『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)





 




第5章 三代カリフ−−アブー・バクル、ウマル、ウスマーン−−に関して

すでに述べてきたように、アフルル・スンナ・ワッルジャマッアは、教友が誰であろうと批判や
非難を一切許さず、教友はグループとして誠実なる信者であるとの見解を保持している。
自由な発想の人が教友について書き、一部の教友の行為を批判すれば、その人は誹謗中傷の的となる。その作者がたとえアフルル・スンナの学者であっても不信心者にされてしまうのである。このようなことがエジプトその他の自由な発想の知識人に起こっている。

 例えば、『ムハンマドのスンナの光』や『シャイフ・アル=ムザイラ』の著者シャイフ・マフムード・アブー・ライヤ、『アフルル・バイトを選んだ理由』の著者カーディー・シャイフ・ムハンマド・アミーン・アル=アンタキ、『ムアーウィヤの仲間への完全なる助言』の編纂者サイード・ムハンマド・ビン・アーキルなどがそうだ。実際、アズハル大学最高指導者だったシャイフ・マフムード・シャルトゥートは、ジャファーリ法学派に従って信仰することを認めた法的宣告を発したがために、一部のエジプト人知識人たちから背信者というレッテルを貼られた。

 学者の師であるジャッファル・アッサディーク(AS)を法学祖とするシーア法学派に従ってもよいと認めただけで、アズハル大学の最高指導者、エジプトの全法学のムフティーという地位にある人が非難されるのだから、調査研究の後、この法学派を納得して受け入れ、先祖から受け継ぎ従っていた法学派を批判した人がどんな扱いを受けるかは想像できよう。  

アフルル・スンナ・ワッルジャマッアはイスラームからの逸脱として認めず、背信行為とみなす。まるでイスラームとは四法学派であってそれ以外はすべて過ちといわんばかりに。  
これはクルアーンがそのことを述べ、又預言者が遭遇した、頑迷固陋の心に似ている。人びとを一神教に招待した預言者は、多神教を放棄したがために猛烈な反逆を受けた。至大の主は仰せになった。「またかれらは、自分たちの中から警告者が出たことに驚き、不信心者は言う。『これは魔術師です。嘘吐きです。かれは多くの神々を、一つの神にしてしまうのですか。これは全く驚きいったことです』(38:5)」

 他者に対して権威を握り続ける熱狂者の悪質な攻撃から私は安全なところにいる。(この熱狂者たちにとっては)イスラームに反していない反論であっても、彼らの書物に反論する権利は誰にもないとでも言いたいようだ。そうでなかったら、なぜ一部の教友を批判したからといって宗教の基盤や法学派とは全く関係ないのに、批判した人がイスラームから逸脱した背信者でなければならないのだろうか。

一部の狂信者たちは、私の『Then I was guided(そのとき私は導かれた)』を、まるでサルマン・ラシーディの作品といわんばかりに宣伝した。そうやって人びとに読ませないようにし、誹謗中傷するよう仕向けた。
このような陰謀、嘘、熾烈な中傷は、創造主から問われる日が来よう。私はあの本で預言者の無謬性、預言者が批判を超越した人であることを訴え、アッラーから完全に浄化されたアフルル・バイトのイマームに従おうと呼びかけたにすぎない。それなのにイスラームを悪魔に唆された教えと考えてイスラームとその預言者を冒涜した作家と比較されねばならないのだろうか。

 アッラーは仰せになった。「あなたがた信仰する者よ、証言にあたってアッラーのため公正を堅持しなさい。仮令あなたがた自身のため(に不利な場合)でも・・・(4:135)」

 この高貴なる節に従って、私は至大至高なるアッラーの御悦びだけを求める。正しいイスラームを防衛し、高貴なる預言者を一切の過ちから引き離すためであれば、私は非難を恐れない。たとえそれが預言者に近い一部の教友の行為を批判することになっても。それが「正統カリフ」といわれる教友だったとしても。神の使徒は他の誰よりも(過ちを犯すことから)引き離されるに値する方なのだから。

私の目的は教友を貶めることではない。偏見をもたない見識ある読者なら、これまで私が発表してきた書を読めば、そのことを理解されただろう。イスラーム初期のウマイヤ朝とアッバース朝の支配者は暴君と権力乱用によってムスリムを支配し、現世の目的、政治的陰謀、私欲を満たすためにアッラーの教えを変え、イスラームとその預言者に関する過った教えを深めてしまった。こうして発生した誤りの認識から預言者とその無謬性を守ることが私の目的である。

この世襲王朝の主な陰謀が、良き意図でそれに従った大多数のムスリムに影響を及ぼしたのである。その大多数のムスリムが、陰謀者による嘘で歪曲された伝承をイスラームの不可欠な要素とし、真実として受け入れ、疑問を抱かずにこれに従うことがムスリムの義務であるとした。

物事の事実をムスリムが知っていたら、ウマイヤ朝・アッバース朝の支配者に重要性を付すことなどしなかっただろうし、支配者が語った伝承を受け入れはしなかっただろう。もしも歴史が、教友は神の使徒(SAW)の命令に従っていた、教友は使徒に反抗しなかった、教友は人生が終わろうとしていた時の使徒の判断に服従していた、と語っていたのなら、我々も教友という集団全体を誠実な信者として受け入れ、教友の行為をこのように議論していなかった。だが、クルアーンと真正スンナによると、教友の中には嘘を吐き、堕落した似非信者もいたのである。

この教友たちは、使徒が遺言を書き残させようとした時、使徒の目の前で互いに言い争い、
「うわごとを言っている」と言いがかりをつけて遺言を阻んだ。又、使徒がウサーマを司令官に任命した際にもこれに従わなかった。使徒の定めたカリフに反抗し、使徒の亡骸を清めることもせず、埋葬にも参列せず、埋葬の最中に誰がカリフになるかでいい争っていたのである。こうして決定したカリフに満足した者もあれば反対する者もいた。神の使徒(SAW)の逝去後、教友たちはすべてにおいて相違し、互いを不信心者と呼んで誹謗中傷し、挙句の果ては殺し合いへと発展し、分裂が生じた。こうして、一つだったアッラーの教えがいくつもの見解に分かれ、分派してしまったのである。

