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JR常武線(JR Jobu Line)
そこには、1990年代前半まで国鉄型気動車が生き延びていた。

関東最後の国鉄型気動車の王国。
かつて「当たり前」だった、その日常を、今想う。
【キハ30 18】車番標記 1990年11月23日 坂戸駅にて

■沿革
JR常武線は、茨城県の土浦から、水海道や境を経由し、埼玉県の久喜、鴻巣、坂戸そして高麗川を結ぶ、全長105.6kmの非電化路線である。路線名の由来は土浦の所在する常陸国の「常」と、高麗川の所在する武蔵国の「武」から取られた。

首都圏の外縁部を走る長閑な路線であるが、その起源は1930年(昭和5年)と、意外と新しい。
というのも、常武線は、昭和初期当時の国家的要請である東海道〜東北方面の貨物輸送のバイパス線として計画されたものであり、同様の敷設目的を有する八高線と、ほぼ同時期に建設された経緯を持つ。

このことから、八高・常武の両線と、それに少し遅れて建設された川越線は、兄弟関係にある路線として扱われることもある。

さて、現在の常武線では、JR東日本の標準型気動車であるキハ110系が幅を利かせているが、15年ほど前までは、関東各地や遠く南東北からかき集められた国鉄型気動車の天下であった。

今回紹介する写真を撮影した1990年代前半でさえも、さすがにキハ20系は見当たらなかったが、それでもしかし、八高線との共通運用車に相模線の生き残りを加えたキハ30系を主力に、水郡線を新鋭気動車・キハ110系に追われたキハ40・45系、同じく磐越東線を追われたキハ28・58系などがかき集められ、それらが国鉄時代をほうふつとさせる異形式混結の編成を組んでは、北関東と南関東の狭間で日々の運用に就いていたのである。

このページでは、一昔前の常武線で繰り広げられていた日常を紹介する。
1991年9月22日 生子−大歩間にて
1991年9月22日 生子−大歩間にて
1990年9月23日 北高萩駅構内にて
1990年9月23日 北高萩駅構内にて

JR常武線 路線図
【JR常武線 路線図】

【キハ35 108】 1990年9月23日 久喜駅にて 【主役】

常武線を語る上で欠かせないのは、なんといってもキハ30系列である。
かつては大宮区と高崎区に分散配置されていたが、川越線の電化に合わせて全車が高崎区に転属した。

高崎区の気動車群は形式に関係なく、常武線・八高線での共通運用が組まれていたため、高崎から八王子に至り、そのまま折り返して遠路、土浦まで足を伸ばす運用もあった。
当然、そんな運用にキハ30系列が充当されようものなら、八王子から土浦まで乗り通すとなると、4時間近くもロングシートに揺られることになる。それはもはや苦痛以外の何者でもなかったが、そんなことをするのは鉄道ファンぐらいのものであった。

では、鉄道にこれといって興味のない一般客はというと、中央線や京王線で新宿に出て、山手線から常磐線へ乗り継ぐのである。ゆえに常武線を乗り通す一般客は皆無に等しかった。
【キハ35 108】 1990年9月23日 久喜駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ35 108】1990年9月23日 八高線八王子駅にて撮影。

この八王子駅の1番線という場所は、我が気動車趣味の原点のひとつです。
跨線橋からこの1番線に降りていく途中で聞こえ始めるアイドリングの音、漂ってくる排気ガスと油の匂い。
そんなシチュエーションに、私は幼いながらも旅路へのときめきと感じていたものでした。

あれから20年、非電化だった1番線にも架線が張られ、古びた気動車はステンレス製の電車に代わりましたが、それでもいまだにこのホームに立つと、「あの頃」のことを思い出します。

【キハ35 210】 1991年11月3日 鴻巣駅にて 【相模線色】

そういえば、クリーム色1号に青20号の帯を締めた、いわゆる「相模線色」のキハ30系列が高崎に転属してきたのも、ちょうどこの頃であった。1991年3月16日の相模線電化によって茅ヶ崎区を追われてきた一団が、タラコ色の気動車たちに伍して活躍しはじめた。

話は変わって、朝一番の鴻巣発高麗川経由八王子行きに充当される車両は、前夜の22時過ぎに高崎区を出発し、いつもは倉賀野で八高線に入るところを、鴻巣への送り込みのため高崎線をそのまま直進、午前0時前に鴻巣駅に到着していた。

この列車は回送ながらも、深夜、架線下を堂々と疾走する国鉄型気動車ということで、鉄道ファンの間では一種の「伝説」として語り継がれていたが、運用の効率化という流れの中で、いつしか本当の「伝説」になってしまった。
こうして人知れず相模線色の気動車も、高崎線の架線下を走っていたのである。
【キハ35 210】 1991年11月3日 鴻巣駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ35 81】 1991年2月17日 相模線橋本駅にて撮影。

