世代が、そのパラサイトの本領を発揮するのは、これからだろうと思う。そして、この世代の寿命は長いと予測されるので、その子供達の世代が早死にしても、その孫達の世代まで寄生してゆくだろう。

 数年前に、2歳下の従妹がビルから飛び降り自殺をした。幸い、両足の複雑骨折だけで、一命は取りとめた。幼い頃から家によく遊びに来ていた彼女を、実の妹のように感じていた私には、かなりのショックだった。彼女は大学を中退し、その後フリーターをしていたが、カードで借金をつくり、不眠症にもなり、バイトの仕事もクビになるような状況だった。彼女のことを、大学を中退したから根性がないとか、フリーターだから駄目だなんてことを言う人がいるが、とんでもない。大学に失望した彼女の気持ち、人生をみずから切り開くために多くの仕事を経験しようとした気持ち、すべて団塊世代の夢を実現しようと、彼女なりに考えて行動した結果である。そうやって一生懸命に生きてきた彼女達を「負け犬」扱いする社会、いや団塊世代や団塊クローンを絶対に許さない。

 私は、「余剰博士」や「30代独身女性」を愚かな団塊世代の夢の犠牲者だと考えている。団塊世代の捨てられた「夢」が、彼等の子供達への過剰な「期待」となり、今のような悲惨な状況を招く結果となったのだ。この前兆を中学高校くらいから感じ、その原因が何かをずっと探ってきた。私の推論は間違っているだろうか?

「研究が趣味」なんて、誰が言った!(2005年1月16日の日記)

 「研究職は趣味を仕事に出来る」

日本にいた時には違和感を覚えなかったこの言葉に、英国にいる現在は相当の違和感を覚える。この原因は「仕事」と「趣味」の定義にあると思うが、私は「仕事」とは「お金」を貰っている職業であり、「趣味」とは「お金」を貰っていない(「お金」を払う)遊びと考えている。しかし、(カルチャースクール以外の)学校に通う人達の「勉強」は趣味ではなく、良い仕事をするための「修行」だと思う。またボランティアは、自分のための遊びではなく、他人のための行動なので、趣味以上の意味があるだろう。

 「専門職(プロ)は趣味を仕事に出来る」

と言い換えることができるかもしれない。しかし、野球やサッカー、絵や詩を書くのが趣味という人はいるが、研究を趣味にしている人には会ったことがない。特に、自然科学の分野でそれなりの設備と金が必要な研究は、とても個人の趣味には出来ないだろう。たとえ、休日に自分の部屋の中で化学実験をしている人がいたとしても、(毒物合成の容疑で)警察に通報されるだろう。「ガイア仮説」で有名なラブロック博士は、電子捕獲検出器(ECD)の特許料で趣味的に研究ができたらしいが、このような人はほとんどいない 。

 「研究=趣味」

という日本独自の認識をいったい誰が広めたのだろうか?近代自然科学のおかげで、ここまで繁栄してきた欧米では、研究は立派な社会的仕事として認識されている。確かに、一般の研究職は収入が少ない。しかし、「研究=趣味」と軽く見られることはない。

 そもそも現在の日本人の「仕事」に対する認識自体が間違っていると思う。つまり「生計を立てるために嫌でもしなければいけない」あるいは「収入の大きさが仕事の価値である」という考えである。こういう考えの人達(特に団塊世代)が、「研究職は収入が少ないのに、休みも取らず楽しそうにやっているから趣味である」と勝手な判断を下すのだろう。また「私は趣味でやってます」あるいは「生計を立てるために嫌々やってます」と自認している研究者も少なくない。こういう研究者は、今すぐに博士号を返還し、研究職を辞めて欲しいと思う。

 資本主義の本家である欧米でさえ、「収入の大きさ=仕事の価値」とは考えていないのに、なぜ日本でこのようなことになっているのだろうか?おそらく、戦後日本を生きてきた人達(特に団塊世代)の価値基準が、何らかの数字で表されるもの(経済成長率、年収、偏差値)に依存しているからだろう。だから、バブルが崩壊した時に、価値基準をなくしてしまったのだ。一時、新興宗教が支持されたが、今でも新しい価値基準は見つかっていないと思う。学歴社会から実力社会になり、「お金」に対する執着がより一層強くなったようにも感じる。

 これからの日本人が「お金」以外に持つべき価値基準は何であろうか?今更、戦前の天皇制を復活させようとは思わないが、様々な「道」の存在と、それを極める「志」を復活させることが、これからのグローバル社会を鑑みても良いと思う。

団塊世代との衝突(2005年2月10日の日記)

 我々の世代と団塊世代との衝突は激しいようだ。以下、友人に送ったメールの一部。

 今の日本社会全体が、古い組織体質(隠蔽・秘密主義、身内意識、権力志向・迎合、馴れ合い 、現状追認、問題先送り、前例踏襲など)を引きずっているように感じる。団塊世代の公務員ほど、今までそれでうまくやってきたのだから、それで良いと考えているようだ。どうも、この世代の民主主義の考え方は「1人では何もできないが、集団でやれば大きなことができる」というもので、集団(組織)に対する「協調」や「従属」が強すぎる。しかも、その根底には、集団でやれば、あまり罰せられないし、責任を取らなくても良いという考え方があるようだ。自分の仕事や人生に、自分自身で責任を持てない、哀れで腐った奴等だろう。

昨晩のこと(2005年2月20日の日記)

 昨晩、S氏とM氏といろいろな話をしたが、少し誤解されているかなと感じた点について書く。

 私は、S氏が迎えに来てくれたことが純粋に嬉しかったし、彼の少し被害妄想的な部分を含めた性格が純粋に好きなのだ。彼は、自分のことを受験戦争の「敗北者」「負け犬」、そして今では会社の「奴隷」と考えているようだが、私はそんなことはないと思っている。彼は頭が良いし忍耐力もあると思う。ただ、考えていることを実行するための思い切りや自信が無いだけだろう。私は逆に、頭が悪くて忍耐力が無く、自信満々な奴が大嫌いだ。

 一方、M氏は正直で率直、自分に自信があり、思い切って実行できる人間だ。そのために、忍耐力がないように思われるが、私はそんなことはないと思う。彼には、自分の理想を決して捨てない忍耐力がある。ただ、(S氏と比べ)少しお坊っちゃんであり、相手の気持ちをあまり考えない自分勝手なところがあるようだ。

 私は、一生懸命に考えて努力しながら生きているのであれば、どんな生き方も否定しない。そして、自分自身がそうやって生きていることに、誇りを持ちたいと思っている。私が相手に話すときは、相手の立場になり、後悔しないためにはどうすれば良いかを常に考えている。営業の友人(K氏)から、私の良いところは相手の話を良く聞くところだと言われたが、それは相手の立場や考えを良く理解するためである。

