− 三丁目百科 −


2006/05/29 おかしいなあ 更新

 
あかちん (赤チン) 外用消毒薬 鈴木家へ、置き薬屋さんが足していった薬

赤チン(マーキュロクロム液)は皮膚・キズの殺菌・消毒用外用薬です。病院等で現在も使用されているヨードチンキ(ヨーチン)は塗った部分が茶色になりますが、マーキュロクロム液は赤くなるため「赤いヨードチンキ、略して赤チン」と呼ばれました。1919年に開発され、常備薬の一つとしてどの家の救急箱に入っていたものです。

しかし製造時に水銀が発生し、また当時水銀公害が問題となったため、日本では1973年頃に製造中止となりました。その後は「マキロン」などの、透明でつけていることがわからない消毒薬が普及しました。ただ意外ですが、現在でも中国製原料を輸入して販売されているそうです。もっともここ数十年見たことがないですが。

私も子供のころはよくお世話になりました。当時の子供は今よりも半ズボンをはいており、真冬でも「長ズボンをはくなんて女々しいやつだ」というプライドがありました。そのためか、ひざ小僧にあかーく赤チンを塗った子供を、よく見かけたものです。小学校の保健室で塗ってもらったのが懐かしいです。
 
 
ありふれっくす (ARRIFLEX) 映画撮影用カメラのブランド 本作品では、モデル535を使用


ARRIFLEX 535A
ARRIFLEXとは、独アーノルド・ウント・リヒター社(Arnold & Richter)製の映画用カメラブランド。第二次大戦中にドイツ軍の飛行機などに搭載された軍用カメラとして生まれたため、頑丈な作りと安定性で定評があるそうです。フィルム片側のパーフォレーションに単一ピンを使用し画面の安定を図っていること、一眼レフ式によりファインダーと実際映像とのパララックス(視差)がないのが特徴だそうです。

レンズは世界で高い評価を得ているカール・ツァイス製を採用、またモーションコントロールシステムMILOでこのカメラ535のフォーカスやズームなどをコンピューター制御できるそうです。

ハリウッドでは、米MGM社カメラ部門が1957年頃に分離独立したパナビジョン(Panavision)社のパナビジョン・カメラ・システム(レンタルのみ)が主流だそうです。高性能アナモフィック・レンズを使用したパナビジョンは、横長のシネマスコープ(1:2.4)で有名になりました(通常のビスタサイズのパナビジョンカメラはあるそうです)。しかしパナビジョンはシステム一式が自社製以外を選択することができず、またレンタル料金も非常に高いそうです。

そのためかARRIFLEXにも根強い人気があるそうで、日本ではARRIFLEXの方が使用されているようです。おそらく本作品ではモーションコントロールなどにも関連して、このARRIFLEXが選ばれているのではないでしょうか。
 
 
いんふぇるの (inferno) CG用の編集システム

 
エンドロールに「インフェルノエディター」という人がでてきます。このディスクリート・インフェルノ(Autodesk社(旧ディスクリート社) http://www.autodesk.co.jp/adsk/servlet/index?siteID=1169823&id=5854946)とはCGを作る際の編集システムだそうです。

他のシステムが長時間かかるような合成でも、インフェルノは特に処理速度に優れ、結果を見ながらやり直しをするということが可能となるそうです。また安定性、洗練されているなどの特徴もあり、業界標準となっているようです。ただしプログラムと米シリコングラフィックス製コンピューターの一式で5000万〜1億円(!)ほどし、またレンタル料も非常高いそうで、コスト削減のために格下のフレーム(Flame)というシステムを使用することもあるそうです。こちらのページでは、インフェルノを拾った人、お父さんにインフェルノを買ってもらった人(笑)、向けの解説があります。きっと白組では、当然お持ちなのでしょうね。
 
 
えきすとらのおばあさん (エキストラのおばあさん) 妙に何度も登場するおばあさん







エキストラとは、普通はストーリーの展開には関係なく、シーンの背景の一部となるいわゆるその他大勢の人たちのことです。エキストラ専門の紹介プロダクションも多数あります。さてネット上で書き込みがあったのですが、あるエキストラのおばあさんが妙に何度も映っているとのことで、私もチェックしてみました。
  1. 最初のカットで、子供等が模型飛行機のゴムを巻いているのを、微笑しながらその後ろを歩いている。薄い青か灰色のカーディガン、白いエプロン、黒いスカート、サンダル履き、茶の買い物籠を持っている。

  2. 茶川さんが郵便屋さんと一緒に文学賞受賞者を探している、その右後ろ側にいる。

  3. ヒロミさんが淳之介の様子を見に初めて茶川商店に来た時、あっけにとられて見ている人達の一人。道の左側から買い物籠を持って眺めている。

  4. 一平がランドセルを放り投げて「ただいまー、いってきまーす」と言って遊びにいこうとし、「ジャッキだ!」の怒鳴り声ではっとして立ち止まるその窓ガラスの向こう側にいる。

  5. 鈴木オートが茶川商店へ逃げる六ちゃんを追って道を横切る時、その後ろ(横丁奥側)から見ている人たちの一人。はっぴを着た大工さんの左側。

  6. 一平が履歴書をかざして二階の鈴木オートに叫んでいる時、右側にいる。

  7. 上の続きで、鈴木オートが正座して六ちゃんに謝る時、茶川商店店先から中を覗き込んでいる人達の中の一人。

  8. 鈴木家にテレビが来た日、通りにごった返した人達の中、白のブラウス姿で左下に子供と一緒にいる。

  9. テレビのプロレス中継で熱狂する、はっぴ姿の大工さんの左後ろ側にいる。

  10. 氷屋さんがシャツをパタパタしながら入ってくる、その後ろ側を歩いている。

  11. 六ちゃんが帰省する大晦日の朝、荒物屋・万亀堂商店の店先でいつも座っているおじいさんと立ち話をしている。

  12. 「おがぢゃん!」といって六ちゃんが飛び出し、一平やお母さんも店先のミゼットに乗り込むその後ろで、主婦と立ち話をしている。
もしかしたら、この人は中村由希江さん(御歳70才)という人かもしれません。それはエキストラで参加していた中村さんが、スタッフが東京タワーの資料を探しているという話を聞き、昔に撮影した建設中の東京タワーの写真を提供したため(エンドロールにも名前あり)、困っていたスタッフには大変参考になったという話があるからです..。この方は、志水恵美子さんという方(エンドロールにもあり)であることが判明しました。キャストページをご覧下さい。
 
 
オー・エス・ティー (O.S.T) その映画のオリジナル音楽
  この「ALWAYS 三丁目の夕日」は、映像もさることながら、佐藤直紀氏による映画音楽が大変効果的でした。この音楽の有無で、映画の印象が大きく変わってしまったと思います。

