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第25課

『エスペラント国の旅』改訂第二版 第25課日本語訳
アップロード2006/06/28



 今日は私たちの年末の晩餐(ばんさん)会です。これを私たちはザメンホフ晩餐会と呼んでいます。というのは、エスペランティストは12月15日にラザル・マルコヴィチ・(ルドヴィコ・ラザロ・)ザメンホフの誕生日を祝うからです。確かに多くの人にとっては、彼は歴史上の人物であり、どのような人であったかを想像することは難しいことです。ルドヴィコ・ザメンホフには記念碑的なものは何もありません。だから次のお話で彼の人物像を想像してみましょう。

(LECIONO 25–1, p.257–258, 最終修正2006/07/04)

 ZAMENHOF KIEL HOMO — Gaston Waringhien

ガストン・ヴァランギャン
人としてのザメンホフ

 彼は背が低く、灰色がかった褐色の濃いあごひげを蓄え、早くから額ははげていた。いつも黒い色の服を着て、金縁の近視用の眼鏡を終始かけて、どんなときもそれらを脱いだりはずしたりすることはなかった。彼は雄弁家ではなく、穏やかに小さな声で話をし、リトアニアのユダヤ人のやり方でシュをほとんどスのように発音した。彼は愛煙家であり、とりわけ紙巻きたばこをよく吸った。既に1900年ごろには心臓が弱り両下肢の脈拍も弱かった。だから、家計にゆとりがあれば、夏にはドイツの温泉地へ通った。
 彼は父親から学者気質の几帳面(きちょうめん)な性格を受け継いで、この故に本の出版者や販売者として、アシェット社 (注1) との契約者として細事を果たすことができた。商売ごとに関しては決してずる賢いところがなく、お金の価値が痛いほどわかっていたが、お金の誘惑に惑わされることはなかった。彼は誠実な称賛者からの援助(金)を誇り高く何度もことわり、そして自らは貧しい者たちに援助を惜しまなかった。
 彼は大衆の前では少し憶病で公の式典にはあまり出たがらず、ただエスペラントのためにそれらに参加した。生まれつき控えめで温厚な彼は、いつも身の周りで起こるもめ事を丸く収めることに努力し、彼の (注2) 非難者たちにも決して怒りの感情を表さなかった。彼をもっともひどく裏切ったといえるルイ・ドゥ・ボフロン (注3) に対してさえも彼は最後まで援助をしたいと思い、驚くほど寛容な手紙を送っていた。彼は、国際的に重要な役割を果たしながら、自分の私信の手紙類の公表に何一つ不安を抱かなかったまれな人々の一人であった。それは彼の生来の礼儀ただしさと奥深い誠実さと正義に対する鋭い感覚をあらわしていた (注4)
 しかし彼の性格の中で最も重要なものは、理想のためには全てを犠牲にする強い意志と、実現に向けて全ての困難を克服する不屈の忍耐であった。その彼の意志の力と忍耐はとても計り知れないほどの愛情に支えられていた。その愛情は彼をうながして自らの肉体と精神の全てをかけて、古(いにしえ)の神の御神託である「慰めよ、わたしの民を慰めよ(イザヤ書40章1節)」を実践し、いまだ心身ともにか弱い人類に、いくらかの励ましをもたらした。


出典:
Gaston WARINGHIEN
1887 KAJ LA SEKVO...
ガストン・ヴァランギャン『1887年とその後…』
(アントワープ/ラ・ラグーナ 1980年)
P. 21–22.短縮


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 私たちがルドヴィコ・ザメンホフの大会演説を読み返すとき、それらが文体論や修辞法の視点からみてとてもよくまとまってい、だからこそ感覚的にも精神的にもとてもよい効果を生み出している (注5) のだということがわかります。彼は論理的であると同時に絵画的な話しかたを身につけており、そのことは国際語の自然主義的な(自然言語に近い)新しい試みについて触れた彼の次の手紙を見ればわかります。これは彼の普通の私的な手紙であり、文学作品ではない点に注意してください。

(LECIONO 25–2, p.258, 最終修正2006/07/04)

 PRI NOVAJ PROJEKTOJ DE INTERNACIA LINGVO — Ludoviko Zamenhof

ルドヴィコ・ザメンホフ
国際語の新しい試みについて

(ダウへの手紙, 1907年2月21日付)

