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連リンク 湯立坂マンション建設問題を考える会 http://yudate.s201.xrea.com/
湯立坂散歩(ゆたてざかさんぽ) http://blog.yutate.com/
| 2011.09.23 | 放送大学の屋上からの撮影が許可されたとのことで、私も初めて新築校舎に足を踏み入れ、屋上から景色を眺めることができました。 屋上に上って、直ぐ真正面に高い「野村のマンション」が迫ってきました。携帯電話のカメラで写したので余り良いできではありませんが、添付して送ります。どれくらいの大きさになるか凡そお分かりになると思います。 銅御殿の何と小さいことか。。。。。。一階の部分が木で見えませんが、土庇は野村のマンションに数メートルです。 (野村のマンション、まだ名前が無いので取りあえず野村のマンションとしました。) |
| 2010.09.03 |
裁判傍聴記 2010年9月2日(木)午前11時から銅御殿(旧磯野邸)を守るために文化庁を相手取った裁判の1回目が開かれるとのことで傍聴しました。 訴訟は文化財保護法第43条と45条の適用を求めたもので、第43条は、重要文化財に関しその現状を変更し、又はその保存に影響を及ぼす行為をしようとするときは、文化庁長官の許可を受けなければならない(以下略)。 第45条は、文化庁長官は、重要文化財の保存のために必要があると認めるときは、地域を定めて一定の行為を制限し、若しくは禁止し、又は必要な施設をすることを命ずることができる。(以下略) というものです。 今回は、原告2名が意見陳述を行いました。広田さんは湯立坂の環境が気に入って住まいを決めた。この環境を孫子の代まで伝えていく責務がある、と述べられました。 また、もう一人の方は、地域の歴史を踏まえ、戦時中は近隣住民みんなでバケツリレーをして戦火から銅御殿を守った経緯を述べられました。お二人とも感動的な陳述で、このように地域を愛する住民が手を携えていくことで、地域のコミュニティが健全に育まれていくのだと痛感いたしました。 陳述のあと、文化庁側は持ち帰って検討するとのことで、次回の日程を決めて閉会しました。 事前に文化庁から提出された答弁書では、今回の裁判の原告は、所有者ではないので、「原告適格なし」というものだったそうですが、文化財はみんなの宝であり、良好な環境は市民共有の財産です。そういう意味で文化庁は、本題の文化財保護法第43条と45条に踏み込まれたくないという逃げの姿勢を貫きたいのでしょうか。 文化財保護法は、一方的に重要文化財の指定ができるなど、強い権限が明記されていますが、その伝家の宝刀は抜かれたことがなく、すっかり錆ついているようです。 第43条、45条も錆びた宝刀にしないためにも、次回の反論に期待したいものです。 |
| 2010.09.02 |
文化庁を相手にした裁判、始まる! 本日(2009年9月2日)、文化庁を訴えた裁判が始まりました。 午前11時の東京地裁の522号室。40数席ある傍聴席は、ほぼ満席になり、報道も数社来ました。 傍聴者の中には「ネットでみて、来てみた」とお話しくださる方もいらっしゃいました。どうもありがとうございます! 原告のお二人が意見陳述をされました。 特に、これまでの湯立坂・銅御殿と近隣住民の間の関係についてのお話には、心打たれました。 少々長いですが、最後に掲げておきます(一部省略と加筆をしました)。文京区の歴史という点でも、興味深いお話です。 11時半には終わり、別の場所で、原告弁護団の弁護士さんから、今日の様子・ポイントと今後の見込み等について、解説をしていただきました。 文化庁相手の裁判の次回は10月28日の11:30から、同じ東京地裁522号室で行われます。 文京区・審査機関相手の裁判の次回は、9月8日(水)11:30から、東京地裁705号室です。 みなさん、お時間が取れたら、是非傍聴にお出かけください。 陳述書−湯立坂・銅御殿と周辺住民とのつながりについて 小石川5丁目にある湯立坂界隈は、国の重要文化財・旧磯野邸(通称「銅御殿」)や大正期の洋館が残り、近くには占春園や小石川植物園、旧帝国大学医学部本館などがあり、都心には珍しい雰囲気の緑と文化財に溢れた景観を保持する、貴重な一帯を形成しています。野村不動産による計画地は、ちょうどその真ん中、湯立坂脇になります。 湯立坂と銅御殿の歴史的な成り立ちは、植島暁子「湯立坂と銅御殿の敷地について」『大谷美術館館報』第15号(平成21年6月、(財)大谷美術館発行)で詳しく論じられています(資料1)ので、私の方では省略いたします。明治維新後、武家屋敷跡がいったん畑になり、その後、明治後半期から宅地化していった一帯になります。 湯立坂界隈は、昭和に入る頃には、大きな敷地に和風邸宅や和洋折衷邸宅が建つ、お屋敷町になっていました。湯立坂の東側に位置する銅御殿の北東には、東京帝国大学の初代地理学教授の山崎直方邸、その間に、三河郷友会の学生寮、北側には、東京師範学校教授だった高嶺秀夫が建てたお屋敷がありました。旧高嶺邸は、戦後までありましたが、今はもう残っていません。山崎邸はその一部(2階建て洋館部分と和式平屋の2間)が今でも残されています。銅御殿の向かいの湯立坂の西側(今の窪町東公園の一部にあたるところ)は、東京文理科大学の敷地で、建物が建っておりました。 当時、市電が春日通りを走っていて湯立坂を登り切ったところに「文理大前」の停留所があった関係で、坂の下の氷川下町や白山御殿町、久堅町に住む人たちの多くは、緑の湯立坂を上って、出かけていました。