2004.06.02 up

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めったにいない名医、名匠、名監督 by きょん2

 1989年にはじめてM先生と出会った。日赤病院で精神科の老齢な1医師がパーキンソン病ではないかと疑念をいだいてくれたのだが、他の内科医や整形外科医たちがそろって異論を唱えたもので、結局のところ結論が出ないままに何の病気かわからないまま、しばらく薬を処方してもらっていた。Lドーパが劇的に効いた、それは私にとっては驚きでありうれしい誤算でもあったが、専門医でない老医師に特定疾患のことや今後の治療の見通しなど聞いても、私にとってはあまり有効でない答えしか得られず、将来への不安が大きくなるばかりでいっこうに問題は解決しなかった。「パーキンソン病の疑いがある」、その頃の私はそのような中途半端な状況のままに1日3個のネオドパストンの処方を受けていた。

ちょうどそうした時期、山口大学に神経内科が新設されたので、そこへいって詳しく診ていただくようにと、くだんの医師が助言をくれた。M先生は優秀な専門医で、山大が神経内科を新設するにあたり教授として赴任されたばかりだという。「めったにいない名医」だと老医師が太鼓判をおしてくれた。何をもって名医というのか、医師として名医というからにはきちんとした専門的な知識をもって経験をつみ正確な診断をくだす、そのことにつきるのであろう、とその時、私は頭で考えた。「特定疾患の認定はわたしには無理だ。私の診断書では通らない。」と、その医師は私にそう告げた。そしてM先生への紹介状を書いてくれた。

1989年の夏にはじめて山口大学へ行った。その頃小学校で教えていて、仕事的にもかなりきつい状況の中にあった。20代後半でも新設校にあっては、もう中堅とみなされてそれなりの責任をもたされて、新任の先生の世話をまかされたりしていた。自分の仕事をこなすのもいっぱいいっぱいで、人のめんどうをみるどころじゃないのに、パーキンソン病とはっきり診断もつかないので、何の配慮もしてもらえなかったのだった。8時半の受け付け開始を知っていたけれども、7時半には着いてしまってすることもないので、神経内科とやらの外来へいってみることにした。まだ電気もついていなくて真っ暗な外来にひとりぽつんとすわった。見回すと壁にはりがみがしてある。