このような状況に置かれているのだから、人間のための最善のウンマが成立した後の、衰退の原因を探る必要がある。ムスリム国家は最低のところまで衰退した。地球上、最も無知で劣った国家となり、ムスリムウンマの尊厳は冒され、平安を失い、人びとは殖民化され、己の土地から追放された。侵略者から身を守ることも、恥辱を取り除くこともできなかった。

 このような困難から自らを救済する唯一の方法は、自己批判しかないと私は考える。  
先祖の称賛を忘れよう。消滅してしまった、訪問者のない、朽ち果てた博物館のような虚偽の栄光を忘れよう。現実が我々に求めているのは、病弊、後退、分裂、失敗の原因究明である。病原を突き止め、回復への有効な治療法を見つけ出さない限り、この病は我々を一人残らず圧倒するだろう。これが我々に望まれる目的である。信仰されるに値する唯一の御方はアッラーだ。アッラーはしもべを正道に御導きになる。

我々が正しい目的にある限り、教友の擁護のために議論で相手を誹謗中傷するしかない狂信者の反抗は何の意味もない。状況を知る我々は決して彼らを誹謗中傷しない。彼らは教友のための良き意図によって見当違いの誤った導きに従っているだけなのだから。真実に到達できないのはそのためだ。先祖を信頼しきったユダヤ教徒やキリスト教徒の従者がイスラームを調べようとしないのに似ている。彼らは調べもせずにムハンマドを嘘吐きと呼び、ムハンマドは預言者ではないと言う。だがアッラーは彼らのことをこう仰せになった。「啓典の民の中、(真理を)拒否した者も多神教徒も、かれらに明証が来るまで、(道から)離れようとしなかった。(98:1)」

ユダヤ教やキリスト教が何世紀も続くにつれ、今日のムスリムが彼らにイスラームの教えを納得させるのは困難になっている。クルアーンは聖書や律法が過ちであることを証明している、とムスリムが彼らに言ったところで耳を傾けるだろうか。

  これと同様で、証拠なしに教友全員が品行方正だと熱烈に信じて疑わぬ純真なムスリムを納得させることはできるだろうか。

ムアーウィヤとその息子ヤジードの過ちすら判断できず批判できないでいるのであれば、彼らを納得させることは可能だろうか。他にも悪行でイスラームを歪曲した人たちは大勢いた。
誠実な人と呼ばれるアブー・バクル、真偽を分かつ者と呼ばれるウマル、天使が恥ずかしがる人と呼ばれるウスマーンについて聞く耳を持つだろうか。前章で述べた通り、アフルル・スンナが信頼し、シハーフの語り手であり、信者の母であり、預言者の妻であり、アブー・バクルの娘であるアーイシャについてはどうであろうか。

ここで三代カリフの役割を検証すべき段階に到達した。三代カリフの言行がいかなるものだったかを調べてみなければなるまい。サヒーフやムスナード他のスンナ派が信頼する歴史書は、彼らの見解と一致していない。その言行のいくつかを検証していくことにする。

まず、教友全体が品行方正なる集団だったという考え方が不正確であることが判明しよう。預言者の親密な教友の中に不誠実な人がいたことも明らかになろう。

次に、批判は決して教友に対する誹謗中傷や侮辱ではなく、真実を被うヴェールを取り除く手段であり、大多数が主張するような、背信者の嘘や作り事ではないということを、アフルル・スンナ・ワッルジャマッア同胞兄弟に明らかにさせたい。嘘や作り事とは裏腹に、これから示していく報告は、真正性が認証されている書からの報告なのである。従って、これを受け入れる義務がある。



 




預言者(SAW)存命時のアブー・バクル

サヒーフ第6巻46ページの「スーラ・アル・フジュラート[部屋]の解釈」の章にブハーリーが報告している。――ナーフィゥ・ブン・ウマルがイブン・アビー・ムライカから聞いて伝えた。二人の誠実な人、すなわちアブー・バクルとウマル(アッラーが彼らを嘉し給いますように)は、タミーム族の一団がやって来たとき、神の使徒の前で高く声を上げたために、あやうく滅びるところだった。一人はマジャシャー族のアル=アクラゥ・ブン・ハービスを(指導者として)指名し、もう一人は別の人を指名した。ナーフィゥが「わたしは彼の名を覚えていない」と言ったとき、アブー・バクルがウマルに「わたしに逆らおうとばかりするのか」と言うと、ウマルはアブー・バクルに「いいえ、あなたに逆らおうとは思いません」と応えた。こうして二人が言い合っていたとき、「信仰する者よ、あなたがたの声を預言者の声よりも高く上げてはならない・・・・・・」の節が啓示された。(後に)イブン・ズバイルが、「この啓示があった後、ウマルは預言者から尋ねられるまで何も言わなかった」と語った。

  同様を第8巻145ページ「クルアーンと預言者のスンナを拠り所とすること」の書の「議論に深入りすることや、宗教上のことで度を過すことは非難すべき」の章で、ブハーリーはこう報告している。――ワキッがナーフィゥ・ブン・ウマルから、彼はイブン・アビー・ムライカから聞いて伝えた。タミーム族の代表者が使徒のところにやって来たとき、二人の誠実な者アブー・バクルとウマルはあやうく滅びるところだった。一人がマジャシャー族の兄弟アル=アクラゥ・ブン・ハービス・アッ・タイミーを指名し、もう一人は他の者を指名したので、アブー・バクルがウマルに「わたしに逆らおうとばかりするのか」と言うと、ウマルは「いいえ、あなたに逆らおうとは思いません」と言った。二人が使徒の前で声を上げて言い争ったとき、「信仰する者よ、あなたがたの声を預言者の声よりも高く上げてはならない。またあなたがたが互いに声高に話す時のように、かれに大声で(話して)はならなない。あなたがたの気付かない中に、自分の行いを虚しくしないために。本当にアッラーの使徒の前でその声を低くする者は、アッラーがその心の敬虔さを試みられた者である」の節が啓示された。
イブン・アビー・ムライカは、(後に)イブン・アル=ズバイルがこう言ったと語った。「その後、ウマルは父についてのその件をアブー・バクルに言わなかった。そして預言者が尋ねなければならないくらい小声で話した」