ロールバックで流れるD-51の主題歌「ALWAYS」も悪くありませんでした。なぜなら映画終了時にエンドロールが出るとぞろぞろと帰る人がでるのが普通ですが、「ALWAYS 三丁目の夕日」ではD-51の曲が流れるエンドロール中に立ち上がる人が「極めて」少なかった。これも記録だろうと思います。

しかし本家ホームページのバックでも流れているこの佐藤氏の曲は、人の心を打つ名曲だと思います。初めて見た時でさえ、模型飛行機が空高く舞い上がり一平君の「あっちだ」という声のバックの曲を聴いただけでウルウルしてしまいました。また指輪のシーン、最後に淳之介君と茶川さんが出会うシーン、美しい夕日のシーンなどはまさに佐藤氏の曲無くしては成り立ちません。日本アカデミー賞作曲賞受賞は当然であったでしょう。おめでとうございます。

そのためサウンドトラックのCDを買い擦り切れる(レーザーなら擦り切れない!)ほど聞いていますが、そのCDのタイトルが「ALWAYS 三丁目の夕日 o.s.t」となっています。この「o.s.t」とは何だろう、とずっと思っていました。今回、苦し紛れのネタ探しで調べたところ、なんてこたーない、オリジナルサウンドトラック(Original Sound Track)の略でした。(^_^;)
 
 
おかしいなあ (おかしいなあ

 
13回も見ますと、「なんとなくおかしいなあ」というところが見えてきます。そのほかネット上の話題やDVDの監督のコメントなども参考に、私が確認できたおかしいなあを集めてみました。なおこれは非難が目的でなく、あくまでも「ネタ」です。三丁目フリークなら、気がつかない振りをしながら優越感を楽しみましょう(笑)。

  1. 一平君が飛ばす模型飛行機シーンで、ゴムを巻くためプロペラを回している方向と、飛んでいる時のプロペラ回転方向が同じ。ゴムだから逆に回るはず。DVDにて監督自白(笑)2006/06/11 

  2. 一平君が飛ばす模型飛行機シーンで、高度が下がると電柱が突然消えて屋根になってしまう。(ウチの子供が見つけました)

  3. 蒸気機関車が渡る鉄橋の鉄骨部分(トラス)は1本(単線用)なのに、橋脚(川の中に立っている脚)は2本(複線)分ある(笑)。 ロケ地紹介参照。2006/05/29

  4. 六ちゃんの上京時の汽車の窓越しの道路で、車が右側通行になっているところがある。

  5. 六ちゃんの上京時の汽車に、寒冷地用のツララきりが付いている。(C62の項参照

  6. 六ちゃんは鈴木オート到着時に、ミゼットのフロントガラスに、スタジオ天井のライトを覆っているクロスが写っている。

  7. 六ちゃんは鈴木オート到着時に、ミゼットのドアを閉めていない(自然に閉まるのか?ウチの女房が見つけました)

  8. 鈴木オートの前を過ぎていった淳之介と劇場支配人が、「やまふじ」の向こう側からやってくる。(手前側から坂を登って来るはず)

  9. キンさんが六ちゃんにブレーキを修理してもらう時、時計は八時を指していたが、そんな時間に、蕎麦屋が出前にでるか?また医者が白衣を着て往診に行くか?

  10. 8月20日に「お盆は帰らなくてもいいのか」と未来形でたずねる(8月20日の項参照

  11. 夏休み中の登校日に、午後の登校はおかしい。確か涼しい朝に登校し、宿題進捗状況や近況報告し、1〜2時間でお開きで、当然給食は無し、だったと思いますが?

  12. フラフープが発売されたのは昭和33年10月18日(フラフープの日)。10月も下旬になろうかという時に、ランニングシャツ一丁で子供らが外で遊ぶのはおかしい。

  13. 一平と淳之介が高円寺へ遠征に行く時、乗車時には都電の前と横腹の番号が「6152」なのに、過ぎ去ってゆく後ろの番号は「6153」になっている。 行き先はそれぞれ、6152は飯田橋、6153は新宿駅でした。よって異なっていても正しいということになります。お詫びして訂正いたします。2006/06/11 

  14. 一平と淳之介が、車掌から「乗らないの?」と聞かれる都電は、ガラガラに席が空いているのに、立っている人(デジタルエキストラ)が多過ぎる。

  15. ヒロミさんが茶川商店から帰って来る時、「やまふじ」の向こう側からやってくる。(手前側から坂を登って来るはず)

  16. 表通りは見渡す限り一直線のはずが、茶川さんが淳之介の車を追いかける時には、道が曲がっている。(ロケ地の西大寺五福通りが曲がっているため)

  17. 寒い真冬の大晦日に、薄いセーター一枚で車の荷台に長時間は乗れない。

  18. 六ちゃんがもらった切符は二等なのに、乗ったのは三等車(昭和の女の子は慎み深かったかも)。
 
 
かしだし (かしだし) 撮影のため、レトロなものをかしてもらうこと

 
三重県伊賀市の「昭和ハウス」殿を筆頭に多くの美術協力スタッフの協力を得て撮影されました。スタッフページをご覧下さい。
 
 
こうえんじ (高円寺) 一平と淳之介が、淳之介の母を捜しに遠征する場所

 
高円寺とは、東京都杉並区高円寺地区のことと思われ、都心からやや西にある、現在でも少し奥にはいると静かな住宅地域のことでしょう。夕日町のモデルとなった愛宕2丁目、虎ノ門3丁目付近(都心南側)からは、直線距離で10キロ弱、都電の道のりで11キロ強といったところです。

少々離れていますので、高円寺が雨でも虎ノ門では降っていないということは十分あり得ます。小学4年生だけ行くには、無理ではないですが。勇気は必要かもしれません。当時は付近に、「馬橋二丁目」という都電停留所がありました。詳しくは馬橋二丁目(まばしにちょうめ)の項、参照。
 
 
さんがつじゅうしちにち (3月17日)鈴木家へ、六ちゃんがやってきた日 (たぶん)

六ちゃんが鈴木オートにやってきた夜、茶の間で鈴木オートとトモエさんが話し合うシーンがあります。その時のトモエさんの後ろの電話機横に、日めくりカレンダーがあり「17」となっています。

中学を卒業し就職に来るタイミングとしては4月17日は遅過ぎ、2月17日は早過ぎ、よっておそらく昭和33年3月17日月曜日であろうということになります。きりのいい月曜日ですから、おそらくスタッフは曜日を調べカレンダーを作ったのでしょう。ただし、日付ではちょっとおかしい場面もあります(8月20日の項、参照)。