鴻巣駅などと嘘をつきましたが、見ての通り橋本駅です。
1980年代の国鉄の橋上駅舎は、どこも似たような姿かたちをしているので「嘘」をつき易いのです。

さて、この写真、非電化末期の相模線(私のブログ記事にリンクしています)のひとコマです。
もう頭上には架線が張られ、新しい電車(205系)の試運転も始まっていましたが、相模線ではこの直前(1991年初頭ぐらい?)まで通票閉そくを使用していました。俗に言う「タブレット閉そく」です。

着々と進む電化工事を横目に、交換駅で取り交わされるタブレットキャリアを見て、子ども心に「電化後もタブレット閉そくなら面白いのに…」などと思っていましたが、
さすがにそのような画竜点睛を欠くがごとき事態にはならず、電化直前にCTCに切り替えられてしまいました。

【キハ23 513】 1993年8月23日 高麗川駅にて 【混結】

続いて紹介するのはキハ23。
高麗川駅2番線にて、久喜行きとして発車を待っているシーンである。
元は水郡線用として常陸大子区に所属していたが、キハ110系の台頭により高崎区に転属してきた。
客用ドア位置の関係でワンマン化改造が難しく、他区・他路線では厄介者扱いされたキハ45系列であるが、常武線ではワンマン改造の必要もなく、また、2ドアセミクロスシートが常武線の輸送形態に合致していたため、現場ではむしろ重宝されたようである。

なお、写真ではわかりにくいが、この日コンビを組んでいたのはキハ28(ついでにいえば、その後ろにさらにキハ40が連なっていた)。
当時、常武線では唯一の「まともな」冷房車(一応、冷房車としてはキハ38もいたが、能力の低いバス用クーラーを転用したためか冷房故障が頻発し、信頼性が高いとはいえなかった)として、また、急行形ゆえの居住性のよさから、閑散時間帯は乗客から歓迎されたが、2ドアデッキ付きのためラッシュ時には嫌われたことから、他の国鉄型気動車に比べて、早期に淘汰されたようである。
【キハ23 513】 1993年8月23日 高麗川駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ53 5】 1991年6月8日 北陸本線富山駅にて撮影。

気動車に詳しくない方でも、「これはもう無理だろ!」と思われたかもしれません。
頭上の交流仕様の架線、燃料給油口の数、そして何よりも塗装…。どう見ても富山です。キハ53です。
ここまで来ると嘘を突き通すのも難しいぐらいの無茶であるのは百も承知ですが、ここはキハ23と言い張りました。

本当ならば、水郡線カラーのキハ45でも撮っておけばよかったのですが、結局撮影のチャンスはありませんでした。
思い返すと、キハ23・45・53に乗った記憶そのものが、ほとんどありません。
水郡線で1回、氷見線で1回と、城端線で1回、それに小浜線で1回の、計4回です。

ただ、この【キハ53 5】、このときは富山の所属でしたが、これから8年後に小浜線で再び遭遇して、思わず心の中で唸った思い出のある車両です。

【キハ30 503】 1992年3月20日 五霞駅にて 【編成美】

曇り空の元、五霞駅で発車を待つ土浦行きのキハ30 503以下3連。
その居住性の悪さゆえに、昼間の閑散時は嫌われていたキハ30系列であるが、朝夕の通勤通学列車には、逆にその収容力を買われて本系列が優先的に充当されていた。「通勤型気動車」の面目躍如といったところである。

前述の通り、ロングシートで居住性に難のある本系列は、昼間はもっぱらキハ45系列やキハ40との混結運用であったが、朝夕だけは同形式車による編成美を見ることができたのである。

もっとも、国鉄型気動車に「編成美」などという言葉は不釣合いなのだが。
【キハ30 503】 1992年3月20日 五霞駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ30 503】 1992年3月20日 八高線金子駅にて撮影。

ここで気動車の心臓部、エンジンの話でもしましょう。
かつて上越線でDMH17Hを装備した気動車が火災を起こしたため、JR東のDMH17H装備車は、新型エンジンへの交換が行われました。
JR東に所属していた全車両のDMH17Hが、たった数年で新型エンジンに交換されたのには驚きましたが、それよりも気になったのは、これら新型エンジンの「その後」です。
東北地方でつい最近まで現役であったキハ52や58は別として、このキハ30などでは、エンジン交換から数年で廃車になった車両も数多く存在します。