この坂が、坂下の千川筋と市電が走る春日通りとを結ぶ、日常生活に重要な基幹道路でした(それは今でもそうです)。 戦争以前の時期に銅御殿が近所の人たちにどういう関わりがあったのかは、残念ながらわかりません。ただ、戦争中は、近所の子どもを集めた寒稽古の会場になっていたそうです。Hさんによれば、当時窪町小学校4年生だったHさんは、昭和17〜18年頃に、2年間、中学生(旧制)の知り合いに誘われて、銅御殿の書院の間の2部屋を使って行われた剣道の寒稽古に通ったそうです。子どもたちは10名ぐらい集まっていたそうですが、ともかく怖い先生だったそうです。 昭和20年5月25日の空襲は、当時の小石川区を直撃しました。資料2の赤い色の部分のように、文京区の大半が消失してしまいました。湯立坂の周辺も、湯立坂を下った氷川下界隈も、ほとんどが焼けてしまいました。東側に隣接する三河郷友会の学生寮と山崎邸とは、銅御殿とともに被災を免れましたが、そのすぐ東側にあった愛知県の学生寮(愛知社)から向こうは、完全に焼け野原になってしまいました。湯立坂を下ったところにあった高嶺邸も焼けてしまいました。また、湯立坂の西側にあった文理科大の建物は燃えてしまいました。それゆえ、この近辺では、銅御殿を含めた湯立坂の東側のほんの一角だけが焼け残ったわけです。 近くで焼け残った小石川植物園には、1万5千人もの人が集まってきて、被災者暮らしをしたそうです。小石川や駒込方面にあったたくさんのお屋敷は、この空襲で灰になってしまいました。結果的に、銅御殿は貴重な歴史的遺産として残されました。 銅御殿が焼け残ったのには理由がありました。近所の人がたくさん駆けつけてきて、みんなでバケツリレーをして延焼を食い止めたそうです。当時バケツリレーをした久堅町会の町会長さん(当時)の娘さんが、お父さまから聞かされた話では、次のようだったそうです。 当時久堅町の町会長だったお父さまは、消火の責任者として町会の他の人たちと一緒に、空襲の時に銅御殿に駆けつけたそうです。そして、長いはたきのようなもので、樹木に落ちてくる焼夷弾を振り落とす者もいたし、落とした火の塊や地面を這って攻めてくる火の玉をバケツリレーで消す者もいて、「この屋敷だけはどうしても守らねば」と、周辺住民が力を合わせて、命がけの消火作業をしたそうです。 お父さまは、自分がもう死ぬかと思うくらい熱風を受け、身体が熱くなっていたそうで、バケツの水を身体にかけながら、一生懸命消火作業をしたそうです。そして、もう駄目かと一瞬諦めかけたそのとき、突如風向きが変わったそうで、「これぞ神風」とおもわず合掌する者もいたそうです。 ふと我に帰り身体が熱くなる中で、わが家にとって返したところ、たどり着いてみると、既に跡形も無く自宅は焼失してしまっていたそうでした。 お父さまは、「わが家を失って複雑な思いはあったけれど、結果的に、わが町の大切な、世界に誇れる日本建築の美しさと、重厚さのお屋敷を住民一体で戦火から守る事が出来、後世に残す事が出来た事は、わが生涯の誇りである」と、ことあるごとに娘さんに話されていたそうです。 焼け残った銅御殿には、戦後すぐの頃は大谷重工業の社員や戦災にあった近所の人が住んでいたことがあったそうです(前掲植島論文)。ご近所のどなたが住まわれていたのかは、残念ながらわかりません。ちなみに、同じく焼け残った隣地の山崎邸にも、たくさんの知人や近所の人が仮住まいをされていたそうです。当時は山崎家の蔵書をみんなで自由に読んでもらっていたため、その蔵書群は「山崎文庫」と呼ばれていたそうです。 戦災で帯状に焼けた湯立坂の西側(文理大の東側一帯)は、昭和21年に戦災復興事業の土地区画整理事業の対象区画に指定され、湯立坂に沿った細長い帯状の公園(窪町東公園)が作られました。公園には、桜やケヤキが植えられ、その後現在に至るまで、地元の人たちの散歩や憩いの場として、愛され続けてきました。これによって、「湯立坂は両方の沿道から樹木が覆い被さり、視野に建物のスカイラインが入らない「隧道」型の街路景観を生み出」すことになりました(中島直人他「東京都区部の戦災復興区画整理地区の計画特性の把握――一般市街地での住環境向上施策としての景観計画立案に向けて――」『住宅総合研究財団研究論文集』第35集、平成20年)。 なお、緑にあふれ、文化財を擁する湯立坂は、平成20年3月に、文京区都市景観賞(ふるさと景観賞)を受賞しました。 私たち、湯立坂周辺に住む者は、戦後長らく、窪町東公園と銅御殿によって形成された「緑のトンネル」を通勤・通学や買い物の要路として使い、銅御殿やその大門(これも平成17年に重要文化財に指定されています)を眺めて暮らしてきました。平成9年度に文京区まちづくり公社が作った冊子『文京区の近代建築』(エコプラン編)でも、「みんなで選ぶ近代建築ベスト10」と「思い出シート」の集計結果で、区内52カ所の建築物のうちの一つとして、「大谷邸の門」が選ばれています(資料3)。銅御殿自体は深い緑の奥に隠れていますが、その大門は多くの人が通勤・通学の際にいつも目にしている、なじみ深い建造物だからです。 ただし、平成17年に重要文化財に指定されるまで、銅御殿の建物は一般に公開されることはありませんでした。しかし、近所の男の子たちが庭園の一角にあった竹林に竹の子を掘りに来たり、子どもたちが学校の宿題の植物採集で、庭に入れてもらったりしていました。身近な里山の役割を果たしていたわけです。地元の住民も、お祭りや火の用心などで、折りにふれ、銅御殿を訪れていました。次の文章は、15年前に小石川5丁目に引っ越してこられた方のお話です。 