 第5巻116ページの「遠征」の章でも同様の報告がある。ヒシャム・ブン・ユースフがイブン・ジュライジの権威で、彼はイブン・アビー・ムライカの権威で、アブド・アッラー・ブン・ズバイルが伝えたところによると、タミーム族の代表者が預言者のところに来たとき、アブー・バクルが「アル=カァカーゥ・ブン・マァバドを長にしなさい」と言い、ウマルは「アル=アクラゥ・ブン・ハービスだ」と言った。アブー・バクルが「わたしに逆らおうとばかりするのか」と言ったので、ウマルは「いいえ、あなたに逆らおうとは思いません」と応えた。こうして二人が声を上げて言い争っていたとき、「信仰する者よ、アッラーとその使徒を差し置いて勝手な振る舞いをしてはならない・・・・・・」の節が啓示された。

アブー・バクルとウマルが預言者(SAW)の前でイスラームの教え通りに行動せず、神とその使徒の前で勝手に振る舞っていたことを、こうした伝承が明らかにしている。神の使徒(SAW)が二人にタミーム族の指導者を誰にすべきかと尋ねてもいないのに、二人は声を上げて言い争い、教友であれば常識であるはずの品行や道徳を無視した。そういった常識は教友であれば軽視できるはずがなかった。神の使徒(SAW)がその生涯を労して教育してきたのだから。

イスラーム初期の出来事であれば、二人のシャイフたちのために言い訳を求めていただろうが、預言者(SAW)の余命残り少ない時期の出来事ということを、この伝承報告が明らかにしている。なぜなら、タミーム族の代表者が預言者のところにやって来たのはヒジュラ暦9年だったからだ。その数か月後に預言者(SAW)は他界した。タミーム族の代表がやって来たことは歴史学者や伝承学者が証言している。さらにはクルアーンの終りの方にそのことが啓示されている。「アッラーの援助と勝利がやって来て、人びとが群をなしてアッラーの教え(イスラーム)に入るのを見たら・・・・・・」

だとすれば、預言者(SAW)の前で振る舞った二人の行為をどう弁明することができるのか。

このような行為がただ教友二人に限られたものであれば、我々は批判しなかった。しかし、真理の開示を臆しないアッラーが、同じ行為を繰り返したときは善行を受け入れないとまで仰せになって、アブー・バクルとウマルに警告されたのである。同じように伝承の語り手が、報告のはじまりに、「二人の誠実な者アブー・バクルとウマルはあやうく滅びるところであった」と述べている。語り手のアブド・アッラー・ブン・アル=ズバイルは、この節が啓示された後、ウマルは預言者が尋ねなければならないくらい小声で話したのだと語っている。

彼は(同じくらい恥ずべき行為をした)アブー・バクルのことは述べなかったが、ハディース学者が伝えてきた伝承と歴史上の出来事が反証している。木曜の災いを述べただけで十分であろう。神の使徒(SAW)が他界される3日前のことだった。[神の使徒が遺言を書き残させようとして書くものを求められた時]「神の使徒は病でうわごとを言っておられる。我々には神の書があれば十分だ」と、ウマルは罪深い発言をしていた。居合わせていた教友たちは言い争いを始め、「使徒に書くものを渡しなさい。その遺言であなた方が道を誤ることがないように」と言った人もいれば、ウマルの言葉を繰り返した人もいた。言い争いが激化し〈注119〉、耐えかねた使徒は、「出て行ってくれ。わたしの傍で言い争ってはいけない」と言い放った。〈注120〉
この無礼な言い争いからわかるのは、アル=フルジャートの節で定められている法を教友が侵していたということだ。教友たちは耳元に囁いて言い合ったのではなかった。カーテンの後ろにいた女たちまでが、「預言者に書くものを渡しなさい」と声を上げて加わるほど大声で言い争っていたのである。そのときウマルが女たちに「あなたたちは本当にユースフの女のようだ。彼が病のときには目から涙を絞りだし、元気になれば彼の肩に飛び乗るのだから」と言ったので、神の使徒はウマルに言った。「彼女たちをほっときなさい。あなたより良いのだから」〈注121〉 

これらの報告から結論付けられるのは、「信仰する者よ、あなたがたの声を預言者の声よりも高く上げてはならない。またあなたがたが互いに声高に話す時のように、かれに大声で(話して)はならなない」というアッラーの命令に彼らが従っていなかったということだ。また、預言者を軽視し、不適切に行動し、「ハジャラ(うわごと、妄想する)」という言葉で預言者を拒否していた。

  この出来事以前にもアブー・バクルは預言者(SAW)の前でウルワ・ブン・マスードに、「アル=アブーの陰部を舐めに行け」と忌わしい発言をしていた。〈注122〉ブハーリーの注釈者アル=カスタリンは、「『陰部を舐める』という表現は、アラブ人の最も悪質なる中傷のことばの一つである」と説明している。それほどの言葉を使徒の目の前で使っていたのだとすれば、彼らにとって「あなたがたの声を預言者の声よりも高く上げてはならない。またあなたがたが互いに声高に話す時のように、かれに大声で(話して)はならなない」にどれほど意味があっただろう。

神の使徒(SAW)は(主の仰せ通り)気高い人だった。(ブハーリーとムスリムの報告にあるように)密室の処女よりも恥じらう方なのである。〈注123〉ブハーリーとムスリムによると、神の使徒(SAW)は「あなた方の中で最も良き人間は、最も清廉潔白なる人である」〈注124〉と語ったそうだ。神の使徒は下品な振る舞いなどしないことを、ブハーリーとムスリムがはっきりと報告しているのである。そのような使徒と親密だった教友たちが使徒の人格に影響を受けていないのはどういうことなのか。