またもう少し遅くして、日本人の好きな桜の花にあわせたらどうだったでしょうか。しかし六ちゃんは15歳にして一人で親元を離れ、静かな田舎から右も左もわからない大都会へ初めて出て、そのためミゼットから東京タワーを見上げる顔が非常に不安げなわけです。なので明るく晴れやかな桜はやめておこう、という判断だったのかもしれません。
 
 
しーろくじゅうに (C62 蒸気機関車) 六ちゃんが上京の際、乗って来た列車の機関車


つばめマークが消されている


尾久機関区の「尾」と
「川崎車両」のプレート



つばめマークがある
梅小路の実際のC62 2



梅小路の「梅」と
「日立」のプレート



ツララ切り
映画に出たのはC62 2という2番目に製作された現在も梅小路で動態保存されているものですが、スクリーン上ではC62 22(22号機)に変わっています。

米占領下の日本では、機関車を新規製造することは制限されていました。しかし戦後大幅に増えた旅客に対応するため、余剰となった貨物用機関車D52を改造し昭和23年(1948)から日立製作所・川崎車輛(現・川崎重工業)・汽車製造各社で、計49両製造されました。

日本最大最強の蒸気機関車で、「つばめ」「はと」などの旅客特急列車・急行列車用機関車です。全長は炭水車を含めて21.48m、重量は145.2t、最大出力1620馬力(貨物用D52の1660馬力に次ぎ2番目)、最高速度は時速100km、高速走行のための限界ぎりぎりまで大型化したボイラー採用により自動給炭装置を備え、シロクニの愛称で親しまれました。昭和20〜30年代の戦後復興の日本各地の幹線の特急や急行を牽引した有名な蒸気機関車で、時代と共に活躍の場所が東海道・山陽から東北・常磐・北海道へと移り、当時の人には特別の思い入れがあるようです。

梅小路に動態保存されている2号機は日立で製作されたものです。落成 昭和23年5月20日、使用開始 昭和23年6月19日、移動 昭和23年6月14日 糸崎機関区(広島)から始まり昭和47年まで小樽築港機関区(北海道)で働いた後、昭和47年10月に梅小路機関車館にて動態保存されることとなりました。

なお映画で設定されているC62 22号機は、川崎車輌製のC62でD5222の改造車で、映画では運転台窓の下のネームプレートは本来のC62 2の「日立」から「川崎車両」に代えられています。落成 昭和23年8月20日、使用開始 昭和23年9月29日、移動 昭和23年9月22日 糸崎機関区(広島県・山陽本線、呉線)に始まり、水戸機関区(茨城県・常磐線)、白河機関区(福島県・東北本線)、尾久機関区(東京都・東北本線、常磐線)、水戸機関区(茨城県・常磐線)、平機関区(福島県・常磐線)を経て昭和42年11月24日に廃車となったそうです。一生を、ほぼ常磐線、東北線で過ごしたもので、六ちゃんが常磐線で上京したという説の根拠の一つとなります。

またマニアにはわかるそうですが、いわゆる常磐型(滑り止め用砂パイプの取り回し/常磐型ATS発電機配管/逆転機カバー無し/炭水車の増炭枠と内側の仕切り/併燃用重油タンク無し/テンダーに常磐型フローパイプ)に、撮影時には変更されていたという説があります。

2号機の特徴として、前部左右にある除煙板(デフレクター 煙を上のほうに誘導し運転士の視界を確保するための風切り板)に、ステンレス製のつばめのシルエットマークがあります(愛称スワローエンゼルの所以)。これは22号機である映画上ではカバーかCG処理(梅小路の撮影時にすでにマークはありませんでした 2006/06/16)されています。

また北海道では寒冷地仕様に改造され、煙突の後ろに「ツララ切り」といわれるトンネルに垂れ下がるツララを折って運転席を守るための扇状の金属棒が取り付けられました。これは映画でもそのまま映っています。六ちゃんが乗ってくるのは22号機の常磐線のはずなので、寒冷地用のツララ切りがあるのはおかしいということになります。(また常磐線は上野駅では地面上のホームに入って来ていなかったという説もあります

しかし私が思うに「白組」のVFX技術を持ってすれば、こんなものを処理するのは簡単なはず。でもプロデューサーのROBOT阿部氏と白組島村氏は鉄道ファンなのだそうで、これは本来の2号機に対する敬意の表れ、そして大きな改札とコンコースのあるなつかしの上野駅への思い入れによる物ではないでしょうか。
 
 
すてでぃかむ (ステディカム) Steadicam 振動激減装置 ティフェン社の商標


ステディカム担当と助手の方のお名前が、エンドロールででてきます。これはカメラを移動させながら撮影する際に、ブレないようにするための「振動激減装置」のことです。通常のカメラを取り付けて使用します。

1973年カメラ技師のギャレット・ブラウンはシネマプロダクツ(CP)社(現ティフェン社)とともにステディカムを開発し、1978年度のアカデミー科学技術賞を受賞しました。

STEADI(固定した、安定した、ぐらつかない)とCAMERA(カメラ)から来た名称で、歩いたり、走ったりしても画面に大きなブレが生じません。原理は、やじろべえとスプリングの組み合わせだそうです。ですので色々なメーカーから同様の商品が発売されており、また簡単なものは自作もできるそうですが、業務用としてはステディカムの名称を商標としてもっているティフェン社の物が有名だそうです。なお放送用や映画用の大きなカメラに対応するモデルは、100万円程度もするそうです。

通常のカメラは三脚、ドリー(台車)、クレーンなどに固定し、安定した画面を撮影します。しかし足場の悪いシーン、移動シーン、三脚やドリーが入れない狭い場所、またそれらと組み合わせたシーンなどの撮影で、ステディカムは威力を発揮します。

映画用の使用にあたりカメラマン(オペレーター)は、ジャケットとという胴衣を着用し、マジックテープで縛り付けられます。そこにカメラを載せ、微妙なバランス調整を行ったスプリング入りやじろべえアーム本体をジャケットに装着します。大型カメラの場合これ一式で30キロにもなるそうで、腰痛になりやすいそうです。

本作品での建物のセットは、撮影しやすいように片側が開放された張子の家でなく、本物の家屋と同様の贅沢な建物を作ったそうです。ただその分、カメラが入るスペースが大きく制限されます。鈴木家や茶川商店の屋内のシーンをよく見ると、微妙にゆっくりと左右に揺れていることがあります。これがステディカムでの撮影画面です。

ただし画面を安定させるといっても、実際にはかなり練習が必要だそうです。水平方向にブレやすい傾向があり、未熟なカメラマンだとゆっくりだが左右への揺れが起こりやすく、観客が酔ってしまうことがあるそうです。本作品の場合は、職人技が光っていますね。

