野ばらはすう、と閉じたひとみをひらいた。
 潤沢にふりそそぐ日の光が、青い芝にまだらに影を落としている。耳をすませばざわざわと、風にあおられた木立が鳴いているのがきこえた。根をうねらせて地にいきづく木の幹によりかかって、嗚(ああ)、うららかな春の午後だと野ばらは思う。
 野ばらは丸眼鏡のふちをくいっとあげると、身をおこしてギムナジウムの庭を歩きはじめた。それも、わざわざ校舎からは死角になるような場所をえらんで。背のたかい木々が地面に青い翳をおとす並木道をとおり、ばらが左右に密集するちいさな道を通りぬけ、くねくねと迷路のようになったツツジの垣根をわたり、そうして野ばらは宿舎の裏庭へと出た。

「やあ、野ばら。ごきげんよう。今日も授業はサボりかい?」

 裏庭にいたのは、野ばらよりすこしばかり年下かというほどの少年だった。野ばらは少年のむぞうさにまとめられた、あせたプラチナブロンドが風にゆれるのを見つめる。それから、彼のいる鳩小屋の前に腰をおろした。
 くるっぽ、くるっぽと、鳩がせわしなく鳴いている。少年は反応のない野ばらをちらりと見やって、それから薄くくもりはじめた空を見あげた。

「お前もいいかげん、級友たちとなじんだらどうだい。いくら人種がちがうからって、あいつらと仲良くしなきゃうまくいかないこともあるだろ?」
「……別に」
「お前はヨワタリってやつが下手なんだなあ。そんなんじゃこの先大変だぞ」

 野ばらはそうかなあ、とため息をつく。足許に目をおとすと、鳩の白い羽毛がいくつも散らばっていた。

「ヨハンは世渡りが上手そうでうらやましいよ」

 そうかあ?と少年――ヨハンが云う。そうだよ、と野ばらは語気をつよめて云った。
 野ばらはこのギムナジウムにおいて、ゆいいつの東洋人だ。昨年の春に、父親が貿易会社をいとなんでいる関係でこの国にやってきた。野ばらはことばこそ不自由しなかったが、いまいちこのギムナジウムの空気にはとけこめていない。つんとして自信に満ちあふれた異国の少年たちを、気弱な彼は遠くからみつめるばかりだった。
 ヨハンとはここに来てからの付き合いだ。ひとりぼっちで庭に佇む野ばらに話しかけてくれて、それから仲良くなった。生徒ではなく、労働者としてギムナジウムにいる彼は気さくで、野ばらにとってはゆいいつと云ってもいいほどの友人だった。

「ヨハンと僕の立場が逆だったらよかったのになあ。ヨハンだったら、きっとあそこにも溶けこめるよ」
「はあ? そんなの、こっちから願いさげだ。おれはせまい教室にこもって勉強なんかしてるより、こいつらの世話しているほうがずうっといい」

 そう云いながら、ヨハンは片手にもったほうきを野ばらに渡した。鳩小屋の掃除を手伝え、ということらしい。野ばらは鳩のふんにまみれた小屋がいやだったが、ことわることもできずに箒をにぎる。

「僕は、ヨハンが友達でいてさえくればそれでいいんだ」

 無言で箒をうごかしていたヨハンが、不思議そうに野ばらをみる。さっきの話の続きかよ、とヨハンは云った。
「そんなこと云って、野ばらはいつのまにか同級生と仲良くなるに決まってるさ」
「そんなことない」
「そんなことあるさ」

 それからは意地の張りあいだった。けれどもそのうちお互い折れて、にこにこと顔を見あわせて笑いはじめる。野ばらこうなる度に、この瞬間がずうっと続けばいいのに、と祈らずにはいられなかった。ヨハンは僕にとって、このギムナジウムでのたったひとつの居場所なのだ。そう信ぜずにはいられなかった。
 そんな野ばらを、赤いひとみの鳩たちはじいっと見つめている。


