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2003〜04年にinformationのイラストに挿し挟んだ写真です。
1月の最上の名所
角沢八幡神社の杉
市街から南に位置する村落は扇端部の肥沃な地に歴史を重ねたおも深いたたずまいを見せています。その栄枯盛衰を見てきたでしょう大杉が村の南端の八幡様の境内に立っていました。 (市指定天然記念物角沢八幡のスギ 昭和五十四年十月二十四日指定 角沢八幡神社は明治戊辰戦争の激戦地として知られています。庄内軍はこの角沢口から新庄城下に突入して新庄城を落とした。また神社の南方には角沢盾があり清水氏の家臣である角沢伊勢という人がこの地を支配していたといわれています。この神社にある杉は、目道り六メートル四十センチメートルもあり、この地方では県指定天然記念石動神社の親杉に次ぐ巨木です。)平成十二年十二月新庄市教育委会
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2月の最上の名所
祈祷塚の一本杉
最上郡南部に位置する船形町富田の村落の最上川畔の肥沃な田園に、古い巨木がやや東に傾いて病んでいる姿が、新しく開設した養護施設と何となくうまく対比してしまう印象が気になり足を止めました。どちらも今を象徴した売れっ子なのです。この地最上の巨木と、ようやく入所できた老母を見てくれるぴかぴかの施設はどちらも生の終焉が今を巧みに生きる術なのかと。 (町指定文化財 史跡 祈祷塚 この地は、小国川と最上川の氾濫によって堆積された肥沃な土地である。その昔伝えによれば村人たちは、度重なる最上川の洪水に悩まされ続け、富田村羽黒山修験不動院に話をした。不動院は葉山から一本の杉苗を持ってきて、ここに壇を築きその杉を植え、これより東方の水田に洪水の被害が及ばないよう祈願したものという。以来祈祷塚の一本杉といわれてきた。)昭和五十年町記念物に指定撰文 溝口 仁 舟形町教育委員会
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3月の最上の名所
中山稲荷神社
新庄市外の北部の田園地帯にこんもり茂る杉林に佇む社が有ります。日頃仕事でお世話になっている人々の用事にその傍らを何度と行き来してきたのでしょうか。あくせくしていると目にも止められなかったのですが、巨木に心を奪われるこの頃、思いついて訪れてみました。この稲荷様は、社の巨木の杉枝にこぶが出来るので、その枝で撫でるとこぶを取ってくれると言われて『いぼ神様』と慕われているのでした。子供の頃願を掛けに来たのを思い出し、改めて参拝しました。百本程もあるのでしょうか三十mをこす巨木の中に、社の陰に見える目通り五m半位の杉が一際目を引きました。
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4月の最上の名所
あじさいの杜
市街の東の山沿いに東山公園が有ります。市民の憩いとスポーツの場です。ただ、山の傾斜を利用するだけのスキー場があったのでした。その西斜面が急なので子供の頃ボーゲンのテクニックを知らなかったので滑り降りるのが恐怖でした。
その山は三吉山と言われていてそのスロープをガタガタ三吉山と呼んでいました。裏に神社があり長く緩やかなので私には手ごろなスロープでした。久し振りにその神社を目指すと、周りにはスポーツ施設が立ち並び、以前の山裾は自然の傾斜を利用した「あじさいの杜」と言う庭園に様変わりしていました。山の瀬を石組みしたせせらぎにしてさらさら音を立てて流れ、下流には池を配し、自生の赤松の風情をそのまま取り入れ、あじさいのいろいろな種類を楽しめる庭園です。山頂の古峰神社の参道には三十三の観音像を奉りミニお遍路できます。マイナスイオンとアルファー波を手軽に取り入られるスポットになるのかもと
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5月の最上の名所
殉難の碑
最上川が出羽丘陵を縫うよう曲がりくねりながら最上峡を最後の淀みを渦巻くと、もう直ぐ広い庄内平野です。その九十九折の曲がり道の山裾を穿つようにたたずむ碑があります。走る緊張の極限の所なのでなかなか立ち止まるゆとりがありませんでした。おりしも命日の花が未だきれいに手向けられていて、殉難の教師の霊に心より安らかなれと手を合わせました。 戸澤村立古口小学校柏沢分校教諭伊藤歓弘・小関道芳両君の霊ここに眠る。両教諭は昭和四十五年四月二十四日、運動会練習のため児童八名を白糸分校に引率しての帰途、渡し舟転覆す投げ出された子らに手をつながせ円陣を組ませるなど適切な指示を与えて全員救助されるのを見極め自分は力尽き増水した最上川に没し去った。ここに前途有望の青年教師の殉職をいたみ、その道徳的行いと慰霊のため、そして悲劇を繰り返さない誓いをこめてここに碑を建立する。 昭和四十六年四月二十八日