車体はボロボロでもエンジンは新車同様のものを搭載したこれらの車両ですが、廃車に際しては新型エンジンごと廃棄してしまったのでしょうか。
それともエンジンだけは廃車と同時期に製作された新車(キハ110系統)に載せ替えられて、今でもどこかで人知れず排煙と咆哮を上げているのでしょうか。

後者のような話は寡聞にして存じませんが、もし後者のような事実があるとすれば、旧型気動車の忘れ形見が残っているようで、何だか少しわくわくする話です。

【キハ30 ???】 1990年9月23日 武蔵吉見駅にて 【異色】

真っ黒い排煙を吹き上げ、エンジン音もにぎやかに武蔵吉見駅を去ってゆく八王子行き。
よくよくネガを見てみると、真ん中には相模線色のキハ30が挟まれているのに気がついた。

一時、個人的に相模線色が、そのまま八高線と常武線の線区カラーになるものだと思っていたことがある。いささか野暮ったいとはいえ、朱色5号よりもはるかに明るくてスマートな相模線色が、八高線や常武線のイメージアップにつながるのではとの思いからだった。

だが、やはりというか当然というか、それは筆者の勝手な思い込みに過ぎなかった。
いつまで経っても既存のキハ30系列は朱色5号のままで、一向に塗り替えられる気配がない。それどころか、全般検査上がりの車両までが、相模線色に塗り替えるどころか朱色5号でピッカピカに塗り直されて出場してきたときには閉口した。それらの塗り上がりはきれいでも、またすぐに排煙のススや油まみれになって、言葉は悪いが「いつものこきたない朱色」に戻った。

だが、今となっては、いろんな色の、いろんな形式の気動車が手をつないでいたということに価値があったのだと、やはり勝手に思い直している。
【キハ30 ???】 1990年9月23日 武蔵吉見駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ30 (不明)】 1990年9月23日 八高線金子駅−東飯能駅にて撮影。

上のキャプションでは「排煙を吹き上げて」とありますが、実際にこの区間は金子から東飯能へ向けての片勾配、通称「金子坂」で、写真のような下り列車は東飯能へ向けて転がるように走っていました。
逆に上り列車は、エンジンを震わせて1000分の20の勾配を登ってきます。
列車後方左、遠く小さな黒点が見えますが、これは金子駅の場内信号。
伯父いわく、この区間はSL時代はD51やC58を撮影する絶好の場所だったようです。

さて、八高線で、クリーム1号に青20号帯を巻いた車両が走ったのは、実質2年ぐらいだった気がします。
もとより茅ヶ崎から高崎へ移籍した車両が少なかったようで(キハ30が5両にキハ35が3両)、それも半数ぐらいは移籍から2年で廃車になってしまったようです。
(実際には「貸し出し」扱いもあったようで、運用実績がある車両はもう少し多いかもしれません)
残った車両は朱色5号に塗りなおされたのだと思っているのですが、真実は「?」です。

それよりも、相模線電化と同時に茅ヶ崎から木更津へ移籍した2両のキハ30、すなわち【キハ30 62】と【キハ30 100】は、
今でこそ旧国鉄の一般色に戻されて鉄道ファンの耳目を集める存在ですが、木更津転出時は相模線色だったはずで、
わずかな期間ですが、久留里線を相模線色で走った気動車がいたのではないかと妄想すると、これまた愉快なものがあります。

…個人的には、旧国鉄色なんかよりも、相模線色に戻してほしいと思うのですが。

【キハ23 517】 1993年8月24日 下総岩井駅にて 【夕立】

土砂降りの夕立の中、下総岩井駅に到着する水海道行きのキハ23。この日はあまりの雨の強さに、しばし列車の運転を見合わせたほどであった。
当然、運用も乱れに乱れ、この写真では、あわてて出発する際に方向幕を巻き間違えたか、【快速・鴻巣】なる珍妙な幕が出ているが、常武線は全線において普通列車のみの運行であり、それは今も変わらない。

さて、水海道−久喜間は、長大な常武線の中でも最も輸送密度が低い区間であり、昼間は単行や2両編成の列車が30分から1時間おきに運行されていた。
夕方はさすがに3両編成が出動していたが、それでも土浦口・高麗川口ともに最大5両編成が組成されていたことを思うと、やはり県境というものは輸送上の境界なのだなと、妙に感心したものである。

上の写真とは同じ形式ながら塗色が異なるが、もともとこれらキハ45系列がまとっていた水郡線カラーは、同じ色調であっても、ラインの塗り分けや幅が微妙に異なっているなど、非常に凝った塗装であった。それが引き継がれたのかは不確かであるが、常武線でも同じ塗り分けながらも色を反転させるという奇妙なカラーリングが採用された。
【キハ23 517】 1993年8月24日 下総岩井駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ23 520(推定)】 1992年8月24日 城端線城端駅にて撮影。

