月の杖と太陽の剣 第二部・砂塵舞う聖域


 


序章・蒼天に響く鎮魂歌



 人々が待ち望んだ月の復活は、しかし更なる絶望の始まりに過ぎなかった。

 神帝の与え給う奇蹟であった『跳躍門』が閉じられた。人々は広大な大陸を瞬時に移動する手段を失い、帝国は大混乱に陥る。内海に浮かぶ島である聖都は当然その例外でなく、船以外の交通手段を失い孤立していた。

 そして、「魔物」の襲撃が聖都の混乱に拍車をかける。

 海から這い上がってくる、おぞましい魔物たちは腐臭を放ちながら街を破壊した。神殿の衛兵や訓練施設の戦士たち、協会の魔導師が応戦するが、唯一の生命線となった海路を狙われて聖都はじりじりと追い詰められる。

 更に、どこからともなく不穏な噂が広まり始めた。

『司祭長のお姿が見えない』

 中央神殿司祭長は、地上における帝国の最高権力者だ。しかし、神帝の代弁者として民衆へその意思を伝える司祭長は、決して神殿の奥に引き籠って帝国を支配する為政者ではない。特に聖都出身者でない現司祭長、ビイク・イフサンはよく民衆と対話する親しみやすい人物として知られていた。その姿が、見えない。

 月は皓々と蒼く光る。

 ひと月前に突如夜空に現れたまばゆい銀盤は、一夜ごとに欠けては満ちて蒼白い光で世界を染める。最初の満月が現れた夜に跳躍門が閉じ、世界を混乱と恐怖が襲った。それから徐々に月は欠けて昇る時刻を遅らせ、一度は消える。そして再び黄昏時の西の空、茜色と濃藍の隙間に猫の爪のような細く白い弓が浮かんだ時、その方角の海から魔物が現れた。

 一夜ごとに、魔物は増える。

 一夜ごとに、月は太る。

 一夜ごとに、月の空にかかる時間は長くなり、海より這い出る魔物の数は増えた。

 誰が言い出したかもわからない。

 だが、聖都に住まう誰の胸にも同じ疑念、否、確信があった。




 ――この月は、魔に冒された禍いの月だ。




■序章 蒼天に響く鎮魂歌



 蒼月の下。波打ち際に蠢くそのけだものは、酷い臭いを放っていた。ベスティアムと呼ばれるその魔物は、醜い剛毛に覆われた巨体をひとつ震わせて、大きく天を向いた鼻を鳴らす。雄牛の二倍はあろうかという小山のような獣が次々と浜に上陸する不気味な様は、アルベニーナや聖都の民の心を挫くに十分なものだ。震える心を叱咤して、アルベニーナは杖を握りなおした。幾何学的な装飾の付いた杖を敵の眼前に突き出し、凛とした声を張って詠唱する。

「天の怒りよ炎となりて我が前に顕れ、穢れし諸物を浄化したまえ!」

 杖の先から黄金色の炎が閃く。それはアルベニーナの前で分厚い炎の壁となった。肩口で切りそろえた赤い癖毛が炎に煽られて舞う。

 アルベニーナはひと月前にこの聖都にやって来た、大陸北西出身の女魔導師だ。長袖の上下に前合わせの短衣を緋色の帯で縛り、革製の長靴と籠手を身に着け、胸元だけの革製防具を着込んでいる。二十歳を過ぎたばかりの彼女は、魔物たちを率いてこの世界に災厄を振り撒く元凶、『魔王』を倒す者として魔導協会の選出を受けて聖都へ招かれたのだが、月の復活から続く混乱の中でいまだ聖都に縫い止められ、聖都を襲う魔物の討伐に追われていた。

 下顎から一対の大きな牙を覗かせ、半開きの口元から汚らしく涎を撒き散らしたベスティアムが、鉄のように黒光りする大きな蹄で砂を蹴立てて突進してきた。その鼻先を炎が舐める。突進する以外を知らない低能なけだものは、次々と自ら炎の壁に突っ込んだ。聖なる炎が穢らわしい毛皮を焦がし、けだもの達は巨大な頭を振り乱して怒りの咆吼を上げる。

 情け容赦のない天罰の炎に灼かれ、先頭の一頭が砂浜にくずおれる。続く数頭も、倒れた一頭に足を取られて次々と炎に巻かれた。ベスティアムは巨躯に対して脚が細く、一度砂地で倒れれば始末は容易い。何とか浜で決着がつけられそうだと、一瞬気が緩んだ時だった。

 脇から一頭、炎を毛皮に絡めたままのベスティアムが飛び出した。びっしりと棘の生えた長い尾がアルベニーナの横をすり抜け、背後に組まれた石造りの防波堤へ突進する。

 集中し直したアルベニーナは、更に炎の壁を厚く大きく燃え上がらせた。そのまま、魔物の這い出る波打ち際を押し包むように炎の腕を伸ばす。残りのベスティアムをすべて丸焼きにするためだ。