はじめて大谷家の門をくぐり、銅御殿の存在を知ったのは、子供が6歳の時の窪町町会の秋のお祭りの時でした(今から14年前)。私は御神輿に付いて町会を回り、大谷家の門をくぐり銅御殿の前で、当時の当主だった体が少しご不自由だった年老いた大谷哲平氏の前で、豊穣のお祝い、繁栄を祈念し、景気づけに神輿を担ぎ振舞ました。その時に大人にはお神酒が振舞われ、子供にはお菓子やジュースを頂き、そこでひとときを過ごす時間は、タイムスリップをしたほど、歴史的建造物の前では悠久の時間がゆっくり流れるほどで、どのくらい時が経っているのか、それは見事な一本一本の木々の大きさに圧倒され、勝手口から覗く台所らしきところは、江戸時代の舞台を見ているようでした。いまだこのような歴史的価値のある建物が残っていたのかと思うと、また私の自慢が増え、多くの方にこの興奮を語りました。それからは大谷家の門をくぐれるかと、何度も神輿の当番を買って出たほどです。 大谷氏との会話で印象的な思い出があります。一本一本の柱の由縁、施工の素晴らしさ、二度と同じものは出来ない素晴らしさ、この家を建てるのにどれだけ大変だったか、それを守るのにどれだけ心血を注いでいるか等、その思いを私たちに伝えるために「この家は私が目の黒いうちは絶対に壊さない。ずーっと守ってもらわなくてはならない。」と柱を愛おしく撫でながら話された言葉が、今でも思い出されます。 また暮れには火の用心の見回りでお汁粉を頂戴し、古き歴史のある街にまだ残っている素晴らしい地域住民同士の付き合いに、温かいものが込み上げて参ります。本当にこの街に住んで良かった、地域一体となってこの街を守っていきたい、このままであってほしいと願っていました。 今でも、毎年9月20日前後の地元の神社の祭礼の日には、子ども御輿、大人御輿のそれぞれに大門から入らせてもらって、銅御殿の主屋の前で休憩させてもらっています。おでんやお菓子、御神酒をふるまってもらっています。子ども御輿・大人御輿、それぞれ約20〜30人ぐらいの大人や子どもが、くつろぎながら建物や庭の見学をしていっています。大人御輿の担ぎ手の中には、銅御殿に隣接する学生寮(三河郷友会・愛知県学生寮)の学生さんも混じっています。 以上のように、幸運にも戦災を免れた銅御殿と、緑に包まれた湯立坂は、地元の人に長年愛され、私たちの貴重な生活空間の一部になってきました。 最後に、私自身と湯立坂、銅御殿との関わりについて、お話しさせていただきます。 (略) 私だけではなく、他の原告の方々も、一人ひとりが湯立坂と銅御殿に対して、それぞれの思い出や関わりを持ってきておられます。何よりも、身近なところにある重要文化財が壊れてしまうことになりかねない危機感は強いものがあります。国民として、近所のものとして、誰かがやらねばなりません。それは、戦争中に近所の人たちが、人手の少ないお屋敷の消火に駆けつけて、バケツリレーをやった使命感に通じるものがある、と思っております。 戦災を免れ、後世に残されることになった貴重な銅御殿と、それをとりまく湯立坂の「緑のトンネル」は、私たち地元の者の宝であり、誇りです。昔から地域の人たちに愛されてきた銅御殿がビル風等で破壊されてしまわないこと、戦後数十年の時間の中で作られた湯立坂の美しい景観が、できるかぎり保全されていくことを、心から祈っております。 |
| 2010.08.31 | 皆様、銅御殿裁判の傍聴においでください! 9月2日(木)11:00に、文化庁を相手にした第1回裁判があります。 また、9月8日(水)11:30に、文京区と確認審査機関を相手にした第2回目の裁判があります。 〔9月2日:対文化庁の裁判第1回目〕 日時:9月2日(木)11:00〜11:30ぐらい 場所:東京地方裁判所522号室(民事3部) 東京地方裁判所:東京都千代田区霞が関1-1-4(地下鉄東京メトロ 丸の内線・日比谷線・千代田線「霞ヶ関駅」A1出口から徒歩1分) 〔9月8日:(水):対文京区・確認審査機関第2回目〕 日時:9月8日(水)11:30〜12:00ぐらい 場所:東京地方裁判所705号室(民事38部) 地裁入口で簡単な手荷物検査などがありますので、携帯電話を手荷物に入れて検査を受けてからロビーにお入りください。 裁判を傍聴するのは初めてという人も、ぜひどうかおいでください。 緊張感があって、面白いです。 |
| 2010.07.14 |
銅御殿裁判、始まる!住民からの意見陳述 7月13日(火)東京地裁705法廷で、銅御殿脇のマンション建設に関する裁判が始まりました。 今回は、文京区と確認検査機関を相手取った訴訟の初回でした。 40席を超える傍聴席は開廷前にすべて埋まり、後から来られた6人の方が、残念ながら入れないでお帰りになりました。 入れなかった方、まことに申しわけありません。 原告の大谷財団の理事長と、原告の一人に加わった近隣住民とが、意見陳述をおこないました。 大谷さんは、銅御殿(正式には、旧磯野家住宅)の成り立ちをとそれがいかに文化財として貴重なものであるのかを、静かな、でも万感の思いを込めて話されました。住民のAさんは、次のように話されました。心にしみいるお話でした。 〔意見陳述書〕(数カ所、本人の当日の実際の語りに沿って、加筆してあります。) 今から約4年7ヵ月ほど前の、平成17年の暮れ近くに、近所に住むBさんが「大変よ、湯立坂の樹が伐られてしまったのよ!」と顔色を変えて知らせてくれました。二人で小走りで湯立坂に向かうと、信じられないことに、そこにあった森がなくなっており、唐突に坂の途中がぽっかりとがらんどうの空間になっていたのです。 土肌をむき出しにした斜面には、あちらこちらに、大きな切り株が泣いているかのように白くみずみずしい姿をさらしていました。 