この時は本当にどうしようもない夕立で、よくぞ列車が走ったと、今でも思います。
到着した車内は部活帰りの高校生でいっぱいで、城端駅で降ろされた彼らが雨に戸惑っていたことをいまだに覚えています。

さて、氷見・城端線という路線も、我が気動車趣味に多大な影響を与えた路線だと思っています。

だいぶ前にも書きましたが(私のブログ記事にリンクしています)、幼少の頃、初めて降りた高岡駅の構内で見かけた「何でもあり」な光景で、私は気動車趣味の本質を知った気がします。
色も形も違う雑多な車両が、時と場合に応じて連結されて、美観などそっちのけで仕事をする姿に魅力を感じる。
これが国鉄気動車の本質であり、本懐だと思います。

各地域とも、車両の更新と統一がほぼ完了した今では、そんな光景も望むべくもないのですが、無為に嘆くのはやめようと思います。
嘆かぬために架空鉄道という趣味があるのですから。

【キハ3? ???】 1991年9月22日 水海道−下総岡田間にて 【残暑】

秋とはいえ、まだまだ強い日差しが降り注ぐ中、関東鉄道常総線をオーバークロスする築堤を駆け上がるキハ30もしくは35。
こうして思い思いに開け放たれた窓を見ると、かつてのあの非冷房車の「暑さ」を思い出すのは筆者だけだろうか。

常武線とは水海道で接する関東鉄道常総線は、全線非電化ながらも取手−水海道間は首都圏の通勤路線として全線が複線化されており、1980年代までは全国各地の国鉄・私鉄からかき集められた気動車たちが、常武線以上の魑魅魍魎ぶりを発揮しつつ走り回っていたが、この頃になると、相模線電化等で余剰になったキハ30系列が導入されはじめ、車種の統一が始まっていた。

ゆえに水海道では、関鉄カラーと朱色、あるいは相模線色のキハ30系列が並ぶこともあり、関鉄の水海道機関区の構内には、譲渡はされたものの入籍することもなく、部品取り車として無残にも「鳥葬」に付されたキハ30系列の姿も見られた。

そんなふうに、かつての僚友と毎日、顔をあわせていた常武線のキハ30系列であったが、やがて自らも関東鉄道に移籍することになろうとは、思いもしなかったことであろう。
【キハ3? ???】 1991年9月22日 水海道−下総岡田間にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ3? (不明】 1991年9月22日 八高線金子駅−東飯能駅にて撮影。

上記の「異色」の項の<作者メモ>で取り上げた「場内信号機」の付近で撮影した1枚。
小学3年生のガキが撮ったものですから、串刺しになるわ、右側は見切れてしまっているわで、直視に耐えない1枚です。
信号制御箱と路傍の雑草のせいで車番も読み取れず…。

さて、上の写真には写っていませんが、この築堤の下は空き地になっており、その中に1本だけ大きな木が立っていました。
個人的には絵になる場所として気に入っており、ふらっとよくここまで気動車を見に来たものです。
ですが、2010年の今では、この空き地にも家が立ち並んでいるようです。

あの大きな木はどうなってしまったのか…。
本当は久しぶりにこの場所へ行ってみたいのですが、なかなか行く機会がありません。

【キハ38 100?】 1992年3月20日 騎西駅にて 【異端】

騎西駅にたたずむ、八王子行きのキハ38。上り久喜行きとの交換待ちである。

このキハ38という車両は、典型的な「異端児」である。
国鉄分割民営化の直前に、キハ30系列の足回りを流用して誕生した車両で、登場時は「オンボロばかりの八高・常武線に現れた救世主」とまで言われた。しかしながら、実際にはわずか7両という中途半端な数で製造が打ち切られ、結果的に八高・常武の両線には大量の雑多な国鉄型気動車が残されることになった。(結果的にそれが常武線の趣味的な面白さにつながったのだが)
しかし、それでもキハ38は、当時の常武線にとっては紛れもない「最新型車両」であったのだ。

うんざりするほど見飽きた「タラコ色」の中に、颯爽と出現した白い車体。ジンカート処理の施された窓回りに角型ライトケースの組み合わせ。それは当時の最新鋭電車・国鉄205系と211系の流れをくむものであり、当時の「最新型車両」の要件を具備していた。車内にはバス用とはいえ冷房も設置され、それまでうだるような炎熱地獄にさいなまれていた乗客たちを歓喜させた。ただ、3ドアの通勤型車両にバス用クーラーはいささか荷が重かったらしく、頻繁に故障を起しては「非冷房車」に零落することもあったが、今ではそれもいい思い出である。