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6月の最上の名所
奥羽金沢温泉
各自治体にひとつの温泉が無いと文化から置いてきぼりに合う
と言う全体主義的風潮の中で、何年か掛りかで掘り当てた温泉です。今朝の新聞には十和田湖も温泉を湖底より深いところから堀り当てたようです。科学の力がみんな同じ環境を得ることのできる時代になりました。もう少し視点を変えると本当に豊かな暮らしの出来る世界が目の前に来ているのではないでしようか。そんなことを言いながら玉川の妙味には負けてしまうのですが。
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7月の最上の名所
神室温泉
最上の緑の際立つところ神室連山の山懐にある、いわゆる地域おこしの流れの温泉なのでしょう。登山、トレッキング、キャンプ、スキー、フィッシング、テニス、モトクロスと四季を通して長期滞在して自然を提供出きるリゾートを目指しているのでしょう。すばらしい環境を整えているのですが対応できる生活基盤をおし上げられない現今では、まだまだ秘境の域なのかもしれません。ほんとうに緑が美しい。
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8月の最上の名所
大谷の簗場 >
最上川の支流小国川は県北の奥羽山脈の原生林より滴る水を集めて西にゆったり流れる清流を誇る川です。山の深さが水量を安定させているのでしょうか、また中流域の川底の石の大きさが鮎の食む水藻の豊富さを生み出しているのでしょう。七月の鮎の解禁から落ち鮎まで太公望でにぎあいます。国道四十七号の道端に鮎の簗場が設けられていて、道行く旅の人に香ばしい鮎を振舞っています。水無し川か暴れ川の多い最上川の支流の中で、この小国の地を訪れると鮎のすむ清流への想いが、しみじみ滲みる風情なのです。
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9月の最上の名所
夏山塚公園
芭蕉が渡船した本合海の最上川上流の東河岸(清水城址の対岸)の峠道に品の良い塚がたたずんでいました。
鳥打場古戦場と夏山塚
この高台一帯は、古くには「鳥打場」といわれ城主の「御狩場」であったといわれている。
清水氏は、山形最上氏の一族で、その起こりは文明八年(1487)最上氏の北進政策により、山形城下成沢舘の「孫次郎満久公」を清水の地に分封した。
満久公の入部は最上氏の北境の拠点としての狙いと他に最上川船運を統制する目的があったといわれる。そのころの当地方は米沢に伊達氏、庄内に武藤氏、秋田仙北に小野寺氏がひしめき、いずれも勢力の拡大を競い合っていた。
庄内の武藤氏もまた機を見て最上領を伺っていたのである。永禄六年(1563)武藤氏が庄内三郎を征服すると勢いに乗じて最上の鮭延領に侵攻し鮭延勢を攻略、幼少の秀綱公は捕らえられて庄内へ連れ去られたという。
岩花にあった館もこれを機に真室川城に移したと言う。
当時清水城主は五代孫次郎義高公の時代だが、義高公は若年ながら智勇兼備の武将としてその名は知られていた。永禄八年六月武藤勢は再び大軍を率いて兵を清水領に進めてきた。
義高公は最上勢の首領としてこれを鳥打場に迎え撃ち、自ら陣頭に立って勇戦奮闘し一族よくこれを退け、清水城は事なきを得たが、義高公は敵の流れ矢に当たり戦死する結果になってしまった。
その後も清水城は武藤勢に再三攻め入られたが、最上義光公の時代になると逆襲に転じて庄内、秋田仙北に攻め入り関が原合戦以後は庄内、仙北も最上領になるのである。
義高公は法名を「涼清院殿夏山存公大禅定門」といい、夏山塚は宝暦十三年(1763)義高公の二百回忌供養の折、村人が公を偲んで過っての古戦場の戦地の地に建立したもので公の法名に由来する。
その後名のある侍が塚の前を通るときにその高い法名に驚き、あわてて傘を取り土下座をして通ったところから、この峠を「傘取り峠」と呼ぶようになった。
また、義高公の母君は会林寺殿と申し、現新庄市太田にある会林寺の開基にして、会林寺は天文年間元比良古城跡の東にありて清水家よりは田領二千五百刈を与えられていたが、落城後の寛永七年(1630)に太田に移転したものである。
平成八年十一月
大蔵村教育委員会
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10月の最上の名所
新庄藩主戸沢家墓所