朝に夕に行き来してきた湯立坂の中心部の樹木を突如破壊されて、胸がえぐられるような、言葉に言い表すこともできない喪失感でした。 なぜこんなことになってしまったのだろう、と、私たちは大谷さんの大門の横のドアチャイムを鳴らしました。 大谷先生と奥様にお会いして、湯立坂を豊かな緑で包んでいてくれた銅御殿の庭が野村不動産に売却され、マンションが建つ計画があることを知りました。 野村不動産は樹木はできるだけ残しますと言い、奥様、どの樹とどの樹を残しましょうか?と聞いたというのです、奥様はそれに対して、一番大事なのはユズリハで、次は桜の樹、そして楓です、と答えられたとのことです。すると野村不動産は、ある朝、これから樹を伐りますと直前になって告げてきて、大事な樹から伐採したというのです。崖の上のシラカシとモチの樹以外は1本残らず伐られてしまったのです。 まさか地域の皆にもあんなに愛されていた桜の木から真っ先に伐採されるとは。脈々と受け継がれてきた木々の命をいとも簡単に伐採するとは、建設会社がすることでしょうか?奥様はお数珠を持って涙を流しながら伐採をみておられたとのことですが、気も狂わんばかりだったことでしょう。本当は樹にすがりつきたかった、と涙ながらにおっしゃっていました。 銅御殿の内部を初めてみせていただいたとき、見たこともない素晴らしい材料と、独創的な美しい仕様に目を見張りました。最高の腕を持つ匠たちが、渾身の思いを込め細部まで工夫しながら道具を1ふり1ふりして作り上げていったその魂が、時を超えて書院の空気に漂っている気がして、雷に打たれたような感覚を覚えたのを忘れることができません。 書院の廊下のベルギー製の繊細なガラス戸は、大谷先生と奥様だけで開け閉めしてこられたとお聞きして、銅御殿を守るために今までどんなに心血を注いで来られたか、誰にでもできることではない、こうして心を尽くして維持してこられたからこそ、100年近くたっても元の姿で伝わっているのだなあと深い敬意の念を覚えました。 そして崖の上のシラカシともちの樹だけでも守ろうと、私たちは近隣住民の運動を開始しました。 湯立坂は、坂の中ほどで大きくゆるやかに蛇行して坂下の千川通りにつながる景色の変化の大きい趣のある坂です。両側を窪町東公園や銅御殿の斜面で囲まれた切り通しのような坂で、公園と銅御殿の庭の木々が枝を伸ばして頭上高くに屋根のようになり、こんな雰囲気のある坂は他にはないのではないかと誇らしいような気持になります。 茗荷谷駅前の温度と空気は、坂の入り口の銅御殿のところから変わり、空気はすがすがしく、夏は洞窟に入ったように涼しく、汗だくの体がすーっと冷やされて生き返ったような気持になり、冬はさんさんと日が差し込んで温室のようで、ここを通るのが本当に楽しみでした。土と木と葉や草の香りがむっとたちのぼり、木漏れ日が幻想的に刻一刻と変化し、別天地にいるような錯覚を覚えるほどでした。春になると鶯が鳴き、そして3月になると湯立坂の大きな桜の木が春を知らせてくれ、その蕾の膨らみを愛で、花が咲くのを心待ちにし、そして満開の花の下、桜吹雪の中を登下校する子供や通勤する方たちはそれはそれは春を体全体で満喫したものです。 季節を感じる住環境の素晴らしさは何にも代えがたく、子どもたちには、学校で習う教材より、生きた教材で、新緑の芽吹き、梅雨時期のカタツムリやナメクジが歩いた道筋を眺め、夏には蝉の羽化、チョロチョロと走って逃げるトカゲ、紅葉のもみじに銀杏、銀杏の臭いに道いっぱいの落葉のじゅうたん。 伐採されてしまった銅御殿の庭の森には、鳥のさえずりが響き、コゲラ、メジロ、ジョウビタキ、鶯、などのさまざまな鳥・虫などたくさんの生き物が生息し、窪町東公園や占春園、小石川植物園、といった周辺の緑地帯を行き来していました。 たくさんの方たちが、コンクリートジャングルの都会の中で、このみずみずしいオアシスのような坂を通ってそれぞれに豊かな気分を味わい、幸せを感じ、喜びを感じているんだなあと思うと、ここはまさに地域の皆にとってかけがえのない宝のような場所なのだとつくづく思うのです。 湯立坂の名は、今は暗渠になっている坂下の千川が、昔はたびたび大水であふれ、対岸の簸川神社にお参りに渡ることができなかった時、氏子さんたちが湯立坂で湯花を奉ったという、そういった古事からついた名前とのことですから、古人の信仰と結びついた神聖な場所だったようです。 窪町東公園一帯は、水戸光圀の弟松平頼元が大名屋敷を構えたところで、屋敷内の庭園の占春園は、江戸の3大名園の一つと言われたそうです。 占春園は今も湧水の池やうっそうとした緑が広がり、筑波大学付属小学校の自然観察園にもなっており、大名屋敷庭園としての風格を持ちながら、都会の中とは思えない閑静で野趣ある空間になっています。カワセミやコサギも見ることができるのです。 占春園には日本の師範教育の振興に大きな功績を残し、柔道の創始者として世界的な嘉納治五郎の銅像もあり、一角に明治期に東京高等師範学校が設立され、戦後は東京教育大学になり、更に筑波大学に改組されたように、教育学でも特筆すべき場所となっています。 銅御殿の隣、湯立坂を見下ろす高台には近代地理学の祖と言われる山崎直方、日本ユニセフや桜蔭学園創設者の一人、山崎光(みつ)の居宅だった大正期の洋館・山崎邸があります。山崎邸の隣には、理化学研究所設立者の一人、高嶺譲吉、双葉学園を創立した高嶺信子が住んでいました。 まさに日本の近代教育事業に多くの人材を輩出してきた特別な場所なのです。 さらに、湯立坂を下ったところには、東京大学付属の小石川植物園内に、国の重要文化財の旧東京医学校校舎があります。 