氷色の砂
馬の蹄が立てる音だけが、耳鳴りのように頭に響く。
黙ってしまったレイティさまに、ヴィンセントは口を開いた。
「ですが……それは巫女さまの責任ではないと、私は思います。他人を羨み妬む心は誰にでもあるものですし、他人よりもまず自身の事を考えてしまうのは当然の事でしょう。宰相の事を憎んでしまうのも、神殿を出られた事も……私には仕方の無いことだと思えます」
巫女さまと同じ境遇にあったのなら、自分だって巫女さまと同じようなことを考えるだろう。そしてきっと、このどうしようもない事態を打開しようとして、神殿を出ようと考えるはずだ。それが彼女の罪であるとは、どうしても思えないのだ。
レイティさまは顔を伏せたまま、言葉を返してきた。
「……ヴィンセントさんにも、あるの?」
羨んだり妬んだりすることが、だろうか。もしくは相手を憎んだり、逃げ出したくなる事か。いずれにせよ、どれもが馴染みのある感情のように思えた。
ヴィンセントは、勿論ですよ、と言葉を返す。
同時に、だからこそ、そうした自分自身を許せない感情も解るのだ。小さなことで羨みや妬みなどを抱いてしまう自身が、酷く卑小な人間であるように思える。他人を疎んじたり恨んだりしてしまう自分が、醜いと感じてしまう。
心清らかに生き、全ての他者を愛する事をこそ、神は人に望んでいるのだ。そうする事で、人々は争いもなく平和に、幸福に暮らすことが出来る。それは誰もが解っている真理だろう。だが、それを実現するには人には欲や矜持、そして障害が与えられすぎている。
ぎゅっと痛む胸を抑えて、ヴィンセントは口を開いた。
「巫女さまはお優しい方だと、私は思います。……私達の事を、心配してくださっていたでしょう? ご自身も危険に晒されているのに、私達に気遣いをしてくださっていて。出来れば巻き込みたくなかったとも仰っておられました」
「それは、だって」
一度、言葉を飲み込んでから、彼女は言った。
「……私のせいだから。私のせいであなた方まで」
「巫女さまの責任ではありません。私達は、事態に巻き込まれたから戦っているわけでは無いのです。私達は……私は、自分の意思で、巫女さまをお護りしたいと考えています」
ヴィンセントの言葉を、巫女さまはただぎゅっと掌を握って聞いていた。俯いたまま口を閉ざしている彼女に、ヴィンセントはさらに言葉を重ねる。
「神が人の罪を弾劾しているのなら、皆で罪を糾さねばなりません。神が人を罰しているのなら、それは皆で受け止めるべきものでしょう。巫女さまお一人が苦しんで良いはずが無い……と、私は思います。罪を犯した宰相と戦うのは我々の役目でもありますし、神に祈りを捧げるのは本来、一人一人が行うべきものでしょう」
じっと聞いていたレイティさまだったが、やがて彼女の身体が微かに震えている事に気付き、ヴィンセントは慌てた。小さく、泣いているような声が聞こえてくる。
「レイティさま……?」
うろたえた声を出したヴィンセントに、彼女は首を横に振った。だが、何も言わずに泣き続けている。どうして良いのか解らずに、ヴィンセントはただレイティさまの背を眺め続けていた。
休憩だろうか。しばらく走っていると、前を行く副団長やキールが馬を止めるのが見えた。その右手側には小さな町が見える。
ヴィンセントが馬を止めると、既に馬から下りていたキールが僅かに驚いた顔をした。彼は巫女さまを見てから、それからヴィンセントの顔を見上げてくる。ふっと口元を緩め、皮肉気な口調で言った。
「女を泣かせるとは、ヴィンスも中々やるな」
「馬鹿なことを」
ヴィンセントは苦いため息を付いてから、馬から下りる。そして改めて巫女さまを見上げた。もう嗚咽も涙も止まっているが、目が赤い。潤んだ瞳はゆらりと揺れてから、ヴィンセントを見下ろしてきた。青い、澄んだ瞳にどきりとする。
「ごめんなさい」
泣き声の成分を含んだような声に、更にどきりとした。ヴィンセントは彼女に手を差し伸べながら、首を横に振った。
「出過ぎた事を申しました。すみません」
「違うの」
こちらの手をとろうとはせずに、巫女さまは頭を振る。
銀の糸で出来たような長く真っ直ぐな髪が、太陽の光を受けてさらさらと輝いた。
「ごめんなさい、嬉しかったの。……有難う」
真っ直ぐにこちらを見下ろす瞳と、真っ直ぐに届いた声とに、鼓動が早くなるのを感じた。浮き足だつ自身を叱責するように軽く頭を振ってから、ヴィンセントは巫女さまの身体に手をかけた。触れただけで壊れてしまいそうなほど華奢にな、彼女の身体を慎重に抱き下ろす。
「それならば……良かったです」
何と答えて良いのかと逡巡した挙句、それだけを答えた。
小さな町に入ると、キールたちは衣服を扱っている店へと直行した。
普段は町の人間くらいしか相手にしないのだろう。小さな店の店主は明らかに余所者のキール達を見て目を丸くした。巫女さまは動きやすい格好をしているものの、聖職者らしい白の流れるような衣装に身を包んでいるし、従者としてついてきたメル達は簡素だがそれなりに高価そうな服を纏っている。そしてキールたち護衛の四人にいたっては軍服である。普通の兵士達が着ている――この町の人も比較的見慣れているだろう――黒の軍服とは違い、騎士であるキール達が着ているのは暗い赤色をしたものだが、それでも軍服だとは一目で解るはずだ。
「何か、御用ですか……?」
おどおどとした口調で言ったのは、こちらが軍服を着ているからだろうか。客に対する丁寧さではなく、何処か卑屈な声音である。キールは肩を竦めた。