その新しさゆえに、のちに常武線の旧型気動車が淘汰された際にもキハ38だけは生き延びて、かつての先輩たちが千葉から高崎にやってきたのとは反対に、千葉は木更津へと転出していった。

【キハ38 100?】 1992年3月20日 騎西駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ38 100?(不明)】 1992年3月20日 八高線金子駅にて撮影。

キハ38は、八高線に行くたびに見かけていましたが、あまり乗った覚えがありません。
やはり、キハ30・35に足が向いていたからでしょう。
同じ編成の中にキハ30・35と38がいれば、確実に前二者に乗っていました。
この写真は、2両ともキハ38。当時でいう「ハズレ」編成でした。今から思えば贅沢ですが。

さて、話は変わって、八高線を走った気動車について。
昭和末期から平成初期にかけての八高線では、キハ30・35・38ばかりが使用されていたのかというと、実はそういうわけでもないようです。
有名なところでは、高崎に5両ほど配置されていたキハ40が思い浮かびます。
しかし、webや書籍を渉猟すると、意外にもキハ20や45なども、キハ30・35やキハ38と手をつないで走っていたことが記録されています。
キハ20に関しては、足尾線用として高崎に所属していましたし、キハ45も、なぜか1両だけ、短期間ではありますが高崎に所属していたことがあったようです。
(キハ45 62が1987年〜1990年にかけて、高崎に所属していた模様)

キハ30・35とこれらの一般型気動車の混結は、それこそ高岡や高松など全国各地で見られたのですが、キハ38との組み合わせとなると、当然、八高線でしかお目に掛かれないものでした。
高崎区所属のキハ20とキハ45は、どちらも平成の初頭には廃車になっていますので、キハ38の登場時期を考えると3〜5年ほどの競演期間だったと言えます。

キハ30・35・38に加え、20・40・45…。
こう見直すと、「キハ30・35・38ばかりでつまらない」と言われた八高線が、「JR常武線」も真っ青になるようなぐらいの百鬼夜行ぶりを見せた時期が、(ほんのわずかですが)あったのかもしれません。

【キハ45 3】と【キハ28 ????】 1993年8月24日 土浦駅にて 【余生】

土浦駅の側線で憩うキハ45とキハ28。共に水郡線から流れてきたものである。
かつては急行「ときわ」や「奥久慈」として上野まで乗り入れていたであろう水戸区のキハ58系列も、この頃には定期運用で常磐線を走ることはなく、常武線のローカル輸送に余生を送る毎日であった。

しかし、そんなキハ58系列も、年に1度だけ、常磐線の本線を疾駆することがあった。
夏の海水浴シーズンに、常磐線の上野や我孫子から勝田を通り、茨城交通湊線に直通する「快速あじがうら」号である。
かつての急行運用をほうふつとさせるような高速運転で常磐線内を駆け抜けたり、湊線内では茨交の気動車との併結も見られるなど、鉄道ファンにとっては楽しい列車であった。

しかし、次第に海水浴客は自家用車に流れ、また、諸事情によりJRの気動車の社線乗り入れが自粛される事態に至り、この楽しい列車も運転が取りやめとなってしまったのは残念であった。
【キハ45 3】と【キハ28 ????】 1993年8月24日 土浦駅にて
<以下、作者メモ>
【実車番号:キハ45 5??(不明)+キハ58 (不明)】 1992年8月23日 城端線高岡駅にて撮影。

どう見ても高岡駅ですが、もし常武線が存在したのならば、土浦駅にもこんな雰囲気の側線があってもいいんじゃないかと思い、この写真を使ってみました。

さて、今では信じられない話になってしまいましたが、つい20年ほど前までは、夏になると常磐線の上野や我孫子から茨城交通への直通列車が走っていました。
いつもは水郡線あたりをのんびり走っているキハ28・58や40が、この日ばかりは白昼堂々、常磐線の架線下を客を乗せて走っていたのでした。
今そんなことをしたら、間違いなく駅や沿線はファンで大混乱でしょうが、当時は不思議と注目する人も少なく、鉄道雑誌の読者コーナーに運転を報じる記事が小さく乗っていただけでした。