 新しい言語のいろいろな試みに対するあなたの大いなる闘争は私には余計なことのように思えます。というのは私の思うところ、あなたは幽霊と戦っているからです。彼らは最も重要なヨーロッパの言語をいくつか理解しているいろいろな人に手紙を送りつけ、後でその人たちが彼らの手紙をエスペラントの手紙よりも速くすぐに理解したと世界に吹聴するのです。しかし、これはただ人を欺く幻想でしかありません。残念ながら多くの人はそれに気がつきませんが、しかし、彼らの言語を学ぼうとするとすぐに明らかになることです。多言語を話す人たち (注6) はそれらの言語を簡単に理解しますし、またその人たちが英語フランス語ラテン語で書くときもそうです。しかし多言語話者 (注6) に理解可能な単語の単なる寄せ集めが言語といえるでしょうか、またそれが全世界に通用するでしょうか?
 ある食品について、それの良い諸性質の中のひとつが、消化されやすいことだとだれかが話しています。すると、「消化される」という言葉をとらえた人が「私は皆さんにもっと良い食品をすぐに差し上げましょう」と言い、普通の水にジュースを少し入れてそれをお腹のふくれた人にあげて質問しました:「私の食品はそれよりはるかに消化されやすくはないですか?」。そして「そうだ]という答えが返ってくると、彼は自分の食品が一番良いと世界中に吹聴しました。しかしやがてそこにお腹をすかした子供がやってきてその食品を試した (注7) 後で、その子が (注8) 怒って声を張り上げました:「あなたの食品は、消化はよくても、ちっとも栄養の足しにはならないじゃないか!」。この時初めて人々は気がつきました。なにかの混合物が食品であるためには、ただお腹のふくれた人に消化がよいだけでは十分ではない、それはとにかく栄養のあるものでなければならないのだということを。
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出典:L. L. Zamenhof
POR KAJ KONTRAŬ REFORMOJ
(PLENA VERKARO DE L. L. ZAMENHOF, Kajero 8)
L.L.ザメンホフ「改良の賛否」
『L.L.ザメンホフ著作全集 – 分冊8』(京都 1980年)
P. 33–34.

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 聖書風文体の素晴らしいたとえ話ではありませんか? 今でも国際語の新しい試みは止むことなく出現しています。そしてある雑誌では、エスペラントよりもよりよい(簡単な、ヨーロッパ的な、全世界的な、自然な、科学的な等々)言語が現れたと大々的な予告でもって、それらの情報をすすんで発表しています。多くのエスペランティスト、特に新しい人たちはそのような記事を読んで心が痛くなります。ルドヴィコ・ザメンホフの上記の話はこのことについての良いコメントです:幽霊と本気で戦っても仕方がありません。次のように付け加えることもできます。エスペラントと他の言語案には、実際に住んでいる家と紙の上の設計図だけの家の違いがあります。試しにその設計図に住んでみてはどうでしょう。それで紙上の案を、快適で、長く住みなれた好みの家に簡単に作りかえられるでしょうか? (注9)
 今日のザメンホフ晩餐(ばんさん)会の主賓講演者はウィリアム・オールド (注10) さん、再び私たちのクラブのお客様になっていただきました。どうしてエスペラントのことにそれだけの時間とエネルギーを注がれるのか、私たちは彼に尋ねました。さあ、オールドさんの答えです。

(LECIONO 5–2, p.259–261, 最終修正2006/09/12)

 KIAL MI DEDIĈAS TIOM DA TEMPO KAJ ENERGIO AL LA AFERO ESPERANTO? — William Auld

ウィリアム・オールド (注10)
なぜ私はエスペラントのことにこれだけの時間とエネルギーをささげているのか?