これらの出来事に加えて述べておきたい。アブー・バクルは神の使徒(SAW)の命令を実践していなかった。神の使徒がアブー・バクルではなくウサーマ・ブン・ザイドを司令官に命じ、アブー・バクルがその指揮下に置かれたときのこと。神の使徒は「ウサーマの軍に従わず留まった者にはアッラーの災いがある」と言ったほど、ウサーマに従わなかった人たちを厳しく非難した。〈注125〉ウサーマが司令官に任命されために神の使徒を批判する者がいたことを知らされた後のことだ。大多数の歴史家や伝記作家がこの出来事を記録している。

これと同じように、アブー・バクルは、神の使徒(SAW)の亡骸(我が両親が身代わりになりますように)を葬ることなく、アリー・イブン・アビー・ターリブをカリフにさせまいとするうごきに加わり、サキーファに駆けつけた。亡き使徒の体を清めようともせず、埋葬の準備を忘れ、首を長くして待ち望んだカリフのことで頭はいっぱいだったのだ。預言者の親密な教友? 預言者を敬愛した誠実な人? 私は預言者(SAW)への彼らの態度に驚愕した。クルアーンが「かれはあなた方に降りかかることに懸念し、あなた方を守る。かれは信ずる者に、親切で、慈悲深い」と忠告するように、預言者(SAW)は教友への忠告と導きに生涯を捧げた方である。そんな彼の亡骸をそのままにしてサキーファへと急ぎ、自分たちの中からカリフを選ぼうとしていたのである!

今日の私たちは、20世紀に生きる、などと晴れがましく言うものの、最も不幸なる人間の時代である。道徳観は消え失せ、価値観の消滅した時代。それでも、今日、隣人ムスリムが亡くなれば、「死人を敬う行為は埋葬すること」との預言者(SAW)の言葉に従って、ムスリムたちはすぐさま駆けつけ、墓を用意し、埋葬するではないか。

信者の司令官・アリー・イブン・アビー・ターリブは、「アッラーにかけて。わたしがカリフの地位にあることは粉引きのかなめのようなもの。それを知りながらイブン・アビー・カハファは(カリフの)衣を着た」と言って、これらの出来事を知らしめた。あの後、忠誠を誓うためにファーティマ・アル=ザハラの家から出てこなければ放火するとの脅しを、アブー・バクルは許したのである。ファーティマ・アル=ザハラの家を襲撃することを許したのである。起きたことは起きてしまったことだ。歴史家は記録した。伝承者が次世代へと語り継いでいるのだ。本書ではこの出来事の詳細は述べないが、詳しく知りたければ、歴史書を読んでみてほしい。


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注119.ブハーリー・サヒーフ5/138「預言者の病と臨終の章」

注120.同上 1/37「知識の書」

注121.カンズ・アル=ウムマル3/138

注122.ブハーリー・サヒーフ3/179

注123.ブハーリー・サヒーフ「傑出した者達の書」の「預言者の人格」。
          ムスリム「美点の書」の「使徒の恥じらいの章」

注124.ムスリム「美点の書」の「使徒の恥じらいの章」。
          ブハーリー「美徳の書」の「預言者の人格の章」

注125.The Book of Sects and Divisions vol.4, Shahrastani. K.Al-Saqifa, Abu Bakr Ahmad b.            al-Aziz al-Jawhari.






預言者逝去後のアブー・バクル 
−− 純真無垢で誠実なファーティマ・アル=ザハラの権利奪取と拒絶


ブハーリーは第5巻82ページ「遠征の書」の「ハイバル征服の章」に、ウルワの権威によりアーイシャが語ったと報告している。
――預言者の娘ファーティマがアブー・バクルに使いをやって、神の使徒がメディーナとファダクで得た戦利品 [*アッラーから授かったFay、すなわち、メディーナとファダクで戦うことなく得た戦利品のこと] およびハイバルの彼の戦利品[*ホムス]の残りから彼女が相続すべき分を与えるように求めたところ、 アブー・バクルは「かつて神の使徒は『誰も我々から受け継ぐべきではない。我々が残すものは喜捨に他ならず、 ムハンマドの家族のみがその財産から糧を得ることができる』と言った。それで、 わたしは神の使徒の財産のうちから何一つとして、彼の生前にあった状態から変えることなく、 また神の使徒が用いていたと全く同じようにそれを用いる」と応えた。こうしてアブー・バクルが与えることを拒んだとき、 ファーティマは彼に対して烈しい憤りを感じて彼を避け、死ぬまで言葉をかけなかった。 預言者の没後六か月してファーティマが死んだとき、彼女の夫アリーはそれをアブー・バクルに告げずに夜密かに彼女を葬り、 彼自身で彼女のための弔いの礼拝を行った。ファーティマの生前、アリーは信徒達の尊敬を得ていたが、 彼女の死後、それを失った。そこでアリーは、預言者の死後六か月の間、 カリフ・アブー・バクルにまだ忠誠を誓っていなかったので、彼と和解し・・・・・・」〈注126〉和訳注[*]内は原書の英訳を和訳した

ムスリムの報告によると、サヒーフの第2巻「ジハードの書」の「わたしたちの遺産はない。残したものは喜捨である」の章で、信者の母アーイシャがこう語っている。
――神の使徒がお亡くなりになった後、使徒の娘ファーティマがアブー・バクル・アル=シディキに戦利品で残されたものの分配を求めた。そのときアブー・バクルがファーティマに「神の使徒は『誰も我々から受け継ぐべきではない。我々が残すものは喜捨に他ならない』と言われた」と言ったためにファーティマは怒り、預言者の没後六か月後に死ぬまで彼と口を聞かなかった。アーイシャが言った。「ファーティマが、神の使徒がハイバルとファダクの戦利品で残したものと、メディーナのサダカから分配してくれるようアブー・バクルに求めたとき、彼は『わたしは預言者が行ったことは何一つ放棄しない。わたしも同じようにする。わたしは預言者の命令に背いて道に迷うのを恐れる』と言った。預言者のメディーナのサダカはウマルがアリーとアッバースに分配したが、ハイバルとファダクの戦利品はウマルが保有し、『この二つは神の使徒からの喜捨である。使徒の権利はその執行人に渡り、管理は指導者になった者にある』と言った」〈注127〉