ここで取り上げた「快速あじがうら」はJR化後の列車ですが、国鉄時代は茨城交通だけでなく、鹿島臨海鉄道や筑波鉄道、鹿島鉄道に直通する列車も運行されていました。
「急行あじがうら・おおあらい」、ちょっとマイナーな「大洗エメラルド」、あるいは「つくば」や「パンダ」(これは沿線児童の上野動物園遠足用だったと思いますが…)など、常磐線は古くから接続する私鉄各線への直通運転が盛んだったと言えましょう。
鹿島臨海鉄道直通の幻の列車「ビーチイン大洗ひたち」に至っては、「水前寺有明」よろしく485系電車をDLに牽かせてまで直通させようとしていたと聞きます。

そういう常磐線の伝統を考えると、少し不謹慎な言い方かもしれませんが、鉄道ファンとしては「もし信楽の事故がなかったら…」と思うと、少し残念な気もします。
無論、あの事故だけが社線乗り入れ運転中止の理由ではありませんが…。

【キハ40 568】 1993年8月24日 土浦駅にて
【キハ40 568】 1993年8月24日 土浦駅にて
【邪険】

上のキハ45とキハ28のツーショットを撮影した「ついで」に撮った1枚。
やはり水郡線から高崎区に転属した車両である。

「ついで」というのは、この当時でも、キハ30系列やキハ45系列はすでに「絶滅危惧種」として認識していたため、比較的多く撮影していたが、キハ40系列は全国各地に大量にいたため、駅で見かけても気にも留めなかったゆえである。むしろどこにいっても見かけられる、何の変哲もない車両であった。特に常武線ではキハ40に当たると、「ハズレ」という感すらあった。常武線詣での目当ては、あくまでもキハ30系列やキハ45系列、あるいはキハ58系列だったからである。

そしてこのキハ40、個人的には発車時のエンジン音も苦手であった。
DMH17Hを装備した系列は比較的静かに、スーッと発車するのだが、このキハ40だけはエンジンをガリガリガシャガシャ唸らせて、それでもピクリともせず、ワンテンポ遅れてようやく動き始める有様。これがなんとももどかしく、イライラさせるものであったが、今となっては現存するキハ40の大多数がエンジンの交換や高出力化改造を受けていると聞く。

そんな話を趣味誌やwebで聞くに及ぶと、やけにあの「もどかしい発車」が懐かしく感じられるというのは、あまりにも現金すぎるだろうか。

追記:
苦手なはずだったキハ40のエンジン音が、なぜか手元に残っていた。
どうも気まぐれで録音したらしい。
この音も今となっては昔語り。せっかくなので、あわせて公開する。
【キハ40 568】 エンジン音 1993年8月24日 小張駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ40 506】 1991年8月26日 奥羽本線弘前駅にて撮影
【エンジン音:キハ48 ???】 2006年9月10日 石巻線小牛田駅にて録音

この写真の撮影場所、ノーヒントであっても、米子か弘前あたりと言われるでしょう。
左隣の白帯なしの12系が、この写真が撮られた場所を如実に物語っています。

この【キハ40 506】という車両、今は「リゾートしらかみ」に改造されてしまったそうです。
毎日黙々と地域輸送に当たっていた車両がある日突然、観光列車という非日常の主役へ抜擢された、というわけです。
人間万時塞翁が馬、とはよく申したものです。

さて、キハ40・47・48の心臓部たるDMF15HSAの、クマゼミが鳴くが如きむさ苦しいアイドル音も、最近では耳にしなくなりました。
四国を除く東海以西のキハ40・47・48の多くがエンジン換装工事を受けています。

しかし、先日、新潟を旅行した際に、久しぶりに原型エンジンのキハ47に乗車する機会を得ました。
それも非冷房車、です。

むさ苦しいアイドル音と、何をしても逃れられない炎暑、開け放たれた窓、吹き渡る風。
昔は当たり前だったことが、今になっては逆に新鮮、そして貴重な体験になるというのも、何だか皮肉な話です。
このキハ47のように、窓の開く車両、冷房のない車両も、そのうちSLのように過去の遺物になっていくのでしょう。
そして、当然、そんなありふれた車両たちは、SLなんかよりもはるかに注目度も低く、ひっそりと消えていくに違いありません。

ですが、今のSL群がそうであるように、単に車両を残すだけでは、その車両が存在していた昔の日常風景を後世に伝えることにはつながりません。
あんなにピカピカに磨かれたSLは、現役時代どれほどいたでしょうか? 特別整備機でもない限り、SLは煤まみれであったはずです。