 時々、人はこんな質問を私に呈します。その度に私は考え、その度に多くの理由を見いだします。
 顕著な動機は、あの素晴らしいザメンホフ博士への忠誠心です。国際語の案のあらゆる提案者の中で、彼だけが唯一その問題に真剣に、かつ実際的に取り組んだ人でした。彼と比べると、他の全ての人は愛好家、趣味の人、理論家で、国際語の問題は彼らにとっては側面的なことでしかなく、結局は真剣なものではありません。彼らによれば、世界はただ「補助」語を必要としているだけで、それは侵しがたく厳粛な自然言語にはあきらかに劣る信号のコードのようなものを意味し、他に何もなければ、ピジン語 (注11) のように使われるだけのものです。最後の手段として。彼らの頭には次のような考えは浮かびません。言葉が言葉であるためには、まずもってそれを話すだけでなく、その言葉で考え、感じ、経験し、愛する人が必要で、それらの人々にとっては、それが「第二の第一」言語のようでなくてはならないということです。たとえ他に流暢(りゅうちょう)に話せない使用者がいるとしても。このような国際語を多くの人は望むことすらなく、そのゆえにしばしばそのような言語は存在しないし、可能でないと主張します。
 しかし、ザメンホフがすでに当初から確信し、心と頭で感じていたのは、世界に無数にある言語は人間をバラバラに離すだけでなく、しばしば敵対させてもいるということでした。ですから彼は、他の言語が表現していることを全て、感情的にも、表現することのできる言語を創(つく)ることを目指していました。というのも、彼は、ある種の基本的な普遍的な人間性の存在を固く信じ、民族性は、その人間性を覆っている偶然的な上部構造であると考えていたからです。人工的な中立的な言語によって、この上部構造を貫いて、人間に共通するものに到達することができるのです。
 この目的のために彼は自分の人生をささげ、物質面で安定した状態をも自ら犠牲にしました。彼は何度も相当な金銭の授与を断りました。それらが本質的に買収であり、この言語の信頼性をも危うくするかもしれないからです。私自身、かつて息子にこのように言ったことがありました。「エスペラントが私の生涯の仕事だった。教師業はただ私の手職でしかなかった。」 同じようなことを──しかし高い度合いで、もっと的を射て──ザメンホフは言えたことでしょう。彼は天才的な芸術家でした。彼は自分の芸術にこのような天才のもつゆるぎないひたむきさで、おのれをかけました。
 ですから、私は生涯このような素晴らしい人間を裏切ることができません。聡明さ、不屈、目的意識、本質的な人間性、そして彼を動かしていた謙虚さは、それほど深くすばらしいのです。このような人とエスペラントに私は背を向けることができません。
 エスペランティストたちが正しいという事実もまた、私をエスペラントに結び付けています。我々の言語に関して我々が主張していることは真実であり、確認ができ、証明することもできます。ですからエスペラントについて偽りをいう人々が絶えず私をいらいらさせ、また私をかたくなにしました。その人々とは、自らの先入観と根拠のない憶測で審判を下している現象を、客観的に試験することも拒絶して、エスペラントをまったく非科学的に扱っている、いわゆる科学者と呼ばれる人たちです。その人々とは、互いにじかに話し合うこともできず、経費のかかる不正確な通訳や翻訳に頼り、二次的連絡手段に満足したまま、我々や社会を支配している政治家たちです。その人々とは、「エスペラント」の事項に関してその資格のない人に協力を依頼し、全くいい加減な嘘(うそ)を言うことに自由な百科事典の編集者たちです。このような扱いに直面して、私は背を向けることは決してできませんでした。エスペランティストたちが正しいのです。
 第三に、私をエスペラントに結び付けているものは、いまだ十分に汲(く)み尽くされてはいないその言語の偉大な表現能力です。エスペラントは私に16世紀か17世紀の英語を思い出させます。そのときの英語は、しなやかで色合いも鮮やかで活気があり、今のエスペラントのように若く新鮮でした。英語は私の母国語で私は英語を愛しています。ですからなおさら、今の英語の退廃を深く憂えるのです。ここではこのことを分析はしませんが。それだけに、エスペラントを経験したことのない人には想像できないような、エスペラントのしなやかさ、色合い、活気とその正確さとその繊細さが、私にはとても価値あることなのです。これらに対して私は背を向けようとは思わないでしょう。
 最後に私は友情のことについて述べたいと思います。私の生涯で、私は母国語で得たよりもはるかに多くの真の友人をエスペラントで得ました。世界の数十の国々に私が親しい友人であると誇れる人々が住んでいます。エスペラントなくしては、これに類似するようなことはほとんど想像できません。それだけではなく、私はエスペラントを使ってアメリカの友人を得ました。彼とは兄弟同様の関係で、もう長い間、喜びや悲しみも共にし、完全にお互いを信頼しあっています。もし我々がエスペラントの代わりに英語を使っていたとしたら、このような関係に至ることは大変難しかっただろうし、ひょっとするとほとんど不可能だったかもしれないと互いに認め合いました。というのは、理論上共通である英語の我々のそれぞれの発音は、やはり、おきまりの多すぎるほどの先入観をもたらしただろうからです。エスペラントはこのようなことを払拭(ふっしょく)してくれました。これが国際語の持つ力であり、だから我々の先駆者たちはエスペラントを「大事な」言語と呼んだのです。


