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第1章 イギリスにおける若者文化形成の特徴


 ポピュラー音楽としてのロックは、アメリカから始まった。その火を付けたのはエルビス・プレスリーである。その影響を受けたのはイギリスも日本も同じで、ロカビリー、ロックンロールブームが起こった。しかし、イギリスではプレスリー・フォロワーたちが同じような音楽、スタイルを真似るだけではなく、新しい独自のロックを生み出してビートルズやローリング・ストーンズといった更に大きな影響を及ぼすスターを生み出し、アメリカをはじめとする世界中に「ブリティッシュ・ロック」をはなったのが特徴的である。そのブリティッシュ・ロックはどのようにしてできあがったのだろうか。本章では、1950年代から見られるようになった若者集団が自己表現の手段として服装(新しいファッション)と共にロック音楽を用いたことに注目していく。

1,ブリティッシュ・ロックの土壌

 第二次世界大戦後のイギリスのポピュラー音楽はアメリカから入ってきたものが中心になっていた。それは、戦後処理のためにアメリカ軍がロンドンに駐留していたことが大きいと思われる。世界的に見ても1950年代に最もクリエイティブな動きを示したポピュラー・ミュージックは、アメリカのジャズだった。そして駐留していたアメリカ軍の兵士たちはジャズを日常的に聴いており、米軍向けのラジオ放送や夜のクラブなどを通じて街に大量に流れ出していた(大鷹、1993)。アメリカ国内でもスウィング・ジャズからモダン・ジャズの原点となるバップ、その影響を受けてアメリカ西海岸にウェスト・コースト・ジャズが誕生し、より実験的な要素を加えたクール・ジャズなどさまざまなジャズが生まれていたのである。ロンドンでは、中でもニューオリンズなどのジャズの原点とも言えるサウンドが人気を集め、トラディショナル・ジャズ・ブームが生まれた。
 ビートルズを生み出したリバプールではロンドンとは少々事情が異なる。リバプールは港町であり、1950年代までは大西洋横断汽船の定期航路があった。そこで町にはアメリカからの船乗りたちがもたらすレコードや、彼らのための娯楽施設などから最新のポピュラー・ミュージックが入ってくることになった。それが、リバプールがロンドンという都会から遠く離れた場所であるにもかかわらず、多くのアメリカのポピュラー音楽を取り入れることができた理由である。
 アメリカからのポピュラー音楽はジューク・ボックス(注1)や映画を通じても知られるようになった。それらはジャズよりも軽快でノリの良いロックンロールという音楽が主流であった。1955年の映画「暴力教室」の主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がおそらくイギリスの少年たちにとって初めてのロックンロール体験だったであろう。「まずプレスリーががんときた。いや実際は、『暴力教室』の音楽、<ロック・アラウンド・ザ・クロック>が最初だった。映画じゃなくて、ただ音楽の方がね。あの頃はみんな、“ねえ、あの音楽をきいたかい”と言い合ったものだ」と、ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは語る(ドルトン、1973,p16)。ジェリー・リー・ルイス、リトル・リチャードといったロックンロール・ミュージシャンの曲が人気を得ていったが、そういった音楽を自前で演奏するイギリス人ミュージシャンが出てくるのは、これより1,2年後である。そのきっかけとなったのはスキッフルという音楽であった。
 スキッフルとはトラディショナル・ジャズ・ブームから生まれたイギリス独特の音楽である。もともとはアメリカ南部の黒人たちがギター、ハーモニカを中心に洗濯たらいを利用したベース、洗濯板、ジャグ(大きな瓶の口を拭いて独特な音を出すこと)などを使って演奏した‘ジャグ’という音楽をヒントにしたもので、これにフォークやブリティッシュ・トラッドの要素を混ぜ合わせ、ロックンロールやリズム・アンド・ブルース(注2)を演奏した音楽である。このスキッフルという音楽こそが60年代のイギリスにバンド・ブームを起こす火付け役となった。1956年にロニー・ドネガンというスキッフル・ミュージシャンが「ロック・アイランド・ライン」を、そしてまだ10代だったトミー・スティールが自作の「ロック・ウィズ・ザ・ケイヴマン」を発表し、爆発的な人気を獲得し、空前のスキッフル・ブームが起こったのである。

  「このスキッフル・バンドを結成するには、ミュージシャンとしてのテクニックや高い楽器代は必要なかった。安物のギター、使い古された洗濯板、シンバル、茶箱に長ほうきをを取り付けて弦を張ったもの(これがベースの代わりになった)があれば輝かしいスターの座に向かって、やかましい騒音をかき鳴らすことができた。」(マクアリア、1995,P14)