そう考えると、延命処置を施された偽りの日常を見せつけられるぐらいなら、ひっそりと消えていった日常に、そっと想いを馳せたいという思いを新たにするのです。

【キハ30 34】 1995年8月26日 車内にて 【灼熱】

「暑い…」
車内に立ち入った者は、誰もが口にした。
そして、席に着くなりみなこぞって窓を開けるのが、常武線に限らず、一昔前の鉄道の光景のひとつだった。

効きは弱いが曲がりなりにも冷房車であるキハ38が編成中にいようものなら、それだけで安堵したものである。
たまにやってくるキハ28・58の冷房車は天国のようにすら感じられた。
しかし、常武線の冷房車はしょせん少数派。
主力のキハ23・45・30・35・40には、ただの1両にも冷房は付いていなかった。

キハ40は、寒地仕様車が来ると、下段上昇・上段下降式の窓のため全開できず、がっかりした覚えがある。
それに比べて暖地仕様は、上段も下段も上昇して全開できた。
キハ30・35は上段も下段も上昇して全開できたが、通常の電車でいう戸袋部の窓だけは「手をださぬよう」という無愛想な表示がしてあって、気休め程度にしか窓が開かなかった。

だが、どちらにしろ窓を開けても生ぬるい風が抜けていくだけ。
外を見れば線路際の夏草がラジエータファンに踊り、大きな農家の庭先では子供たちが水浴びをしている。
天井の扇風機は顔だけは涼しいふりをして、暖かい風を送りつけてくる。

走行中ならまだしも、交換待ちの長時間停車などは耐えられるものではなかった。
セミの合唱とエンジン音を聞きながら、ひたすらに対向列車の到着を待つ。
じわりとにじむ汗が気持ち悪い。

だが、永遠に続くと感じられるようなそんな時間も、当たり前だが永遠ではなかった。
そして、それは今となっては、二度と体験できない時間になってしまった。
【キハ30 34】 1995年8月26日 車内にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ30 34】 1998年8月25日 久留里線にて撮影

キハ30・35には相模線や八高線で散々乗っていましたが、車内の写真はこれ1枚しか手元に残っていません。
キハ30の特徴たる、戸袋がなく彫りが深い外吊りドアや、わずかしか開かない戸袋部の窓の開口具合がよくわかります。

しかし、この写真を見てるだけで、あの頃の暑さがよみがえります。
この時、編成内にキハ38がつながっていて、写真奥に写っているおばちゃんにも「隣のほうが涼しいよ」と教えてもらった覚えがあります。
結局、おばちゃんも私も移動しなかったのですが…。手前に写っているのはツレで、彼もしきりに暑がっていました。

【キハ30 34】 1995年8月26日 武蔵笠原駅にて 【交換】

灼熱の土曜の昼下がり。
部活動に向かう中学生の集団が、武蔵笠原駅の改札口を挨拶とともに次々に通り過ぎる。
委託のおばちゃん駅員は、彼らからきっぷを回収するのにおおわらわだ。
若い彼らを降ろし、対向列車を待ちつつ一息つくのは、八王子行きのキハ30。

熱を帯びた夏の風が、駅裏の田んぼで頭を垂れ始めた稲穂を撫ぜてゆく。
オイルと鉄粉にまみれた40kgレールが、夏草の中で陽炎に揺らめく。

しばらくして、構内踏切が鳴り始めた。
目をやると、二条の鈍色の上を、のそのそと巨体を揺らしてキハ40がやってくるのが遠くに見える。
キハ40を迎え、信号が変わればこちらの休憩は終了。発車時間である。

何気ない夏の風景。
だが、この夏は、常武線での国鉄型気動車とって、最後の夏でもあった。
【キハ30 34】 1995年8月26日 武蔵笠原駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ30 34】 1998年8月25日 久留里線横田駅にて撮影

この当時、既に八高線電化から2年が経ち、私はもはやこの世に朱色5号のキハ30・35は存在していないと思っていました。
したがって、この【キハ30 34】との思わぬ再会は、非常に驚いたとともに、うれしかった思い出があります。
木更津から上総亀山まで赤いキハ30で往復して、最後に木更津を去る時には、ヤマトタケルノミコトの伝承よろしく、そこを去りがたいものがありました。
この時乗ったのが、今のところ、私にとって最後のキハ30の乗車記録となっています。
(ちなみにキハ35については、1999年3月20日に和田岬線で乗車したのが最後の乗車記録です。そしてこの記録は二度と更新されません…)

当時は今のようにインターネットもあまり発達しておらず、どこにどんな車両がいるかを知る手段は、非常に限られていました。
「旅先でどんな車両に当たるのかを楽しみにする」というのも、鉄道旅行の醍醐味だったのですが、今では嫌でも情報が入ってきてしまいます。
確かにそれは便利ではありますが、旅の魅力を幾分かスポイルしているとも思います。

