DETAIL……my musical life   partU(1974〜1976)


New York〜Boston

〔お断り〕
本文中に出てくる団体名又個人名は全てノンフィクションであり実在するものです。
但し恋愛、他あまりにもプライベートと見なされる事柄は、当事者の人権及び家庭の平和を乱すものとして一切記述されません。


卒業後














U,S,A











N.YJazz









Boston訪問



























MALTA氏との再会







Berklee入学











音楽漬け








Big Band



















Gig








































Barklee卒業























































1972年














1974年6月


























































1974年9月

















































































1976年3月























































音大卒業後は自分のグループを組んで新宿のPit Inやタローの昼の部でゴリゴリやって夜はキャバレーへ、高度成長期の恩恵を受けて兎に角仕事は有りました。BIG BANDでも宮間利之とニュー・ハード、金井英人とキングス・ロアー等でツアーしたり結構多忙な毎日でした。
当時のぼくのバンドのメンバーは
*田村博(p)
*岡田勉(b)
*守新治(ds)…等

そんな生活が2年ほど続き少しまとまった金が貯まったので3ヶ月位の予定で、N.Yへ一人旅を企てました。




結婚したばかりの女房を残していそいそとNew York旅行へ、しかもこれが十年になろうとは…
とりあえず旧友のZen松浦(Drumer)を頼ってマンハッタンlower eastに有る彼のロフトへ、そして先ずそこで目にした光景に度肝を抜かれました。通りのあちこちに寝ている浮浪者、中には白昼堂々と糞してるおっさんも…しかも殆どが白人だったんです。子供の頃良く見たテレビのホームドラマで擁いていた豊かなアメリカのイメージとは違いすぎました。後でわかったのですがそこはBowery streetと言って浮浪者で有名な通りだったのです、が、それがぼくのアメリカ初日の印象です。



気を取り直して兎に角先ずはポルノ…いやJazzを聴きに街へと繰り出しました。おりしもニューポートジャズフェス(その年はNY市内でやっていました)が開催中でマイルスやエルビンなど大物が一挙に聴けたのですが何かフュージョン前夜の模索中と言う感じが否めませんでした。これも後でわかったのですがアコ―スティックJazzにこだわるミュージシャン、例えばデクスターやマクリーン等は皆ヨーロッパへ逃れていた時代でもあったのです。(そうそうジャッキーマクリーンはお目当ての一人でありました)



もう色んなショックでぐちゃぐちゃになった頭を冷ます意味もあってBarkleeにいる旧友、斎藤純と早乙女満(どちらもDrumer)を訪ねてBostonへ。
そこはNew Englandと言うだけあってNew Yorkとは打って変わって美しい落ち着いた雰囲気の街、大学も沢山あってさながら学園都市。音楽も現役予備軍と言う感じで皆、和気藹々とセッションしておりました。 
2,3日滞在して再びNYへ。



Bostonを経験した後のN.Yは全然違って見えました。ここは本当に凄い!ありとあらゆる人種の人間が本音をぶつけ合いながら生きている、アメリカの中でも特別な街、出来ればこのまま残って暫く住んでみたい願望が沸々と湧き上がって来ました。しかし今ここでは沈没しそう……
思案の末、結局N.Yから一時撤退を決意、Bostonで体制を立て直すべく、何とか手続きを間に合わせて9月からBarkleeへ入学。かくして又々学生生活を送るハメに成りました。



小沢征爾氏の居るBoston popsの本拠地SymphonyHallに程近い所にアパートを借りて妻とも合流、長期戦の体勢が整いました。
当時のBarkleeの校舎は100m位隔てた街なかにある2つのビルディング、その間を学生は授業毎にゾロゾロ行ったり来たりするのです。
未だ日本人はそれほど多く有りませんでしたがタイガー大越や内堀勝氏、そしてなんとあのMALTAがいたのです。受験時以来の再会でした。



彼は僕より1年早くBarkleeへ来てもう既に学内ではある程度の名を馳せていました。
それで後日談に花が咲いたのですが、結局かれは翌年念願の芸大へ入り、やはりそこでJazzに目覚め、僕と同じくキャバレー等を沢山経験した後に留学を決意、今に至る。しかし僕と違うのは当時未だ独身で、その後そっち方面でも波乱万丈な人生を送った様です。



さていよいよ授業が始まったのですが本当に英語には苦労しました。こんな事に成ると解っていたらもっとちゃんと英会話でも勉強して来たのに…クッソ―
皆が一斉にノートに向かって何かを書き始めたのに、一人茫然としている所へ後ろの方からコツコツと先生の足音が…昔高校の数学の時間によく味わったのと同じ気持ち、又ここでも落ちこぼれるのかと情けなくなりました。音符を頼りに初めは殆ど勘の世界だったと思います。
せめてもの救いはこちトラ、一応プロ経験者だぞと言う感じで、実技の時間は思いきりアドリブぶちかましてやりました。