出典:
ESPERANTO, 1995, n-ro 10
『エスペラント』誌1995年第10号
P. 161. 短縮



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 12月15日はエスペラントの本の日 (注12) でもあります。エスペラント生誕百周年にちなんでなされた第三番目の展望は、この題材にささげられました。エスペラント文学の最高の適任者であるウィリアム・オールドさん (注10) がそれを発表してくださいます。


(LECIONO 25–4, p.261–262, 最終修正2006/07/01)

 CENT JAROJ DE LITERATURO EN ESPERANTO — William Auld

ウィリアム・オールド (注10)
エスペラント文学の百年

 ザメンホフ博士にとって文学は、彼の言葉の発展とその運動において常に重要な要素でした。それ故に、『第一書』には翻訳詩と原作詩も収められていましたし、またそれ故に、その後三十年間とても忙しい時間のほとんどを文学作品の翻訳に費やしました。不思議なことに、その同時期の三十年間、ザメンホフのこの仕事に反対したエスペランティストたちにもこと欠きませんでした。しかしその意見は大多数の人々に抗(あらが)うことはできませんでした。その多数派にとって、エスペラントは民族的、宗教的、社会的な違いを超えて、人類の協調と平和共存への願いをこめた、感性的なものだったのです。
 初期のエスペランティストたちの別の論争点はこのことを主題にしていました:もしエスペラントに文学を持たせる価値があるとするなら、その文学は翻訳でなければならないか原作でなければならないか。1907年に、始めからエスペラントで書き下ろされた最初の長編小説『プレロンゴの城』(注13) が発表されたとき、翻訳文学のみを支持する人々に対する挑戦としてそれは受け取られました。この論争の痕跡が我々の今日の運動にも時々尾を引いているのが認められます。翻訳を通じて、他の言語でのあらゆる意を再現できるエスペラントの能力を人々は論証しましたし、証拠立てています。それは真実なのですが、しかしそれは、エスペラントは他の言語が持っていないニュアンスもまた表現できるのだという事実を無視しています。それらのニュアンスに当たるのは、当然、母国語の域を超えてエスペラントを扱っている我々の原作作家だけです。
 時にエスペランティストたちはあまりにも極端に走り、自分の立場をあまりにも窮屈に定義するきらいがあります。すでに言われているように、ザメンホフはすでに『第一書』で望むべき形を定義しました:翻訳文学も原作文学も、その両方とも、言語の健全さと、そして存在にさえも貢献するものであると。これが理想であり、これが我々の百年の文学なのです。
 早くも1894年には、ザメンホフは、シェークスピアのハムレット (注14) によって、わずか七歳(!)の言語がレベルの高い文学の翻訳に適していることを決定的に証明しました。……今、私の書庫には、百を下らない様々な言語からエスペラントに訳された翻訳文学があり、その大部分の訳は満足の行くできであると思われます。
 エスペラントを通して、いわゆる大言語と言われる言語で書かれた世界文学のみならず、他の言語にはほとんど、あるいは全く翻訳されていないか、翻訳されていたとしても拙訳であったり、見つけるのが難しいような、あまり知られていない言語で書かれた主要作品についても、すでに今では良く知ることができます。
 しかし、翻訳だけの言語は半分しか生きていないようなものです。そして、ある言語ですぐに考えまた感じている物書きたちは、きっとその言語で作品を書きたがるでしょう。エスぺラントの場合もそういうふうでした。その結果、この言語の原作文学は生まれたのでした。
 我々の原作文学の発展は興味深く、また学ぶことの多い研究対象であります。もし、(非エスペランティストたちが)その存在を否定したり、それが自分たちのシェークスピアを引き寄せていないと(エスペランティストのだれかが)嘆く代わりに、まじめにそれを研究するなら、世界史の中でもまったく無比無類の可能性という利を得ることになるはずなのです。ひとつの文学的な文化基盤の絶え間ない成長と発展を、その生成の時から見ることができ、その文学の言語はその種の言語として唯一なのです。そしてそれは、世界的スケールで地理的な限界を考慮することなく作られた唯一の文学です。このことは、それぞれの作品が地理的な偏りを有していないということを意味するわけではありません。エングホルム (注15) は明らかにスウェーデンのことを書き、バランキン (注16) はソヴィエトについて、シュヴァルツ (注17) はフランスとドイツについて、リントン (注18) はニューギニアについて、宮本 (注19) は日本について作品を書きました。彼らの作品はその関連する環境(地域)について我々に多くのことを教えてくれます。しかし彼らは実際に世界の読者を対象にして、それが彼らの作風に影響を与え、したがってその言語の文学的伝統に影響を与えました。
 エスペラントにおいて、他の諸言語に翻訳するに値する作品がすでに現れているでしょうか。答えは「はい」に違いありません。なぜならそれはすでに行われたからです。例えば “Kredu min, Sinjorino! ”(信じてくださいよ、奥さん!)(注20) はハンガリー語と日本語で、“Metropoliteno”(地下鉄)(注21) は英語で、“Infana raso”(子供人種)(注22) はオランダ語で、“Mistero minora”(小さな神秘)(注23) はポーランド語で、“Pri arto kaj morto”(芸術と死について)(注24) はポルトガル語でなどなど (注25)。ジャン・フォルジュ (注26) の小説はすばらしい映画にもなっています。
 エスペラント文学はもう成長したのです。近寄りがたいほどに……