私が、相手を否定せず話を良く聞くので、何を言っても大丈夫だと思っている人がいるようだが、そうでもない。話を聞いた後で、相手のことを考え、厳しいことを言うこともある。また、あまりに調子に乗ったことを言うと、蹴り倒すこともある。

 蹴り倒した数少ないD氏のことを書くと、彼は自分に自信があるようだが、自分のことは話さず他人の非難をする。M氏もかなり他人のことを非難するが、D氏とはかなり違う。D氏の場合は自己保身が強く、自分が不利になるほど相手を非難しない。自分のことを話さないのも自己保身のためだろうが、自信があるのも上辺だけで、本当は自信がないのだと思う。D氏は、自分を研究者だと言い、特許を取ってマスコミにも出たと自慢する。少なくとも私にとっての研究者とは、自分で研究立案をして、それを実行し、その成果を発表できる人のことを言う。上司に言われて研究をして、筆頭でない成果を上げても、研究者とは言わない(単にテクニシャンと言う)。それを科学音痴の日本のマスコミに取り上げられたからと言って、偉そうに自慢する奴の気が知れない。そういう奴が、博士号を持っていても意味がないとか、博士課程在籍者なんて遊んでいるだけだとか言うから、頭に来たのだ。まあこれも考えてみれば、修士しか持っていない彼の自己保身のための言葉だったのかもしれないが。

Welcome great troubles !(2005年4月5日の日記)

 任期満了で次のポストがない若手研究者が続出している。私みたいな何度も踏まれてきた雑草は、どちらかと言うと多少の困難がないと物足りない。困難は大きければ大きいほど克服したときの達成感は格別だし、より大きく自分を成長させることができる。そういう意味で外国に行くと、多くの大きな困難があるから面白い。

昆虫博士I(2005年4月15日の日記)

 北海道大学の同期Iが東京に出てきた。Iは農学部で昆虫の研究をしてきたが、2年間休学して海外青年協力隊員としてマレーシアに行っており、最近博士号を取得したばかりである。東京の建設コンサルタント会社に就職が決まったので、新聞記者のMと3人で東京で飲むことになった。この日は、ちょうど新歓コンパの日だったらしく、フレッシュマンをたくさん見かけたが、Iは口髭をたくわえ、すでに社長の風貌だった。しばらくは電話番が彼の仕事で、研究は休日にしようとしているらしい。研究で得た知識と経験を仕事に活かせるように、あるいは自分の研究ができるように頑張って欲しい。

勿体ない話(2005年5月15日の日記)

 先月、文部科学大臣が「ゆとり教育」による学力低下を謝罪し、見直しを図る考えを表明したようだが、「大学院重点化」や「ポスドク1万人計画」に関しても謝罪し、早急に対策を立てて欲しいと思う。なぜなら、これは「中高年フリーター問題」「少子化問題」「年金問題」という深刻化しつつある社会問題とも密接に関係しているからだ。しかし、このような「余剰博士の問題」に関しては「モラトリアムの末路」という冷ややかな意見が多く、「科学技術創造立国の実現」のための大量の博士は、日本国民の総意でつくられたわけではないことが窺える。

 そもそも現在の日本社会は、御上が下々の者達に西欧文明(明治政府が科学技術を米進駐軍が民主主義精神)を強要することで成立した。そのために、自然科学は哲学や芸術と同様に社会生活を豊かにするという西欧人の意識とは異なり、自然科学は社会生活には何の役にも立たない教養や趣味でしかないという意識が日本人にはある(むしろ社会生活には害であると考えられている)。中国の経済成長が、欧米や日本の資金や技術の援助で成し遂げられた「張子の虎」でしかないように、日本の自然科学も中身(哲学)のない「張子の虎」である。ポスドクを「刈り残しの敗残者集団」と言うこと自体、研究の世界のグローバルスタンダードを理解していない自然科学後進国であることを証明している。自然科学の価値を正当に評価できる社会がなければ、博士達はその高度な能力を十分に社会に還元できない。博士が余るなんてことは、お金のない発展途上国からすれば、贅沢な悩みである(あー、勿体ない)。

研究に向いている人(2005年5月23日の日記)

 任期3年位の人が、残り1年で次のポストを探さなくてはと焦っている。最初の2年で実験は終えて、最後の1年はデータ整理と論文執筆、そして次のポスト探しということだろう。まあペース配分としては悪くないが、任期1年の人は、いつ研究に打ち込めば良いのだろう?私なんかは、次のポストのことで研究が制約されるのはバカらしいと思うので、研究が第一、生活はその次と決めている。だから、残り1年だろうと研究を優先させる。それで行き倒れたら、それも運命であるし、そういう状態で新たな自分が発見できるかもしれない。「開き直り」とも言われるだろうが、そういう前向きな姿勢がなければ、研究なんかやっていられない。
勉強は効率的で楽しいが、研究は非効率的で苦しい。勉強していて知識のある人が、必ずしも良い研究者でないことはよくあるが、それは勉強と研究は別物であるからだ。私が思うに、勉強に向いているのは「素直で物分かりの良い人」であるが、研究に向いているのは「頑固なへそ曲がり」である。だから、研究者には「コミュニケーション能力」が無いなどと言う人もいるが、「コミュニケーション能力」がなければ、研究結果を認知させることはできない。つまり、研究に必要な能力は、自分で計画し実行し発表するための「創造力」「実行力」「コミュニケーション能力」と、それを支える「信念」「忍耐力」「楽観性」である。これらの能力は、すべての仕事に通じると思うので、どんな仕事にも潰しが効く?

無能なポスドク(2005年5月27日の日記)

 新聞記者のMが、某研究所の取材で筑波に来たので、一緒に晩飯を食べた。その時、取材してきた研究室に、40代のポスドクがいるという話が出た。どうも、そのポスドクには基本的な研究能力が無いらしく、研究室のボスが彼の今後を心配していたと言う。具体的には、彼に追試実験のようなことをさせたが正しい結果が出せず、ロシア人のポスドクに同じことをさせたら正しく出来たと言う。追試実験を再現することなど、博士ではなく修士で身につけるべき能力であり、このような人が40過ぎまでポスドクを続けていること自体、驚きだった(欧米であれば1年以内に解雇される)。

 このような無能なポスドクが多いから、日本でのポスドクの地位が低いのだろう。ポスドクに必要な能力は、言われたことを正しくやること(予定調和)ではない。誰も知らないことを発見することである。今まで私は、人に言われたことをやるよりも、自分で考えたことをやった方が良い結果が得られた。自分で考えたことをやろうとすると、研究設備や研究費をあまり使えないが、それでもずっと面白い結果が得られた。そういうことを考えると、博士やポスドクを指導する側にも問題があるのかもしれない。

 英国のプリマス大学のポスドクも無能のようだが、共同研究で無能な奴と組むと苛々する。ちなみに自分は普通のレベルであり、できない人は「やる気」が無いだけだと思っている(自分に能力があるなどと自惚れてはいない)。