  二人のシャイフ(ブハーリーとムスリム)は研究者に真実をわからせないように、この出来事を省略して報告した。三代カリフの名誉を守るための常套手段である。(この件に関する二人のシャイフについては長い説明を要する。神の御意思があれば別の機会で取り扱いたい)どう報告されようが、アブー・バクルに関する真実を示すには十分だ。彼はファーティマの要求を拒み、ファーティマは烈しい憤りを感じたままこの世を去り、そのために彼女の夫は夜密かに埋葬していたのである。ファーティマの遺言だった。彼女はアブー・バクルを自分の埋葬に参列させなかった。そしてアリーは預言者逝去後からファーティマが亡くなるまでの六か月間、アブー・バクルに忠誠を誓わなかった。人びとが自分から離れていくのを知って忠誠の誓いを余儀なくされ、アブー・バクルと和解を求めた、ということも伝承からわかる。

ブハーリーとムスリムは、ファーティマの主張が、生前、神の使徒(SAW)がファーティマにファダクを与えていた、すなわち、ファダクは遺産相続ではなかったかのように改竄して報告した。アブー・バクルが預言者(SAW)の言葉を語っているように、預言者たちを受け継いではならないと仮定したとしても、ファーティマは彼の主張を否定し、クルアーンの「スレイマーンはダウードから受け継いだ」を引証しながら反論した。どっちにしても、この疑惑つきの伝承によると、ファダクは使徒が生前にファーティマに贈与したもので遺産の一部にはならないといっている。

伝承学者だけでなくタフシール学者や歴史家全員が報告するところによると、ファーティマ(AS)はファダクを要求したが、アブー・バクルはファーティマを拒否し、彼女の要求を裏付ける証人を求めたため、夫アリー・イブン・アビー・ターリブとウンム・アイマンが証人となったが、アブー・バクルが二人の証言は不十分として却下した。イブン・ハージャルは『アル=サワーイク・アル=ムフリカ』に、ファーティマがファダクを預言者(SAW)から贈与されたと主張したこと、アリーとウンム・アイマン以外に証言者がいなかったこと、二人の証言は証拠不十分として却下されたことを報告し、この出来事を認めている。〈注128〉

イマーム・ファハル・アル=ディン・アル=ラズィは、そのタフシールにこう述べた。「神の使徒(SAW)の死後、ファーティマは父が自分にファダクを贈与されたと主張した際、アブー・バクルは『貴方はわたしにとって貧窮のときには親愛の人、豊かなときには最も愛される人ですが、貴方の主張を確信できません。従って却下します』と応えた」彼は述べる。「神の使徒(SAW)の信託者が証言したように、ウンム・アイマンが彼女のために証言した。それからアブー・バクルは彼女にシャリーアで認められる証言ができる人を連れてくるよう命じたのだがそのような人はいなかった」〈注129〉

ファダクが預言者(SAW)から与えられたというファーティマの主張、アブー・バクルの拒否、そしてアリーとウンム・アイマンの証言を却下したことは、歴史家の周知するところである。事実、『アル=シーラ・アル=ハラビーヤ』の著者イブン・タイミーヤをはじめ、イブン・カイーム・アル=ジャウズィヤといった歴史家が皆そう報告しているのである。

だがブハーリーとムスリムは、伝承を省略し、ファーティマの要求それも遺産のことだけを報告し、ファーティマがアブー・バクルに憤慨したのは不適切な行為だった、彼はただ預言者(SAW)の言葉に従っただけだった、過ちはファーティマの側にありアブー・バクルは犠牲者だと読者に印象付けようとした。すべてはアブー・バクルの名誉を守るためである。カリフの欠点を暴露するような事実はなく、又ウマイヤ朝や正統カリフの従者が並べ立てた口実や嘘を証明する事実の追求という誠実さはみられないし、伝承そのものにも信頼性がみられない。預言者(SAW)と彼の「分身」だったファーティマ・ザハラ(AS)は、その犠牲にすらなった。このような理由があってブハーリーとムスリムは、アフルル・スンナ・ワッルジャマッアの間で伝承学者の先駆者としての地位を獲得したのである。二人の伝承の書は、クルアーンに次ぐ真正な書とみなされている。しかし、こうした考案は学問的証拠に基づいていない。神の御意志があれば、そのことを知ろうとする方のために別の章で検証していこう。

だがその前に、ファーティマ・アル=ザハラ(AS)の美徳をわずかしか伝えなかったムスリムとブハーリーに異議を唱えるに十分な証拠がある。ファーティマに関して、アブー・バクルがアッラーとその使徒に対するファーティマの地位をブハーリーやムスリムよりもよく理解していたということの十分な証拠がある。にもかかわらず、アブー・バクルはファーティマの依頼を拒み、彼女の夫の証言を受け入れなかった。神の使徒(SAW)はファーティマの夫のことをこう語っていた。「アリーは真実と共にあり、真実はアリーと共にある。彼の行くところには迷わずついていきなさい」と。〈注130〉神の使徒(SAW)が彼の分身ファーティマ・アル=ザハラの美徳をどう語っていたか、ブハーリーとムスリムの証言を比較してみることにしよう。


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注125.シャフラスタニ『宗派と分断の書』第四巻。アブー・バクル・アフマド・ブン・アル=アズィーズ・アル=ジャウハリ『アル=サキーファ』。

注126.サヒーフ・ムスリム「ジハードの書」の「預言者の御言葉―わたしたちの遺産はない。残したものは喜捨である」

注127.ブハーリーのサヒーフの「フムスの規定の章」で『フムス』の規定についての伝承を報告している。「クンムの規定の章」

注128.イブン・ハジャル『アル=サワッイク・アル=ムフリカ』21頁。

注129.ファクフル・アル=ディン・アル=ラズィ『タフシール・マファティ・アル=ガイブ〈TafsirMafaih al-ghayb〉』8/125のスーラ・アル=ハシュルの注釈。