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出典:
El Popola Ĉinio
月刊誌『人民中国』1987年第4号
P. 15–17.短縮.
※訳注:El Popola Ĉinio は廃刊になった。



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 小休止の後、我々のザメンホフ晩餐(ばんさん)会で大コンサートが開かれます。その間に、今の文学についての講演のたとえとして、我々の会員リリアナ・イオヴレヴァが美しく旋律的な数あるエスペラントの詩の中から一編を朗読します。


(LECIONO 25–4, p.263, 最終修正2006/07/04)

 VINTRA FABELO — Nikolaj Hohlov

ニコラーイ・ホフローフ (注27)
冬の童話

楽しいカバレート (注28) のあと、そりに乗り、ほっそりとしたそりに乗り、
鈴の音もかろやかに、
我々は行く──冒険だ、馬は飛ぶように走る
星の数限りない広がりのもと。

平原の静けさの中に、一筋の糸が消えてゆく、
滑らかな冬の道の。
私のニータ──思いがけぬ愛、凍えるような寒さに酔って
うれしそうに身を寄せる。

おとぎ話のように、あてもなく、回転木馬がぐるぐると回る、
心にあふれる想(おも)いの。
信ずるままに、どこへでも速く自由に飛んでゆけ、
さあ、アモーロ (注29) のおもむく所。

さあ、馬たちよ、蹄鉄(ていてつ)を
踊るロマの女の、シンバルの笑いのように
はでに打ち鳴らし、伴奏し、我々を甘くくすぐり、享楽させてくれ
狂おしいリズムで。

光る雪──冬の王はすべてを包み込み、
愉快そうに、きしみながらさえずる。
身をよぎる風が、うれしそうに、オーボエの鈍い音階で、
呼んでいる、野に誘(いざな)う 。

ひとつの太陽──ひとつの若さ… 最初の熱い重なり
そして魔法のような星星(ほしぼし)の詩…
私のニータ、思いがけぬ愛、凍えるような寒さからバラ色の口づけを受け、
身を寄せて、すべてに王冠をさずける

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出典:
N. Hohlov
LA TAJDO
N.ホフローフ『潮流』
(ケルン 1928年)
P. 59–60.


