NHKで放送された

永平寺・宮崎奕保禅師

の言葉。

 

道元禅師は おっしゃっておるんや

「坐禅をすれば善き人となる」

その善き人に なかなかなれん

人間は 名誉とか 地位とか  見栄とか 

我慢(わがまま)とか そんなもんでいっぱいだ

欲は 克服するすべを覚えんといかん

それが坐禅だ


お釈迦様の教えというものは  

天があり 地があって その恵みを受けて

人間が その正しい真(まこと)を  実行していくという

大法則のもとに 生かされておる というこでございます

真は名前を変えたならば 真理ということになる

この忙しいときに 手を組み 足を組んで

ただむなしく坐っておるように思うけど

そうではなくて 大自然を真に表したものが

3分 5分 の坐禅 どうぞみなさん 

朝の 3分でも 5分でも よろしいから

まず第一に 正しい真の姿をもって

先祖さんに あいさつをして 

元旦のはじめに お願いしておきます

誠におめでとうございます どうぞよろしゅう

年をとったら しわが増えて ほくろができて

腰がかがむ これは真理の姿です

そういう負け惜しみを言っておるより しょうがない


もう たいがい百歳超えたら みな寝とる

もう寝込んだら最後 だめやから

昼は寝んことにしとる


何も考えない 妄想せんことや

いわゆる前後裁断や その時その時 一息一息

しかないんだ 何か考えたらもうそれは余分や

人間は 名誉とか 地位とか  見栄とか

我慢(わがまま)とか そんなもんでいっぱいだ

欲は 克服するすべを覚えんといかん

それが坐禅だ

息と一つになる 欲の起こるすきがない

坐禅ということは まっすぐということや

まっすぐというのは 背骨をまっすぐ 首筋をまっすぐ

右にも傾かない 左にも傾かない

まっすぐということは 正直ということや

身心は一如(一つ)やから 体をまっすぐにしたら

心もまっすぐになっとる

人間はわがままが自由やと思っておる

ちゃんと型にはまったものが平生底(日常)で

なければならない


道元禅師様の坐禅ということは

すべてがみな禅だ

禅というたら 何か殊更にあるように思っておる

そうではなくて そのものと一つになっていくことが

禅だから 歩いたら歩いた禅 しゃべったら

しゃべったで しゃべることが禅だ

スリッパを脱ぐのも 坐禅の姿や

スリッパをそろえるのが 当たり前のこっちゃ

例えばスリッパがいがんでおったら

ほうっておけないんだ

スリッパがいがんでおるということは 

自分がいがんでおるんだ

自分がいがんでおるから いがんだやつが

直せないんだよ

だから 物を置いても 

ちぐはぐに置くのと まっすぐに置くのと

すべて心が表れておるんだから

心がまっすぐであったら すべての物を 

まっすぐにする必要がある

修行をしておるんじゃなくて

当たり前のことをやっておるんや

それよりやることないんだ


11歳から坐禅をしておる

嫌々ながらやっておった はじめは

そんなことするより ほかにすることがある

と思っておった

坐禅するより ほかにすることが いくらでもある

と思っておったんや


老僧の 温かい死がいを 見たときに

「偉い人やったな」と思った

80にもなっておって 雲水と同じものを食べて

雲水と同じ1日を ――――

わたくしのない 生活をする

やっぱり日常の生活が手本やな

老僧の口だけでない 実行で示した

それが元や

できたら 老僧のような坊さんになりたい

だから 人間はまねをせないかん

学ぶということは まねをするというところから

出ておる

1日まねをしたら 1日のまねや

それで済んでしまったら

2日まねして それでまねせなんだら

それは2日のまね

ところが一生まねしておったら まねが

ほんまもんや


このごろの情勢を各報道機関によって見聞しますと

大衆に範を示さなければならない位置におる

位置をしめておる 地位にあるものが 範を犯したり

非常に醜い醜聞がちまたに満ちておりますが

教えというものは何がためにあると言えば

教えは実行するためにある

そのために高祖様(道元禅師様)は

黙って実行するところの只管打坐(坐禅)を

お勧めになった

どうぞ口で布教するだけでなくて

我が宗門は黙って実行するということに

中心を置いて下さい お願いしておきます

どうぞよろしゅう


その時はもう終りやなと思ったな

もう見えないのや しばらくしたらボーッと

天井の板が見えんのや それぐらい衰弱しておった

「ああもうこれこれ死んでもええわ」と

思ったな その時は えらくて(つらくて)

主治医やら看護婦さんに ようしかられた

「あんた大病人やのに そんな 坐禅したりしとったら

いけません」

そうすると 「はいはい」 言うて 寝間にはいりよった

看護婦や主治医がでていったら また坐禅した


正岡子規の 「病牀六尺」 という本には

「人間は いつ死んでもいい と思うのが

悟りだと思っておった ところが それは間違いやった

平気で 生きておること が悟りやった」と

分かるか

平気で生きておることは難しい

死ぬときが来たら 死んだらええんやし

平気で生きておれるときは

平気でいきておったらいいのや


今 あまり タバコ 吸わんのや

わたしもタバコやめるのに苦労した

1人でやめられんもんやから 3人組を組んで

もし隠れて吸ったら 50銭の罰金や

ところが 明くる日になって もう いっぺん吸うたら

同じやないかと言って 元に戻ってもうた

そこで今度は考えて

「わたくしが 今度 タバコを吸ったら わたしの命を

取ってください」

本尊さんに お誓いをした

命が惜しいもんやから 今度はやまった

それが30歳や だから 人間は命がけやったら

なんでもできるな と思った

どうぞみなさん 何かやめたいと思うことがあったら

命がけでやってください

どうぞ お茶 おあがり


みなさんは 門前でおられるから

優しい上に もう一つ優しい

来る人に優しい心を分けてください


いわゆる わたくしが 永平寺や

わたしは 宮崎奕保やけども 

「永平寺さん」言うたら

「はい」言うんや

永平寺とわしと一つや

自分ぐらい大事なものはない

自分ぐらい大事なものはええけども

人はどうでもええではなくて

環境もみな自分だから

わたしが永平寺やから

永平寺を大事にすることは

自分を大事にしておる


自然は立派やね

わたしは日記をつけておるけれども

何月何日に花が咲いた

何月何日に虫が鳴いた

ほとんど違わない 規則正しい

そういうのが 法だ

法にかなったのが 大自然だ

法にかなっておる

だから 自然の法則をまねて人間が暮らす

人間の欲望に従っては 迷いの世界だ

真理を黙って実行するというのが 大自然だ

誰に褒められるということも思わんし

これだけのことをしたら これだけの報酬が

もらえるということもない

時が来たならば ちゃんと花が咲き

そして黙って 褒められても 褒められんでも

すべきことをして 黙って去っていく

そういうのが 実行であり 教えであり 真理だ