国指定史跡 (昭和62年5月12日指定)
新庄市街の西の小高い丘の杉林の中に戸沢藩主の御霊屋を祀った桂嶽寺があります。用事はあってもわざわざ墓所を訪れる事が出来ませんでした。石の階段の参道は秋時雨に苔むして、足をとられます。三百年のたたずまいは杉の林に埋もれてしまい、今私達に何を語るのでしょうか。かの名君のように
江戸時代、最上郡一円を治めた新庄藩主戸沢家(十一代)の墓所は、当地では"御霊屋"と呼ばれ、この桂嶽寺に一棟と、市内太田の瑞雲院に六棟あり、ここの一棟は、二代藩主正誠公の御廟所です。
歴代の藩主の中で、正誠公の治世年数は六十余年と最も長く、その間、鳥越八幡神社(重文)、の拝殿や城内の天満神社などを造営するなど、社寺の再建建築事業や新庄城の修復など数多くの事業を行いました。
菩提寺であるこの桂嶽寺も、万年寺と称して太田にあったものを、幼くしてなくなった愛児政武を弔うために、城から見えるこの西山に移し、政武の法名桂嶽寺殿にちなみ、貞享三年(1686)に造営したものです。
近年、正誠公の棺中より、政武の描いた一枚の絵が見つかりました。政武死後、正誠公自身が八十三歳でなくなるまで三十四年間、その絵を手許に持ち続けたことは、いかに政武を愛していたかを窺わせ、自らの廟屋を、政武の墓の近いこの山上に建てさせたこともまたうなずけます。
このほか、この寺には弁財天を祀った御堂や、世界的に有名な和算の大家安島直円の墓、また近くの西中寺跡には、元総理大臣の小磯国昭の墓があります。
昭和六十三年三月吉日
文部省・新庄市教育委員会・新庄おたまや保存会
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11月の最上の名所
赤倉温泉
新庄より東に三十数キロに位置する千年をこす古い温泉です。名所もほとんど紹介しつくしてしまいいい所が思いうかばなくなりました。明るいうちに近くの新しい温泉保養センターでもと、夕暮れ時に思い立ち、とうとう四十分も走ってしまい、陽も落ちてしまい、温泉客も一風呂浴びて旅の汚れを落として夕食時かと思われる頃合いにたどり着きました。やはり残った大物名所に惹かれてしまいました。しょうがないのでうすあかりの温泉街にカメラを向けてしまい、構図もそこそこにきびすを返しました。走りながらの構想は若い時お世話になった裏山のスキー場よりの温泉の全景のはずでしたが。このところちぐはぐ TOP
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12月の最上の名所
戸沢村いきいきランド−ぽんぽ館
最上郡には背斜地形が多いので、石油油田の試削したところから、温泉・鉱泉が何ヶ所かで噴出しました。そのひとつの掘削跡ではと記憶していました。思いつきで調べましたがその記述を見つけることが出来ませんでした。一自治体に一温泉の時代になり、その鉱泉を利用したのかあるいは掘削しなおしたのか分かりませんが、家族で楽しめる大保養ランドになりました。その地域の癒になるのでしょう。
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1月の最上の名所
山の神神社のぶな林
市指定天然記念物
昭和五十二年四月一日指定
新庄駅より東一kほどに関屋集落があり、そこに鎮守様の山の神神社があります。開けた田園にこんもりとした林が有り、東山に遊びに行き来する子供達のオアシスになっていました。村の共有地と言う事が思わぬ自然の名残を見せてくれているのでしょう。
全国的植生区分で新庄は、冷温帯林の落葉広葉樹林帯に含まれますが、その特徴はブナ、コナラ、ミズナラなどが主な植生を成しているといわれます。太古の昔は、これらの樹木が現在の平野部までをおおっており、その間に天然杉がそびえていました。こうした原始の林相は、後世の開拓によって、まず平野部で消えうせ、やがて山地、原野への杉の植林などで姿を変えられ、今日の姿になったといわれます。ここの山の神の神社の境内には、新庄盆地が開拓される以前の、ブナを中心とする原生林の一部が残っており、非常に貴重なものです。 新庄市教育委員会
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2月の最上の名所
御堀の御清水
戸澤藩沼田城址の本丸を囲む一の堀の北側に、清水が湧き出る泉があります。町のあちこちに掘り井戸があり、その地域のわずかの広場の中ほどに井戸があるので、いわゆる井戸端会議といわれる当時の主婦のコミュニケーションの場になっていたのでした。その井戸は今は跡形も無く、遊び疲れた子供たちののどを潤す風情も失われ、