「御用も何も服を買いに来たに決まってる。ここは服屋じゃないのか?」
「いえ……は、はい」
曖昧な返答に、どっちなんだよ、とキールは眉を顰める。が、気を取り直すと店に陳列してある服を見回した。町の小さな呉服屋らしく、老若男女が着れる服が取り揃えてあるようではある。キールはそれなりに自分が着れそうな服を見回すが、当然と言うか想像通りと言うか、まともな服は置いていないようだった。どれもこれもが安っぽくて、田舎くさい。
しばらく渋い顔をして店内を見てまわっていたキールに、ヴィンスから服が突き出された。黒色を基調とした外套に灰色のシャツ。厚手の黒いズボン。それぞれ、別に趣味は悪くは無いが地味すぎる。キールは首を傾げた。
「何だよ?」
「選んでる場合か。動きやすくて目立たなければ、何でも良いだろう」
ため息混じりに言われ、キールは眉を上げた。
兵士達とは全く違う色をしたキールたちの軍服は、追われている身としては目立ちすぎる。加え、巫女さまの格好も目を惹くものである。だからまずこの町で、服を手に入れようと言う事になったのだ。私服でいれば、とりあえず街中で人ごみに混じる事も出来る。
既にヴィンセントは軍服を脱ぎ、購入したのであろう服に着替えていた。くすんだ黒茶色の長袖に、硬そうな素材で出来た灰色の外套。元より何を着てもそれなりに似合う男だが、その格好は彼の瞳や髪のはっきりとした黒色が映えて良い。自分で選んだのか、それとも誰かに――メルあたりに――見立ててもらったのか。
キールは差し出された服をヴィンスに押し返した。
「こんな服じゃ、地味すぎて逆に目立つよ」
「どうせ、お前は顔も行動も目立つんだから、これくらいでちょうど良いだろ」
「お前ほどじゃねぇよ」
キールはそう言い捨てて、服を物色しにかかった。行動はともかく、純粋に目を惹く顔をしているのはヴィンスの方だろう。特に、彼のくっきりとした切れ長の黒い瞳は、どうも女の興味を惹くらしい。他の男からすれば実に羨ましい限りなのだろうが、彼の方はほとんど自分の容姿には無頓着である。
キールは手当たり次第に服を引っ張り出していたが、奥の部屋から巫女さまが出てくるのが見えて思わず視線を向けた。普通の少女のような格好をした彼女は、今までとがらりと印象が変わって見える。首元までを覆う柔らかな白のシャツに、淡い灰色の外套。銀糸のような髪は目立つからか、軽く結い上げられ帽子の中に隠されていた。
だが、にじみ出るような美しさは露ほども損なわれていない。何処か浮世離れした雰囲気も変わらない。空色の瞳は相変わらず全てを見透かすように澄んでいるし、綺麗な薄紅色の唇は神の言葉を伝えるのにこそ相応しいのだろう。
「意外と似合うな」
キールがそう言って口の端を上げると、ヴィンスは眉根を寄せた。巫女“さま”になんて口の利き方をするのだ、と言うところか。キールが彼を無視して巫女に視線をやると、彼女は少し身を引いた。キールに対して怯えたような所作であるが、すぐに少しだけ笑顔を浮かべて見せた。
「有難う」
微笑みと共に言われた言葉に、キールは瞬きをした。巫女として見せるような完璧な笑顔ではない。はにかむような少女らしい笑みに、急に人間らしさを感じて不思議になる。だが、首を捻っているうちに、背後から声がかかった。
「キール、置いてくぞ」
後ろを振り返るとフリッツが、これまたすっかりと着替えた格好で立っていた。彼については軍服以外で出会ったことが稀なので、非常に居心地の悪さや違和感を覚えてしまう。元より見た目では軍人らしくない彼だが、軍服を脱ぐと更に一般人らしい。町を歩いていた所で、彼が騎士であると気付く者は皆無だろう。
対して、フリッツの隣に立っている副団長については、服が浮いているとしか思えなかった。キールが見慣れないからだろうが、普通の服が似合わない事甚だしい。思わず吹き出しそうになったので腹に力を入れて、キールは棚から引きずり出した服を掴んだ。副団長たちに背を向けてから、キールは遠慮なく笑った。
「着替えてきますよ」
そう言って店の奥へと向かい、そこで手早く着替えた。今更だが、長居をすれば危険なのは確かだ。着替えて戻ると、皆はもう用意を終えているのか表に出ていた。キールが外に出ると、すぐさま馬が渡される。
「早いな」
「お前が遅いんだ。……なんだよその格好は」
既に馬にさえまたがっているヴィンスが眉根を寄せる。こちらの選んだ服が気に食わないのだろう。彼が言いたい事はおよそ解っていたが、首を捻って見せた。
「何か問題が?」
「目立たない格好をと言っているのに、わざわざ真っ赤な服を選ぶのか?」
ふ、と息を吐きながら言った彼に、肩をすくめて見せる。真っ赤なといっても、シャツだけだ。どうせ上には地味な色の外套を羽織っているのだし、さして目立ちはしまい。
キールはヴィンセントを無視して馬に飛び乗りながら、フリッツに尋ねた。
「次の目的地は?」
「休憩は挟むが、夜までにはオルンに着きたい」
北部第二の街オルン。
そこならば身を隠すことが可能かもしれないし、王宮の情報を集める事も出来る。宰相を避け、団長らと連絡する手段もあるかも知れない――と言う事だろう。キールは頷き、街のある北の空を見上げた。
二章終わり
三章へ――
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