組織社会と個人社会(2005年6月2日の日記)

 欧米は個人中心の社会であるが、日本は組織中心の社会である。したがって、日本では、どれだけ評価の高い組織に属しているかで、その個人の評価が決まる。そのために、出来るだけ評価の高い組織に入ろうと、一所懸命に努力して実力をつける。しかし、いったん組織に入ってしまうと、組織が個人を守ってくれるので、その努力をやめてしまうか、組織から追い出されないような努力をするようになる。

 このような組織中心の考え方は、今の研究の世界では通用しない。「今の」と書いたのは、「以前は」通用したからである。今は、有名大学の大学院に入っても、欧米の有名大学や有名研究所に留学しても、それで安泰とは言えない。多少のキャリアアップにはなるかもしれないが、そこで苦労して努力して勉強して、なおかつ実績を残さないと消え去る運命にある。まさに「Publish or Perish」である。逆に、恵まれた研究環境にいながら実績を残せないと、自分の「無能さ」を示すことになるかもしれない。

 余剰博士問題は、日本社会が博士を必要としていないにも関わらず、多数の博士を作り出してきたという政策上の失敗はあるが、組織(肩書・学歴・コネ)を当てにするような博士自身にも問題があると思う。今は、自分の学歴や肩書に名前負けしない実力がないと、たとえコネで研究者に残れたとしても、結局は不幸な人生になるだろう。だから、欧米のPh.Dに負けないような博士にならなければいけない。

精神障害や過労自殺の労災認定(2005年6月18日の日記)

 仕事のストレスによる精神障害や過労自殺の労災認定件数が、2004年度は130人(未遂を含む過労自殺45人)と過去最多に上った。精神障害の申請件数は過去最多の524人。認定者は、IT関係や医療関係の専門技術職が43人で最多、30代が53人で最多、女性が35%と過去最多であった。IT化社会と高齢化社会のシワ寄せだろうか、30代のシステムエンジニアと看護師の過重労働が示唆される。

 ここ最近、私の身内には、精神がおかしくなって自殺未遂や自殺する人がいる。私の家系は、父系が文系、母系が理系であるが、意外なことに理系である母系の方に自殺する人がいる。「意外なこと」と書いたのは、文系で人生の意味とか色々考えている人の方が自殺しやすいと思っていたからだ。しかし、良く考えてみると、理系の人は生真面目すぎたり、心の機微を無視したことを言ったりする。頭の中のデジタル思考が、アナログの現実に対応できないのかもしれない。人間だって生物なのだから、調子の良いときもあれば悪いときもある。調子の悪いときは、ゆっくり休めば良い。長い目で見れば、その方がずっと効率が良いはずだ。逆に、ゆっくり休んでクビになるような組織は辞めた方が良い。所詮「使い捨ての消耗品」としか見ていないからだ。やむを得ず「使い捨て」の仕事をする場合は、カネ以外の利用の仕方を考えておくのも良いかもしれない。私は、企業を「研究所へ行くために」、研究所を「海外へ行くために」利用したと言われるが、「使い捨ての消耗品」としての自分をキャリアアップさせるために仕方がなかったし、それは雇用条件の範囲である。そういう雇用システムにした政府に文句を言ってもらいたい。

 自殺に話を戻すと、自殺未遂や自殺という行為は、当人よりも身内に対して精神的ダメージを与える。当人は死んでそれまでかもしれないが、身内は一生その現実を背負って生きていかなければいけない。これから自殺しようとする人は、自殺を「自分だけ」の問題としてではなく、「あなたを知る人すべて」の問題として考えて欲しい。

健康診断(2005年6月24日の日記)

 研究所の健康診断があった。研究所のカネで雇われている人は、アルバイトも含め全員受診できるが、それ以外は受診できない。それ以外とは、企業や大学、他の研究所から、共同研究で来ている人である。JSPS特別研究員は、研究所のカネで雇われていないので受診できない。健康診断がしたければ、病院に行って自費で受けなければならない。

 3年前にダイオキシン類を測定していた時は、企業からの共同研究員ということで受診できなかった。すでに企業の健康診断も終わっていた。2年前はJSPSからの連絡があったらしく、研究所の健康診断を自費で受診できた。去年は英国に行く間際で受診しなかった。今年はJSPSからの連絡がなかったということで、研究所の方で特別研究員の健康診断をしたり、その旨を連絡したりということはなかった。

 つまり、有機溶剤や特定化学物質を扱う研究を4年間もしているのに、杓子定規な官僚的対応をされ、(自費で1回だけ一般健康診断を受けたが)特殊健康診断どころか一般健康診断も普通に受けていない。「健康診断は自己責任だ」と言われ、「ああそうですか」と言ってきたが、今日という今日は堪忍袋の緒が切れた。受付の看護師に文句を言い、携帯電話越しに総務と話をした。相手は声がうわずっていて、すぐに電話を切ってしまったが、すぐに電話がかかってきて、看護師越しに用件を伝えられた。

 ちなみに私は、今年35歳で詳細な検査をしなければいけない。また、今年でJSPSの任期が切れるので、就職等で健康診断書が必要なのだ。

社宅・官舎の使い方(2005年9月11日の日記)

 正社員や正職員の減少に伴い、社宅・官舎の入居率が低下、入居者が高年齢化している。特に官舎では、管理維持費のために、多額の税金が使われている。部屋が空いているのなら、契約や非常勤の若い職員に貸せばいい。少子化対策にもなるだろう。

某地方大学の面接(2005年9月11日の日記)

 数週間前、先輩Aが某地方大学に助教授の面接に行き、面接した教授達に「君はうちに来ない方が良い」「できれば外部から指導して欲しい」と言われたらしい。我々(地球環境化学)の研究は、地方大学で行う研究ではないということだろうか。あるいは、組織にいる人達の足を引っ張らず且つ出過ぎないくらいの適当な人材が好ましいということだろうか。

二極化(2005年9月21日の日記)

 昨日、久しぶりに産総研の先輩に会った。私は、来年度以降もとの分野に戻り、他分野で得た知識と経験を活かして研究をやりたいというビジョンを持っていたので、産総研の採用状況を少し探ってみた。聞くところでは、ポスドクや任期付のポストは、博士号を取得したばかりの30歳前後が有利で、30歳半ばでは難しいと言う。とはいえ、パーマネントのポストは、さらに難しい。

 日本では、分野やボスを渡り歩いて力を蓄えるよりも、分野やボスは固定してポストが空くまで気長に待つ方が良いらしい。しかも、この傾向は弱小分野ほど強い。これでは弱小分野は、ますます弱体化していく。研究の世界にも、貧富の差が拡大、二極化が進んでいるようだ。

研究の道(2005年9月22日の日記)