一日のスケジュールは大体午前中に学科の授業、午後からアンサンブルで又放課後は気の合った仲間でセッション、宿題は毎日山ほど出て本当に音楽漬けの毎日ではありましたが、何かあのNYのドロドロした音楽シーンとは異質の、お勉強の世界に居るジレンマはいつも感じていました。その頃から付き合いがあった山本剛(Piano)が三日で学校辞めてしまった気持ちもよく解ります。



2セメスター目に入ると奨学金ガ取れ大分気分的にも落ち着きました。
Barkleeの先生だったJoe Hostetterの奥さんの絹江さんの口添えもあって先生やBostonのミュージシャンで構成されたTed Harbard Orchestraに加わり毎週末、隣のNew Hampshire州に有るHampton BeachのBall Roomでの仕事が始まりました。平均年齢50歳位のバンドでしたが年輪を重ねたアメリカのミュージシャンと古き良き時代のアメリカ社会を肌で感じる事が出来た貴重な経験でした。このバンドにはBostonを離れるまでお世話になり今でも懐かしい思い出が沢山あります。




当時Bostonで一番メジャーだったクラブはJazz Workshopと言うところで、主にN,Yからのミュージシャンが出演していましたが、そこではソニー・スティット、フィル・ウッズ、ジミ―・ヒース等を聴きました。それからスタンリー・タレンタインのバンドで来ていた中村照夫さんとはじめて逢いましたが、何か強烈にN,Yの匂いがする人で「だめだこんな処にいちゃ…」みたいな事いわれたと思います。又N,Yでも逢いたい人です。



ぼくのアパートのすぐ近くにMichaelsというPubがあってそこで演奏出来る事になりました。そこは主に学生が演る所で、当時ジェームス・ウイリアムスやリッキ−・フォード等もよく出ていました。
大したギャラにはなりませんでしたが、地元のFMのライブ情報で自分の名前が流れるのが快感でした。



Barkleeの教授陣にはゲイリー・バートン氏やマイケル・ギブス氏などの優れた方が居られましたが、中でもハーブ・ポメロイ氏はライン.ライティングと言う独自のアレンジ法を確立してその無数に有るルールを諳んじて授業を進め,又生徒のVoicingのミスを瞬時に見つけ出すと言う信じられない頭の持ち主でした。
学生にもマイク・スターンやビル・フリゼ―ル等が頭角を現しはじめ、最初は、ただのガキだった生徒の中からも光を放つのが出てきてアメリカの底力を徐々に実感させらた頃でもありました。



playでもそうですがアメリカ人の書くアレンジは自己主張が強いと言うかあくが強い、やっぱり肉食!と言う感じで、゛こんなの有り?″というのがよくあります。(我々日本人は先ず先例をよく研究してまともなサウンドを出そうとしますが、国民性ですね)しかしそんな中からデュ―ク・エリントンやオリバー・ネルソンが生まれたかと思うと感慨深いものが有ります。



よく言えば発想が自由、悪く言えば何事にも大雑把なアメリカ人の中で日本人学生は、やはり律儀と言うか持ち前の勤勉さで大体どの科目も上位を占めていました。
それで日本人の中には学校に失望して辞める人も結構居ましたが、たまに居る物凄い奴とその発想の違いに、日本では味わえない驚きを感じる事も多々有りました。


カリキュラムもシステムが徹底されていて各科目ともちゃんとセメスターの最終日にはテキストが終了する様になっていたし、膨大な宿題の量で確実にその法則が身につくようにされていたのには日本の大学との違いを感じました。
今でも時々演奏するARIAKE、One for little one,Miracle Runner等は作曲法のクラスの宿題として出来たものです。


そうこうしながら4セメスター(2年間)を終え無事卒業。
式も待ちきれずに念願のN.Y City へMOVE BACK!!




〔アキラのコラム〕
*N.Yの歩行者は信号守らないんですよね。自分が安全だと思ったら赤でも平気で渡って行きます。日本のお巡りさんに言ったら怒られそうだけど、でもこれは自分の身の安全は自分で守ると言う基本的なアメリカ的精神の表れだと思います。
それでそういう人にちゃんと車が止まってあげるのがすばらしいではありませんか。堂々と大通り横切ってる金髪女性の姿にこれぞアメリカンフロンティアと感激!



*国際線での楽器は絶対機内持込しましょう。友達に頼まれた(当時一世を風靡した)SONYのデンスケの方を機内へ、自分の楽器は゛壊れ物注意″で手荷物に預けたのが大失敗、着いたらタンポが全部ずれてウンともスンとも、結局Bostonで直すまで全然吹けませんでした。
あ、でもBostonには凄いリペア―マン:エミーリオが居るからご心配無く、世界でも腕では石森かエミーリオかと言う位の人です。







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