大和歴代天皇陵墓
継体天皇陵・今城塚古墳
日本で唯一、一般市民が自由に立ち入る事が出来る天皇陵
但し、現在は市民の公園として整備中で立ち入り禁止中
平成23年完成予定
(立ち入り禁止)
高槻市郡家新町
(継体天皇陵・太田茶臼山古墳)
前方部外堀付近から
(拡大写真) (前方部分)
戦国時代、出城が築造され今城塚と
呼ばれていますが、外堀と内堀を備えた
巨大な大王(継体天皇)の陵墓です。
1592年の伏見地震の時、墳墓は大きく
崩れ落ち、内堀の大半が埋まったと
伝えられています。
(崩れ落ちた前方部分と内堀)
外堀から見た前方部
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外堀の一部は付近住民の耕作に
使用されてはいましたが、
全体的にはやはり、陵墓として
敬愛され、大切に保存されていたと思う。
後円部外堀
水の残っている所は、市民の絶好の釣り堀と
なっていました。
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発掘調査が終われば、市民の公園として整備され
大切に保存される予定。
方形と円墳の接続部分北側
発掘調査の発表会には大勢の市民が
訪れる。 平成14年12月
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同上展示物
内堀土手出張部分
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平成17年2月説明会
後円部頂部から中腹にかけて幾筋かの排水溝が
隠されていました。
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排水溝は玄室だけでなく頂にも通じていたのです。
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中腹には大きな石を下にして、整然と石葺きされて
いました。
(玄室説明)
石葺きの中に、排水口が隠れていました。
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排水溝は玄室の漏水を排出するだけでなく玄室頂部の
排水も行っていたのです。
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頂部の配石は雑然と置かれている様に見えるが、
頂全体から浸み込む僅かな漏水を集める配石である。
雨の多い日本で、土盛りの古墳を千数百年も守る
工法がこの時代に既に確立していたのです。
大王玄室の崩壊
平成17年3月4日現場説明会
崩壊した大王の玄室の跡と説明会に集まった人達
(拡大写真) (拡大写真)
今城塚は継体天皇の陵墓であり、当時の人達が
これだけ巨大な墳墓を築いたのもこの玄室に
眠る大王為であり、この玄室を守る為にも彼等は
同様心血を注いでいた筈であるが、
有名な”慶長伏見地震”(1592年)で陵墓は
大きく崩壊し、その内堀の大半が埋まったと伝え
られています。
無惨に崩れ落ちた玄室の一部
遠く方々から運ばれた石材の中には
大王の石棺の破片も散らばっています。
(拡大写真) (拡大写真)
伏見地震が巨大であったのも確かですが、今日では
この墳墓が断層の真上に築かれていた事も判明して
います。
古代の人達にはそこまでは解らなかったのでしょう。
(拡大写真) (拡大写真)
しかし、この様な例は他になく、彼等は地震に安全な土地を選んで天皇陵墓を構築していたと
思われます。今年初めて(神功皇后陵)の立ち入り調査が宮内庁から認められました。
今後、天皇陵墓の立ち入り調査が進めば、古代の人達の構築技術も解明されるでしょう。
外堀の南側は子供達の遊び場でもありました。
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現在も発掘調査の続く後円部付近
外堀の土手から望む
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巨大な今城塚の近くに墓石の無い土盛りの
あたかも、築造当時使役された人達の
墳墓の様にひっそりと
付近住民の先祖の墓で、四季折々
花の絶える事がない。
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航空写真
(拡大写真) (拡大写真)
今城塚古墳は市民の公園として整備される
予定ですが、市民が自由に散策出来る状態も
被葬者として悪くないと思う。
本人もその様な人物であったかも知れない。
薄暮の今城塚
闘鶏古墳から
今城塚は巨大で、全体像の撮影が出来る
場所は少ない。
春の芽吹きの前に
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実物大の石棺を九州で造り、船で運びました。
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修羅に乗せて、子供達に曳かせて観た所
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当時の配列の様に筒型埴輪を並べて展示
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当時の想像図
天皇陵墓で一般に公開されているのはここだけです。
陵墓付近地図
藍野陵と今城塚の間に
氷室町と土室町があり
ます。
氷室とは冬の間、雪や
氷を蓄え、夏期に大王
の為に用意したもの。
この辺では、雪や氷は
冬期山奥にありますが、
大量の雪や氷をここま
で運ぶか、夏期現地の
氷室から早馬で少量運
ぶのは不合理、
磐余の玉穂の宮の別宅
でもあったのかな。
現代人と感覚の差を
感じます。
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大久保 晃