 以前、大学院生Aさんのことを「甘ったれ」などと書いてしまったが、彼女はなかなか骨のあるしっかりした女性である。訂正したい。

 研究者には、社会に出るのを避けてきた人が多い。自分の好きな研究だけをしていれば良いからとか、試験を受けなくても公務員になれる(収入が安定している)からとか、社会的な地位や名誉が得られるからとか、およそ現実から懸け離れた妄想を持って研究者になっている。

 私は、研究が楽な仕事だとは考えていない。むしろ、プロスポーツのように厳しい世界だと感じている。そういう世界で生きて行くためには、多少の犠牲を払うことは仕方がないと思う。また、犠牲を払わなければ成功しない世界だと思う。遊べない、カネがない、結婚できない、親族の死に目にあえない、そんなことは当たり前だろう。

 私が研究の道を選んだのは、研究が好きだったというよりも、研究の世界には普通の社会生活では得がたい何かがあると感じたからだ。今は、自然の真理に触れた感動が言葉や文化の壁を超えて共有できることは素晴らしいと思う。だから、私は研究の道を選んで良かったと思っている。

 研究が税金で行われる以上、国民にとって必要のない研究にカネが流れないのは、仕方がないことかもしれない。しかし、複数のサブシステムが調和してガイア(地球)という一つのシステムを構築している中、そこでの物質循環を調べるという研究は、国民というよりも人類にとって必要なことだと思う。

勘違いエリート(2005年9月28日の日記)

 昨晩、両国でMと飲みながら、勘違いエリートの話をした。つまり、肩書や経歴でしか相手を判断できないバカの話である。彼等との対話には、常に格付けが介在するので、決して対等な対話ができない。つまり、天皇のように敬うか、乞食のように見下すか、どちらかである。このような人種が教師や公務員に多いという話で盛り上がった。

 一流大学、一流企業、省庁など、そういう組織に入ること自体が目的になってしまった時点で、すでに堕落は始まっている。ある組織に入ることはあくまで手段であり、目的は別のところにある。つまり、自分の目的を達成するために、ある組織に入るという心構えが大切なのだ。

 良い教師は、学生と同じ目線で対話する。良い官僚は、国民と同じ目線で対話する。良い医者は、患者と同じ目線で対話する。しかし、社会的(尊敬される)経済的(安定した多額の収入がある)理由だけで、その職業に就くことを目的にしてしまうと、「学生のため」「国民のため」「患者のため」という、その職業が持つ本来の目的が見失われてしまう。社会的経済的に高く評価される職業には、それに伴う大きな義務と責任が背負わされていることを決して忘れてはいけない。現代日本社会の深刻な問題の多くは、このような思考の欠如した大勢の勘違いエリート達が深く関与している。

社会における役割分担(2005年10月6日の日記)

 某研究所長の退陣の弁を読んだ。彼は研究者を評価する際に、研究能力の優劣よりも、正しい自己評価あるいは自己認識が出来るか出来ないかを重視していたという。つまり、自分の研究能力に応じた役割を果たすことが出来るかどうかという尺度で各研究者を評価していた。

 人の能力には優劣がある。同時に、この社会には、各人の能力に応じた多種多様な仕事が存在する。どの仕事も、この社会が潤滑に機能するために、必要不可欠なものばかりだ。船頭だけでは船は動かないし、政治家だけでは国は動かない。したがって、自分の属するコミュニティー(家族、組織、国家、人間、自然)における自分の役割を認識し、出来る範囲でその役割を果たす努力をしなければいけない。

 現在の日本社会における問題の一つは、各人がその能力に応じた社会的ポジションに必ずしも就いていないことである。社会的に高いポジションに対して多額の報酬が支払われるのは、いわゆるnoblesse oblige(高い身分に伴う徳義上の義務)が求められるからである。しかし、それを認識していない人が、なんと多いことか。

納骨式に参列して(2005年10月7日の日記)

 午後4時から叔母さんの納骨式に参列した。その寺では、家代々の墓を継承することが難しくなった都市生活者のために、生前に入会(入信)および戒名、そして個人の墓(位牌)を用意する。死後は、合同の納骨堂に遺骨と位牌を33回忌まで安置して、それ以降は合祀するという。

 叔母には息子と娘がいる。彼女は逝去前に離婚したので、喪主は息子が勤めた。実質的には、娘が仕切ったらしい。叔母と娘は、姉妹のように仲が良かった。事実、義理の姉妹である。2人が養子に行った松山の家には80歳を超えた老夫婦しかいないが、娘の方も義理の姉である母親と同じ寺に入会した。松山の老夫婦とは絶縁状態なので、おそらく彼女達の墓のことは知らせていない。他人事なので口を挟む気はないが、将来に禍根を残すことにならなければ良いと思う。

 親族は息子と娘、兄の家族だけで、叔母の学生時代のサークル仲間が参列した。納骨式の後で、彼等と酒を飲んだ。まさに、学生時代に青春を謳歌し、高度経済成長の屋台骨を支え、バブルで踊った団塊世代である。飲み会は同窓会のような雰囲気になり、彼等はみな学生時代にタイムスリップしていた。一緒にいる私の方も、10年前の甘く切ない学生時代にタイムスリップしたような気分になった。30年以上も経って、このような経験を共有できる仲間がいることは、確かに素晴らしいことだと思う。  現在50歳代後半の団塊世代や30歳代前半の団塊Jr.世代は、気持ち悪いほど仲が良い。私は8人の従妹兄弟の中で最年長であるが、いわゆる団塊Jr.世代である2〜4学年下に5人の従妹兄弟がいる。私自身、2年間寄り道しているので、団塊Jr.世代の友人も多い。したがって、そのような仲間意識に対する切望を肌で感じてきた。

 しかし、現在20歳代や40歳代の人達と話すと、もう少しクールな仲間意識を持っていることに気付く。楽しかった学生時代の思い出に耽り、その思い出話ばかりして、家族やまわりの人達を鬱陶しく思わせる団塊世代や団塊Jr.世代とは明らかに違う。今と将来をより良く生きようと必死に努力している人が多い。

 それに対して、団塊世代や団塊Jr.世代は、楽しい過去の思い出や友人関係を支えに、今や将来は惰性で楽にいけば良いかなぐらいに考えている人が多い。その中で、今と将来をより良く生きようと必死にもがき苦しんで努力している人は、むしろ人付き合いが悪く野暮ったくみられる。

 言い方を変えると、団塊世代や団塊Jr.世代は、同世代の友人や仲間だけの横のつながりを重視する。そして、世代を超えた家とか社会とかの縦のつながりには、熟考せずに建前だけで付和雷同する。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という標語通りのおめでたき人々である。

漂う“ポスドク”1万人(2005年11月2日の日記)