広場に集う子供の喧騒も今は昔と、ふとこの御清水に思いをはせてしまいました。昼下がりの雲の垣間から久しぶりの寒中の日差しに誘われて、カメラを取ってきたら、気まぐれな新庄の冬は、待ってはくれませんでした。吹雪に煙るいつもの新庄なのでした。
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3月の最上の名所
市民スキー場
市街の東山沿いに奥羽山脈の北西斜面を利用した市民スキー場が開設しています。戦前からの伝統として、ノルディックスタイルが盛んで、アルペンには技術もスキーの仕様も立ち遅れていた地域になるようでした。最上町の瀬見赤倉の温泉地域に早くからアルペンスキー場があり、よくナイターのスキー場に通いました。吹雪になると雪のコンデションが良くなるので冬に対する気持ちの萎縮が少なくなるようです。その時の雪に接した感触が車の運転に生きているようにように感じます。
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4月の最上の名所
愛宕神社
市街の西山沿いに田園に面した下西山集落があります。子供時代の行動範囲の最南端の地域でした。子供の時の記憶をたどって訪れてみると、今は昔、小高い丘を細い赤土の道を上り詰めると小さな社があり、その裏手には大きな沼がひそかに漣の光を反射させている思い出なのでした。それが周りをえぐられて赤土の上に社だけがぽつんと置かれている変わりようです。市のガイドを頼りに赤い鳥居を探しました。各家々の裏手にひとつずつ氏神様の社を祭っているのです。赤い鳥居の社を見つけたので写真に収めました。 新庄 ふるさとめぐりより 国道458号を鮭川方面へ進み、下西山地区入り口より上西山方面へと北へ少し進むと、左側に小さな赤い鳥居が見えてきて、その小高いところにスギの木が林立しているのが見えてきます。これらのスギは、いづれも幹周りが3〜4mほどあり、その昔、清海という修験者が京都から分祀して祭った愛宕神社への回廊を形づくっています。
神社のご神体は馬に乗った木像で、真夜中に白馬に乗り、白衣姿でおみ坂を上り下りするという言い伝えがあります。
藩政時代は武の神として新庄藩士から厚く信仰され、また地元の人からは火防の神としてあがめられています。
寛文11(1671)年、古老覚書に記されている西山の開発以前からあったと伝えられるこれらの杉の木は、下西山地区の歴史と変遷と発展を見守ってきています。
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5月の最上の名所
水芭蕉自生地
真室川町釜淵駅近くの県道を走っているとき、写真で見慣れたイメージが、なだらかな山裾の湿地になった道端に見えたのです。なんと尾瀬沼で有名な水芭蕉なのです。十数年前でしょうか、それから、その季節のころには、車を止めて眺めています。土地の人に見守られて群生して、今は立派な自生地になりました。
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6月の最上の温泉
舟形若鮎温泉
山形県は146ヶ所もの温泉がある温泉天国の県です。しかも各自治体に住民の保養施設の温泉を持っているのもこの県の特徴みたいです。この鮎の町舟形町にも遅ればせながら最後に温泉を持つことが出来たとのことで、みんな横並びの生活パターンを望む今日この頃のステータスなのでしょう。きれいな清流とおいしい鮎の故郷と八頭身の美女の埴輪を生んだロマンの町にも行政の画一的な網を掛けられて、貴重な故郷を失おうとしていましたが、住民投票の結果、また伝統をいつくしむ町としての存続を選びました。
写真をクリックすると拡大できます。国道筋に立てたい鮎のモニュメントと中央に八頭身の埴輪の複製をご覧ください。
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7月の最上の名所
あじさい園
紫陽花を新庄市の市の花としています。野生の紫陽花の額紫陽花は、近くの山裾などにもよく見られる花です。市の花に指定されてから市民の庭に植えられて、梅雨時の市民の目を楽しませてくれます。最上公園の裏手にある堀跡にあじさい園があり市民の散策の場所になっています。
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8月の最上の名所
西山の丘
新庄市の西郊外、桂嶽寺に並んで、新庄にちなんだ先人を偲んで作られた記念碑がたたずむ丘があります。右に、江戸中期の新庄藩士で関流和算中興の祖といわれる安島直円(あじまなおのぶ) の顕彰碑と、左に明治末に南アジア貿易の先駆的活躍した堤林数衛をたたえた胸像と、敗色の只中に栄誉の絶頂を極めながら人の道しるべを国民に示しえなかった今に似た運だけの宰相、父が新庄藩士でその赴任地宇都宮生まれの小磯国昭を偲んだ碑を中にして木立の木陰に埋もれています。