銅御殿と旧東京医学校校舎、文京区の6つの重要文化財のうちの2つがこんなに至近距離にあるという信じられないような地域です。 面積としてはそんなに広くないこの一帯に、文化的歴史的に、他にはない数段高いものがぎっしりと詰まる日本でも類をみない場所なのです。 銅御殿の施主、磯野氏はなぜ銅御殿をこの湯立坂に建てたのでしょうか。 磯野氏は、山林王として山や材木を扱っていたので、自然を見る目は確かなはずです。 たくさんの素晴らしい候補地から湯立坂を選んだのは、景観として名園の占春園が隣にあり、ハイレベルな教育ゾーンであること、湯立坂の高台から眺める眺望の素晴らしさといった、まさに湯立坂独自の歴史的文化的背景と自然の地形の特質に惹きつけられたからこそここにお金と時間に糸目をつけない邸宅の建造を決めた に違いありません。 そのような磯野氏の先見性と、湯立坂にふさわしいものをという磯野氏の心に応えた若干21歳の棟梁がいたからこそ、銅御殿ができたのです。 この環境がなければ銅御殿はこの世に誕生しなかったといえるでしょう。 だからこそこの環境を壊してはいけないのです。 湯立坂は文京区の景観賞にも選ばれています。文京区として大切な景観なんだとはっきり宣言したわけですから、ぜひ選定された時の形で守り遺していっていただかないといけません。 策定されようとしている文京区の『新たなる基本構想』のタイトルは、「歴史と文化と緑に育まれた、みんなが主役のまち」「文の京(みやこ)」となっており、将来都市像としても、「歴史と文化と緑に育まれた、みんなが主役のまち」を掲げて「これまで先人たちによって、脈々と受け継がれ、区民の誇りの源泉ともいえる歴史・文化・緑を今後も引き続き大切に守り、生かしながら云々・・・」と言っています。 歴史と文化と緑、の全てがある湯立坂はまさに文京区のアイデンティティと言えるところなのですから、素晴らしい内容の文京区の文化財保護条例を駆使し、法律を駆使し、その理念を示していただきたいと思います。 ここを守らずして、文京区は一体何を守ろうというのでしょうか。 文化財と一体となった湯立坂の景観を守っていかなければ、文京区とはいえないのではないでしょうか。 日常生活の中に、緑と坂と史跡を行き来することができることこそ願わしい幸せです。 湯立坂の景観は大きく損なわれようとしていますが、今ならまだ湯立坂の景観を取り戻すことができると望みを持っています。 どうか未来に誇れる叡智あるご判断をしていただきますよう、心からお願い申し上げます。 |
| 2010.07.05 | 文化庁や区もひどいけれど、事業主もひどい! 一区民 関係者から以前うかがった話では、野村不動産の担当者が重要文化財を管理する大谷財団の理事長のところにやってきて、「文化庁に出す書類だ」と表紙だけを差し出し、「文化庁に出す書類なのでここにサインをしてください」と頼んだそうです。 しかし、理事長は「内容もわからぬままサインはできない」と、拒否した、とのことです。 もしもそれが2006年5月に文京区が出した意見書の件だったとしたら、事業主は重要文化財の管理者に対して、何も説明しないままサインだけさせようとしたわけです。 文化庁や文京区もやり方がひどいですが、事業主もまたひどいやり口だったことになります。 |
| 2010.07.03 | 重大な事実が明らかに(その2)! 文京区は、事業主を通じて、銅御殿側の意見を聴取させていた! 公正な行政って何? 文京区は、文化庁に挙げていく意見書(2006年5月)をまとめるにあたって、事業主を通じて、銅御殿側の意見を聴取させていたことが、明らかになりました。紛争の一方の当事者に、相手方の言い分を聴取させようというのですから、ひどい話です。 2010年6月11日の文京区議会建設委員会で、浅田やすお区議(社民)の質問に対する文京区の答弁で明らかになりました。 浅田議員は、なぜこの意見書で「事業主を通じて」となっているのか、質問しました。 文京区の担当者の答えは、「工事業者はこの平成18年の文化庁への意見照会にあたりまして、その照会書に添付するため、所有者に対しましても平成18年の5月10日付で、意見を求めました。しかしながら所有者側から回答を得られなかったと聞いております。/教育委員会としましてはこうした状況を文化庁に伝えたところ、所有者に意見聴取をするのが望ましいが、所有者の意見が得られなくとも、所有者に説明等行った経過等を明らかにした資料を添付することで差支えない、という回答を得られました。」というものでした。 文京区は、事業主に(財)大谷美術館(=所有者)の意見を聴取させたことを認めました。泥棒に金庫のカギを預けるような、無責任なやり方です。 |
| 2010.07.03 |
重大な事実が明らかに! 文化庁が「風は無視しろ」と指示していた! 文化財を守るはずの官庁が……。 まだ風洞実験もなされていなかった2006年5月に、文化庁が「風は無視しろ」と文京区に指示していたことが、明らかになりました。 2010年6月11日の文京区議会建設委員会で、浅田やすお区議(社民)の質問に対する文京区の答弁で明らかになりました。 2006年5月に、文京区は、マンション建設工事が銅御殿に及ぼす影響について、文化庁→都教委→区教委のルートで問い合わせがあり、区教委が都教委に「意見書」の形で2006年5月23日に返事を出しました(これは、都教委→文化庁と上がり、文化庁の「影響は軽微」という判断につながった重要な文書です)。 浅田議員は、なぜこの意見書でビル風の影響が言及されていないのかについて、質問しました。 