 毎日新聞の「理系白書」の第3部が始まった。テーマは「流動化の時代」で、第1回は「漂う“ポスドク”1万人」。

 これは、他人事ではない。以下の例など、身につまされる。

◇転身、阻む35歳の壁

 朝、目覚めると、じっとりと脂汗をかいていた。白川進さん(34)=仮名=は夢の中で、ひたすら志願書類を書き続けていた。  「書類に添える英語の論文が、突然、日本語に変わっているんです。焦りました。精神的に追いつめられているのかな」

 白川さんは天文学の研究者だ。東京大で博士号を取った後、任期付きで働く研究員、いわゆる「ポスドク(ポストドクター)」になった。名古屋大で1年半、京都大で1年半。現在はポスドク3期目だ。

 来年3月には任期が切れる。次の働き口を見つけなければならない。研究の傍ら、常勤職の公募を探して履歴書を送る。

 就職活動は博士課程3年の時から足掛け7年。大学教員や研究職など40通の書類を出したが、「連敗」記録を更新中だ。「年末までは研究職を探しますが、ダメなら民間企業も当たるつもり。この業界に見切りをつけるなら35歳が限度だから」と白川さん。

 研究職の多くは、応募要件が「35歳以下」。研究者としての人生は、今が正念場だ。

   ■   ■

 中学のころから、天文学者を夢見た。大学院に進学するころには、国の「大学院重点化」政策で学科の定員が倍増した。もともと天文学者として働ける場は多くない。「全員が就職できるわけじゃない」と覚悟して博士課程に進んだものの、これほど厳しいとは思わなかった。

 ポスドク生活の6年間に、論文を4本書いた。研究者として、普通の業績は出していると思う。在籍した大学の教授や助手からは「ポスドクは研究に専念できていいよな」と言われた。「3年目までは、お金をもらって自由に研究できるいい身分だと思っていたけど、こんな不安定な状態がいつまで続くのか、だんだん不安になった」

 現在の月収は36万円。ここから社会保険料と年金を払い、家賃5万円のアパートに独りで住む。今取り組んでいるテーマに行き詰まり、気ばかり焦る。「来年、どうなるかが分からないから、落ち着いて研究もできないんです」と白川さん。

 私の周囲にも、このような人が大勢いる。しかし、私自身は「明日は明日の風が吹く」という態度で開き直っている。そもそも私は、博士号取得後に民間企業のアルバイトから始めて、国研に入り込み、博士課程の研究とは異なる分野でポスドクをやってきた。そして、英国の研究機関にも行った。今は、自分に意志さえあれば、どこでも研究は続けられると思っている。

 私が就職活動をしないのは、採用側から声が掛からなければ、採用の可能性は限りなくゼロに近いからである。そして、そのような就職活動は、研究に支障をきたす。そこで研究がしたいのであれば、直接押し掛けるのが、一番手っ取り早い。押し掛け女房になって、いろいろやっていれば、向こうも手放せなくなる。もし手放すようであれば、そこにいても仕方がない。こちらから出て行くべきだろう。

 草の根をかじってでも研究を続けてゆく覚悟があれば、世界中どこにでも居場所はある。研究の世界とは、そういうものだ。

非効率主義のススメ(2005年11月16日の日記)

 多くの人(特に年寄り)は、生活のために仕事をしなければいけないと考えている。でも、今の社会は仕事をしなくても生活できるのではないか?だったら、別に仕事なんかしなくても良い。

 現代は、「(自分の)生活のために」という前提が成り立たない。だから、「(自分の)自尊心や虚栄心のために」となる。そのために、必要以上の「カネ」が欲しくなり、「高い地位」「高い学歴」「美しい外見」と欲しくなってくる。そして、このような欲望を満たす(需要に応える)のも、資本主義経済である。

 一方、これ以上の物質的豊かさ(カネ)を求めるのは無意味だと感じ始めている人も多くなってきた。つまり、これからは精神的豊かさを求めようというのだ。でも、精神的豊かさって何だろう?

 物質的豊かさにおける「(自分の)生活のために」に代わり得る前提としては、「(自分の)人生のために」が良いだろう。たった一度きりの、自分だけの人生を幸せに生きるために、仕事をする。そのためには、「楽な仕事」よりは「面白い仕事」、「単純で簡単な仕事」よりは「複雑で難しい仕事」を選ぶのが良い。自分が苦にならない程度に「複雑で難しい仕事」は、同時に「面白い仕事」でもあるからだ。仕事は複雑であれば複雑であるほど面白い。だから、そういう仕事ができるように一生懸命に努力しよう。

 また、「(他人の)生活のために」という前提も良い。なぜなら、他人に感謝されることで、自分が自分であること(アイデンティティー)、つまり社会(コミュニティー)の一員であることを実感できるからだ。

 最近の成果主義は、「如何に楽をして、多くのカネを稼ごう」とか「如何に楽をして、多くの業績を挙げよう」とか、そういう息苦しくなるような効率主義に人々を駆り立てている。すでに資本主義経済における効率主義は破綻しかけているのだから、人々から仕事を奪ってゆくだけの効率主義はもうやめて、そろそろ複雑で難しい仕事を楽しむ、非効率主義に移行した方が良いと思う。

星を目指して(2005年11月18日の日記)

 仕事を楽しんでいる人は、キラキラ輝いている。そういう人は、決して収入の多寡で仕事を判断しない。自分のしている仕事の先に、自分の理想を思い描いているからだ。つまり、それぞれの自分の星を目指している(星一徹と飛雄馬の親子は、「巨人の星」を目指してメラメラ燃えていた)。

 たまに「研究が楽しいですか?」などと野暮なことを聞く人がいる。楽しくなければ研究なんかやらない。ただし、「楽しい」とは「楽(easy)」ではなく、「面白い(interesting)」である。「楽しいだけじゃ、生活できませんからね」とか知ったようなことを吐かす人がいる。「ここに今、こうして生活しているじゃないか!」と言うと、「今は良いけど、将来は心配ですよね?」と追討ちをかける。こういう人には、「お前は生命保険の営業か!」と言いたくなる。

 掲示板の書き込みを読んでいると、このような生命保険の営業文句に踊らされている若手研究者が多い。皆それぞれの星を目指して研究しているわけだから、それだけでキラキラ輝いていなくてはいけない。確かに、最近の成果主義が、若手研究者を論文執筆マシーンにしているのは事実だが、目の前の雑事に追われ、自分の目指すべき星を見失ってはいけない。

 自分としては、体力、顔のしわ、髪の毛など、着実に歳を取ったと感じる。しかし、初対面の人には、日本では20代後半、欧米では20代前半くらいに見られる(嘘じゃない)。20代の大学院生と話をすると、彼等の方が保守的で老け込んでおり、むしろ私の方が革新的で若々しいと思う。若く見られるのは気持ちが若いからだ、と自分では思っている(ただし、若く見られると嘗められる場合が多いので、良いことよりも悪いことの方が多い)。