【キハ111 107】 1996年6月12日 土浦駅にて 【新鋭】

長らく国鉄型気動車が割拠していた常武線に、ついにこの日がやってきた。
1996年3月16日をもって、JRが誇る高性能気動車・キハ110系列が高崎区に大量投入され、八高・常武線用として長らく使われていた国鉄型気動車を一掃したのである。

同時に八高線は八王子−高麗川間が電化され、川越線や青梅線と一体化した運転形態に移行し、八王子−高麗川−土浦といった八高・常武を走りぬくロングラン運用は消滅。こうして、生まれてこのかた兄弟同然のように扱われてきた八高線と常武線は、バラバラに寸断されてしまった。

そしてなによりも、「関東最後の国鉄型気動車の王国」が瓦解したという事実。
筆者はこのキハ111-107を撮影して以来、常武線に乗るどころか、訪ねることもしていない。

−私の中での常武線は、もはや廃止されたに等しいものがある。
【キハ111 107】 1996年6月12日 土浦駅にて
<作者メモ>
【実車番号:キハ111 107】 1993年6月12日 磐越東線郡山駅にて撮影

私は実のところ、JR常武線の「筆者氏」ほど、キハ100・110系列を嫌ってはおりません。
そのスマートな外見と鋭い走りは、国鉄型気動車とはまた違った魅力があると思っています。
曲がりなりにもキハ100・100系列はJR東日本の非電化線区の主役であり、気動車を趣味の対象とする者からすれば、
旧型だろうが新型だろうが、何ら変わることはありません。むしろ愛でるべき存在です。

そして、今では気動車の世代交代の早さに驚かされるばかりです。
国鉄型気動車が、キハ10の登場から、キハ20、58、30、45、40…と形式の種類を増やしつつも結局、最終期まで混用され、完全なる世代交代というものを果たせずにいたのに、
JR化後は線区ごとに車種があっという間に統一され、その車両群も20年もしないうちに新車に切り替わるというめまぐるしさです。
キハ100・110系列も、登場から早20年。今では新進のキハE120系やE130系、ハイブリッド気動車E200系に追われる存在になりつつります。
この調子だと、「さよならキハ110」などという列車が運行される日も、案外近いのではないかと思ってしまいます。

【常武線を走っていた気動車たち】 常武線沿線にて随時撮影 【エピローグ】

常武線から国鉄型気動車は去っていったが、それでも筆者は、いい風景を観ることができたと思っている。

華やかさとは無縁な、煤にまみれた旧い気動車たちが、毎日黙々と地域輸送に徹していた。
いうまでもなく、筆者は鉄道ファンである。
ゆえに、「鉄道車両」としての常武線の国鉄型気動車たちが好きだった。
だが、本当は、彼らを通じて、「鉄道のある風景」を感じ取るのが好きだったのだろう。

春の陽光の中でも、夏の炎熱の中でも、秋の月明かりの下でも、冬の極寒の中でも、そこには鉄道を使う人々の日常の息遣いが感じられる。
毎日変わることのない日常が、それでも確実に時を刻み続ける証として、鉄道は走っているようにも思える。

常武線に限らず、地方路線ではよくあることかもしれないが、常武線と、そこを走っていた旧い国鉄型気動車を通じて観ると、鉄道を取り巻くあらゆる風景が、なぜか身近に、そしていとおしく感じられた。

乗客や沿線の人々の一挙一動。
鉄路を担う鉄道員たちの眼差し。
そして路線を取り巻く街並みや自然。

そして、そんな風景が、当たり前にそこに存在していることのありがたさ。

筆者が「新型気動車」キハ110系を嫌った理由は、そんな常武線の日常を毀されることが嫌だったからに他ならない。
だがキハ110系も、登場から14年を経て、もう十分に常武線の日常に溶け込んだことだろう。
それが今の常武線の日常だというのなら、嫌う道理はないはずだ。

鉄道の魅力は、車両だけではない。
それをとりまく日常や光景にこそ、鉄道の真の魅力がある。
日常あっての鉄道だということ、そして鉄道あっての鉄道車両であり、我々鉄道ファンだということを、決して忘れてはならない。

…そろそろ乗りに行くとするか、大好きな常武線に。
【常武線を走っていた気動車たち】 常武線沿線にて随時撮影

JR常武線 -関東最後の国鉄型気動車の王国を訪ねて- -完-

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【更新履歴】
□2008/11/20 JR常武線 公開
□2011/1/1 【灼熱】、【交換】及び作者メモ追記(記載内容をブログ記事に合わせました)

JR常武線は現実世界には存在しません。
架空の話であることを認識の上、ご覧頂くようにお願い致します。
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