我々はなぜクリシュナムルティに数歩も近づけないのか?



仏教の本を読んでいて、「唯識」というものがあることがわかった。 そしてこの「唯識」という概念によって一つのことに気がついた。 以前からクリシュナムルティを含める覚者の話す内容に私を含めて、多くの人々が賛同し、傾倒しながら結局のところ、現実にはほとんど数歩も近づくこともできないのはなぜだろうか?という疑問をもっていた。

感化された多くの人々は、覚った気分になるだけで、自我を丸々と太らせていくのが、手にとるようにわかるのである。  絵を描く人もそういうところがある。 芸術家というものに憧れて、道具をそろえてみたり、誰か名のある人に習いに行ったり、芸術家なるイメージによって服装を変えてみたり、芸術という雰囲気を楽しんでいる。 しかしそこから創り出されるものはほとんど鑑賞に堪えられないものだ。 クリシュナムルティを信奉する人や禅をしたり、ヨーガをしたりする人々も同じようなところがあり、覚りという雰囲気を楽しんでいるところがある。 クリシュナムルティ自身、そのことを幾たびも我々に注意しているのだが、結局そうなってしまう。 なぜなのだろう?

それは、煩悩を起こす源は、我々が自由にコントロールできるものではなく、深層心理、さらにそのもっと奥深くにあるからだ。 どんなに自分がわかったつもりになっても、街でヤクザにからまれている人を見たら、そこから直ちに離れようとする衝動が生まれるだろう。 またこういうこともある。 以前、運転していると、ある黒塗りの車が突然発車して、私の車の後部にぶつかってきた。 ドアを開けて出てきたのは立派な中年男性で、私に名刺を差し出しながら完全に不注意でしたと、ペコペコ謝っている。 名刺には○○設計会社の社長という肩書きが刷ってある。 しかしこの人は自分の保険屋を呼んだところで、態度を一変させた。 もうそこからはよくテレビでやっている、「弁護士にこの件は任せてありますから。」と言ってだんまりを決め込む有名人のようになってしまった。

私は車をぶつけられたことよりも、この人の精神性にひどく腹が立った。 人間というのはこんなものなのかと心底がっかりしてしまったのである。 しかし今なら、それも理解できるように思われる。 なぜなら、その社長さんの態度の変化は、その社長さんの心の奥底にどっかりと腰を下ろしている自己防衛機能がそうさせているに過ぎないのだからである。

唯識は心を「眼、耳、鼻、舌、身」の五感と「意識」の六識、そしてマナ識、アーラヤ識を加えた八識で構成されると考える。 
多少無理があると思われるのだが、マナ識はフロイドやユングに言わせれば個人的無意識に対応し、アーラヤ識はユングでは集合的無意識、ウィルバーでは、超個人的帯域として理解できるという。 

街で自分に危険が及びそうな状況を察知したら、我々は考える前に、衝動的にその場から一刻も早く立ち去ろうとする。
まさに衝動とは我々がコントロールしにくいものである。 本能とでも言ってよいかもしれない。 火に触ったら手を瞬間的にひっこめるようなものだ。 (これをアーラヤ識と解釈してもよいだろう。)

これに対し、社長さんの例はどうなるだろう。 これは逆に車をぶつけた直後は、素直に「ああ、まずいことをしてしまった。」という気持ちであり、「ごめんなさい」という言葉に直結した。 ところが時間が経って冷静に考えてみると、ここでペコペコ謝っては、自分に不利になると判断した。 この思考過程は主にマナ意識、(個人的無意識)から起こるものである。 

結局のところ、我々はこのアーラヤ識とマナ識にがんじがらめに支配されている。 それはあまりにも根深く、そして社会全体を支配している。 そうであるから、我々はクリシュナムルティに心酔するが、実行はできないのである。

しかしすべての人間がそうなのかというと、時々とんでもない人が現れる。 1941年、アウシュビッツの強制収容所でマキシミリアノ・マリア・コルベという神父が殺された。 (この神父は、日本にも来たことがある。 以前ゼノ修道士という人が、教皇来日の際、話題になったが、彼はこのコルベ神父といっしょに1930年に日本に来た。)
                 
この神父は、脱走した人の見せしめのためにその小屋の10人の人を餓死刑にされることになったとき、選ばれた一人、ガヨビニチェフという人の身代わりに自分から進み出たのである。  真っ暗な地下室で、他の9人と一緒にロザリオという祈りを唱え始めた。 そして彼は一人また一人と倒れていく中で、なんと2週間も祈りの中で、水も食べ物も光もなく生きとおし、最期に注射によって殺された。

この人は六識、マナ識、アーラヤ識を完全に通り越している。 これらの八識に支配されるどころか、こちらが支配している。
覚ったと自分で思い込み、精神的に高いところで鎮座ましましている人とはまるで違うだろう。

さらに我々はこういう人がいることを知るとき、たとえある人が厳しい修行によって本当に至高の覚りを得たとしても、それがいったい何になるのだろうと思ってしまう。 これを小乗というのだろう。

我々がクリシュナムルティに近づくことは、非常に困難なことだろう。 クリシュナムルティの説く教えは、我々の耳に素直に入ってくる。 これはまさに智恵(上智)であって、それゆえに、我々の心の中に美しい詩のように入ってくる。
しかしこれを実際に我々が行うことは難しい。 それは我々の無意識の段階から自我を保持し、分別し、大きくしようとする根強い動きがあるからである。
そうであるから、クリシュナムルティの言うことを理解できたからといって、それでもうよいというわけにはいかない。

「唯識」には「無想定」という言葉がある。 これは座禅をすることによって心の中にもう言葉もイメージも働いていない状態になることである。 私もこのような状態になることは少しはできるようになった。 しかしこれはそれほど難しいことではない。 それが「滅尽定」 つまりマナ識が滅びる状態になるには、まだ遠い遠い道のりがある。 

そこでもう一度コルベ神父やゼノ修道士に視点を移してみよう。 ここにはまた別の可能性が隠されているように思える。 自力、他力という分別が意味をなさなくなる1点がある。   


*「唯識」については → 「唯識三十頌」 ヴァスヴァンドゥ(世親)著