生かせないのか
         古代人の知恵…地震対策  

          巨大設備、原子力発電所の建設に思う

 


 私達日本人であれば、誰でも心の奥底に感じていた

 不安、地震発生時の事故発生。

  それが現実のものとして、柏崎刈羽原発で

    発生しました。
               (柏崎原発事故)
 
  

 その事故の被害が甚大であったか、軽微であったかは

  見る人の立場、見識により異なるとは思いますが、

   より安全な対策があればそれに超した事は無い

    と誰もが思う事ではないでしょうか。



     
  古代人の知恵

      日本固有の地震被害の回避策 
   

    
  日本最古の歴史書古事記の中には地震に関する記述が殆どありません。

 それは古事記の記述の終わる推古天皇時代以前には日本に地震が少なかったのではなく、

 それまでの日本には被害に遭うほどの巨大な構築物は殆ど無かった為と思われています。 

 その点日本書紀では、推古天皇時代以降頻繁に地震に関する記述が現れます。

 その時代頃から地震の少ない大陸から巨大建築物の技術が導入され、同時に地震の被害が頻発したので、

 地震の被害に関する記述が増えたと考えられています。

 しかし、それは多少史実と異なると思います。

 各地の遺跡から大きな建物跡が発掘されている事は別として、各地に巨大な陵墓が残されており、

 その大半は天皇家の陵墓ですが、それらは大半推古天皇以前に築造されたものです。

  
  お堀に囲まれた垂仁天皇の陵                           





 











 この時代、大王の陵墓を築くことは国家国民を統合する為のシンボルとしての大事業であり
 又その維持管理も同様大切な事業でありました。

  確かに、陵墓は単に土を積み上げただけの小山に過ぎません。
 しかし、内部には大王の玄室があります。

  古代の人達が必死で守った (玄室の内部)

 

 この玄室は単に巨石を組み合わせただけのものですが、その玄室を雨水や地震による崩壊から
  守る為に様々な努力がされています。
                  (雨水から玄室を守る工夫=導水工法)
      

 驚くべき地震対策=(二重三重の堀)

             
 

  これは仁徳天皇陵の航空写真ですが
 三重の堀に囲まれています。

 現在の堀が何時の時代に形成されたもの
 であるかは不明ですが、他の古墳から推定
 しても最低二重の堀は存在したと思えます。


               (継体天皇陵)
 
 以前から継体天皇陵とは正式には認められて
 いなかった為、荒れてはいますが、明らかに
 二重の堀に囲まれています。

               (応神天皇陵)
 
 現在は一重の堀ですが、地形から二重以上の堀で
 囲まれていたと考えられます。

 



 お堀は古墳築造上、当然その周囲に出来るものであり、同時に農業用水として利用されていた事は
 明かで、江戸時代には皇室尊崇の念からも盛んに改修が行われていました。


   二重堀の陰の役割

 しかし、二重の土手はなぜ必要なのでしょう。
 
 
 これは仁徳天皇陵の外堀ですが、土手には雑木が生い茂り
 内部を覗う事は出来ません。

         (仁徳天皇陵の内堀)
 
 内堀も同じ様に土手には雑木が密生しています。

 多分、古墳築造後5年もすれば、土手は雑木に覆われ
 陵墓の壮大な景観は逆に損なわれたはずです。

               (姫路城の堀)
 
 これは城郭のお堀で、二重三重の堀には外敵の侵入を防ぐ
 目的がありました。


 しかし、陵墓のお堀には外敵の侵入を防ぐ必要もなく、又盗掘すら防ぐ事は出来なかったと思います。















  これは仁徳天皇陵よりも数代古い崇神天皇の陵墓ですが、二重堀は無く、江戸時代に農業用水確保の
 目的を兼ねて周囲の土手を嵩上げされたものです。

       (景行天皇の貧弱な堀)

 この写真は崇神天皇陵の隣に並ぶ景行天皇陵ですが、堀は極端に貧弱です。

  無論、これだけの墳墓を築く為にはこの堀の数倍の堀が周囲に出来たと思われますが
  後年、農地として浸食された堀の修復がされていない例です。


   お堀の耐震効果

 当時、多くの古墳は地震被害の少ない山際、即ち洪積層の上に築造されるものでしたが、

  古墳の周りのお堀に古墳を守る耐震効果のあることは古墳築造当時から知られていた

 事で (地震を回避した古代人の知恵)