なお振動激減装置は、手持ち用だけでなく、クレーンに装着して使用するものもあり、走行中のミゼットを上から撮影するカット、また土手の上を走るミゼットの撮影などほとんどブレがありませんでした。エンドロールには、その協力会社名も上げられています。(2006/05/09追加)
 
 
ぜろごう、しょごうぷりんと (0号、初号プリント) 映画完成後かつ公開前のテスト状態のプリント
  撮影が終わり、編集や音入れも終了し、現像所で最初に焼いた上映用テスト確認用のプリント(上映用フィルム)を「0号プリント」というそうです。それはキャストはもちろんスタッフ(監督やカメラマン)すら、すべてがそろった状態ではまだ見ておらず、時には現像やり直しになることもある「完成品とはいえないプリント」だからだそうです。

さてこの0号プリントを関係者で確かめ(0号試写)細かい問題点を洗い出し、再度焼いたプリントを初号プリントというそうです。具体的には、現像の状態で色調のバランスが崩れたりすることがよくあるようで、それを修正した1回目を初号、2回目を2号といい、3号、4号と続いていきます。初号も関係者のみで試写を行い、チェックを行います。普通、一般観客が見るのは初号か2号プリントが多いようです。

なお映倫(映倫管理委員会)の審査員も関係者のみの0号か初号試写の時に、確認に来るそうです。(なお映倫は予告編まで審査するそうです)

ALWAYS 三丁目の夕日では、2005年9月7日に0号試写(キャスト、スタッフ、関係者向け)、同9月9日に初号試写(出資者向け)が行われています。五反田のimagicaでは、この関係者向け試写がよく行われるそうなので、たぶんそこでしょう。(映画館泣き笑い音声収録も参加者の方のリポートによるとここらしいです)
 
 
そにっくむーばー (Sonic Mover
山崎監督作品の「リターナー」の中で、ミリこと鈴木杏が未来から持ってきた「ソニックムーバー」という機器があります。これは腕時計を二回り程大きくした、輝く銀色の腕輪状の道具で、装着者の体感時間を20倍に引き延ばす機能があるという設定になっています(エイトマンやサイボーグ009の加速装置のイメージ)。これによってミリが敵の包囲から簡単に逃げたり、宮本こと金城武がピストルの弾をよけたり、できました。

リターナーの美術は本作品美術担当と同じ上條安里氏だったため、同氏のインタビューによるとジョークで「神崎ラジヲ商会」を作ったことと、この「ソニックムーバー」を茶川さんの机にそっと置いておく、といういたずらをしたそうです。ただ場所が明記されていなかったので、探してみました。

書籍等の写真ではよくわかりませんでしたが、映画では机の右斜め前の、縦長20センチくらいの水晶状の塊が乗っている台の、二番目の棚板奥に、それらしきサイズの銀色に輝く物体があることが確認できました。おそらくこれが「ソニックムーバー」ではないでしょうか。なお最後に茶川さんが家具をひっくり返すシーンで、このソニックムーバーはぽろっと下に落ち、本の陰に隠れてしまいました。(2006/05/09更新)
 
 
たいそうおじさん (体操おじさん
ヒロミさんが劇場の屋上で、透明な指輪を夕日にかざすシーンで、画面左上の背後の遠くに写る建物屋上で体操をしている(手を横に広げ腰をねじっている)おじさんが豆粒ほどの大きさで映っています。本家ホームページポッドキャスティングで、阿部プロデューサーと山崎監督がこの話をしています。その時の会話では、宅間先生が狸に化かされるシーンで、背景に酔っ払いがいるとも話しているのですが、まだ見つけられません。

画面上端ぎりぎりで、映画館の映写機の設定によっては、スクリーンをはみ出してしまい映っていないこともあるようですが、現実感は細部に宿るということで、凝りに凝った演出です。このおじさんはデジタルエキストラ(CGで作られたエキストラ)ですが人気がなく、なかなか採用されませんでした。ただせっかくお金をかけて作ったのだからと、一番最後でやっと拾われました。
 
 
たずねびとのじかん (尋ね人の時間) NHKのラジオ番組名
六ちゃんが鈴木オートにやって来た日の夜、鈴木夫妻が「あの子、大丈夫かしらね」と話している後ろで流れているラジオの声、それは「尋ね人の時間」です。満州、ハルビン、陸軍第なんとか部隊、西落合の、??さんは...と言ったような声が聞こえます。

これは戦争で生き別れになった家族、知人の消息、安否を探すNHKラジオ番組です。鈴木オートの挨拶での「戦争から帰って、早13年」、宅間先生のエピソード、自転車屋の「もはや戦後ではない、か...」など、決して懐古主義で出来上がった作品ではないことが、この背後のラジオの音声が引き立てています。
 
 
つばめ(燕、スワロー) 国鉄のシンボル、国鉄スワローズ、初期脚本




1: 鉄道省、国鉄(日本国有鉄道 現在のJR)では、愛称一般公募結果により1930年(昭和5年)10月、東海道本線の東京駅〜神戸駅間に特急「燕(つばめ)」の運転を開始し、それから現在に至るまで「つばめ」の愛称を使用し続けています。た。1929年(昭和4年)に行われたをもとに命名されたものである(「燕」は2位)。撮影で使用されたC62の2号機の除煙板には、ステンレス製のつばめのシルエットが誇らしげに張られており、特急列車を牽引した高性能機関車であるシンボルとなっています。これにより、別名スワローエンゼルの愛称で呼ばれることもあるそうです。

この2号機が北海道のニセコ付近で活躍時には、山間部の急勾配を上るため同じくC62の3号機とともに2両連なって(重連)特急列車を牽引しました(三重連もあったそうです)。2両の蒸気機関車が大量の煙と蒸気を吐き、出力全開で懸命に登板していく様は凄まじいばかりの迫力で、鉄道写真マニアの格好のポイントとなったそうです。

なお現在では、JR九州で「つばめ」の愛称をつけられた新幹線があり、またJRバスは、空と雲をイメージする青と白のカラーリングに、大きなツバメのシルエットが描かれています。

2: 国鉄は以前プロ野球球団を作ったことがあり、これが国鉄スワローズ(現プロ野球セントラルリーグ、ヤクルトスワローズ)です。厳密には日本国有鉄道法抵触のため、鉄道協力会、鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社などにより「国鉄野球株式会社」を設立しそこがオーナーとなったそうです。当初は国鉄職員を中心としたノンプロのようなチームだったらしく戦績は常に4〜5位程度でしたが、金田正一などの名投手などの活躍もあり、またどうしたわけか対巨人戦には強く、国鉄対巨人のカードは人気があったそうです。

