2004.11.09作成

016 アバウトな介護―無理をしない
by ゆうこ

介護は大変?

先に介護はゴールの見えないマラソンのようなものであると書いた。
何らかの理由により介護が必要になったとき、受ける側も提供する側もその心身にかかる重圧感は相当なものであろう。
実際(自分が見聞きした範囲内)大半の人が「介護は大変」だと言う。目標(ゴール)が見えていれば少し辛くても目標を目指して頑張ることも出来るだろう。しかし、ゴールがどこに設定されているのか分からない状況下ではどこで頑張ればいいのか困惑するばかりであろう。
 
単独で歩いて北極点に立った大場道朗さんは歩きながら「頑張ってはいけない、頑張ってはいけない。頑張り過ぎると周りが見えなくなって死んでしまう」という言葉を呪文のようにつぶやき続けていたという。何の目標物もない北極点、クレバス、白熊、ブリザードと危険がいたるところに口を開けて待っている、いわゆる死と隣り合わせの極限状態の中を黙々と歩き続け北極点に到達した大場さん。その偉業を成し遂げた彼のモットーが「頑張ってはいけない」だったのである。状況は全く異なるが、この考え方は介護にも通じるものがあるのではないだろうか?

 到達点が見えないと人は不安になる。そして今の状態がそのまま変わらないで永遠に続くような気がしてくる。何とかゴールを見つけようとして余計に頑張りすぎてしまうことも考えられる。このような状態が更に続くと精神的疲弊状態に陥り、身体が辛くなりやがて力尽きて倒れてしまうだろう。
 そうなると、普段なら何でもない言葉が素直に受け取れなかったり、皮肉や嫌味な言葉を言ってしまうことが起こりやすく、介護する人とされる人との関係がギクシャクしたものになってしまうことも考えられる。
介護はしんどくて辛いもの、苦しいもの、介護は大変としか思えなくなってしまう。介護に対するイメージを捉えなおし、心身の負担を軽減することは出来ないだろうか?

介護の現場(渦中)に立つと介護が気楽に出来るものではないことを実感する。
介護する側もされる側もかかる負担を軽減するのは容易ではない。障害の程度や種類によって多少の違いはあるかもしれないが基本的には大差ないと思う。
体位交換、車椅子移乗、排泄介助、食事介助、入浴介助、その他どれをとっても楽にできるものはない。
「頑張ってはいけないと言われても頑張らないわけにはいかない」と言いたくなる。
床ずれがあるかないかが、良い介護をしているかどうかの目安になると言われている。
床ずれを作らないようにしようと思えば、頻繁に体位交換をしたり栄養状態をよくしたり清潔な状態を保つなど常に気を配っていなければならない。
家族に寝たきりの人がいる場合は更にこまめな配慮が必要になってくるだろう。

しかし、介護を受ける者の気持ちは少し違うのである。(自分も身体が動きにくくなった経験あり)
介護を受ける側は常に「迷惑をかけてすまない」「世話をかけている」という気持ちを持っている場合が多い。疲れているのに無理をして介護を受けていると「申し訳ない」と思う反面ある種の鬱陶しさを感じることがある。「そこまでしてもらわなくてもいいのに」という感じを持つのである。

ゴールの見えない介護である、○○せねばならないと思うことを止めてみる。ゴールは見えないけれどぼちぼち走っていればそのうち何か見えてくるだろう、くらいの気持ちを持っていればいいのではないだろうか?気負って完走しようなどと思わぬことである。
辿り着かなくてもいいではないか。今日は疲れていると思えば、食事は朝、昼兼用にする。
食べるのに時間がかかる時は他の事をしながら、その合間合間に少しずつ食べさせてあげる。
栄養を考えて食事作りをしなくても、あるものを食べてもらえばいい。不足分はサプリメントで補えば足りるだろう。手を抜けるところはとことん手を抜けばいいと思う。
疲れているときは無理をしないことである。先にも書いたが、心身が疲れてくると普段なら何でもない言葉が素直に受け取れなかったり、皮肉や嫌味を言ったりするようになるだろう。そんなことが何度か続くと両者の人間関係がギクシャクして、スムーズなコミュニケーションが取れなくなり、終いには関係の断絶ということにもなりかねない。
そうならないためには、無理をしない、寝たきりの人がいても「床ずれを作らなければいい」とアバウトに考えていれば、両方の負担感もかなり軽減されるだろう。

介護には法則がないのである。今まで常識とされてきた介護に対する考え方をブレイクしアバウトな介護を実践してみてはどうだろうか。

                 2004・10・30    by ゆうこ


ファイル作成 Almond


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