 ――あの一体は、カレドールに任せればいい。

 一月前、ともに『勇者』に選ばれた戦士が背後に控えている。砂を蹴る足音と、低い気合いの声が響いた。ベスティアムが威嚇の唸りを上げる。剣が毛皮と肉を断つ、鈍い音がした。続いて幾度か怒りの咆吼や尾の唸り、カレドールや神殿の兵士らが応戦する音が聞こえる。

「こちらはこれまでか……」

 アルベニーナは、悔しげに呟いて少し厚めの唇を噛んだ。魔導師の杖を正面に突き出す腕が震えている。炎の壁の維持はもう限界だった。すべてのベスティアムを屠れていれば良いが、と吊り気味で黒目がちの双眸を細め、慎重に魔術を解く。逆巻く炎に煽られていた赤い癖毛が、ふわりと肩口に落ちついた。頬にかかるその一筋を払う指先は、青白く冷たい月光に白く光る。

 ――フィラーシャ。貴女は無事なの?

 二月前にアルベニーナ同様、大陸の北西からこの聖都へ招かれて、そのまま消息を絶った妹の名を心の中で呼ぶ。黄金の壁が消えると、その向こうに累々とベスティアムが倒れ転がっていた。動けなくなってしまえば、止めを刺す必要はない。魔物たちは陽の光に弱く、この光に守護された聖地ならば一度弱らせてしまえばそのまますぐに息絶える。それだけは救いだ。

 先月、アルベニーナが「勇者」として魔導協会から選出を受けて聖都に着き、司祭長の祝福を受けた翌日に月が復活した。準備のためまだ聖都に居たアルベニーナとカレドールは、同時に跳躍門が閉じてしまったためこの聖都に縫い止められている。海路を使って一刻も早く北へフィラーシャを探しに、そして魔王を倒しに、と思っていたアルベニーナは出鼻を挫かれたまま一月をこの聖都で過ごしていた。

 腐肉の焦げる臭いに顔をしかめる。

 この場は何とか凌いだが、日々押し寄せる魔物たちに神殿も対応しきれず、いくつもの場所で大きな被害が出始めていた。

 今夜もどこかで、鎮魂歌が響く。

『天上におわします我らが神帝よ、どうか死者の魂をその御元へ。迷える我らに唯一の、天上の楽園へ至る門を開き給え。いつの日かその御元にて再会を果たすその日まで、しばしの別れを惜しむ我らに、その大いなる慈悲を――』




 

 世界には光の女王と闇の王がいた。


 光の女王は天空に住まい、飽くなき欲望に満ちた魂を持ち、刹那の時を生きる昼の民たちを支配した。


 闇の王は地底に住まい、静寂と安寧を好む魂を持ち、永き時を生きる夜の民たちを支配した。


 昼の民は陽の光差す場所を好んで暮らし、夜の民は深い闇に覆われる場所を好んで暮らした。


 光の女王と闇の王は互いに手を取り合って世界を創ってこれを統べ、太陽と月を運行してその均衡を維持した。


 光の女王は太陽の剣と宝珠を手に、光、炎、風の三属性の魔力を支配し、闇の王は月の杖と宝珠を手に闇、水、地の三属性を支配してその魔力を循環させた。


 光と闇、昼と夜、太陽と月、動と静、未来と過去、変化と安定、互いに一対を成す対立したそれらは二柱の神によって均衡を保って世界を巡り、世界は独楽のように回ることで維持されていた。



 


 世界創生以後、数千年続いたその均衡を、崩す者が現れた。


 彼の名はアダマス。


 二柱神の間に生まれたと言われる「全き一族」、精霊の一族の青年だった。


 彼はその、「全てを見通す霊眼」と「全てを操る言霊」の力を使って二柱神の宝物を奪い去り、太陽の剣で闇の王の器を、月の杖で光の女王の魂を封じて自ら「神帝」を名乗り、世界を支配した。

 



 そののち千年。アダマスの支配放棄により、この世界は終焉を迎えつつあった。

 





 アルベニーナらが満月の下、壮絶な一夜を過ごした翌朝。澄んだ空が晴れ渡る早朝、聖都の鐘が一斉に鳴り響いた。

 ――中央神殿司祭長、ビイク・イフサン死去。

 鎮魂の歌と鐘が空を震わせる。

 弔旗が海風にたなびいた。

 偉大なる殉教者へと捧げる蝋燭の煙が蒼穹へ溶ける。

 魔物の手により刈り取られたというその首は、憤怒の表情で凍り付いていた。




 


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