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9月の最上の名所
丸仏
新庄市の南郊外の県道筋に丸い形の石碑があります。1mも有る丸い形がなんとも不思議な印象でした。以前案内もなかったので誰から聞くこともなく不思議だけが残りました。正確に認知したのはごく最近のネットの情報ででした。凶作の餓死、疫病死が恐怖の時代なのでしょう。それを乗り越えた先祖の叡智が、今我々にも必要なのかもしれません。 角沢街道の丸仏(餓死聖霊位) (昭和三十八年八月二十六日指定) 江戸時代、冷害による大凶作が度重なり新庄城下でも飢えや疫病で多くの人々が無くなりました。この丸仏は、宝暦五年(一七五五)と天命三年(一七八三)の大飢饉で亡くなった人々を供養するために、その六十一回忌と三十三回忌に当たって文化十三年(一八一六)に建てられたものです。正面には梵字で「光明真言」、裏には「南無遍照金剛」、左右には建立の趣旨が刻まれています。 また、後ろにある「餓死聖霊位」の碑は、明和七年(一七七〇)当時の松本村の人々によって建てられたものです。 新庄市教育委員会 (平成十二年三月三十一日設置)
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10月の最上の名所
塩野原 一等三角点 基線西端
生活の基盤はいくつか考えられます。まず人との関係の基盤です。次には、土地との係わり合いです。そして空的関係の基です。人の地的身分の存在を位置づける基本が身近なところにありました。以前知人から紹介されて気になっていました。それは地図を作る時の測量基点としてです。その基線東端が新庄盆地の神室山系の扇端に置かれていました。そこは農道として利用されているようです。そこからだらだら下がりに盆地の西端のほうまで白い道が伸びているのが分かります。車で道のきれるまで走ることにしました。日ごろ通る道をなで切りしながら走りました。生活とは接しない道が5.2kmも続いている不思議を感じながら、最後に未舗装の農道に成り、見慣れた道に行き着きました。走りながら測地基線の意義とその維持管理を認識しました。情報の共有化が進み、直ぐに欲しい情報を得られる時代になりました。これからはすべてにおいていい生活を得ることが出来そうに思えます。
写真をクリックすると拡大できます。 神室山系火打岳(1238m)に向かって5129.5872m東に一等三角点 基線東端を望む
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11月の最上の名所
猿羽根楯跡と親杉
舟形町の西に富田の集落があります。新庄から山形に通ずる県道三
十六号線を利用して通院する道すがらです。そこに猿羽根楯跡の標識がきになるのでした。今日廃棄物処理場より最上川べりを下って訪れてみることにしました。やはりここも、最上氏の覇権に屈した歴史から名の消えた栄華の名残なのでした。 延文五年(1360に、八幡太郎義家将軍の末孫、源次郎義元の次男、源次郎義高という人が奥州よりこの地に来て、小国川と最上川の合流する轟(トドロキ)というところに楯を築いた。 その後、貞治元年(1362)に沢口山のこの地に、轟より楯を移した。 この土地の名前を取って、猿羽根播磨守源次郎義高と称し、以後、猿羽根家の居城になり、天承十七年(1589)までの二二七年間、七代にわたり、六七〇貫(六七〇〇石)を領していた。 九代目義舜(ヨシズミ)公の時、山形城主最上義光に従わずせめられ、城主は天正十七年六月十七日東根市長瀞において切腹した。これによって猿羽根家は断絶し、以後山形の配下となった。 猿羽根村[文化七年(1824)富田村と改称]は、街路が五番目のように区画されており、城下集落として開けた村である。楯跡は、平成七年町史跡指定された。又本丸に楯主御手植えと伝えられている町指定の親杉がある。 平成十年十一月 町立富長小学校
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12月の最上の名所
金山杉
奥羽山脈神室山の麓にピラミッドを思わせる三角の山があちこちに見られる不思議な光景の盆地があります。その山すそをを覆う北山杉に見紛う如くの杉の美林が見られます。昨年の天皇の植林を期によりいっそう手入れされた杉林は、杉建材で統一した民家とともに今の時代をさかのぼった錯覚を起こさせる癒しの安堵感さえ感じさせる景観を楽しませてくれます。
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