#tobutori 『geiaさん、こんばんは。 そうそう、私の知っている方も心底研究を楽しんでいます。 仕事=研究が大好きなのです。 研究の話になると満面の笑みで打ち込む姿が、私にはとても微笑ましく映って^^(確かにキラキラしていました)。 寝る間も惜しむほど仕事がしたくて仕方が無い様子でした。 お立場から、研究のみに時間を費やすことができず、よく愚痴も零しておりました。 研究者にも色々な方がいます。 やり方、が違っていては研究する場所さえ無くしてしまうという現状も原因になるかと思います。 それでも、雪かき的に全てをこなされる(もちろん雪かきをしている間にも新しく雪は積もっているのですが)先生も現におりまして... キラキラ輝ける星もたくさんおります。』

# geia 『tobutoriさん、お久しぶり(^o^) たぶん、知り合いの方は、30代後半から50後半で、すでに教授か助教授の(パーマネント)ポストに就いていると思います。もしそうであれば、博士号を取得して5年(30代前半)までの若手研究者とは、かなり状況が異なります。このような若手研究者は、「大学院重点化」や「ポスドク1万人計画」の被害者であり、その多くは研究や仕事や人生に対する情熱を無くしかけています。 私自身は、流動化の波を上手く利用して、エンジョイしながら渡り歩いていますが、まわりを見ると、極度の水恐怖症の人達が溺れかけています。そんなに水が怖いなら、最初から海になんか出て来なければ良いのにと思うのですが、絶対沈まないと騙されてタイタニック号に乗り込んだ乗客のようなものです。博士を取って大海に放り出されたら、救命ボート(ポスト)の定員が少なすぎて、皆ずいぶんと驚きました。それで、「溺れる者は藁をも掴む」という雰囲気になり、自分だけは生き残ろうと皆必死になっているのです。その阿鼻叫喚の中、空を見上げて自分の星を目指して泳いでいる人は少ないですねえ。』

生きる力(2005年11月19日の日記)

 大都市の大学でブルジョア生活をエンジョイしていた人よりも、地方都市の大学で貧乏生活や野生生活をエンジョイしてきた人の方が、はるかに逆境に強い。つまり、逆境に直面した時に、その状況を真摯に受け容れ、冷静に分析し、適切な打開策を立て、それを実行に移すことができる。その打開策にしても、他人を当てにするばかりでなく、できる限り自分自身で対処し、時には安全や成功の保証の無い冒険(ギャンブル)へと踏み出すことができる。本当の「生きる力」とは、このような逆境への対応力だと、私は信じている。

 まずは、現在の自分の置かれている状況と自分の持っている対処能力を正確に把握しなければいけないが、強すぎる自尊心や虚栄心のために、この時点で誇大妄想を抱く人がいる。こういう人は、自分の置かれた状況やそれに対処する能力を、過大評価したり過小評価したりするので、適切な打開策を立て、それを実行に移すことができない。また、他人ばかり当てにして、自分では何もできない人がいる。こういう人は、自己責任を回避している。自己保身が強すぎるのだ。

 沈没しかけのタイタニック号から、足がすくんで逃げることができない。いつまでも船内にいても、いつかは沈んで海の藻屑と消えてしまう。しかし、船外に出ても泳げないから、溺れて死んでしまう。こんなことなら、救命ボートを確保したり、泳ぐ練習でもしておけば良かったなどと、懺悔するだけの日々を送る。こういう人は、どんな神様からも救いの手は伸びないだろう。

 雪山で遭難した時のことを考えよう。まずは、自分の置かれた状況(気象条件、地理条件)と自分の対処能力(体力、食料、燃料、道具)を確認する。自力で下山するか、あるいは発見されるために、最善の方法を考える。後は、それを実行して、運を天にまかせるだけ。そうすれば、どこかの神様から救いの手が伸びてくるかもしれない。まあ、そうあまり期待せずに、息絶えるまで気長に待とう。

バディーの資格(2005年11月20日の日記)

 プロのダイバーに、「ダイビングが楽しいですか」とか「楽しいだけじゃ生活できませんね」とか「危険が一杯で心配ですね」などと言う人は、一体どういう神経をしているのだろうか?また、プロのダイバーが、ダイビングを苦行のように考えている人と一緒に潜りたいと思うだろうか?たぶん、プロのダイバーとしては、このような人には海に来て欲しくないし、できれば縁側で囲碁でも打っていて欲しいと思うだろう。

 研究者に対して、「研究が楽しいですか」とか「楽しいだけじゃ生活できませんね」とか「危険が一杯で心配ですね」などと言うのも、まったく同じである。日々、未知の世界での新たな発見に心を躍らせているプロに対して、こういう言葉を投げかけるのは無粋以外の何物でもない。何より、同じ志を持ったプロから、このような言葉を聞くこと自体、私には信じられない。私は、このような人と一緒に研究したくないし、できれば研究の世界からも足を洗って欲しいと思う。なぜなら、自分の星を目指して頑張っている人の感興を著しく殺ぐからだ。

 私は、まだ死ぬつもりはないが、縁側で死ぬよりは、海で死ぬ方が良い。そういう同じ覚悟を持った人となら、未知の世界での新たな発見の喜びを共有できると思う。

博士の就職活動(2005年12月14日の日記)

 35歳以上の博士の就職は厳しい。特に、研究所のポスドクを続けてきた博士は、学生の教育や部下の扱い方を経験していないので、大学や企業への就職が不利となる。なぜなら、35歳以上の博士であれば、助教授(講師)や課長として採用しなければいけないからだ。しかし、研究所に残ることも難しい。ポスドクや任期付職員は博士取得直後の若手のポストであるし、正職員のポストはほとんど無いからだ。

 人材斡旋会社に登録して、就職活動をしている人がいる。彼は、私にも登録するように勧めるのだが、私の研究が企業に合わないことは承知しているので、敢えて登録はしない。私は、自分で合いそうな大学や研究所の公募を探して、良く吟味してから書類を送付することにしている。

 今の場所で研究が続けられれば良いのだが、その保証は無いので何らかの対策を立てる必要がある。年末までに3〜4通の公募書類を提出するつもりだが、最悪の場合、どこかの大学の研究生として研究を続けなければいけない。まあ、それも想定内であり、その覚悟もできているのだが、「青天の霹靂」や「想定外」のように慌てる人には言えない。やっぱり、肉親とか家族は少ない(いない)方が良い。

美しく輝ける過程(2006年1月11日の日記)

 今日、2通の公募書類を出した。当初は3通出す予定だったが、推薦書を依頼した方から、すでに他の人に推薦書を書いたという返事を受け取ったので、そこは出すのを止めた。下手に競合しても良くないと判断したからだ。

 博士号取得直後は、他分野の環境研究、企業や研究所や外国での研究を経験して、出来る限り視野を広げたいと思っていた。なぜなら、大学時代の研究から少し距離をとることで、(指導教官のクローンではない)研究者としての自分を確立したかったからだ。実際に、私はそう宣言し、そう行動してきた。そして、自分の思いを「有言実行」できたことを自負している現在、今度は落ち着いて自分の研究をしたいと思っている。