注130.バグダディ『ターリフ』14/321。イブン・アサキル『ターリフ』3/119。カンズ・アル=ウムマル5/30。







クルアーンによるファーティマの無謬性

サヒーフ第7巻「アフルル・バイトの美徳の章」のムスリムの報告によると、アーイシャは言った。「ある朝、預言者は黒い外套を着ていた。ハサンがやって来ると、御自分の外套で彼を包み込み、次にフセイン、その次にファーティマ、そしてアリーを包み込んだ。それから『家の者たちよ、アッラーはあなたがたから不浄を払い・・・』を朗唱された」ファーティマはアッラーによって一切の罪や不服従という行為から浄化されたウンマ唯一の女性であった。その女性の証言を拒否し証人を立てるよう命じたのだから、アブー・バクルはどんな教友だったのだろうか。私は疑問に思う。






ファーティマは信ずる女性の指導者

ブハーリーの第7巻「許可を求めることの書」の中の「他の者のいる前で教友の秘密を打ち明け、死ぬまでその秘密を守る者」、並びに、ムスリムのサヒーフ「徳の書」にアーイシャの報告がある。

――わたしたち妻たちが預言者(SAW)と一緒にいたときのことだった。妻は誰一人としてそこから出て行った者はいなかった。それからファーティマがやって来た。アッラーにかけて。ファーティマの立ち振る舞いは預言者(SAW)にそっくりだった。預言者(SAW)が彼女を見て、「よく来た」と言いながら御自分の右側だったか左側だったかに座らせて何か耳元で囁いた。するとファーティマは悲しげな表情で泣き始めた。それを見た預言者(SAW)が再び何かを囁くと、ファーティマの表情は微笑みに変わった。他の妻たちの前で私はファーティマに「神の使徒(SAW)はあなたにだけ秘密を言われる。あなたは泣いていたが」と言った。神の使徒(SAW)が出て行かれた後、「使徒は何の秘密を言われたのか」と尋ねると、ファーティマが「神の使徒(SAW)の秘密を打ち明けるわけにはいかない」と答えた。使徒がお亡くなりになった後、「わたしはあなたに対して権利があるのだから答えなさい」と言うと、ファーティマは「もう打ち明けてもかまわない」と、こう語った。「最初に囁かれたとき、『ジブリールは年に一度クルアーンの啓示を知らせるのだが、今年は二度あった。わたしの去るべき時が近づいたに違いない。アッラーを畏れ、耐え忍びなさい。あなたのために、その先を行くべき最もふさわしき者はこのわたしなのだから』と言われた」そして続けた。「だからわたしは泣いていた。彼はわたしが悲しんでいるのを見て、『おお、ファーティマよ。信ずる女性の先導者、ウンマの女性の先導者といわれてうれしくはないのか』と言われた」

ファーティマ・アル=ザハラ(AS)が信ずる女性の先導者だと預言者(SAW)が証言していたのである。それほどの女性のファダク要求を、アブー・バクルは拒み、証人を受け入れなかった。一体どんな証人なら受け入れたというのだろうか?






ファーティマ・アル=ザハラは天国の女性たちの先導者

第4章「創造の始まりの書」の「預言者の近くにあることの徳」に、神の使徒(SAW)が「ファーティマは天国の女性たちの先導者である」と語ったとの報告がある。いうまでもなく天国の住人とはムハンマドのウンマからの人びとだけではない。従ってファーティマは全世界の女性の指導者ということになる。であるならば、一体どうすれば「アル=シッディーク(誠実な者)」と呼ばれるアブー・バクルに、ファーティマの証拠を退けることができたのだろうか。アブー・バクルは預言者ムハンマド(SAW)の命令にすべて従っていた教友だから『アル=シッディーク』と呼ぶにふさわしいと主張しているのではなかったのか。なぜアブー・バクルは神の使徒(SAW)がその分身であるファーティマ・アル=ザハラについて述べた言葉を信じなかったのだろうか。〈注131〉

問題はファダクでも喜捨でも贈与でもなく、カリフ問題、すなわちファーティマの夫アリーにその権限があったことに関係しているのだろうか。ファーティマと夫アリーの証言を拒否することは、明らかにアブー・バクルにとっては良い選択だった。そうすることでファーティマがさらに要求していたかもしれぬことの扉を閉じることができたのだから。山々を消滅させるに十分な、なんとも極悪非道なる策略ではないか。


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131.このハディースに使われている「bid'a」という言葉には、(誰かの)分身・一部という意味がある。−編集者






ファーティマは預言者の一部、ファーティマを怒らせる者は預言者を怒らせる

第4巻「創造の始まりの書」の「預言者の娘ファーティマの美徳」でブハーリーは報告している。 アムル・ブン・ディーナールの権威、彼はイブン・アビー・マーリカの権威、彼はアル=ミスワル・ブン・ムフリマの権威でイブン・ウヤイナから聞いてアブー・ワリードが伝えたところによると、
神の使徒は次のように述べた。
「ファーティマはわたしの一部である。ファーティマを怒らせる者はわたしを怒らせる」
「ファーティマはわたしの一部である。ファーティマが嫌うことをわたしは嫌う。彼女を傷つけることはわたしを傷つける」

自分の一部であるアル=ザハラが怒れば神の使徒も怒り、彼女が苦しめば彼も苦しむ、というのである。つまり、ファーティマはあらゆる過ちから守られているということになる。でなかったら神の使徒(SAW)がそのように述べるはずがなかった。というのは、イスラーム法(シャリーア)においては、軽罪を犯した者はその者の地位に関係なくこれを憤慨し、又犯した罪にともなう苦痛が許されている。 犯罪者にどんな近親関係があろうとも特別扱いした裁量は許されない。

