さざえ堂と飯盛家

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さざえ堂と飯盛家

山主飯盛本家当主 飯盛正日(いいもりまさにち)

飯盛家と飯盛山正宗寺

 私が幼少の頃、伯父叔母などから「このさざえ堂は二百年になったら必ず国宝になる。」と言われたことが強く記憶に残っていたが、果して建立二百年目(寛政八年1796)に当たる昨年平成七年六月に、国重要文化財に指定された。このことは、我が生涯にとって最大の感激である。
 飯盛家の現住居は、旧飯盛山正宗寺(しょうそうじ)そのものであり、さざえ堂よりも五十年ほど古いとされている。もともと飯盛山正宗寺は、歴代の領主より宗像神社(現厳島神社/いつくしまじんじゃ)の別当として、飯盛山霊域を拝領し、神仏混合によって守護し続けてきたものである。正宗寺最後の住職は私の曾祖父に当たる僧宗潤(そうじゅん)であり、後に名を飯盛正隆(まさたか)と改めた。
 戊辰戦争に下級武士として従軍した、祖父佐藤正信(まさのぶ/湊町大字原在住の元藩医佐藤青龍の次男で白川戦線にて負傷)は、妻きん(滝沢字坂下在住の渡部しんの娘で正隆の姪)と共に、戦後正隆の養子となった。明治初年の神仏分離令に際し、檀家のない寺でもあったので、廃寺して神道をとり、正信は厳島神社初代の宮司となった。
 これにより、仏殿は神殿となり、本尊彌陀仏、さざえ堂三十三観音像、庭前の唐金大仏(一丈六尺)等は、他寺院に移転された。また、飯盛山の所領は新政府から地券により購入、登記を受けるためには大なる資金が必要となった。この資金を調達するため、我家は貧窮を極めた由であるが、円通三匝堂(えんつうさんそうどう/通称さざえ堂)、宇賀神堂は本宅の付属の建物として、境内は宅地として所有管理することとなったのである。また厳島神社は郷社の社格を与えられその境内は村役場の管理する所となった。第二次大戦後、本神社は、宗教法人神社庁の系列下で、滝沢部落の崇敬人総代以下が守護管理している。

戊辰敗戦後の飯盛家と飯盛山

 祖父正信は、家計を助けるため一時単身沼尻(ぬまじり)硫黄鉱山の帳場に職を求め、明治二十一年(1888)の磐梯山大噴火に際会したが、命拾いして帰宅したそうである。祖母きんは、さざえ堂脇に茶店(現飯盛本店の原点)を営み、家族は農耕蓄養に従事する等、第二次大戦後の生活建て直しにも似た様相であった。しかし、飯盛山の参詣客も会津以外の地からだんだん増加することにより、社堂の管理、店舗の経営を主とする家業を確立していった。
 その間に、正信長男正利(まさとし)は郡役所に奉職、次男正光(まさみつ)は家に残り農耕、牛馬の飼育に、三男正成(まさなり)は陸軍士官に、四男正章(まさあきら)は鉱山技師にと志を立てた。
 戊辰戦争以来、さざえ堂は顧みる人も少なく、屋根の修理もままならず狐狸の巣と形容せられるまでに荒れ果てた由である。
 ついでながら、飯盛山の白虎隊墓所は、明治四年(1871)に仮埋葬の地妙国寺(みょうこくじ)から自刃の地飯盛山に改葬された時に、祖父正信が松平公に約二反歩を献上寄附したものである。さらに、昭和三年の拡張に際しては、先々代伯父正利が約二反歩を追加献上寄附した。いずれも、地租は飯盛家が第二次大戦終戦まで納めていたが、戦後、財産税などの関係から財団法人弔霊義会に移管せられた。

明治二十三年のさざえ堂大修理

 明治二十三年(1890)には冨田治作(とみたじさく)氏をはじめとする会津有志の方々が発起人となり、広く寄附を集めて、白虎隊士合葬の墓を自刃十九士銘々の墓に改葬された。これと同時に、荒廃したさざえ堂にも大修理が施され窮状を脱することができた。
 この時、堂内には観音像なきあと、旧藩士出身彫刻家大橋知伸(おおはしちしん)田中治八(たなかじはち)両氏の手による白虎隊十九士の霊像が祀られ、拝観者が堂内を巡って参拝できるようにした。しかし、明治三十七年(1904)に至り、参拝客がさざえ堂の入場者のみに限定せられる不利を解消するため、霊像は隣接する宇賀神堂(うがじんどう/厳島神社の傍社として五穀の神を祭った二間四方のお堂。寛文年間〈1661〜1677〉建立)内に並立合祀せられた。そして、さざえ堂内には、替って会津藩子弟の道徳教本として第八代容敬(かたたか)公の命により編纂された「皇朝二十四孝」(こうちょうにじゅうしこう)の絵額が掲げられ今日にいたっている。