 スキッフルはそのもともとの音楽であるジャグと同じようにギターさえあれば他の楽器はいらなかったため、誰でもすぐにスキッフル・バンドを結成することができたのだ。彼らが簡単にグループを作ることができたのは、彼らの音楽がちゃんとした楽器を必要としないスキッフルだったからだとと、キース・リチャーズが通っていたシドカップ・アート・スクールの教師は言う(ホッチナー、1990)。こうしてイギリス中にスキッフル・バンドがあふれかえった。スキッフルの洗礼を受けたのはだいたい1940年代生まれの子どもたちである。50年以降に産まれた子どもたちの場合は、彼らがティーン・エイジャーになった頃にはもうビートルズが登場し、彼らのロック体験はビートルズから始まるからだ(注3)
 56年頃にイギリスに旋風を起こしたスキッフル・ブームは短期間で終わってしまったが、自分も楽器を手にとって「演奏する」こと、そしてミュージシャンというスターを夢見ることの入口になったのはまちがいなくスキッフルだったのであり、これこそがブリティッシュ・ロックの第一歩であった。
 こうして彼らはレコードを聞き、楽器を弾くという余暇の過ごし方を知った。それはロックスターという一種の「成功」にもつながるかも知れない夢への第一歩でもあった。誰でも簡単に演奏でき、単純なスリー・コードで感情表現することを可能にしたスキッフル・ブームこそが、ロックンロールの演奏を可能にし、ブリティッシュ・ロックを生む土壌になったのである。そこからビートルズが生まれて、マージー・ビート(注4)という新しいブームが起こったし、ロックンロールのルーツであるリズム・アンド・ブルースが注目されもしたのである。特に後者に関しては、ロンドンでは元スキッフル・ミュージシャンのアレクシス・コーナーの結成したリズム・アンド・ブルースバンドにマニアたちが集まるようになり、その中からローリング・ストーンズやクリームといった後の大物バンドが巣立っていくのである。このような新しいポピュラー音楽が次々と生まれていったことは、イギリスの若者文化に大きな影響をもたらした。それは、単に趣味としてロックを聴いたり演奏したりするだけでなく「誰がどういうロック音楽を聴くか」ということによって自らをアイデンティファイするようになった ことである。そして、その中からさらに様々な形の「ブリティッシュ・ロック」が競い合うように生まれていったのである。

2,記号としてのファッションと若者

a.服装による主張と時代背景
 スキッフル・ブーム以降に生み出されていったイギリス独自のロックはさまざまな種類に分かれていったことが特徴的である。アメリカから直輸入されたジャズ、ロックンロール、リズム・アンド・ブルースから始まり、そこからマージー・ビート、ハード・ロック、プレグレッシブ・ロック、グラム・ロック、パンク・ロックというように新しいロック音楽があらわれた。なぜ、イギリスではこのように次々とロック音楽が生み出されたのだろうか。しかも、それは1960年代から70年代にかけての20年間という短い間である。この20年間はイギリスの若者たちのとってどのような時代だったのだろうか。ここではロック音楽を作り出すミュージシャンではなく、ロックを聴き、バンドを支持していった聴き手の方に注目してみようと思う。
 ロック音楽の流行とほぼ同時にイギリスでは都市部を中心として、さまざまな不良少年のグループが出現した。彼らのほとんどが労働者階級出身であったが、見た目も行動も集団ごとにはっきりと違っていた。彼らが集団をあらわす記号として身に付けたのは服装と音楽であり、ロック・バンドやミュージシャンを支え、ブリティッシュ・ロックを育てた一つの要因は、ロック音楽を自分たちの集団のシンボルとした若者集団だと考えられる。では、なぜこの時代の若者たちは集団を作り、互いを区別する特徴を身に付けたのだろうか。
 1960年代のイギリスは慢性不況によって物価と失業率が上昇を続けた時代であったが、なぜか若者たちは自分たちの服装をあつらえ、レコードを買ってロックを聞くことができた。それは彼らが豊かであったと言うよりも、むしろも持てるものをすべて服装、音楽といったスタイルの表現につぎ込んだという印象が強い。若者たちが自己表現としての服装に全てをつぎ込むという現象は、実はこの50年代の彼らが最初ではない。その100年前の19世紀末にロンドンに現れた不良少年たちが、まさに同じように自分たちをあらわす手段として服装を用いたのだ。彼らは「フーリガン」と呼ばれた。もちろんそれ以前にも不良少年やそのグループはいたのだが、彼らは特別な名前を付けられた最初の不良少年集団であった。フーリガンたちは一様にマフラーを首の回りにねじって巻き、つば無し帽をまぶかにかぶり、ファスティアン織りの裾の広がったズボンをはいていた。さらに重そうな金属製のバックルの付いたベルト(武器としても兼用である)とがっちりしたブーツで身を固めていた(注5)。このスタイルは「フーリガンである」と人々に認知されるという、いわば記号として機能していた(井野瀬、1992) 。それまでの不良少年たちにフーリガンのように決まった、特徴のある服装をしていたものはいない。19世紀末の不良少年たちが新しい記号を身に付けて出現した背景には、当時のイギリス社会が農村型から都市型に移りゆく中で、若者たちが今までとは違う、新しいアイデンティティを身に付けなければならないという状況があった。親たちが経験したものとは違う社会で生きていくために、彼らは服装というものを自己表現の手段としたのである。服装による自己表現は見た目で判断されるためにわかりやすく、人にもうったえやすいからだ。またこの時代は、都市型消費社会の中で子どもでも簡単に現金を手に入れることのできる仕事が多くできた時代でもあった。それによって少年たちは服装をあつらえることができたのである。
 1950年代以降の若者たちは時代こそ違え、フーリガンと同じように新しく移り変わろうとしている社会にいて、新しいアイデンティティを必要としていた。それは、階級意識の変化によってイギリス社会が変わり始めていたからである。