    ◇


 寄宿舎にもどった野ばらは、はあ、とため息をこぼした。制服のまま鳩小屋の掃除をしたせいで、鳩のふんまみれだ。さいわい野ばらは季節はずれの転校生だったので、寮室の相方はいない。だから白っぽくなってしまった制服をあやしまれることはなかった。
 まったくヨハンもひと遣いが荒いんだから。そうこころの中で文句をつけながら、ごしごしと濡れた布で制服をきれいにする。そんなふうに悪態をついても、野ばらは結局明日もヨハンのもとに行ってしまうことがわかっていた。だって野ばらの居場所はあそこしかないのだから。教室のなかは息がつまってしまって、ひどくいごこちが悪い。鳩の羽毛にまみれても、あのかすかなばらの匂いのただよう裏庭の方がずっといい。
 でも、と野ばらはおもう。手元の制服をみおろす。――でも、いつまでこういう生活をつづけられるのだろう。もし野ばらがヨハンのところにいることが教師にでもばれたら、たちどころにふたりは会えなくなってしまう。もしかしたら、ヨハンか野ばらのどちらかがこの学院を追い出されてしまうかもしれない。
 
 ――そして、その危惧は現実のものとなってしまった。
 いつものように野ばらが授業を体調不良を理由にやすんで、ヨハンのもとへ行ったときのことだった。野ばらがあまりにも授業に出ないので、怒った教師が彼のあとをつけたのだ。そしてことは露見してしまった。教師はかんかんに怒って、腰に手をあてて野ばらをしかりつける。

「いつも授業をやすんでいるかと思えば、仮病で、しかも伝書鳩師などという身分のひくい子どもと会っていたなんて。あなたはそれでもここの学生ですか、野ばらさん」

 とうとうと講釈をたれる教師をまえに、野ばらはうなだれるばかりだった。となりで、ヨハンがびっくりしたように目をまんまるに見ひらいている。
 ヨハンには父親がおらず、病弱な母をささえるために仕事をしているそうだ。その身分はたしかにひくい。彼は学生ではなく、この学院でやとわれただけの存在だ。良家の子息ばかりが通うこのギムナジウムでは、彼のように“下賎な”ものとつきあうべきでない、という風潮がある。ちょっと話をするところをみられただけで、目くじらをたてられるのだ。ああ、これでもうだめだ、と野ばらはおもう。ヨハンとはもう会えない。あの息苦しい教室で生きなければいけないのだとおもうと、彼のこころは憂鬱になるばかりだった。


    ◇  


 それから数日がたった。 
  野ばらはあの日以来、ヨハンには会えていない。居心地のわるい教室の中で、教師のいやな視線をうけながらひたすら授業をうけていた。同級生の自信にあふれた態度も、異国の知らない歴史ばかりを聞かされる授業も、かたい木のいすにずうっと座っていることも、野ばらには耐えがたいものだった。ヨハンに会いたい、と野ばらは思う。ふわっとした土の絨毯のうえで、鳩の羽毛にまみれても、ヨハンとくだらない話をしたかった。
 いつものように野ばらは授業を終えて、寄宿舎にもどる。同級生たちが楽しそうに外に駆けてゆくのを窓から見下ろしながら、野ばらははあ、とため息をひとつ衝いた。当初は異国人をものめずらしくおもっていた同級生たちも、野ばらが社交的でないとわかるとすぐに彼から離れてしまっていた。
 野ばらが寝台の上で本を読んでいると、ふと、窓をこんこんと小さくたたく音が聞こえた。不思議におもって野ばらが窓をみやると、そこには一匹の白い鳩がいた。
 伝書鳩だ。ヨハンの鳩だ、と野ばらはとっさに気がつく。あわてて窓を開けると、やっと開けたわねとばかりにその鳩が室内に飛びこんでくる。その桃色のほそい脚には紙がくくりつけてある。ひとしきり室内を飛びまわって満足したらしい鳩は、野ばらの肩にのると、横柄な態度でその脚をさしだした。
(ヨハンからだ)
 ヨハンの汚い字が、ざらざらとして手ざわりの悪い紙の上におどっている。ところどころの文字がまちがって形式もへったくれもない手紙だったが、野ばらはそんなことも木にならない。ただ彼からの手紙を無心に読みすすめ、それから驚きに目をみひらいた。
(かあさんが死んだ。身寄りがなくなったから、遠方のおばのもとに引き取られることになった。って)
 ヨハンはこのギムナジウムでの仕事をやめて、遠くに行ってしまうという。野ばらはしばらく呆然としてしまって、何も考えることができなかった。けれども鳩がつんつんと頬をつつくので我に返る。返答をはやく書け、とその赤い目がしずかに物語っているようだった。
 野ばらは返事をいっしょうけんめい考えて、それから棚の中から上質な紙をとりだした。書きだした言葉はなんども悲しみに詰まって、それでもなんとか野ばらはそれを書きあげた。紙をちいさく折って鳩の脚にくくりつけると、鳩はひょいっと飛び上がって外に出ていってしまった。窓から、かすかなばらの香りをはらむ風が滑りこむ。