なお当時六大学野球のスターで現読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏は、立教大学から巨人に入団し昭和33年(1958)4月5日の対国鉄スワローズ戦から3番でスターティングメンバーとしてデビューしました。しかし国鉄の金田から4打席連続三振に打ち取られ、六大学のスターもプロの厳しさの洗礼を浴びたということで評判となりました。夏休みの登校日に子供らが「国鉄、金田投げました。ルーキー長嶋、豪快な空振り、三振です。」といっているのは、このことだと思われます。
3: 映画が始まってからの最初のシーンは、ラジオ正面から子供が大通りを渡って行くところまでの、CGを駆使した印象的な長い1カットです。音楽がいいためもあって、私はこのカットだけで昭和33年に戻ってしまい、うるうるしてしまいます。

ただし当初の脚本では模型飛行機ではなく、低空飛行しそばを飛んでいった「つばめ」を追いかけて子供らが大通りへ出て行く、となっていました。でもやはり手作りのゴム動力の模型飛行機が空高く舞い上がり、子供らが追いかけていくのは微笑ましいだけでなく、当時の子供らしさを象徴するのにはこちらのほうがよかったでしょう。
 
 
てぃー えいち えっくす (THX) 米・THX社 (元ルーカス・フィルムの一部門)による映画館の音響規格 一部映画館のみ


参考(ページ下部)
ALWAYS 三丁目の夕日のうち一部上映館では、THX規格の映画館があります。このTHXとは、そもそも「スター・ウォーズ」の監督ジョージ・ルーカスによって作り出された映画館の音響設備の規格です。彼はスター・ウォーズの迫力ある画面を引き立てるよう、迫力のある音響効果に熱心に取り組みました。ところがどんなにすばらしい音作りをしても、実際の映画館では、設備が古くまともな音が聞こえず、セリフすらよく聞こえないといった現実があることに気づきました。

そこで空調機器の雑音、劇場外からの音漏れ、内部残響音レベル、スクリーンへの視野角度が基準値内であること、ゆがみの無いようにスクリーンに対する映写機の位置、音響機器が規格品である、スピーカー設置位置と設置方法など、映画館の音響設備の規格を決めました。

これらの基準をパスした映画館は、THXのマークを掲げることや映画上映前にトレーラーと言われるこのような映像このような映像を上映することを、許可されるます。これによりその映画館は、いい音響設備であるお墨付きを得たことになり、観客が増えるメリットがあります。またこの基準にあることを毎年チェックされ、パスできなかった場合には上記の権利を剥奪されるそうです。

ALWAYS 三丁目の夕日を何度も見ましたが、シネマコンプレックスのような新しいいい映画館(大泉、六本木、立川等)では遠くの犬の声や汽笛、葉のざわめきなども立体的にはっきり聞こえ、いい雰囲気をかもし出していました。しかし小さな古くて設備の悪い映画館では、音自体が小さかったり(吉祥寺、大森)、静かないい場面で外の救急車サイレンや花火の音が聞こえ興ざめだったり(吉祥寺)、音が聞き取りにくかったり(新宿)など、これではアカデミー賞をとった録音担当者が泣きたくなるような環境もありました。
 
 
でじたる えきすとら (デジタルエキストラ) 
  エキストラとは、物語を直接構成する俳優さんたちの背景となる、いわゆるその他大勢の人達です。しかし群集のような大勢のエキストラを集めるのは大変です。エキストラの人達のみを紹介するプロダクションもあります。そこで本作品では、VFX技術を駆使し、CGで多数のエキストラを作り出しました。これを通称、デジタルエキストラというそうです。

最初の長いカットの直線道路の歩道を歩いている人達、上野駅の正面の通行人、駅構内をホームに向かっていくカットの群集、六ちゃんが改札を通って外へ出て行く俯瞰カット、駅前の駐車場の遠景の人々、遠景からの都電内の乗客などがデジタルエキストラです。監督によると、地味な服の男性だけでなく、個人の違いがわかりやすい服装の女性を多くしたそうです。でもよーく見てみると、ちょっとカクカクっとしたおかしい動きをしているのがいますね。
 
 
とうほう すこーぷ (TOHO SCOPE 東宝スコープ) 東宝による縦横比1:2.35のワイド画面方式
本作品の一番始めで、「TOHO SCOPE」というきらきら光る東宝マーク画面が登場します。これは東宝が開発したワイドスクリーンの方式を使用したというタイトルです。

通常のスクリーンの縦横の比率(アスペクト比)は、当初標準だった米アカデミーが決めた1:1.37というスタンダードサイズが使用されていました。その後、米パラマウント社が35ミリフィルムを横に回す1:1.66のビスタビジョンが開発されました。

その後1953年に米20世紀FOX社によって1:2.35のシネマスコープ(シネスコ)が開発されます。目の視野角に近いそのワイド画面は、劇場で見た場合の大迫力という点ではスタンダードサイズやビスタサイズはその足元にも及びません。ただこのシネマスコープという名称は20世紀FOXの商標だったので、他の映画会社は独自にワイド画面を開発し、また独自名(東宝スコープ、大映スコープ、東映スコープ、パナビジョン、テクニスコープ、スーパースコープなど)を呼称しました。

原理的には、アナモフィックレンズと呼ばれるパナビジョン社製の細く縦長に映るレンズにて幅広の撮影範囲を通常サイズのフィルムに撮影し、映写時には細く縦長に映ったフィルムから逆に横長になるレンズを通して投影するとスクリーン上では当初の幅広な画面に補正されて映る、というものです。よって変更点はレンズのみとなり、既存のフィルム、カメラ、上映機材には大きな変更はありません。

東宝では、昭和32年(1957)7月封切りの美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみによる「大当り三色娘」から採用されたそうです。このような画面が開発された理由は、なんと言っても昭和28年(1953)に始まったテレビ放送のためだそうです。本作品の設定である昭和33年は、テレビの台頭のきっかけであった年です。日本映画界はこの年をピークとして、その地位をテレビに譲り長期低迷へと向かっていきます。先行していたアメリカの動向などを分析しそれを事前に予想した映画界では、何とか観客を繋ぎ止めようとして考え出された一つの手段がこのワイド画面だったわけです。ですので、この「TOHO SCOPE」とは、日本映画の黄金期と衰退への道の象徴、でもあるわけです。

本作品の最初に映る「TOHO SCOPE」のタイトルはかの円谷英二氏によるもので、子供の頃、怪獣映画ファンだった私はこのタイトルがでるだけでゾクゾクし、あの伊福部マーチが流れるとドキドキしたものでした(実は怖い夢を見るからといって、あまり見せてもらえなかったのですが)。

なお「TOHO SCOPE」のタイトルは、ワイド画面が当たり前になってしまったため、昭和40年(1965)頃から使用されなくなったそうです。
 
 
とくほうのびーじーえむ (特報のBGM) 謎のオーケストラ
公式ホームページでは、「予告編」等を見ることができます。ここでは予告編のほかに「テレビスポットA-D」、「特報1,2」というものがあります。