b.イギリスの階級社会と若者
 イギリスは階級社会である。大きく分けて労働者階級とそれ以上の人たち――上流階級と中流階級――で構成されており、19世紀以降、その二つはそれぞれまったく違う文化を発達させてきた。リチャード・ホガートは1910年代から50年代にかけてのイギリス社会を労働者階級文化の視点に立って見て、「やつらとおれたち」という言葉で表している。労働者階級の人々は自分たちを「おれたち―us」、それ以外の人々を「やつら―them」と呼ぶ。ホガートは「おれたち」にとって「やつら」はと何なのか、次のように述べている。

  「『頭にいる連中』、『ずっと上の方にいるやつら』、つまり失業手当をくれ、呼びつけ、戦争に行けといい、罰金を取り、30年代には失業手当をもらえる家計調査基準に合格するために家族を分裂させた連中、『ともかくそこから逃げられない奴』『本気で信用できねえやつら』…『隙さえありゃあ、いつでも人をやっつける』『みんなグルになってやがる』…連中なのだ」(ホガート、1974,p64)

 そしておそらくほとんどの集団がその力の何ほどかを排他性から、集団の外には「おれたち」とは違う人間がいるという感覚から引き出しているに違いない、とホガートは言う。つまり、「やつら」とは自分たちと違うもの、「おれたち」という共同体に対するよそ者、行動や見た目の違う共同体の秩序を乱すものとしてとらえられているのだ。イギリス社会は階級という差異によってそれぞれの共同体の存在を認識し、自分たちがどこに属しているかということによってアイデンティティを確認する社会であるといえる。ところが1950年代が終わる頃からこの差異が崩れ始めた。ホガートによれば、大量生産による消費社会に突入したこの時代では簡単に労働者階級の人を見分けることはできなくなり、また彼ら自身も自分たちが下層階級であるとは、もはや考えないようになっていった。この「階級の壁の揺らぎ」は戦後生まれの若者たちに特に大きくあらわれた。彼らは充実した初等、中等教育を受けることができ、先に述べたような流行の音楽などによる共通の話題を持つことができた。その中では階級による断絶よりも、年齢による断絶がはっきり見られたのではないだろうか
 豊かな戦後社会に生まれた彼らの親の世代の多くは1930年代に子ども時代を過ごした。彼らこそ、やつら/おれたちの態度が一番強い、階級差をはっきりと意識した世代であった。30年代のイギリスは世界恐慌により経済、社会の混乱によって250万人を越す失業者を出す一方、職を失わなかった人々の実質賃金は上昇しており、この時期のイギリス社会は「二つの国民」の相をきわめて明瞭に示していたのである(村岡・木畑、1991)。こうして貧富の差、階級の差というものを痛感した親の世代は「おれたち」という共同体意識をとりわけ強く持った。しかし50年代以降の労働者階級の若者たちは、階級差の緩やかになりつつある社会に生きており、「おれたち」の意識を強く持つ親たちとの間で新しいジェネレーション・ギャップを感じだしていた。

  「1950年代の子どもは1930年代の親とは違う経験を持った。新しい余暇の機会があったからだ。十代は使える金をもち、それで新しいものを買った。そして隣人や階級的な関心を越えた大衆文化に参加した」
                           (フリス、1991,p219)