   ◇


 野ばらは丸眼鏡のふちをくいっとあげた。
 机の上にひろげていた教科書をまとめてかばんの中につっこむ。むかう先は図書室だ。
 ヨハンがこのギムナジウムを去ってから、季節はうつろい、いまは真夏の七月だった。あれから少し変わったことは、野ばらに同級生の友人ができたということだった。
 ヨハンが去って授業をサボる理由もなくなってしまった野ばらは、それ以降おとなしく授業をうけるようになった。そこで級友たちを観察して気がついたのは、だれもが野ばらのおもうように自信にみちあふれ、積極的にひとと接するわけではないということだ。異国人であっても、野ばらのように消極的な子どもはいるし、放課後外に出るよりは教室のすみで読書をすることを好む子どももいる。そして野ばらは、だんだんとそういった同級生たちと親交を深めはじめたのだった。
 図書室につき、そのむっとこもったような独特の空気にふれる。円卓に腰かける友人のすがたが見えた。今日は一緒に勉強をする約束だったのだ。

「野ばら。おはよう」
「おはよう、フレデリク。今日もはやいね」

 友人が軽く手を振る。その少し色あせたブロンドは、どことなくヨハンをおもい起こさせる。

「もう学期末だね。野ばらは長期休暇、どうするんだい」
「父さんたちが帝都にいるから、そっちに行くよ。フレデリクも故郷にもどるの?」
「そのつもりだけど。野ばらが帝都にいるなら、そっち方面に旅行しようかなあ。このギムナジウムも田舎、自分の故郷も田舎、でいいかげん田舎には飽きたからなあ」

 そう言って友人がくるくると羽ペンを回す。そのあともだらだらと話を続けているうちに、すっかりと勉強という当初の目的をわすれてしまった。
  嗚、こうしてヨハンがいなくても、自分の居場所とはあるものだったのだな、と野ばらはおもう。ヨハンはいまごろなにをしているのだろうか。軽口をたたきながら、いつも野ばらに友人がいないことを心配していたヨハン。
 ――あれ以来、彼からの手紙はきていない。
 野ばらの机の引き出しのなかには、ヨハンへの、けれども宛て先のない手紙がたくさん溜まっている。伝書鳩師はいつのまにか知らない中年の男の人に代わってしまっていて、教師にヨハンのことを聞いても首を横に振られるだけ。野ばらはヨハンの引越し先もしらず、彼と最後に会うこともなく、わかれてしまっていた。
 もうずっと彼には会えないのだろうか。野ばらの記憶の中で、少しずつ、ヨハンの記憶は色褪せてゆく。


     ◇


「野ばら。準備はもういいの?」 

 野ばらは鞄を背負うと、うん、と小さく頷いた。長年――といっても、ほかの級友たちよりは遥かに短い期間でなじんだ寮室を見まわす。荷物はすべてかたづけられ、朝日がきらきらと室内のほこりを乱反射させている。