「特報」とは普通は映画の公開の1年から半年くらい前に、取り急ぎ映画製作の告知のみを目的に作られる、数十秒から1分程度の短い映像素材です。洋画ではTeaserとかTeaser Trailerと呼ばれ、公開時期が早いため本編撮影が間に合わない場合は写真やイラストなどで代えることもあります。

「予告編」とは、作品の宣伝を目的に見所などを興味深く編集したもので、普通は公開の半年前から直前くらいに上映され、数分程度と長くなります。多くの場合は製作はほぼ終わっているので、本編と同じ映像や音楽が使用されます。洋画の場合にはTrailerとか、Theatrical Trailerと呼ばれるそうです。

なお普通は予告「編」と書きますが、映画業界では予告「篇」と書くことが多いそうです。でも「ALWAYS 三丁目の夕日」関連では、「予告」とか「予告編」と書かれているみたいですね。

さてお気付きの方も多いと思いますが、このうち「特報1」で使用されているBGM(壮大な感じのするオーケストラ曲)は、佐藤直紀氏のオリジナルサウンドトラックCD「ALWAYS 三丁目の夕日o.s.t」には収録されていません。ネット上でも討論されていましたが、この曲の正体は何なのでしょうか。

映像名使用BGM完成日
特報 1謎のオーケストラ2005年2月下旬頃
特報 2謎のオーケストラ2005年初夏頃
TVスポット A謎のオーケストラ2005年夏以前
TVスポット B謎のオーケストラ2005年夏以前
TVスポット CD-51のALWAYS2005年8月上旬頃
TVスポット DD-51のALWAYS2005年8月上旬頃
TVスポット ED-51のALWAYS2005年8月上旬頃
予告佐藤氏作「初めての東京」、D-51のALWAYS、謎のオーケストラ2005年8月21日

公式ホームページ上で参照できる動画の中では、「特報1」が最も早く公開された映像でしょう。ネット上の情報では、公式ホームページ上で「特報」が公開されたのは2005年3月3日だそうで、当然それ以前に製作されたことになります。この年の2月17日に、「CG部分を除く」実写の撮影はクランクアップ(撮影終了)しています。よって「特報1」は2月頃に最終の撮影と平行して製作されたもので、最後の本物の夕日をみるシーンにはまだCGの東京タワーがありません(笑)。

「特報2」では、淳之介君が乗り込んだ車の後部ガラス越しに大通りの「CG製の街並み」が見え、また「1」にはなかった夕焼けに「CG製東京タワー」が現れますので初夏ころの映像ではないでしょうか。なお「特報1,2、TVスポットA,B」ともBGMは同じですが、サウンドトラックにはありません。

さらにその後、仮に既存曲をつけた本編を見ながらの「音楽打合せ」を7月7日に行い、7月28日に佐藤氏の曲をフルオーケストラで収録という情報があります。つまり3月から初夏時点では、佐藤氏の名曲はまだ完成しておらず、あの曲はサンプルのために使用した既存の曲であろう、と想像されます。

「ALWAYS 三丁目の夕日」に佐藤氏の曲は欠かせませんが、あの壮大な感じの曲もなかなか良かった。現在とは、当時の人々達からの47年分の営々とした努力の積み重ねで成り立ったんだ、という感じがします。DVDのメイキングなどにでも収録され、その詳細がわかるといるといいですね。
 
 
とっき (特機) 撮影用の特殊機材
  エンドロールを見ていると、「特機」という名が出てきます。映画などの撮影には、カメラの他にも多数の機材を使用します。以下のような機器を総称して、特機と言うのだそうです。エンドロールに出るのは、これらをレンタルしている会社です。
  • クレーン
    カメラやカメラマンを乗せて、高い位置から(俯瞰)の撮影などに使用します。

  • ドリー
    カメラやカメラマンを乗せる小さなタイヤのついた台車で、移動しながらの撮影に使用します。

  • ファン
    風や嵐のシーンに使う、大型の扇風機です。350馬力もあるスポーツカー並みのファンもあるそうです。三丁目ではあまりありませんが、六ちゃんが走る汽車の窓から「よいお年をー」のシーンなどで使用したでしょう。実はこの客車は止まっているので、走行風が必要なのです。


  • 雨用のポンプ、水のタンクやタンクローリーなど。三丁目では、高円寺の雨の水門シーンで使われました。


  • スノーマシン。三丁目ではクリスマスのシーンで使われました。CGもあるかもしれませんが、アップのシーンには耐えられないので、新型のスノーマシンが使用されたそうで、淳之介君もびっくりのリアルな雪が舞うシーンになりました。

  • スモーク 霧、火事、爆発などのシーンなどで使われます。ドライアイスだけでなく、専用の液体を使う方法など色々あるようです。
 
 
どるびー でじたる (Dolby Digital) 米・ドルビー研究所による劇場用映画立体音響システム
多チャンネルのデジタル音声の記録方式のひとつ。ドルビー研究所によるデジタル圧縮録音形式で、前方3チャンネル(左・中央・右)とサラウンド(左、右)2チャンネル、サブウーファー(重低音スピーカー、0.1チャンネル)の合計5.1チャンネルで、映画を立体音響で再生するシステムです。

エンドロールで「ドルビーコンサルタント」という人がでてきますが、スタジオ録音の際などでは録音技師達の調整が終わった後にこの人達が最終調整をし、「Dolby」の名をかぶせるためにはそれ以降一切の変更はまかりならぬ、というえらい方なんだそうです。

本作品をドルビー対応の音響のいい映画館でみると、正面、前部左右、後部左右へと音場が広がり、大音量シーンはもちろん、静かな夜のシーンなどで遠くから汽車の汽笛、犬の鳴き声、風の音などが立体的に聞こえて、いい感じでした。

あなたは映画館で、映画が始まる前にこんな映像こんな映像を見たことはありませんか?これはドルビー多チャンネル音響システムのある映画館でのみ、映写されるトレーラーと言われる「Dolby」ロゴのある約30秒の短い映像です。(ただし対応館でも、映写しない場合もあるそうです)
 
 
にっちょく日直) その日の当番
  夏の登校日に一平君が先生から「淳之介君を見習いなさい」怒られるシーンで、正面の黒板右側が写ります。ここに「8月20日水曜日」とあり、その下に「日直 柴崎こうぞう 水島あいこ」とチョークで書かれています。

このお二方こそ、撮影の柴崎幸三氏と衣装の水島愛子氏であり、スタッフのちょっとした悪戯でしょう。ファインダーを覗いていた柴崎氏は、ギョッとしたかも?ぜひ探してみてください。
 