 思い通りに行かないのが世の中というものであるが、だからこそ思い続けることが大切なのだろう。「為せば成る、為せねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」である。思い続け、言い続け、為し続ければ、いつかは成就する時が来る。私はそう信じたい。もし成就しなければ、その時はそういう運命だったと諦めよう。だが、おそらく人は、成就するかしないかという「結果」よりも、成就に向かい思考し為し続ける「過程」にこそ、美しく輝ける姿があるのだ。

懸念(2006年1月13日の日記)

 一所懸命に研究して、それなりの業績を挙げたにも拘わらず、次の目途も立たず研究所を去らなければいけないポスドクが少なからず居る。次期中期計画以降の研究費獲得状況に関係することでもあろうが、そのようなポスドクを大量に出すことは、研究所の評判を著しく低下させる。なぜなら、研究所を去ったポスドクが、行った先やウェブ上で研究所の悪口を喧伝するかもしれないからだ。そうなれば、優秀な若手研究者は、この研究所での研究を志さなくなる。それは、結果的に研究所の存在さえ危うくする。

 既得権益の上にあぐらをかいて何もしない職員が、一所懸命に仕事をしてきたポスドクに対して、次のポストを斡旋する努力もせず、「それは自己責任だから」と切り捨ててしまうのは如何なものか?それなりの業績を挙げたにも拘わらず、次の目途も立たずに自分で就職活動をしているポスドクは、必ず前の職場での人間関係を問われる。前雇用者として、少なくともその辺のフォローはすべきであろう。

 「人間関係が良好で十分な研究業績を挙げているにも拘わらず、次のポストの斡旋もせずに追い出すことなんてない」と、一般の人は思うかも知れない。しかし、「国家公務員試験を通っていないポスドクは職員に非ず」「東大以外の博士は研究者に非ず」と考えているような職員が、そして公務員削減のために自分の身、つまりは既得権益を守ることに必死な職員が、ポスドクのことになんか構っていられるだろうか?このようにプライドばかり高く、自分のことしか考えず、まったく仕事(研究)のできない公務員を駆逐するために行った独立行政法人化(独法化)であるが、これが結果的に日本の将来を背負って立つような若い人達を苦しめている。これでは、農薬を撒いたが害虫は死なず、益虫が死んでしまっているようなものだ。

 巷では、やれ「能力主義」だ、やれ「実力社会」だとか言っているようだが、ここの現実は、まだまだ「学歴主義」や「年功序列主義」が色濃く残った「紹介社会」である。

人材への先行投資(2006年1月18日の日記)

 公的研究機関では、研究機器は「備品」、研究者は「消耗品」として扱われる。したがって、3〜5年のプロジェクト研究では、人よりも機械の方が大事にされる。機械は文句を言わないし、役に立たなくなれば簡単に廃棄できるから、カネ(公的資金)も出しやすい。しかし、10〜20年後を考えてみると、機械はただの粗大ゴミになっているであろうが、人は掛替えのない宝物(国宝)になっている可能性がある。国家戦略としては、機械よりも人材に先行投資するのは当然だと思うのだが、現在は目先の些事にしか目が行っていないようだ。

 実は、数千万〜数億円する高額機器の多くが、2〜3年使ってから放置されている。これらは利用されていない高速道路のようだと揶揄されるが、このまま時間が経って粗大ゴミになってしまう前に、有効活用して研究できる人材を雇えば良いのにと思う。しかし、現実は、子供が新しい玩具を欲しがるように、次々に最新の高額機器が建設され、それを立ち上げ維持管理するための人材しか雇用しない。

 おそらく、先行投資としての人材へのカネの掛け方、つまり教育や研究に対するカネの掛け方を知らないから、このようなことになるのではないか、人材にカネを掛けたら、不正に使われるのではないかという不信感が、そこにはあるのだと思う。

 時間が経てば、機械は劣化するだけであるが、人は成長するという真理に、もっと真摯に目を向けて欲しい。

両極端(2006年1月24日の日記)

 何でも難癖をつけて断るが、依頼されたことはマニュアル通りにきちんとこなすA。何でも二つ返事で引き受けるが、最後まできちんとやらずに、次々と新たな依頼を引き受けるB。Aは、少しでも自信の無い依頼は、絶対に引き受けなかった。Bは、少しでも面白そうな依頼なら、すべて引き受けた。それから5年後、Aは時代の波に取り残され、Bは周りの信頼を失った。両者とも、正確な自己分析ができていなかったのだ。Aは、自分の能力を過小評価して、自分の能力を伸ばすこと(精進)を怠った。Bは、自分の能力を過大評価して、すべてを中途半端に終わらせ、自分の能力を伸ばすこと(精進)ができなかった。両者とも、現在の自分の能力を正確に把握した上で、時代の波(ニーズ)を読み、そこに自分の能力を適応させていくことに失敗したのだ。

 やはり、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」である。

超ポジティブ・シンキング(2006年2月7日の日記)

 良い条件のポストに就けないことが、そんなに大変なことなのだろうか?自分の目標がしっかりしていれば、どんな条件でも良いはずだ。高給で安定しているから、良いポストとは限らない。どれだけ自分の目標と一致しているかが、最も大切なことだろう。

 確かに、多額の借金や扶養家族を抱えていたら、ある程度の収入は確保しなければいけない。しかし、それは最低限確保できれば良いだけの話であって、今の日本で第一条件になるような話ではないと思う。  昔の偉人達は、そのような苦しい生活の中でも、自分の志を貫いた。生きている間に評価されなくても、死んでから高く評価された人もいる。必ずしも努力は報われるわけではないが、努力しなければ何も報われない。

 今の日本で、必要以上の安全や健康を求めるのも、必要以上のポストや金銭を求めるのも、根本的には同じように思う。五体満足に自分の道を歩めれば、それだけで満足ではないか。今の日本で餓死などしない。それだけで安心だ。

反骨の意味(2006年2月9日の日記)

 権威に逆らって何になる。競争における勝者を否定するのは、負け犬の遠吠えだ。今までに何度、こんなことを言われただろう。

 私が高校や大学の頃は、親や教師や政治家などの権威による支配から自由になりたい、自立したいという雰囲気があり、反権力志向のメッセージの強い尾崎豊や長渕剛などが流行った。ところが、私が大学院に進んだ頃から、親や教師や政治家には逆らってはいけない。そのような偉い人の言う通りにしていれば間違いないという若者が増えてきた。それに我慢できなくなった私が、彼等を去勢された動物のようだと揶揄すると、その飼い主が「それでいいんだ」「余計なことを言うな」と怒り出し、大変なことになってしまった。しかし、私は小泉首相を支持する現在の若者たちにも、それと同じような雰囲気を感じている。