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 ザメンホフの日に、クラブの幹部会は今年非常に活発であった会員たちを、価値あるエスペラントの本を贈呈して表彰することを決めました。表彰される人たちはティナ・ペルフィーリェヴァ、イゴーロ・ミロシン、パウロ・モチュルスキイ、ガリーナ・ヴァシルコーヴァ、アドリアノ・ヴォイノフスキイ、そしてイレーナ・ナザーロヴァである。拍手でかれらに祝福を送りましょう。
 クラブの書庫にエスペラントの著者の生涯と活動に関した貴重な本が登場しました。『ザメンホフ博士の写真で見る生涯』VivZamenBild.gif、マルコ・ザメンホフとラザロ・ザメンホフの『エスペラントことわざ集』Proverb.jpg、アドルフ・ホルツハウス (注30) の『ザメンホフ博士と言語エスペラント』DroLingvoEsp.gif、アドルフ・ホルツハウス (注30) の『ザメンホフ大画廊』GrandaGalerioZam.gif、ヒューゴ・レーリンゲル (注31) の『エスペラントをモニュメントで』。
 次の会合では「エスペラント—国際言語問題の完全な解決」のテーマで弁論大会を行います。弁論時間は最長で10分。その後で、エスペラントを利用しての取引の諸問題や、国際的なまた外国のエスペラント機関との共同行動について論議をします。そしてルクセンブルクからのお客様と懇談する予定です。
 このことについてお知らせできることには特別な喜びがあります。なぜなら、ほんのしばらく前に私はルクセンブルクを訪れる機会に恵まれたからです。逆説的ではありますが、その国は、なんと大きな国だろうという印象でした。いくつかの都市や、よく整備された町のような、いわゆる村々。自然は変化に富んでいます。畑、庭園、丘、川そして森、森、そしてまた森。それにすばらしい自動車道路。さらには、こぢんまりとした、独創的な、かつ快適そうな家々。そのそばには、首都近郊の超近代的な巨大建築。とてもじょうずに我々の言語を話すルクセンブルクのエスペランティストたち、この友人たちと仲間内で、家の横にある庭園でひと時を過ごすことはこの上ない喜びでした。
 まもなく、12月27日の日曜日には我々のエスペラントクラブの総会を開く予定です。そこで私たちは今年のクラブの研究や活動のあらゆる面について議論を行い、また、クラブの新しい幹部を選挙しましょう。総会には準備をして臨んでください。我々の共通の活動を完璧(かんぺき)なものにするためのアイデアや、次年度の我々のクラブを指導する新しい幹部の候補者の提案など、どうぞ次の会合までにちゃんと用意しておいてください。




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(LECIONO 25–KOMENTARO, p.264–265, 最終修正2006/09/10)