大正年間と昭和初期

 大正四年(1915)には屋根葺替(ふきかえ)工事がなされた。
 大正七年祖父正信没後、その長男正利が跡を継いだが、昭和四年地元一箕村長在職中に死去した。その跡は三男である私の父正成が継ぐことになった。正成は、陸軍中佐退役後大阪市役所十年間の奉職を経て、昭和六年(1931)に帰郷してその事業に当たった。この際本家は、従来病人続出(結核等)の弊を防ぐため、正宗寺以来の曲屋(まがりや)を取り除き現状のように改築した。
 昭和七年には、さざえ堂従来のこけら葺き屋根の上に銅板を重ねて葺き、耐久を図り面目を一新した。

大東亜戦争後

 昭和二十八年(1953)には、永年経過のため傾斜が甚だしくなった堂宇の引起し工事を、地元の金田作四郎(かねださくしろう)大工の手に依り行った。補強材、金具締め等により傾斜はほぼ復旧し、昭和三十九年の新潟地震(会津地方は震度四〜五)にもよく耐え凌いだ。

昭和四十年の学術調査

 さざえ堂が世界的に認められたのは、昭和四十年(1965)日本大学理工学部教授故小林文次(こばやしぶんじ)博士の学術実測調査によってである。当時文部技官であった現日本大学工学部教授佐藤平(さとうひとし)工学博士が、小林教授に会津さざえ堂の情報を提供したことが発端となった。小林教授は、この二重らせんスロープ構造の建築に魅せられて、実測調査をはじめとし、国内のさざえ堂、さらに世界のらせん形建築について研究を拡め、これを学会に発表された。そして、会津さざえ堂は「世界唯一の二重らせんスロープを持つ木造建築」であり、「模倣ではなく天才的な創造」と評価されたのである。
 この実測調査は、当初市当局に持ちかけられたが、予算の関係で当家が進んでお願いした。この年の夏期休暇に、教授以下研究室OBで当時文化庁建造物課勤務の丸山時男技官はじめ四〜五名の研究室の学生が二十日間当家に合宿し、寝食を共にして作業に専念した。当時私は自衛官存職中で不在であったが、家内が本店経営の傍ら、中学生の娘二人を手伝わせて食事宿泊の一切を世話した。今でも当時を思い出しては、先生や学生の皆さんに、手料理を喜んでもらったことが忘れられないと語っている。
 ちなみに、学術調査の翌昭和四十一年には、会津鶴ヶ城の再建大工事が竣工し、飯盛本店新館(展望台約七五坪)も落成した。

小林文次博士の推論と評価

 博士は推論として、「さざえ堂二重らせんの発想は、日本の仏堂建築の伝統から突如として異質の構想が生まれたとは考えられない。享保五年(1721)の洋書解禁によりオランダから輸入された洋書の中に、秋田藩主で画家であった佐竹曙山(さたけしょざん)のスケッチ帳にある二重らせん階段の原図がある。これはロンドン出版のモクソン(1627〜1700)著の写しであり、これを通じて一部に知られている事実があった。これは遠くダビンチにまでつながっているものであり、これらとさざえ堂とのつながりはさだかではない。しかし、西欧の例が単なる通路であったのに対し、中心部に観音像を配し、あたかもライトのグーゲンハイム美術館を思わせるような会津さざえ堂は単なる模倣ではなく天才的な創造と見るべきである。」と述べられている。
 なお、私等が先々代伯父正利、先代父正成から伝えられた説によれば、考案者郁堂(いくどう)和尚は、当時江戸をはじめ諸国にあったさざえ堂にならい、建立の構想を練っていた時、或夜二重紙縒り(にじゅうこより)の夢を見て「これだ」とこの構造を思いついたという。私の小学生の頃(昭和初期)でも、紙縒りは手工の時間に実習させられたものであり、二重、多重の紙縒りも教えられたことを思えば、あながち不自然な発想ではないと感じている。
 昭和五十八年(1983)に教授が病を得て六五歳にて早世されたことは返す返すも残念である。

昭和五十年屋根大修理

 昭和四十五年(1970)、私は、自衛官生活18年間で定年退職、帰郷して家業に戻った。
 昭和四十七年から三ヶ年に亘り大屋根、庇屋根、向拝(こうばい/玄関にあたる。)屋根の抜本的修理を行った。すなわち、垂木(たるき)の交換追加補強、野地板更新、銅板総葺替え等である。湊町柄澤(みなとまちへざわ)の渡部丑吉(わたなべうしきち)大工、花春町の渡部守男(わたなべもりお)屋根職の手に依ったが、従来のように、台風ごとに屋根銅板が吹き飛ばされるような心配はなくなった。