 私が、親や教師や政治家などの権威を必要以上に否定することが、現在の雰囲気に合わないことは知っている。しかし、支配(=保護)からの自立を抑制していては、一生支配(=保護)されなければ生きていけない人(=家畜かペット)ばかりになってしまう。だから、私が書くことに対して、いちいち権威はめくじらを立てず、自立できない人のために無駄なことをやっていると思ってくれれば良い。

ニート問題(2006年2月10日の日記)

 「「ニート」って言うな!」を読んでいる。この本は、著者の一人である本田由紀さんのブログ「もじれの日々」でのコメントのやりとりから生まれたという。

 英国の「NEET」が、格差社会における社会的排除の問題。つまり、ごく若く狭い年齢層(16〜18歳)の就労における「機会平等」と結びつけられ、若年失業者にも適用される。一方で、日本語の「ニート」は、「パラサイト」や「ひきこもり」と結びつけられ、より広い年齢層(15〜34歳)に適用されるため、しばしばフリーターの問題と混同される。そこには、若年者の就労問題が社会的(政策的)な問題としてではなく、個人的な自己責任や心のの問題に転嫁されてしまう危険性がある。

 今日の朝日新聞のオピニオン欄では、橘木俊詔さんと大竹文雄さんが、「日本は格差社会か」という討論をしていた。小泉内閣の(財政)構造改革に関しては賛否両論であったが、高齢者と若年者の格差に注意すべきだという見解で一致していた。高齢者の所得格差の拡大は深刻な問題であり、社会保障やセーフティーネットに対する拡充政策は必要であるが、それ以上に最初から機会不平等という現在の若年就労問題が、格差社会を回避するために重要であろう。

 前述の本で、若年者の就労に関する「フリーター問題」が「ニート問題」にすり替えられた背景に、日本労働研究機構が独立行政法人化(独法化)して労働政策研究・研修機構になったことが挙げられている。つまり、独法化で組織の存在意義や業績に対する点検や評価が厳しくなり、世間の注目を浴びる研究キーワードとして「ニート」が使われ始めたのだという。事実、「ニート支援事業」はカネになるため、そこに国庫や家計からの無駄な資源が大量投入されているらしい。独法化された研究機関は、どこも同じような状況なんだなと思ったが、「環境ホルモン問題」や「ダイオキシン問題」は、もうカネにならないのかな。

若年就労問題と余剰博士(2006年2月11日の日記)

 余剰博士(オーバードクター・ポスドク)問題は、若年就労(若年無業者・フリーター)問題の一部と言える。なぜなら、余剰博士問題と若年就労問題は、社会的・経済的基盤が不安定であるという表現型の類似以外に、以下のような類似原因から派生していると考えられるからだ。

  1. 教育の職業的意義の希薄さ。つまり、社会が求める人材(需要)と学校での教育内容(供給)が一致していない。
  2. 典型雇用(正社員・正職員)と非典型雇用(アルバイト・パート・派遣)との格差が大きく、非流動的である。
  3. 若年層バッシング(凶悪・情けない)により、社会的な労働・教育の政策問題から、個人的な自己責任、あるいは心(コミュニケーション力不足・甘え)の問題へのすり替えが行われている。

 1は学校教育、2は労働経済政策、3はマスコミと一般市民の問題である。この問題は、もう少し掘り下げて考えていかないといけない。

☆関連サイト

博士の生き方(2004年12月30日の日記)

 「博士の生き方」というサイトを見つけた。作者は博士号(工学)を取得して企業に就職したらしく、企業に就職するのも「博士の生き方」であるという非常に前向きな考え方のサイトである。いろいろな考え方があるかもしれないが、私は企業に就職するなら、学部卒か修士卒でした方が良いと思う。分野によるのかもしれないが、博士号取得にかける金・時間・労力を考えたら、博士課程修了・博士号取得後の企業への就職は、割に合わない選択だと思う。(自分自身を含め)私の知る限り、これは生活の糧を得るための「背に腹は代えられない」という苦渋の選択である。しかも、このような人は「研究者」としての自覚を捨てた「負け犬」のようになってしまうことが多い。昨日、「博士」は「サムライ」のようであると書いたが、同様に「博士の生き方」は「サムライの生き方」である。どんなに窮しても「研究者」としての自覚を決して捨てないのが「博士」(サムライ)である。

 私のように頑固でなくても、「博士の生き方」を拘束している大きな要因の1つは、育英会の「借金」だと思う。私は修士と博士課程で、育英会から奨学金を支給されていたので、その額は合計約600万円になり、企業や外国に就職すれば、月2万5000円の240ヶ月(20年)払いで返還しなくてはいけない。私が、英国のポスドクのオファーを断り、日本のポスドクを続けているのには、このような事情がある。

 現在の「余剰博士問題」を解決する最も即効性が高く効果的な方法は、育英会の「借金」をチャラにすることだと思う。「余剰博士問題」が解決することは、博士達が(企業や外国などの)様々な場所で活躍することを意味するので、「科学創造技術立国」を目指すことにもつながる。欧米の場合、博士課程の学生が受ける奨学金の多くは返済する必要がないし、現在の「余剰博士問題」の責任は国にあるのだから、育英会の「借金」をチャラにするくらいの事はしても良いと思う。私は「任期制」というムチと同時に、「借金の帳消し」というアメが必要だったのではないかと考えている。今からでも遅くない。「借金の帳消し」というアメを導入してみてはどうだろうか?

 日本の組織には、まだ根強い徒弟制が残っており、上に立つ者の良し悪しで、その組織の運命が決まってしまう。そういう意味で、上に立つ者には、それなりの責任がある。昔のサムライの「切腹」や今のヤクザの「指詰」は、そういう上に立つ者がとる責任の「名残」だと思う。今の日本で、国民の上に立つ者、社員の上に立つ者、学生の上に立つ者が、自分の犯した過ちの責任をとっているだろうか?

博士が100人いる村(2005年5月13日の日記)

 今日、先輩のA氏から、創作童話「博士(はくし)が100にんいるむら」のことを教えてもらった。このサイト、巷ではかなりの評判らしく、5月5日の児童小銃さんのネタバラし記事に、私のサイトが元ネタではないかという情報が出た。そのおかげで、本ページのアクセス数が急増した。しかし、データの出所は「第1回:博士課程修了者の選択肢」のようである。そう言えば、5月2日の読売新聞に「博士士号は得たけれど「ポスドク」激増で就職難」という記事が出ていた。「博士(はくし)が100にんいるむら」は、この記事に便乗したものだろうが、なかなか良くできている。欲を言えば、最新のデータを用いて、もう少しまともな文章にして欲しかった。最後の自殺率との比較は間違いだが、医学系と東大京大を除けば、当たらずも遠からずといったところか(私立文系はさらにひどかったりして...)。

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