音楽という流動的な生きものを楽譜という殻の中に押し込めるのは、実はとても大変なことです。そこからこぼれ落ちてしまった大切なものを掬い取って命を吹き込むべく、音楽と楽譜のはざまで思いをめぐらせながら、レッスンの現場にも向き合っております。一期一会の出会いを大切に、音楽の生まれ出る瞬間のわくわくするような新鮮な感動を皆さまと分かち合いたいと願っております。

全日本ピアノ指導者協会発行の冊子に掲載されたインタビュー記事(こちら)がありますのでぜひご一読ください。

セカンドオピニオンとしてのレッスンも歓迎いたします。お問い合わせは、こちらまでお願いいたします。

 

レッスン風景(小学校6年生)/チャイコフスキー:秋の歌


生徒の演奏(当時小学校6年生)/スクリャービン:詩曲

 

 

クラシック音楽を演奏することは、外国語を学ぶことと似ています。たとえば、音楽を形成していく数小節単位のまとまりを楽節構造と言いますが、それを意識して演奏することは、意味のまとまりを意識しながら外国語を話す感覚に通じます。もし私たちが役者としてハリウッド映画に起用されたとき、文法や発音が違って英語が伝わらなかったらアウトですが、伝わるという段階をクリアすれば、そこから先の演技(表現)の可能性は無数に広がっています。和声や楽節構造といったクラシック音楽の文法も同様です。

西洋のクラシック音楽の成り立ちは、強弱アクセントを持つ西洋の言語と不可分で、さまざまな拍子も、「強弱」「強弱弱」などの言葉のリズムパターン(韻律)から生まれました。ですから、強弱アクセントを持たない日本語を話す私たち日本人は、西洋音楽と対峙するうえで「日本語的な平たい感じ方に陥りやすい」という大きなハンディを負っています。私は、生徒さんと一緒に音楽を探求する中でも、楽譜を外国語の文章のように捉え、音符を〈カタカナの棒読み〉でなくネイティブのように自然に語れるようになって初めて自在な音楽表現が可能になる、という信念のもと、目の前の楽曲だけでなく、すべての楽曲に通用する捉え方を身につけていって欲しいと願っています。

私が初めてオーケストラの指揮を経験したのは高校時代ですが、その豊かな響きの世界に触れて以来、それまで当たり前のように弾いていたピアノという楽器に対する認識も一変しました。ピアノでは、弦楽器や管楽器では本来何人も集まって合奏しないとできないようなことが、たった1人の2本の手で簡単にできてしまいます。これが実は大きな問題で、合奏による立体感がどうしても失われ、平面的な響きに陥りがちです。例えば、4声の場面で、4つのパートは別々のことをしながらも、お互いを聴きながら心を通い合わせています。この心の通い合いをピアノソロの分野で実現するには、腹話術のように一人何役も演じること――すなわち、4つのパートが別々の人として聴こえてくるよう、声音を使い分けることが必要なのです。オーケストラへの大きな憧れと、ピアノという楽器に感じる物足りなさを克服したいという衝動が、私をピアノへと向かわせる原動力になったわけで、今でも、指揮とピアノの双方の活動で、新たな発見の連続が互いに良い影響をもたらしてくれています。

 

 

何人かの生徒さんの声をご紹介します。