[ 1 ] ルドヴィコ・ザメンホフとの契約により,有名なフランスの出版社アシェットはザメンホフの認可のもと多数の貴重な本をエスペラントで出版した。
[ 2 ]【彼の】liaj:siaj(自身の)が良い。
[ 3 ]【ルイ・ドゥ・ボフロン】Louis de BEAUFRONT (1855–1935):「国際語採用のための委員会」でルドヴィコ・ザメンホフの代弁者であったが,エスペラントを擁護する代わりに匿名でエスペラントの改造案を筆名「イード」の名で委員会に提示した。それがエスペランティストの間に分裂を引き起こした。ボフロン自身イードの運動を率先して導いたが,現在その会員数はおそらく200名ぐらいである。第21課の注釈12を参照。※訳注:ボーフロンとも書く。
[ 4 ]「苦しいときに皆彼のもとに相談にやってきました。『彼は決して過ちは犯しませんでした』とポーランド人の古い家政婦は彼女の十字架像の下にある彼の写真を示しながら話をした。いったいどれだけの有名人が使用人たちの目に偉大であると映っていたであろう?」(エドモン・プリヴァ『ザメンホフの生涯』リックマンズワース,1957年.87–88頁)
[ 5 ] たとえば「愛国主義と似非(えせ)愛国主義」の演説(第9課)を参照
[ 6 ]【多言語を話す人たち】poliglotaj personoj/ poliglotuloj:poliglotoj(博言家)がより良い。
[ 7 ]【試みた】provis:gustumis(味見した・味わった)がより良い。
[ 8 ]【その子】ĝi(それ):ルドヴィコ・ザメンホフは性別が特に問題とならない未成年者(この場合は「幼児」)の場合,その代名詞には ĝi を使っていたことに注意すること。大人の場合(「人間」「お金持ち」などなど)はその性別が知られていないか,または文脈上重要でない場合には li を使用することを勧めていた。これは li aŭ ŝi, ŝi aŭ li, li/ŝi, ŝi/li, liŝi, ŝili, ŝli, ri などの無粋な発明よりもより単純な問題の解決法である。
[ 9 ] エスペラントがほかの全ての人工語に対して優位であった理由は,本文「エスペラント,ザメンホフが創(つく)った言語」(第15課)を参照
[10] 第22課の注釈4を参照
[11]【ピジン語】Piĝino:他言語の人と話をする際に使われる,粗雑に簡素化された簡易語。
[12] 第17課の注釈19を参照
[13]【アンリ・ヴァリエン】Henri VALLIENNE (1854–1908):1903年にエスペランティストになった。フランス人。医師。小説:『プレロンゴの城』kasteloPrelongo.gif『彼か?』cxuLi.gif
[14] 第24課の注釈9を参照
[15]【ステラン・エングホルム】Stellan ENGHOLM (1899–1960):1920年*にエスペランティストになった。スウェーデン人。教師。いくつかの彼の著書:『地上の人間』HomSurTer.jpg 『トレントの子供たち』InfanTorent.jpg 『命が呼びかける』VivVokas.jpg。※第二版では1927年となっているが,これはエスペランティストとして活発に活動し始めた年で,実際にエスペラントを始めたのは1920年。第三版で訂正された。
[16] 第4課の注釈17を参照
[17] 第7課の注釈29を参照
[18]【ケネス・リントン】Kenneth LINTON (1906–1985):1931年にエスペランティストになった。オーストラリア人。教師。三十年以上にわたってオーストラリアの世界エスペラント協会の代表委員を務めた。ニューギニアの風習について『カナナムからのカナコ人』kanako.gifという本を著した。
[19]【宮本正男】MIYAMOTO Masao (1913–1989):1933年にエスペランティストになった。日本人。本業のエスペランティスト。多数の本の著者で,中でも『日本漫筆』jpKvodlibet.jpg『日本風への招待』『廃墟(はいきょ)に生まれし者たち』NaskRuin.jpg 『芸術と死について』priArtMort.giff『皮肉と情熱で』Sarkasme.jpg 『死の組曲』MortaSuit.jpg。 日本文学からも多数を翻訳した。中でも非常に興味深い本は『好色五人女』KvinVirinoj.jpg
[20] 第7課の本文「夢はおそろしい,夢が逃げ出す」を参照
[21] 第4課の本文「地下鉄」を参照
[22] 第22課の注釈4を参照
[23] 第22課の注釈9を参照
[24] 第25課の注釈19を参照
[25] 『クメワワ,ジャングルの子』(「原始林の最も危険な動物」第13課の本文を参照)の多くの翻訳を付け加えよう。常にさらに多くの本(純文学やその他)がエスペラントから諸言語に翻訳され出版されている。おそらく最多記録はブルーノ・フォーゲルマンの哲学書『新しい現実主義』kanako.gifで,二十以上の言語で出版された。
[26] 第23課の注釈12を参照。ここで話題になっているのはJ.フォルジュの小説をドイツの有名な監督フリッツ・ラングが映画化した『マブーゼ博士の千の目』のことである。
[27]【ニコラーイ・ホフローフ】Nikolaj Ivanoviĉ HOHLOV (1891–1953):1905年にエスペランティストになった。ロシア人でソヴィエト人。経済学者。詩集「潮流」LaTajdo.gifで有名になった。いくつかの本を翻訳した。その中にエルネスト・ドレーゼンの『世界語の歴史』HistrMondlingv.jpg(N. ネクラソフと共訳)がある。
[28]【詩話会】kabaredo:kabareto (詩話会会場)がより良い。
[29]【アモーロ】Amoro : 愛の神(アモル)で,翼を持った子ども(キューピッド)の形でしばしば表現される。
[30]【アドルフ・ホルツハウス】Adolf HOLZHAUS
[31]【ヒューゴ・レーリンゲル】Hugo RÖLLINGER





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(LECIONO 25–LINGVA PRAKTIKO,p.265–266, 最終修正2006/09/10)


人としてのザメンホフ
( 1 )この本文と,本のもっと前に出てきた情報をもとに,あなたのエスペラント・クラブの盛大な集まりのために「ルドヴィコ・ザメンホフ:生涯と理想と活動」のテーマで小講演を準備しなさい。

国際語の新しい試みについて
( 2 )ルドヴィコ・ザメンホフが語った比喩(ひゆ)の意味を説明しなさい。
( 3 )国際語の新しい案が創(つく)られることについて,あなたはどう思いますか。
( 4 )言語の案の概略を自分で書いてみてください。もしうまくできたら,その言語にすばらしい名前を付けてください。これは,国際語案を創造するという試みの果てしないリストにその名前が埋もれてしまわないようにするために最も重要なことです。それがうまくできたら,あなたのその言語で熱烈な恋文を書いてください。それが恋人の気に入るようであれば,その言語で詩を書いたり,または翻訳をしなさい。例えば,詩小説『イェヴゲーニイ・オネーギン』の第一節(第18課を参照)の翻訳を。