 
はちがつはつか8月20日) 鈴木オートが、六ちゃんに「盆はかえらなくていいのか」と聞く日

鈴木オートと六ちゃんが車の修理をしながら、「うー、蒸し風呂だな」というシーンがあります。後ろではラジオの天気予報が夏の高気圧の話をしています。そのシーンでは茶の間の日めくりカレンダーは見えないのですが、一平の登校日の教室の黒板に「8月20日」と書かれています。

するとちょっとおかしいのは、鈴木オートが六ちゃんに「お盆には帰らなくてもいいのか?」と未来形で尋ねることです。つまり8月20日とは、お盆は終わってしまいUターンラッシュが一段落したころにあたるわけです。なので「お盆には帰らなかったけど大丈夫なのか?」と過去形で聞くか、日付を8月10日くらいにしておけばよかったはずですね。

また夏休み中の登校日の登校時間は、お昼寝の時間付近、つまり午後まであったでしょうか?よく思い出せませんが、プールならともかく宿題の進捗状況をチェックする登校日は、午前中登校だけだった気もします?

 
 
ぶーじゅー (boujou) カメラトラッキング・マッチムーブメントソフト
  VFXでは多数のCGが作成されますが、それをあたかも実際のカメラで撮影したかのように見せる必要があります。また実写との合成を行う場合には、実写のカメラの動きとCGの動きを同期させる必要があります。これらの処理を3Dトラッキング処理(マッチムービング)といい、仮想の風景や仮想のカメラの位置関係と、実写の風景と実写のカメラ位置を、分析し数値化して同期させるプログラムが2d3社この「ブージュー」で、本作品でも白組のVFX作成時に使用されているそうです。

例えば最初の非常に長いカット、つまり鈴木オート・空を飛ぶ模型飛行機・商店街・大通りまでの撮影は、スタジオ・CG・スタジオ・ロケ(館林)・CGと複雑な合成が多用されています。この時、実写とCGがずれないよう、またカメラワークやズームが自然に流れていくよう、カメラ位置を追尾処理し数値化して合成が行われています。

ハリーポッターなどでも使用されているこのソフトは、他の同種のソフトが何日・何週間もかかる処理を数時間でこなしたり、正確さ、自動処理やその他クリエイターに使いやすいような工夫がこらされているそうです。
 
 
ぽすとぷろだくしょん (ポストプロダクション)
  ポストプロダクションとは、映画、テレビ、ビデオなどの制作会社が撮影・録音した後の(post)生の素材に、編集、特殊効果、合成などの加工・処理を請け負うプロダクションです。(社団法人日本ポストプロダクション協会) 字幕、アフレコ(撮影の後から声を録音、アフターレコーディング)などから、インフェルノやブージューなどの高価なコンピューターシステムを駆使するVFX作成まで様々なようです。大手ではimagicaから、個人のフリーランスが行う会社もあるそうです。本作品でも協力会社として、多くのポストプロダクションが参加しています。
 
 
まいろ (MILO) 麦芽飲料、またはモーションコントロールカメラシステムの一種


通常の撮影ではカメラの移動には、ドリー(台車)やクレーンにカメラとカメラマンを乗せ人力で動かします。しかしこの方法では、どうしてもブレ、速度や軌道のスムースさ、撮り直しの際の再現性などの問題があります。そして合成を多用する特殊撮影には、上記を解決することは非常に重要な問題でした。

そこでこれを解決するために開発されたのが、モーションコントロールカメラシステムです。1975年にジョージ・ルーカスがスターウォーズを製作した際、ルーカスフィルム傘下の特撮専門プロダクションILM(Industorial Light and Magic 光と魔法の工房)社のジョン・ダイクストラ氏が開発した「ダイクストラ・フレックス」が最初だそうです。

これはコンピューター制御によりカメラを保持しているクレーンやアーム等が、数学的な軌道で、スムースに、何度でも同じ動作が可能というものです。これにより、例えば前景や背景を変えて何度でも同じカメラワークをとることができ、画期的な美しい合成特撮映像を実現できたためスターウォーズは世界的な大ヒットとなり、少年だった山崎監督はこの道に進むことを決めたそうです。

その後、世界中で独自のシステムがつくられましたが、現在では大型で高速でも揺れの少ない動作が可能なイギリスのMark Roberts社のモーションコントロールシステムMC-MILOが世界的に普及しつつあるそうです(参考)。基本的な機能は、
  1. 何度でも、数学的で滑らかな、かつ同じ動作を行えることにより、独特の映像表現や合成映像を作りやすくなる

  2. 人間が遠隔操作するカメラの動作を記録し、同じ動きを何度でも再現できる(ミミック機能)

  3. カメラの位置を座標化、記録し、後の合成作業時の参考データとする
などの特徴があります。また本作品で使用の映画用カメラ「ARRIFLEX 535」ではフォーカス、ズームも制御できるそうです。

これらの機能をCGと融合させ、様々な表現が可能となりました。連続移動だけでなく、1フレームづつの動作も可能で、2005年アカデミー賞受賞のクレイアニメ「ウォレスとグルミット」でも使用されたそうです。

このMC-MILOシステムの価格は6000万円もするそうで、日本には株式会社imagicaを始めとして3台ほどしかないようです。よって通常は、クレーン、コンピューター、搬入搬出、オペレーター(エンドロールで名前が二人でます)、データ設定などシステム一式でレンタルされるそうで、費用は1日90万円もかかるらしいです。なお本作品では、以下が気付いたカットです。(もちろん他にもあるかもしれません)
  1. 上野駅の改札口から出口に向かって低い位置から俯瞰位置までのカットで、背景のCGやデジタルエキストラとの合成。上記3の機能。

  2. 天井のヤモリから、数学的なキリ揉み軌道を降りてきて茶川さんのアップにいたるカット。上記1の機能。
 
 
まばしにちょうめ (馬橋二丁目) 一平たちが高円寺から帰る時の電停(都電停留所)

 
一平と淳之介は、淳之介の母を捜しに高円寺まで来ますが、帰りの電車賃が無かったため、都電に乗れません。電停に立ちすくんだまま、都電の車掌から「乗らないの?」と聞かれた電停に「馬橋二丁目」という表示がありました。(でも12回見ましたが、この文字がスクリーン上でシャープに写った映画館は少なかった)

これは町名変更により名称が高円寺南、阿佐ヶ谷南と変わった馬橋二丁目で、現在の青梅街道北側、東京メトロ・の丸の内線「新高円寺駅」付近と思われます。現在も杉並消防署馬橋出張所、馬橋保育園、馬橋小学校、馬橋稲荷神社、馬橋公園、馬橋会議室、馬橋商興会などに名前が残っています。