昭和五十七年県重要文化財指定

 昭和五十六年にわが滝沢部落にある国重文の旧会津藩滝沢本陣横山家住宅(通称御本陣。昭和四十六年〈1971〉指定。)が解体修理を受け、その完成後、文化庁文部技官がさざえ堂を訪れ視察されたが、特に沙汰はなかった。
 昭和五十七年(1982)一月には、県重要文化財指定申請書を提出した。その添付書類の殆どは小林文治博士の作成された図面及び論文であった。
 同年三月三十日、県重要文化財としての正式指定書が交付された。

平成六年擬宝殊落下事故

 平成六年(1994)二月二十二日にさざえ堂擬宝珠(ぎぼし)石の落下事故があった。当日は前日から暴風雪であった。午後五時頃一大突風により、さざえ堂南側台上にある弔霊義会二階建て展望休憩所のトタン屋根南半分(約六坪)が剥落した。それが、連結したまま飛来してさざえ堂頂上部に覆い被さり、風圧を受け、擬宝珠石約250kgが脱落、大屋根に二回弾んで向拝前方に大音響とともに落下した。トタン屋根に覆われたまま50cmの積雪下に沈んだため当日は判らず、翌朝頂上を眺めて脱落を知った。屋根には落下点に径約30cmの穴が空き、次の衝突点には60cm平方の陥没を生じた。運良く堂内に貫通を免れ大被害を受けなかったことは不幸中の幸いであったが、先年の屋根修理に際して垂木の倍加補強が有効であったと思われる。
 これが復旧工事については種々検討したが、先ず屋根を修理した後、辛うじて小型のクレーン車を石鳥居(旧参道中間)の下を潜り抜け推進できたので、江川組の手に依り吊上げ復旧作業が完成し、一同胸を撫で下ろした。

文化庁正式調査

 平成六年十一月、さざえ堂の国重要文化財指定を前提に文化庁の調査が行われることになり、三日間実施された。調査官は女性若手の栗林久美子文部技官であった。
 初日十一月十六日は、午後から調査官が県及び市の文化課員立ち会いの上取り敢えず一巡したが、私の案内説明により天井裏を上り擬宝珠の直下の小窓まで、また床下の土台石まで積極的に見分された。県、市の職員も随行が大儀のようであった。第二日は、昭和五十年修理担当渡部丑吉老大工や屋根除雪担当玉川久光(たまがわひさみつ)林業職を呼び寄せ説明を受け、特に安全ロープを身につけ、ブーツ履きで玉川氏と一緒に頂上小窓から急勾配の大屋根上に出て修理箇所を実見されたことには驚嘆した。私は勿論、県、市の職員もいささか疲労気味でただ見守るだけのうちに、女性技官の毅然果敢な職責遂行には流石と敬服の他なかった。かくして精密な計測調査の後、帰京された。

平成七年国重要文化財指定とさざえ堂周辺の整備

 平成七年(1995)五月十九日、国重要文化財指定が内定したことが新聞報道され、六月二十七日付にて公式指定、官報に掲載された。
 与謝野文部大臣の正式の重要文化財指定書は、平成八年七月十三日、県文化課を通じて送付せられ受領した。この報とともに、親族各位から早速に祝意と祝金が寄せられた。たまたま平成五年から七年初めにかけて、膨大な寄附を受けて白虎隊士墓前及び参道石垣大修理を完成した飯盛山白虎隊霊域整備委員会(会長は弔霊議会理事長、筆者は副会長の一人)の工事に対応して、私もさざえ堂周辺環境整備工事を計画していたので、この基金を有り難く戴きこれに充てた。すなわち、本堂境内地の拡張と、飯盛山本(旧)参道上弔霊義会用地との境にある七段の石段を廃し、安全な坂道への改良工事などを施工することができたことは幸せであった。

終りに

 本堂は畏くも

大正天皇   明治四十一年九月十日
昭和天皇   大正十三年八月二十日
今上天皇陛下 昭和四十三年八月二日

 それぞれ皇太子に在わしますとき、三代に亘り親しく御登臨の栄に浴したのである。
 今回、国重要文化財指定を受けたことは、飯盛家一族の名誉であり、その責任の重さに身が引き締まる思いである。今後の保存、整備、運営については、全力を尽くして献身し、国はじめ県、市御当局竝びに地元の方々の御指導御支援をいただき、その御期待に背くことのないよう覚悟している所である。

平成八年八月十四日



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