浅田議員の質問に対して、担当者は、「平成18年5月の意見書の中でビル風にふれなかったことにつきましては、当時文化庁はビル風については、文化財保護法の範囲外の見解を示しておりましたので、教育委員会においても、業者に対してこの指導は行わなかったものでございます。/なお、工事業者からは照会書を作成するにあたりましてビル風のデータを添付するかどうかの問い合わせがありました。 都が文化庁に問い合わせたところ、法の範囲外である、ビル風のデータ抜きの照会書を提出するよう、指示がありましたので、この照会につきましてはビル風についてふれてないものでございます。」と答えました。 まだ十分なデータによる検証もない2006年5月の段階で、文化庁みずからが「ビル風は無視せよ」と伝えていたわけです。なお、事業主側が大谷美術館からの要求を受けいれて(簡素な)風洞実験をやったのは、2006年10月です。 文化財の保護に責任を持つはずの文化庁が、どうしてこういう無責任な対応をとったのでしょうか。「ビル風のデータ抜きの照会書を提出 するよう、指示」をした、というのでは、あまりに中央行政としてひどい話です。 |
| 22010.07.03 |
建設委員会を傍聴してわかったこと、思ったこと――行政の無責任ぶり―― 文京区民 平成22年6月11日の文京区建設委員会を傍聴してきました。 銅御殿の問題について建設委員の浅田やすお議員が質問されました。文京区の担当からの答弁によって、驚くべき事実が明らかになりました。感想を含めていくつかを報告したいと思います。 まず、平成18年5月に文京区教育委員会から東京都教育委員会にあてた意見書の中で、「大谷美術館の所有者からの工事に関する意見聴取を施工業者を通して求めてきた」というのは、紛争になっているにもかかわらず、当事者である事業主に、相手の大谷美術館の意見を聴取してこいといったことになる。文京区が直接双方の意見を聞くのが筋だったのではないか・・・という質問でした。 それに対し、教育委員会の関係部署の参事が、「文化庁に相談したところ、文化庁が所有者の意見が得られなくても、所有者に説明を行ったという経過を明らかにする資料の添付でいい」といってきたのでそのようにしたと答えていました。答弁に当たった文京区の担当者が、「文化庁が」というところを異常に強調して答えていたのがすっごく印象的でした。(聞いていてちょっと滑稽なくらいでしたよ・・・)。 その後も「国の重要文化財に対する判断は基本的に文化庁の権限であり、区としては今後も文化庁の方針をふまえて対応していく」と、本当に文化庁、文化庁、の連呼で、責任転嫁とも取れるお答えでした。文化庁が、区内に存在する重要文化財を壊してしまうかもしれない判断をしているのに、それはそれは見事に文化庁だけの責任にして逃げまくっていました。(文化庁や東京都に行くと、みんな「本当は文京区の問題で、文京区が頑張らなくていけない問題なんですよ」とこっそり教えてくれるのですが、この答弁を聞いたらどう思うんだろう・・・?) 続いて、ビル風の問題についてです。銅御殿のすぐ横に高層マンションが建ったあと、そのマンションによって起きるビル風が重要文化財の銅御殿を壊す恐れがあるということが大きな問題になっています。浅田議員は、平成18年5月の意見書でなぜビル風についてふれなかったのかという点を質問されました。 その質問への答弁は、ここでもまた「当時文化庁はビル風については、文化財保護法の範囲外の見解を示していたので教育委員会も業者には指導しなかった」とのお答えでした。 業者がビル風の資料を添付するかどうか照会してきたとき、文化庁は「文化財保護法の範囲外であるビル風のデータ抜きでいい」と答えたのでビル風について意見書でふれなかったそうです。 ビル風が文化財保護法の範囲外というのは、明らかに文化庁の誤りだと思います。前例がないから考えないようにしよう、ということなのでしょう。 今後もビル風について文化庁は「建築基準法では風の影響について規制する法令や基準がないので文化財保護法で保存に影響を及ぼす行為として取り扱うのは困難と認識している」とのことでした。もちろん、「文京区教育委員会として文化庁の認識を超えて、あるいは文化庁の認識にたがえた助言、指導はできません!」と、しっかり区の責任については逃げを打つのは忘れませんでした。(お見事!!) それにしても、どうして建築基準法に規定がないので、文化財保護法でも扱えない、という文化庁の説明はおかしいことです。文化財保護法を直接適用することを考えないといけないはずです。 文化財保護法ではビル風の問題も全て、経年変化を促進させるものとして含まれているはずです。文化財の保護を担当する文化庁が、なぜこの場合に限って建築基準法を持ち出すのでしょうか。また、文京区にも文化財保護条例があるのですから、それを使って本気で銅御殿を守ろうと知恵をしぼればいくらでも手段はあるはずです。 今回傍聴して、よくよくわかりました。文京区は重要文化財を守ろうとする気持ちはありません。歴史や文化を大切にしようとしている区民に真っ向から対抗しようとしています。文京区は文化財を大切に思っていないのです。今回の答弁ははっきりとこのことを伝えています。もし万が一、銅御殿が損傷してしまったら、今までこの問題に接してきた行政の人たちはどのように感じるのでしょうか。(個人的にこれはとても興味のあるところです。) また、「ビル風の問題にふれるな」と平成18年5月の時点で文化庁が言っていたこともはっきりしました。これは大発見です。平成18年といえば、住民や大谷美術館が一生懸命風の専門家の意見を聞いたり影響を調べたりしていたときです。風の影響が大きいのかどうかも検証されないうちに、はじめから文化庁が「風は無視せよ」と指示していたわけで、これっていったい行政の責任として どうなのでしょうか。 