血縁関係が近いか遠いか、貴族か奴隷か、金持ちか貧者かに全く関係ない。預言者があれほど明確に述べているとき、アル=ザハラを傷つけ、彼女の怒りに留意しなかったアブー・バクルはどんな人だったのだろう? 実際、ファーティマは烈しい怒りを抱いたまま亡くなった。アブー・バクルに憤慨し、彼を避けて死ぬまで口を聞かなかった。イブン・クタイバ他歴史家が報告しているように、彼女は礼拝のたびにアブー・バクルに対して災いを祈っていた。

確かに、これは信仰の柱を揺るがしにし、私たちの信仰心をぐらつかせるほど苦々しい事実である。だが現実を直視し真実を追求する公平な研究者なら、アブー・バクルがファーティマの権利を侵し、過ちを犯したことを認めるほかない。ムスリムのカリフとしてアブー・バクルは彼女の要求に応じることはできたはずだった。アッラーとその預言者、そしてアブー・バクルを含む全ムスリムが証言しているように、ファーティマは誠実な人だったのだから。だが、政治的陰謀がすべてを逆さまにしてしまい、誠実な人が嘘吐きにされ、嘘を吐いた人が誠実な人になってしまったのである。

そうなのだ。これはアッラーの定めた位階から預言者の家族を引き離す陰謀の一部だった。
アリーをカリフから引き離すことからはじまり、ファーティマが受け継ぐはずの遺産を差し押さえ、彼女の証言を拒んで侮辱し、ムスリムの心から彼女に対する敬愛の念を奪い取ったのである。そしてアリー、ハサン、フセインは殺害され、その妻子はみな捕虜にされ、彼らを愛した従者たちを殺害してその企てが終焉した。陰謀者の行為は今日も続いており、陰謀の果実は熟し続けている。

 先入観のない思考の自由なムスリムなら、歴史書を読んで真実と過ちを識別すれば、アフルル・バイトに不正を犯した最初の人がアブー・バクルだったということをはっきりと認識するはずだ。誠実な心で研究する人には、ブハーリーとムスリムの伝承を読めば、おのずと真実が浮上する。

アブー・バクルは自分に申し立てする一般の教友たちについては信じるのに、神に浄化された天国の女性の先導者であるファーティマの申し立ては拒否し、アリーとウンム・アイマンの証言を拒んでいたということを、ムスリムのみならずブハーリーが弁解がましくも報告し認めているのである。二人がどう報告したかをみてみよう。

 ブハーリーのサヒーフ第3巻「証言の書」の中の「約束を厳守しなければならないことの章」、ムスリムの「徳の書」の「神の使徒は何かを求められれば拒否せず、寛大に与えた」に報告されている。ジャービル・ブン・アブド・アッラーが言った。「神の使徒の死後、アブー・バクルはアル・アラーゥ・ブン・ハドラミーから金を受け取ったとき、『預言者に貸しのある者、または預言者と何か約束を交わした者は、わたしのもとに来なさい』と言った。そこでわたし(ジャービル)が『神の使徒はわたしにしかじかの金を下さると約束しました』と言って両手を三回拡げると、アブー・バクルはわたしの手に五百、また五百、そしてさらに五百、を渡した」

 アブー・バクルにこう尋ねた人はいただろうか。預言者からしかじかの金を約束されたと言って両手を三回拡げたジャービル・ブン・アブド・アッラーの手に総額千五百の金を渡したとき、なぜ証人を一人として求めなかったのか、と。ジャービルは全世界の女性の指導者、敬虔なファーティマよりも神を畏怖していたというのだろうか。さらに驚くべき事実はファーティマの夫アリーの証言を拒否していることだ。アリーは神からすべての不浄を取り払われ、純化された人である。礼拝で預言者(SAW)への祝福を祈るのと同じように祝福を義務付けられている。預言者(SAW)はアリーへの愛を信仰行為とし、アリーへの憎悪は似非信者の行為とした。〈注132〉

  さらにブハーリーはもう一つの出来事を報告して、ファーティマ・アル=ザハラとアフルル・バイトが受けた抑圧の実態を見せつけた。「贈与とその功徳の書」の「贈物や喜捨を取り返すのは不法」に、ブハーリーはこう報告している。
――イブン・ジュトアーンのマウラーであったスハイブの息子達が二軒の家と一つの部屋について、神の使徒がスハイブ・マルワーンに与えたものだ、と言って権利を主張したとき、マルワーンが「誰が汝らのために証言するか」と尋ねると、彼らは「イブン・ウマルです」と答えた。そこで、イブン・ウマルが呼ばれ、使徒がスハイブに二軒の家と一つの部屋を与えたことを証言したので、マルワーンはこの証言にもとづき彼らの主張を認めた。〈注133〉

  ムスリム兄弟よ、一部の人を優遇した行為と判断に注目されよ。これはまさしく抑圧と不正ではないのか。 ムスリムのカリフにイブン・ウマル一人の証言だけで優遇した判断を下すことができたのであれば、 「アリー・ブン・アビー・ターリブとウンム・アイマンの証言が拒否されたのはなぜか」と ムスリムが自問することは妥当ではないのか。クルアーンに定められた条件(証人の数)に従うのであれば、 事実は、男一人の証言よりも男一人と女一人を合わせた証言の方が強い。 それとも、スハイブの息子達の方が預言者の娘の主張より信頼できたというのか。
アブド・アッラー・ブン・ウマルの方がアリーより判断力が優るというのだろうか。「預言者の遺産は受け継がない」とアブー・バクルが主張したハディースに関しては、ファーティマがこれを否定した。彼女は不動の証拠である神の書を使って否定したのである。なぜなら預言者(SAW)は「ハディースがわたしからのものであれば、神の書と比べなさい。神の書と同意していればそれを実践しなさい。神の書に矛盾していればそれを放棄しなさい」と述べ、証明されていたからだ。

明らかにこのハディースは聖クルアーンの多くの節と矛盾している。アブー・バクルに、そしてムスリム全体にこう問うた人はいただろうか。この伝承でアブー・バクルは一人の証言を受け入れながら、別の伝承の出来事ではそれに反し、又理性にもアッラーの書にも反する行為をしたのはなぜか、と。理性で考えてもファーティマとアリーの証言は他の伝承報告と一致しているし、神の書に反していないのに、なぜなのか。