なぜ私はエスペラントのことにこれだけの時間とエネルギーをささげているのか?
( 5 )何が著者をエスペラントに結びつけていますか。
( 6 )何が,そしてなぜ,あなたをエスペラントに結びつけていますか。

エスペラント文学の百年
( 7 )あなたはエスペラントの原作文学と翻訳文学の関係について何を考えますか。

( 8 )あなたがこの本や別の本で読んだエスペラントの原作文学の中で最も気に入ったのはどの作品(複数)ですか。そして,それはどうしてですか。

冬の童話
( 9 )詩の各行から韻を踏んだ単語だけを選び出しなさい。韻の続き具合を調べて,それらを分類してみなさい。

* * *
(10)次の単語がどのような意味か説明しなさい:
 
再開する,報いる,再び補償する,反響する,推理する,(元の場所へ)戻す,(光るものが)反射する,(新兵・新党員を)募集する,再び悪態をつく,(文章など)要約する,再びあいさつする,再び(鏡に)映す,尊重する,現実化する,再び作りそこねる,反ばくする,再び見張り・監視する,再指導する,再び引く・引きもどす,再び踏む,再び欺く,再び募集・勧誘する,再び頼む・請う.
 
(11)あなたの好きなように単語を選びなさい:
 
熊を殺す前に,その(肉,尾,毛皮,脂肪,大きな巣)を売るな。
ライオンに権利があることは,(猿,家うさぎ,ヤギ,ロバ,雌鶏,カナリア,かえる)には無い。
幸運者には(くじゃく,あひる,がちょう,ワニ,亀,ナイチンゲール,かささぎ,おんどり,すずめ,カラス,魚)さえも卵を産む。
猫が散歩をすれば,(ハエたち,ネズミたち)が宴会をする。
贈られた馬の(すね,たてがみ,ひづめ,耳,歯,口,尾)を人は調べない。
彼は正しい位置に(鼻,脳,口ひげ,頭,舌,あごひげ,眼鏡,バッジ,ズボン)をつけている。
猫は誰の(肉,ソーセージ,キャビア,バター,サンドイッチ,ラード,おかゆ,パイナップル,胡椒(こしょう))を自分が食べたのか知っている。
 
(12)次の類音語を使って,言葉合わせや文章を考えなさい:
 
kaserolo [キャセロール(フタ付厚手両手型なべ)] – karuselo [回転木馬] ,   sitelo [手おけ・バケツ] – stelo [星] - ŝtelo [盗み] ,   profilo [プロフィール・側面像] – profito [利益・もうけ] – profeto [予言者] ,   vario [変動] – varianto [異文・異本] – varieteo [バラエティ] ,   pleto [盆] – plato [板・プレート] – plado [大皿] – pledo [弁明] – plendo [(苦痛の)訴え・苦情] .
 
(13)エスペラントをテーマにしたクイズ:
 
a) 出版社アシェットはエスペラントとどの様な関係でしたか。
b) なぜボフロンはエスペランティストの間に分裂を引き起こしたのですか。
c) ピジンとは何ですか。
ĉ) 最初のエスペラントの原作小説の題名を言いなさい。
d) ルドヴィコ・ザメンホフが『ハムレット』の訳を公表したとき,エスペラントは何歳でしたか。
e) エスペラントのどういう本が多くの言語に翻訳されましたか。
f) 誰がニューギニアの風習について本を書きましたか。
g) 誰が『好色五人女』の本を翻訳しましたか。
ĝ) ニコラーイ・ホフローフはどの本で有名になりましたか。
 
(14)討論または物語のテーマ:「ニワトリは宴会に行きたくはないが,人々が無理やりにそれを引きずってゆく。」
 
(15)あなたがエスペラントの全国大会で,その国のエスペラント協会の会長の地位に候補のひとりとして推薦されていると想像して,その演説文を起草してください。できるだけ内容が濃いだけではなく,適切な比喩(ひゆ)で飾られた美文の演説文にしてください。