文化庁に対して住民が訴訟を起こしています。裁判の中でいろいろなことをはっきりさせ、もしも銅御殿に何かあったときは、誰が重要文化財を壊したのか、司法の場でぜひ国民の前にはっきり示してほしいと思いました。 ツッコミどころ満載の建築委員会でしたが、まだ銅御殿についての質問を続けたがった議員さんに、もう時間がないから・・・といって途中で司会の議員さんが打ち切ってしまったのはとても残念でした。 銅御殿の問題に関わってみて、本当にいろいろ腹の立つことや悲しいことがたくさんありました。でも一番悲しいことは、文京区や文化庁が、文化財を本当に守ろうとしている区民、国民をまるで仇敵のようにみなし、真摯に取り組もうとせず私たちから逃げよう逃げようとしていることです。国の重要文化財が壊れないようにし、未来までそのすばらしい文化を伝えていきたいと、ただそれだけを心から願っている国民は悪者なのでしょうか。どうして、行政と住民とが力を合わせ知恵をしぼって重要文化財を守る、というあたりまえのことが日本ではできないのでしょうか。 こんな日本ってもう終わり?? |
| 2010.07.01 |
〇市民集会に初めて参加しました(2010年6月28日) 私たちは、しばらく前に「銅御殿」を見学させていただいたものです。 今回湯立坂の景観、重要文化財「銅御殿」関係の 市民集会に7名で初めて参加いたしました。 随分長い間皆さん一生懸命闘っていらっしゃったのですね。 文化庁が指定しておきながらどうしてこのような無責任な事を するのか理解できません。 文京区も区内にある重要文化財の存在を軽く見すぎていますね。 区民として、区長に手紙を出そうと思います。 野村不動産、鹿島建設の心無い、営業第一主義の無分別さに腹が立ちます。 どうして自国の大切な文化を護ろうとしないのでしょうか、悲しいです。 それに引き換え、皆様の訴えは心強く、感銘いたしました、 このような方々を心より尊敬いたします。 今後皆様の熱意が伝わりよりよい方向へ進むことを 祈っております。頑張って下さい。私たちも応援しております。 (文京区 主婦) |
| 2010.06.30 |
熱気にあふれた緊急市民集会 6月25日の緊急市民集会「重要文化財の危機――銅御殿問題の提訴をふまえ――」 には、たくさんの人がご参加くださいました。本当にどうもありがとうございました。 集会の前半では、まず、来賓の石原一子さん(景観市民ネットワーク代表)から力強いご挨拶をいただきました。 次いで、広田照幸さん(杜史(とし)を育む会・湯立坂)による概況の説明と、中下裕子弁護士(銅御殿裁判弁護団長)による法律上のポイントの説明がありました。 広田さんの報告では、この問題が浮上して間もない2005年5月の時点で、文化庁が「ビル風の問題は考慮からはずせ」と文京区に指示していたことが明らかになったことが、紹介されました。たとえビル風で重要文化財が壊れたとしても、文化庁は「自分たちには関係ない」と居直る姿勢だったことがはっきりしました。 集会の後半では、まず、さまざまな方からの応援メッセージの披露がありました。 その後、いろいろな活動グループの方からの報告がありました。 本郷の赤門脇マンション問題の中心メンバーの方は、運動をふり返りながら、到達点と課題をお話になりました。景観市民ネット副代表は、裁判で闘う際のポイントをお話しくださいました。新宿区「たぬきの森」グループの事務局長は、とても参考になる運動の組み立て方をご紹介くださいました。元町公園保存運動など、文京区の景観や環境をいくつもてがけてこられた区民の方には、文京区のふがいなさを鋭くご指摘いただきました。 「美しい街を創る会」の活動を進めていらっしゃる元建築家協会専務理事のご報告は、英国のような、住民がみんなで許可に関わる建築行政の必要を訴えられました。目白坂の積水ハウスマンション問題に取り組む「目白坂の住環境を考える会」の中心メンバーの方からの報告は、「少人数でも実にいろいろなことがやれる」という勇気を与えられるものでした。 最後に、飛び入りで千駄木のNTTの大規模開発の問題について報告をしていただき、集会は終了。 集会後、近くのお店で軽い「打ち上げ」をしましたが、20人もの人がお出でくださり、交流が深まりました。 みなさま、どうもありがとうございました。 **** みなさまにお願いです。 ******* 銅御殿裁判の傍聴に集まってください。一人でも多くの方が傍聴席を埋めてくださることが、裁判官への心証を動かす力になります。誰でも気軽に参加できます。 ○7月13日(火)11:00〜、東京地方裁判所705号法廷 (区と検査機関を相手にした裁判) ○9月2日(木)11:00〜、東京地方裁判所 部屋は未定 (文化庁を相手にした裁判) 東京地方裁判所:東京都千代田区霞が関1-1-4(地下鉄東京メトロ丸の内線・日比谷線・千代田線「霞ヶ関駅」A1出口から徒歩1分) *裁判傍聴のお知らせとお願いは、これから随時、銅御殿HPに出していきます。 ときどき、のぞいてみてください。 |