「ひどいな、野ばら。まさか君がいちばんはやく卒業しちゃうなんて」
「ごめん。でも、まあ、いいじゃない。フレデリクも来年には卒業できるんだから」

 鼻白んだフレデリクに、野ばらはにっと笑んだ。それから、思い出したように机の上に置きっぱなしだった眼鏡を手にとる。黒い丸ぶち眼鏡は、もうサイズがあわなくなってしまって、今は別のものをつけている。
 まだまだ夏の残滓のいろ濃いこの季節。野ばらは級友たちよりも一足はやく、このギムナジウムを卒業する。寝る間もおしんでこつこつと勉強をつづけ、高等部の修了試験をすべて終えてしまったのだ。そのまま国内の大学にスキップで入学することになっている。
 ヨハンとわかれてからはゆうに四年。それは、引き出しのなかに溜めた手紙も、すっかりと黄ばんでしまうほどの年月だった。野ばらはいくどとなく彼からの手紙がこないかと、伝書鳩をこの部屋の窓のむこうにさがした。けれども、結局この日にいたるまであの羽ばたきを聞くことはなかった。

「野ばら。門まで見送りするよ」

 門までたどりつくと、野ばらはフレデリクに礼を云った。

「また手紙を書くよ、野ばら。帝都でも元気でね」
「うん。フレデリクも、がんばって僕と同じ大学に受かってね」

 そういたずらめかして野ばらが云えば、フレデリクは必ず、とばかりにつよく頷きを返した。そして二人は軽く手を振り、門でわかれた。

 野ばらは一人で駅まで行くつもりで、迎えを呼んでいなかった。
 帝国有数の景観のうつくしさを持つこの街の景色は、いくらみても飽きない。まだ夏の空気に肌はあせばんだが、野ばらはゆっくりと駅につづく石畳の道をあるいた。
 ――そこで、ふいに。
 野ばらは、ひどくなつかしいものを見た気がした。
 空を、無数の白い鳩がとんでいる。きっとギムナジウムから、それぞれの生徒の故郷へとむかう鳩だ。真白な羽が、ふわりと地中に舞う。そしてそのむこうに見えたのは。
 色あせたブロンドを、むぞうさにまとめて。痩せた背中が、野ばらの視界にうつる。嗚、どうしてだろう。野ばらは予感がした。今自分の目の前を歩いているのは、きっと。

「ヨハン」

 かすれた声で、野ばらは、その名を呼ぶ。

「ヨハン」

 もう一度、たしかめるように、強く、強く。
 背後から足音がきこえる。ゆっくりと、目の前の青年がふりかえる。一度石畳のうえに落ちた鳩の羽根が、ふわり、とまた宙にうかびあがる。
 ぱちり、と淡蒼色の双眸と視線がかちあう。

「お兄ちゃん!」

 ちいさな子どもが駆ける。そして、その青年の足に飛びつく。
 すべてがスローモーションとなって、野ばらの視界のなかで動いていた。そして子どもの声が響いた瞬間、すべてはもとどおりになってしまう。

「アレク。お前、迷子になったとおもったら」
「お兄ちゃんの足が速いのがいけないんだよ!」

 ――ヨハンではない。ヨハンでは、なかった。
 青年と少女を視界に、野ばらは気がつく。彼はヨハンではなかった。振りかえると、その顔だちがまったく異なることがよくわかった。ヨハンだとおもったのは、ただの勘違いであったのだ。
 野ばらはかすかに笑った。そのまま、じゃれあう兄妹の横を通りすぎる。
 そうだ、ヨハンがこんな場所にいるはずがない。ヨハンは、もうずっと昔に、遠くにいってしまったのだから。野ばらは足早に道を歩きながら、上着のポケットの中に手をつっこんだ。そこにあるものを握る。
 その手の中にあるのは、あの丸眼鏡だった。いまはもう身につけることはできず、ただの思い出の品となってしまったもの。眼鏡の表面を、きらきらと光がすべる。
 野ばらはそれをじっと見つめる。いつのまにか、こんなにも時が経ってしまったのだということを実感しながら。野ばらが居場所だとおもった少年は、もうずうっと昔に消えてしまった。だって最初で最後、彼に届けたあの手紙の内容すら、いまはもう思い出せないのだ。
 そこで野ばらは気がつく。いつのまにかあの少年は居場所ではなくなってしまっていたことに。そしてまた、自分は別の道へと足を踏みだそうとしている。――そういうことだ、と野ばらはおもう。
 あわい悲しみは胸のなかでそっとはじけて、野ばらの思い出のなかに溶けてゆく。  


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