2004.4.14更新

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立ち上がる気力をくれたひとこと by きょん2
 

 ここひと月、私は薬も思うように効かずひどいジスキネジアで立っていることもすわっていることもできず、息遣いさえ激しいのでしゃべるのもつらくて、ほとんど何も出来ない状態が続いた。こういう状態が長くなると、肉体の消耗はもちろん、精神も不安定になり、とんでもない心の変調をきたす。孤独な闘病は人間をゆがませる。こうなったのは、いったいなぜ?にはじまり、家族のだれかれが憎らしく思えてくるのである。自分の心の中に恐ろしい鬼を住まわせていることに気づいたとき、私はゆがんだ自分におそろしくなった。病人が健全な精神を保ち続けることは、きわめて困難なことだとあらためて気づかされた。よい人であろうと無理をすればするほど、心の鬼が暴れだすのだから始末におえない。病人がときに声をあげて泣き出したり、無理難題をふきかけたりするのは、いつもは必死に耐えているけれども、もういっぱいいっぱいで限界を超え、どうしようもなくなって感情が抑えきれなくなったものだと思ってほしい。決して周りを困らせたいわけではないことをくみとってもらいたい。不安、恐怖、孤独から逃れたいあまり、そのような行動に出てしまうのである。病人はいつも絶えず耐えることをしいられている。それがあまりにも長く重くのしかかると、バランスを失ってしまうのである。

 病人はいつもあたたかいまなざしを待っている。たとえ一言であっても心からの言葉に勇気づけられる。自分の苦しみの一端を同じ気持ちで受けとめてもらえると、本当に癒されて救われた思いがする。健康で病気ひとつしたことのない人には、病人の気持ちなど理解できない。風邪などというのは病気のうちには入らないので、ここでいう病気はもっと深刻な難病や重い病気、そうそう簡単には治らない病気のことをいっているととらえてもらいたい。重い病気を患ったことのない人に慰められるのは、病人からしたら、しらじらしくてとても耐えられないことである。同じ思いを共有した人でなければ、病人を慰めることなどできない。同じ医師でも身内を亡くしたつらい経験のある医師は、患者を患者として診ないという話を耳にした。親を亡くしたり、子を亡くしたりした医師は、患者をつらい思いを共有する仲間として診るのだそうである。

 名医(その名を世間にとどろかしているような医師)でなくても、患者にとってなくてはならない存在の医師というのがあるように思う。痛みということ1つとっても、「ああ、そうですか。」と聞き流す先生は、あまり質がいいとはいえない。患者はそれだけでがっかりして、この先生には何をいってもだめだと思う。1番自分を悩ましている症状に真剣に耳を傾けてくれる先生こそ、信頼できるし、自分を預けても大丈夫だという安心感をもつことができるのである。

 明日をもしれぬ重病の人を生かすのは、待つという気持ちだという。1年先はわからないけれども、明日を生きようとすることはできるのだという。かわいい孫を待つように楽しみにして待てる何かがあるとしたら、せめてそれまでは生きていたいという気持ちで人は生きてゆけるのだという。死に至る病の人でも明日を生きることはできる。それを聞いたとき、不思議なことに私の心の中に住んでいた鬼がすうっと消えていった。地獄のなかに一筋の光を見出した思いがして、ゆがんでいた自分が、もう一度真実を生きてみようという気持ちになって立ち上がろうという気力でいっぱいになった。

 とはいえ、弱い私は不安や孤独や自信のなさを完璧に払拭できたわけではない。ただ不調が続いていつのまにかねじくれてしまった心をまっすぐに修正できたというだけのことで、また鬼がいつ出てくるともしれないのである。だが、幸運なことに自分では決して抜け出せなかったであろう闇から勇気を得て立ち上がれたのであるから、神様はお見捨てにはならなかったのだと思うのである。 

 

2004.4.14up

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