| 2010.05.23 | 緊急市民集会のお知らせ 「重要文化財の危機――銅御殿問題の提訴をふまえ――」 都心にひっそりとたたずむ国の重要文化財の建物が、いま危機にあります。 文京区小石川5丁目にある、国の重要文化財・旧磯野邸(通称「銅御殿」)は、近代和風建築の傑作として、その庭園や門とともに、周囲の人たちに愛されてきました。しかし、そのすぐ脇に地下2階地上12階建てのマンションが建設されつつあります。 この問題について、文化財への影響をきちんと判断してこなかった文化庁などを相手取って、近隣の住民が原告となり、去る5月20日に裁判を起こしました。 司法の判断が待たれます。 都市の再開発が進む中で、ヨーロッパ諸国のように歴史的建造物の保存がきちんとなされていくのかどうか、この種の問題についての草分けになるケースです。 私たちは、提訴に至る経緯をご報告し、これからのあり方を考えるために、緊急市民集会を開くことにしました。 ひとりでもたくさんの方が集まってくださることが、これからの力になっていきます。どうかみなさん、6月25日は市民集会にお集まりください。 基調報告:「重文・銅御殿の危機をめぐるこれまでの動きとこれから」 広田照幸(杜史(とし)を育む会・湯立坂、日本大学教授) 活動報告:「銅御殿裁判の論理と意義」 中下裕子(弁護士・銅御殿裁判弁護団長) 交流のつどい:いろいろなグループ・個人の応援メッセージ、活動紹介など 日 時:2010年6月25日(金) 19:00〜21:00(開場18:30) 場 所:文京区民センター 3−A会議室 (地下鉄春日駅、後楽園駅から徒歩2分) 入場料:無料 受 付:当日参加自由 主催:銅御殿市民の会ほか |
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| 1 | 2009.6.2 |
住民の声 昨日の大型車両搬入の攻防伺いました。 金儲けの為に、人為的被害も考えず、強行着工許せません。 最近の報道を見聞きしても、近隣住民の方々と話し合いをしながらとの画面によ く遭 遇します。 話し合いの意味お解かりですか? こんな会社が世の中存在して良いのでしょうか。 浦和でももめているそうです、悪評聞きました。 大勢の人々を苦しめた報いは必ず来ますよ。 か な ら ず !! |
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| 2009.5.19 | 築山(つきやま)削られる 「話し合いがつくまで工事は進めないでほしい。」 「裁判の結果も待たずにどんどん工事を進めるなんて許せない。」 との声をよそ に、毎日強行に工事が進められています。 写真は、現場の状況。フェンスの向こうは銅御殿の庭園で、かつてお茶室あ った築山。 そこからは銅御殿を見上げ、北側の庭を眺望したといわれています。 築山の上は日当たりがよく、今でも毎年珍しい品種の天然の福寿草が咲く場所で す。 こんな急な斜面に掘り進めて、危なくないのでしょうか!?不安でたまりせん。 |
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| 2009.5.7 | 応援メッセージ 商業主義に流されずに、樹木や環境、地域を自分たちの手で守る取り組みをされ ていることに感銘を受けています。 あきらめることのない戦いが、何よりも力になるのだと思います。 応援しています。 杉浦ひとみ(弁護士) |
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| 2009.4.29 |
湯立坂トレードマーク、大谷石塀壊される! 湯立坂の顔、長い大谷石塀が今日壊されました。 「長く連なる大谷石塀と緑のトンネル」が評価されて湯立坂が文京区の景観賞をもらったのはつい昨年のこと・・・。 町のみんなに愛されている景観を、いとも簡単に奪い取り、司法の場での決着も待たずにいったい何をしようと言うのでしょう!!これが一流企業のやることですか。 でも石塀というのはまた積みなおしがきくそうです。あきらめず、またこの景観が戻ってくる日を待っています。 momo
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| 2009.4.29 | 4月23日湯立坂で、計画地内に残ったシラカシが、 隣接する住民の庭に移植されました。 これまで3度雷にあって、それでも生き残ってきた樹だそうです。 2月半ばに「伐採する」と言われてから2ヶ月間、粘り強く野村不動産と交渉を続けてきました。 作業の位置づけや進め方など、いくつか重要な点は合意には達しませんでしたが、 移植そのものについては、やっていただきました。 移植作業時のレポートです。 9時から玉がけ作業。昨日の作業でシートでくるまれた大きな根っこに、幅広のロープがかけられる。 9時25分 クレーンで少しつり上がる。樹がぐらっと揺れた。根がきしむ音がした。 9時30分 再び少しつり上がる。ベシベシと根が引き剥がされる音。 木が少し浮いた。 作業員の作業で、地面との間がつながった根の部分が切り離されたようだ。 ユンボで移植先の穴とシラカシの間の斜面の調整。 「家にあたらないように注意しろ。」「ガス管があるかもしれないから注意して掘れ」と作業員の 声がした。 9時32分 一度下ろす。 シラカシの根の部分の寸法を測っている。 10時 移植先の穴の調整だそうだ。1時間休息。 10時55分 作業再開。 11時20分 高所作業車の作業員がシラカシに5本のロープを架ける。 クレーン車から垂直に2本の太い吊り上げようの物。 11時25分 ギシギシと動きながら上がる。 11時28分 木を道路の方に動かしてから回転させ横に滑らすように動かしていった。 11時34分 掘っていた隣家の庭の穴に移動させた。 この後、微調整とユンボで土を被せていった。 ずいぶんハラハラしながら見守りましたが、 いざ動き始めると、あっという間に終わりました。 |
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