2004.03.01更新

判断力               by ハナミズキ

 

駅の停車待ち。車窓から、隣の電車を何気なく見ていると、その電車が動いた瞬間、自分の方が、発車したと勘違いすることがある。また、こんな事もある。朝、あいさつをして、その人から 返事がないと、昨日、何か気にさわる事を言ったのかなと心配になる。

人は、其々の生き方の中で、自分の中に常識を身につける。親から学ぶもの、教師や友達から知ること。メディアも最大の情報源である。「常識」を辞書で調べると「健全な社会人なら持っているはずの ごく普通の知識、判断力」とある。でも、どの程度の知識が普通であるか、追求することすら邪道で、もともと常識は、人により微妙に違う事は言うまでも無い。ただ、社会通念から逸脱し秩序を乱す場合、制裁を受ける事は、子供の成長段階で覚えていかなくてはいけない。

判断力については、かなり個人差があるように思う。環境、経験、体験、その他にも個々のおかれた状況により、基準が違ってくる。ある意味、判断力こそが、その人の力量といえよう。

 平凡な、毎日のなかでも、常に判断が要求される。基本は、イエスかノーのどちらか。でも、人は、コンピューターであるまいし、二進法で生きるのは、所詮無理である。判断の出来ない事、あいまいな事、途中で変わる事、それらが、悪とは決して思わない。第一、必ずと言っていいほど、判断する内容には 矛盾がつきものだから。

 錯覚と言うのも、判断の中で大きな要素だと思う。最初に言った、電車やあいさつの例を挙げても、目で見たもの、心で感じた事は、事実とは全く違う場合がある。正しい判断は、正しい認識の中から生まれる。自然体のなかで五感を養い、鋭い洞察力をもって判断しないと、思いと反対方向に進む事もあり得る。

うまく言えないし、偉そうにも言えないけれど、判断力のある人に共通することは、どんな場面においても、信じる心を損なわず、自分自身を見失なわず、地に足が着いていると言う事である。人は、誰でもそんな人間に憧れ、自分もそう成りたいと願う。それは、年齢に関係なく、日常の心掛け、前向きな生き方、そして深い情から生まれるものであろう。私は、宗教家ではないが、方向音痴で、人生という列車の乗り換えで、かなり混乱した未熟者だから、そう思うのである。

 ストレス社会と言われる現代、そのストレスが、誰にどのように圧し掛かろうと、どんな環境に置かれようと、自分が、飛び乗った電車が、どちらへ進むかをまずは確認し、しばらくは、景色を眺めているのがいいだろう。そうすれば、錯覚も妄想も消え、自然な判断ができる時がくるはずだ。「あきらめないで」じっくり車窓に映る風景を観察すれば、きっと、降りるべき駅が、見つかると信じている。

 

2004.03.01up

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