この都電は「杉並線」と呼ばれ、新宿から荻窪までの青梅街道上を1963年まで走った路線です。競合する地下鉄丸の内線のため、都電の中でも比較的早い時期に廃止されたそうです。もともと西武軌道(現在の西武鉄道)所有だったものを1938年東京地下鉄道・1942年東京市へと受け継がれたので、都電の中でもこの路線だけがレール幅が狭かったそうです。また現在の都バス杉並営業所は、都電の車庫だったそうです。

当初の脚本では、子供らがお金が無くて都電に乗れず泣いてしまうのは、「水門」でなくて「ガード下」でした。ですので当時の国電(日本国有鉄道、今のJR)中央線高円寺駅付近でしょう。ということは和菓子屋・磯谷は、馬橋二丁目の電停がある青梅街道から国電線路のあるかなり北へ進んだ辺りをイメージしていたと思われます。なおこの付近一帯には大きな水門があるような大きな川、運河などはありません。ロケ地ページ参照

山崎監督は、丸の内線新高円寺駅から徒歩4分の位置にある「阿佐ヶ谷美術専門学校(高円寺なのに?略してアサビ)」の卒業生です。原作には高円寺という具体的な地名は無かったので、卒業した学校に対する敬意を表したのかもしれません。ただしアサビは位置的には青梅街道の南側となり、国電高円寺駅とは反対側となります。

また当初の脚本では、子供らがたずねる高円寺の和菓子屋は、「藤戸」でなく「磯谷」という名でした。磯谷について情報がありましたらぜひお知らせ下さい。
 
 
みぜっと (ミゼット) 英語 midget「極小の〜」、鈴木オート愛用のダイハツ製のオート三輪

ミゼットMP-3
キャビン右側に丸ハンドル(二人乗りを考慮したか?)


ミゼットDKA?
「ジャッキだ!」と修理中 中央にバイクハンドル


原作のくろがね
交差点で大きくロール、ドア無し、ハンドル中央のため「六さん」が車外にはみ出している
ダイハツとは、創業地の「大阪」と元々の社名「発動機製造株式会社」からとった社名で、1907年の創業の自動車メーカーで、1960年代はマツダとともにオート三輪で市場を二分していました。

戦後復興期の日本にはコストの安い輸送手段が必要で、当時としては破格の26万円程度で自転車店でも発売されたミゼットは大人気となりました。大卒初任給が約2万円弱だったころですから現在の感覚では二百万円程度と決して安くはないのですが、自転車、リヤカー、荷車しかなかった零細企業、商店、農家にとって、ミゼットはそのコスト以上に配送効率を飛躍的に高めてくれました。

三輪のため非常に小回り(半径2メートルくらいらしい)が利き、小さいな車体もあって当時の狭い路地や農道などにも入っていけたそうです。またバイクとほとんど同じ扱いのため税金も安く、さらに当時あった16歳から取得可のオート三輪免許のため、商店の子供にも家業の手伝いで利用できるなどの利点がありました。しかし昭和40年の免許改正でオート三輪が普通四輪免許に吸収されてしまったため、それ以降、元々構造上不安定なオート三輪は廃れてしまいました。

ミゼットには大きく分けて前期の「DKシリーズ」と後期の「MPシリーズ」があり、前者がバイクのようなハンドル、後者はクルマ状の丸ハンドルだったそうです。しかし「カーブ時の不安定」という三輪の致命的欠点があり、特に丸ハンドルの「MPシリーズ」は舵取り量がバイクハンドルに比べわかりにくく、当時は交差点などでよく転倒したそうです。軽量のため大人数人で起こせることと、また「バイクと同じようにオート三輪とはコケるもの」という常識があったため、当時はそれほど問題扱いされなかったそうです。しかし鈴木オート役の堤真一氏のインタビューで撮影時のミゼットの運転について、「荷台に薬師丸さんと子供を乗せて運転することに非常に緊張した」と述べています。やはり運転しにくかったのかもしれません。

本映画のミゼットは「MP-3」という丸ハンドルのモデルで、昭和34年発売の物だそうです。ですから昭和33年に登場するのはおかしいのですが、コンパクトでキュートなスタイリングに、監督がこれは「昭和33年の記号(象徴)」としてあえて採用したそうです。なお原作の鈴木オートのオート三輪は「くろがね」製のものだそうで、オートバイの延長のような「ミゼットDKA」というドアがないモデル(鈴木オート内で修理中)に似ているとおもわれます。ただしこれだと、女の子との二人乗りのシーンはちょっと危険かもしれません。

映画ではいい具合に錆びたミゼットが登場しましたが、実際にはきれいにレストア(再塗装したり部品を交換・復元)されたものです。撮影時には汚し塗装をされ、撮影後は再びきれいにし、オーナーに返却されたそうです。

実はこの「ダイハツミゼットMP-3」の実物は、東京の福生にあるパラダイスカフェという場所のレジ横に展示されているそうです。このミゼットのオーナーは、カフェレストランおよび徳田発動機という自動車屋さんでもあるそうで、旧車のレストアがお得意のようです。米軍横田基地の隣の、アメリカ風のライブカフェです。

映画に登場したのはこの「ミゼットMP-3」だけでなく、「ミゼットDKA」もこのオーナーから貸し出されたそうです(多分一番最初シーンで、鈴木オート屋内にある修理中の小型オート三輪で、ハンドルがバイクタイプ)。また往年のアメリカ車も多数あるようですので、お近くの方はいってみられたらいかがでしょうか。

 
 
もはやせんごではない (もはや戦後ではない) 昭和31年(1956)の経済企画庁による「経済白書」の言葉

 
やまふじの面々が、宅間先生の亡くなった奥さんや子供の話をし、しみじみ「もはや戦後ではない、か....。」とため息をつくシーンがあります。

戦後の日本は朝鮮動乱による特需により、急激に復興します。その勢いに乗り昭和29年(1954)秋頃から昭和32年(1957)6月まで、世界的な好景気もあり、日本も「神武天皇以来」という神武景気という好況となりました。そのため昭和31年(1956)の経済企画庁による「経済白書」で「もはや戦後ではない」表現され、様々な意味で有名になりました。 経済白書データベース こちらで昭和31年度版 もやは「戦後」ではない(要カギカッコ) を検索し、経済白書の前書きの結語の中にあります。

その後「なべ底不況」という調整期が一時あったものの、昭和33年(1958)から昭和39年(1964)の東京オリンピックまで、「岩戸景気」や「オリンピック景気」という高度経済成長期が、この映画の時代背景となります。しかしその初期は鈴木オート曰く「戦争が終わって13年」とわずかしか経っておらず、まだ人々の心には戦争の悲しみが大きく残っており、「戦後ではない」とあっさり過去に見切りをつけることはできなかったそうです。




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