『こうした症状の方は本外来へお訪ねください。』 手足のこわばり、震え、前かがみで小刻みに歩行、転びやすい・・。なんだかいちいち自分に当てはまるので、やっぱりここなんだと妙に納得してしまった。はじめての大学病院はなんだか怖いような感じがした。だだっぴろい建物の中は人もいなくてがらんとしていた。電気もついていないとなると心細くて、そのうち逃げ出したくなるのだった。8時をちょっとすぎた頃、中肉中背の男性が牛革の擦り切れた黒いかばんをもって奥へ入っていった。いかにも職人といったふうで、たぶん使いなれたその黒いかばんがとても印象的だったせいでそう思ったのであろうとあとでふりかえる。大工さんか電気工事の人、そんなふうに思ってしまったその人が、こともあろうにM教授本人であったことがあとでわかって驚きあわてた。白衣をきていないM先生は熟練した職人のようで名匠というにふさわしい印象であったことをいつまでも忘れないだろう。医師というより名匠である。そののちながのおつきあいになるM先生との出会いは、先生の擦り切れた黒いかばんに象徴されるのであった。日赤の老医師のいった「めったにいない名医」は、熟練した腕をもち使いこなれた道具をもって、だれよりも早く診察室に入りだれよりも遅く診察室を後にした。私の知る限り15年間、ずっとそうだった。お昼をどうしておられたのか、今もって思うにたぶんぬいてらしたのではないだろうか。いつも8時過ぎには診察室に入られて出られるのは午後2時半過ぎであった。その間ずっと患者の診察にあたられていた。私の知る限り、どの医師よりも長い時間丁寧に患者を診ていらしたように思う。血圧の測定にはじまって手を動かす、歩く、バランスの具合を確かめる、患者を診察台に寝かせて手、足、首をもってこわばり具合を診て、いつもの道具で反射を確かめてから話を聞いてくださった。いつもぬかさずそれを続けていらした。考えてみると、先生は基本に忠実で決して手をぬくことなく仕事をこなしておられたと思う。そこが名匠たるゆえんである。わかりきっていることでも省くことなく自分の目で見て確かめる。それはどんな小さなことも見逃さない、職人気質のあらわれではないだろうか。最初のころは慎重で、若年性パーキンソン病と診断するのにも2〜3ヶ月は経過をみられたように記憶している。私を診るにあたり、「あなたの人生に関わることですからいっしょに考えてやっていきましょう。」と最初におっしゃった言葉は、今もって忘れられない珠玉のひとことで、本当にM先生とめぐりあったことは幸運であったと15年をふりかえってみるのである。20代後半から15年間よくいっしょにやってくださったと感謝の思いでいっぱいだ。仕事をやめるとき、結婚を決めるとき、子どもを生むとき、その人生の節目節目にM先生がいてしっかりサポートして下さったとことでやってこられたのかもしれない。いつも正直で明確な答えがもらえた。わからないことはわからないとおっしゃった。けれども、もっている情報は全部提供してくださった。そして私が決断することに力を貸してくださった。「いいですか、賢い患者になりなさい。馬鹿では困りますよ。」と、いつか私に言われたことがあって、どういうことかとお尋ねしたら、「学ばない患者は早く進行します。悪くなります。それができるかどうかは人にもよりますが、あなたならできると思うので言っておきます。馬鹿では困ります。」いろいろな局面でこのことを考えさせられた。たとえば、薬の飲み方にしてもうまくいかないときにはそれなりの工夫が必要だということ。自分なりにやってみてどういうふうにしたらいいか考えるということが、いかに道を開いていくかにつながるというのである。先生曰く、「私は医師で患者ではない。実際のところどういう症状がどういう感じであらわれるかは想像するしかない。究極のところはわからないといっていい。自分のことを自分で理解する頭をもってほしい。賢い患者は自分の先生になれる。その手助けはしてあげるから。」というようなことだったかと記憶している。自分の管理を自分でしろといわれると、正直いってかなりきつい。M先生は私を甘やかしたりしない人で、ある意味とてもきびしかった。よくいうところのかわいそう、という同情などなさらない方であった。それでも1度だけ「かわいそう。」と口になさったことがあった。もうすぐ臨月のお腹を抱えてバランスの悪い体で病院へ診察にいったときであった。私は妊娠してから薬をすべてやめて出産に備えていた。手も足も動かず、車椅子で看護婦さんに連れてこられた私をみるやいなや、はじめて「かわいそうに。つらいだろうね。」と、ひとことぽつりとおっしゃった。妊娠したらどうするべきか、結婚前に相談したとき、「赤ちゃんが心配だったら、薬をやめて出産すればいい。」と簡単におっしゃったものの、実際に私がふらふらして歩くのも心もとない様子なので、たぶん予想以上のたいへんさに驚かれたのかもしれない。そしてパーキンソン患者の妊娠、出産事例があまりないという中で私の症例は、実際のところ初めて目にするもので何もかもが初めてづくしのようなものだった。あまりにも大変だったので、これからは先生も薬をやめてなどと、アドバイスはなさらないかもしれない。それに耐えるだけのタフな根性がなければできないと今もって私も思う。私がやりとおせたのも知らなかったからであって、前もって知らされていたらこんな冒険、とってもできるものじゃない。M先生は男であって子どもを生んだ経験がない。後で思うと、これが出産経験のある女医であったら、もう少し違った助言であったかもしれないなどと感想をもったりしたが、何しろ症例のない中での模索であったのだから、しかたがなかったというのが現実である。

 ものを書くようにすすめてくれたのは、実はM先生が最初である。どこでどう見当をつけられたのか、私に文章を書くようにおっしゃったのであった。私のどこにその片鱗を見つけられたのか、いまだにわからない。それまで書くということなど頭の片隅にもおいていなかった私にいきなり書くことをすすめるだなんて、なんて突拍子もないことをと思って、からかっていらっしゃるのにちがいない、とそうふんでいたけれど、これがどっこい大真面目にそういってらしたことがわかった。そして、M先生のねらいどおりに私はエッセーを書くようになった。きっかけは毎日新聞の読者のページに「虹の向こうに」の小品が掲載されたことであった。続いて「ダブルの虹」というのも載った。書くということがおもしろいと感じるようになり、私は次第に書けるようになっていった。M先生と出会ってなかったら、今私はおそらくものを書いてはいないだろう。M先生は隠れた才を発掘なさる目利きでもある。いたずらっぽい語り口で「馬鹿では困ります。」とマジにおっしゃる独特のユーモアは、私の感覚と妙にあってしまい、いつも笑いとジョークの応酬で会話が弾んだ。病棟の婦長さんが「あなたとM教授はいいコンビよ。はたでみててもおもしろいわ。丁丁発止、どちらもゆずらずってとこかしら。」とおっしゃったのが印象深く心に残る。笑いのセンスを共有することで、M先生とのなんともいえない関係が15年間続いたともいえる。先生の擦り切れた黒いかばんと「馬鹿では困ります」が、妙に私の心にあたたかいものを呼び起こしてふっと笑みを浮かべてしまう。

はじめての出会いから15年、M先生は私にとっての名監督で、名匠、達人であり、めったにいない目利きであり、「めったにいない名医」であった。


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