 これは弥生時代の集落が二重三重の堀に囲まれていて、堀内部の彼等の墳墓が

 地震から守られる事を学んだ、日本独自の耐震構造です。


 当時の日本は国際関係の変化から大王の陵墓を海岸線近くの平野部即ち沖積層の上に

  大王の巨大な陵墓を築き、その強大な築造能力=軍事動員力を国の内外の人達に

  知らしめる必要がありました。

              (仁徳天皇陵遠景)   (応神天皇陵遠景)


 即ち、朝鮮半島や中国から大阪湾に入港する船舶の人達にまで、その巨大な動員力を

  誇示して、国際関係を有利に進める為に、あえて地震被害の大きな平野部=沖積層の上に

  巨大な陵墓を築造したのです。

 その為、彼等は陵墓を震災から守る為に、二重三重の堀を採用する必用があったのです。 

 

  
  応神天皇時代、その強大な土木工事技術を動員して
  改修されたと伝えられる孝元天皇の陵墓と剱の池。

  しかし、その改修目的は単に農業用水の確保であり、
  二重、三重の堀は必要無かったのです。

    
    (景行天皇陵墓の貧弱なお堀)

 その点、崇神天皇陵墓と並ぶ同時代の景行天皇の陵には
 貧弱なお堀に囲まれているだけです。

  無論、これだけの墳墓を構築する為にはこの数倍の堀が
  生まれた筈です。後年農地に浸食された堀を
  修復しなかった例です。     


  参考

   (神功皇后の陵墓)  (箸墓古墳)

      周囲の堀は農地に浸食され修復されていません。

  
 継体天皇陵墓の外堀とそれを仕切る土手

  継体天皇は応神天皇の五代後の孫と言われ
 100年程後に築造された陵墓ですが、
 長らく天皇陵墓として認められず放置されて
 いましたので、修復もされていませんが、
 壮大な二重堀の跡は明確です。

   (伏見地震で崩れ落ちた玄室の基礎)

 世に知られる慶長伏見地震(1592年)で
 崩壊した継体天皇陵の玄室基礎の発掘調査

 陵墓は断層の真上にあり、この地震で一部
 崩壊しましたが、それ以前の1000年もの
 間は崩壊から守られていた事の方が重要で
 当時の築造技術では地下の断層までは
 探知出来なかったとしても仕方の無い事です。
  


 雨水からの防御

  (継体天皇陵の排水設備)  (同排水口)

 天皇陵墓の玄室は震災や雨水による崩壊から守られていましたが、継体天皇陵墓ではそれまで
 四国から運ばれる閃緑岩は富や権力の象徴でもあったのですが、現地では調達出来ないはずの
 閃緑岩が無造作に排水溝に使用されていました。

  多分、近くの墳墓又は記念碑に使用されていたものを利用したのでしょうが、当時の指導者達の
 国際感覚の変化からすれば、遠く四国から運ばれてきた貴重な石も、
 只の石ころに変化していたのです。

 この事から見ても、当時の上層指導者達の意識は現代にも通じるものがあり、
 一般庶民の感覚とは隔絶した見識であり、古事記等に記された神話の世界も
 彼等からすれば単なる政策の具でしかなかったのです。

 私達が古事記や日本書紀を読む時、書かれた内容が荒唐無稽であると笑う前に
 その荒唐無稽な話を平然と利用していた人達の存在を忘れてはならない。

 又、その様な人物が古事記や日本書紀成立の遙か以前にも存在し、日本の歴史
 を動かしていた事は記紀の内容からも読み取る事が出来る。

 近代科学は過去の思考を全て否定する事から始まるとしても、それは不合理な
 思考を否定するものであり、過去の経験から得られた貴重な知識まで否定する
 ものではない筈です。

 このページは単なる一市民の発想を述べたものであり、学術的基礎知識に欠ける
 事は否定出来ません。

 しかし、過去の経験から得られた知識が貴重であるか否かの判断は現代の科学
 では容易な事かも知れませんが、積み重ねられた経験と更にそれを応用した実績
 には千数百年の重さがあり、再現は出来ません