 1950年代以降の子どもたちは、このジェネレーション・ギャップを越えるために、19世紀末のフーリガンたちと同じように新しい服装によって自らを強く表現することが必要だったのである。50年代の終わり頃に出現したテディ・ボーイの新しい服装、新しいスタイルはその典型的な現れだったといえよう。彼らはエドワーディアン・スタイル(注6)の上着にアメリカ映画にでてくるストリング・タイや髪型を取り入れた奇抜な服装を作り出した。そして、同じくアメリカ映画から流れてきたロックンロールを好んで聞いていた。ポレマス(1995)は、テディ・ボーイが「自分たちより‘優れた階級’に従うことを拒む‘下層階級’」であり、その存在の特徴を、ストリートをテディ・ボーイスタイルで歩くという大胆な宣言に求めている。テディ・ボーイは50年代末の不良少年の象徴的存在であった。ビートルズのポール・マッカートニーもジョン・レノンもテディ・ボーイであり、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズもそうだった。

c.世代文化の中での差異化
 60年代に入った頃から彼らの次にモッズと呼ばれる若者集団がでてきた。彼らはイタリアン・スタイルのスーツを着、ヴェスパというスクーターを乗り回す‘おしゃれな’集団であった(注7)。彼らはロックンロールよりもそのルーツであるリズム・アンド・ブルースやジャマイカのスカといったあまりポピュラーでないものを掘り出して聞くことを良しとしていた。彼らがアイドルとしたのはストーンズ、それからザ・フーという「ワーキング・クラス・ヒーロー」と呼ばれたバンドだった。モッズの特徴は、テディ・ボーイの多くの特徴に対抗していた。ビートルズが一般向けの「良い子」になっていったのとは対照的に、ワルぶりを前面に押し出していたストーンズを支持し、ポップなロックンロールに対して本物の(アメリカ直輸入の)リズム・アンド・ブルースを好む。アメリカを真似たスタイルではなく上等なイタリアン・スーツといういでたちが彼らの主張を物語っていた。その後、このモッズたちは「古くさい」テディ・ボーイやロッカーズというオートバイを乗り回す別の若者集団としばしば激しい衝突をし、それが暴動にまで発展するようになる。それは同世代の中でも差異を生み出し、 確認しようとする、世代文化の差異化、分化のプロセスの中で最も激しいものであった。
 60年代半ばにはカーナビー・ストリートに若者向けのブティックが次々とオープンし(注8)スウィンギング・ロンドンと当時呼ばれた若者ファッション・ブームがおこる。そこではビビッド・カラーやプラスチックを使った服や小物が並んだ。やがてそういった色彩、デザインはサイケデリックスと呼ばれるようになる。サイケデリックスとはアメリカからはいってきたヒッピー(注9)のスタイル、そしてドラッグ・カルチャーに大きく影響を受けたものであり、そのファッションは幾何学模様や蛍光色、ユニセックスが特徴的であった。サイケデリックスの影響を大きく受けて、70年代にはいるとティー・レックスやデヴィッド・ボウイが中性的できらびやかな衣装と派手な化粧を施して登場し、「グラマラスなロック」という意味からグラム・ロックと名付けられた。それを真似したボウイなどのファンであった若者たちの集団はグラムと呼ばれた。その後、70年代後半にあらわれたパンクはグラムのきらびやかさも、モッズの気取った服装も否定した過激で汚いファッションであらわれ、セックス・ピストルズの出現によって世の中に知れ渡ることになったのである。
 このようにそれぞれの若者集団は別々に発生したと言うよりも、一つの集団ができるとそれに影響され、対抗する形で別の集団が次々と生まれていったと考えられる。彼らは互いとの差異化をはかることによって、相手にはない特徴を身に付けて自分は何かと言うことを確認したのだ。それは「親世代」という一つのものに対抗するだけではなく、若者内部での分裂をも引き起こすことになった。1950年代終わり頃には、ジェネレーション・ギャップは親と子の間だけでなく、年上の若者とより若い若者の間にも起こっていた。「これからのストリート史にも時々出てくる問題だが、後の‘ジェネレーション’は前の‘ジェネレーション’とは対照的にスタイルを、そして信念を定義していかざるをえないようだ」とポレマス(1995)は言う。そうした中で服装と同じようにロック音楽は彼らが身に付ける特徴の一つとなっていたのである。
 
  「1950年代初期にテディ・ボーイが街頭に現れて以来、アメリカとイギリスの若者文化の1番目立った違いは、イギリスの労働者階級の若者がスタイルで頭がいっぱいだということだ。テディ・ボーイのあとにモッズ、ロッカー、スキンヘッズ、…パンクがあらわれた。…イギリスの若者文化は差異の神話に即っている」(フリス、1991,p257)

 こうしてファッションと共に音楽を聴くこと、演奏することが新しい記号となり、若者集団の自己表現としてファッション、ロック音楽が競い合うように次々と生まれ、身に付けられていった。それが単なる流行り廃りではなく、違うスタイルが差異性を誘いあう形で同時に存在していことも特徴的であった
 このような背景の中で、ロック・バンドは分化しあう若者集団のシンボルとなり、若者文化における必須のメディアとなった。ビートルズなどの偉大なバンドが次々と登場し、イギリス独自のロック、「ブリティッシュ・ロック」が生まれるに至った事情には、以上のようなイギリス社会の変動を体現した若者文化の自律的形成の過程があったのである。

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