その上、アブー・バクルがどんなに高い地位にあったとしても、又彼の従者や擁護者がいくら彼の美徳を並べ立てたとしても、全世界の女性の先導者であるファーティマ・アル=ザハラとアリー・イブン・アビー・ターリブの位階には到達できないのである。あらゆる分野において神の使徒(SAW)はアリーを他の教友の誰よりも好まれた。その一例として、神の使徒(SAW)がアッラーとその預言者を愛する人、そしてアッラーとその預言者が愛する人に後継者の地位を与えた日の出来事を挙げておきたい。教友の誰もがその地位を切望し欲していたが、神の使徒がそれを授けたのは彼らにではなくアリーであった。〈注134〉 神の使徒(SAW)はアリーのことをこう述べた。「アリーはわたしから、わたしはアリーからである。私の後、信ずる者の守護者はアリーである」と。〈注135〉

  過激派はこれらの伝承の真正性に疑惑を抱くかもしれないが、次のことは誰も疑わないはずだ。アリーとファーティマへの祝福の言葉は預言者(SAW)への祝福の祈りの一部であり、もしもアブー・バクル、ウマル、ウスマーン、天国の吉報を授かった人びと、教友、全ムスリムの中にムハンマドとその家族への祝福の祈りを唱えぬ者がいたとすれば、その者の祈りは受け入れられない。ブハーリーとムスリムのサヒーフばかりでなく、その他のシハーフもそのことを報告している。〈注136〉

  イマーム・シャフィッイーが「あなた方への祝福を唱えぬ者の祈りは受け入れられない」と語っているほどだ。

 預言者の家の人びとに対する嘘と間違った主張が許されるというなら、それはイスラームとの決別、世の崩壊である。アブー・バクルの証言が認められ、預言者の家族の証言は否定されるのはなぜかと問えば、アブー・バクルは判定者だった、物事を見極めて判定するのは判定者次第、真実と共にあったのはアブー・バクルだったのだから、という返答が戻ってくる。強者の主張が猛獣とすれば、その証拠は爪と牙の結果である。

読者諸賢よ、耳を傾けて頂きたい。この証言が正確なことは明らかになろう。ブハーリーのサヒーフが、特に預言者の遺産相続に関して、矛盾した報告をしていることに気付かれよ。ブハーリーはアブー・バクルが(預言者の御言葉を)、
「我々は預言者の一団である。我々預言者の遺産は継がない。残したものはすべて喜捨である」と語ったのだと報告している。
これが全スンニの信じるハディースである。ファーティマ・アル=ザハラに応じなかったアブー・バクルの行為がその証拠とされているのである。

知られていないが、このハディースが真正ではないことを明らかに証明した出来事があった。
それはファーティマが要求した遺産を預言者の妻も要求していたということだ。
遺産相続を信者の母たちはアブー・バクルに申し立てていたのである。〈注137〉
このことをブハーリーは報告していた。そして、この伝承が預言者の遺産を継がないことの証拠として使われているのである。ところが、ブハーリーはウマル・ブン・アル=ハッターブが妻たちに預言者の遺産を分配していたことを立証して自らを矛盾させている。「代理の書」の中の「収穫分配の契約」の箇所で伝えている。「ナーフィゥの権威でアブド・アッラー・ブン・ウマルによると、預言者は、なつめやし或いは穀物の収穫の半分を取るという条件で、ハイバルの住民と交渉した。そして預言者は妻たちに八十ワサクのなつめやしと二十ワサクの大麦を与えた。ウマルは(カリフに就任したとき)預言者の妻達に水と土地を得ること、または負債の帳消しのいずれかを選ぶように提案し、或る者は土地を選び、他の者はなつめやしと小麦粉を選んだ。尚、アーイシャは土地を選んだ」〈注138〉

この伝承が明らかにしているように、ファーティマが要求したハイバルの分配は、娘が父から受け継ぐべき遺産のようなものであった。アブー・バクルがファーティマの要求を認めなかった理由は預言者(SAW)の遺産は継がないというのが根拠だった。だが、さらにウマル・ブン・アル=ハッターブがカリフ時代には、預言者の妻達にハイバルの土地の分配をし、土地かワサク(穀物分配など)を選択させ、アーイシャが土地を選んだことがはっきりと報告されているのである。預言者(SAW)の遺産は継がないのであるならば、妻アーイシャが土地を受け継ぐことができたのはなぜだろう? なぜ娘のファーティマは受け継ぐことができなかったのだろう?

識見ある読者諸賢はこの伝承の件をどう判断なさるのだろうか。正しい判断は自身への益となり祝福を授かろう。アブー・バクルの娘アーイシャは預言者の家を完全に専有していた。他の妻達はアーイシャと同じものを得なかった。アーイシャはあの家に自分の父親を埋葬した。父親の隣にはウマルを埋葬させたが、フセインには彼の兄弟ハサンを祖父の隣に埋葬させなかった。イブン・アッバースにこう言わせたほどである。「あなたは駱駝にまたがり驢馬にもまたがった。長生きすれば象にさえまたがるのだろう。8つあれば9つ目を欲しがる。何もかも好きなようにする」

ともかく、私はこの件を長々述べるつもりはない。あとは探究者に歴史の記録を調べてもらわねばならないが、最後にファーティマ・アル=ザハラ(AS)がアブー・バクルやその他高名な教友たちの前で述べた説教を紹介しても害にはなるまい。明瞭な印が下った後、誰が滅び、誰が救われたかを知るためには。

「あなた方は意図して神の書を放棄したのですか。その背後でこっそり冒涜したのですか。『スレイマーンはダウードの受を継ぎ・・・』とあります。ザカーリヤに関しては『只々わたしの後の、近親(と同胞のこと)を恐れます。わたしの妻は不妊です。それであなたの御許から、相続者をわたしにお授け下さい。わたしを継がせ、またヤコーブの家を継がせて下さい。主よ、かれを御意に適う者にして下さい』アッラーはこう仰せにもなった。『各人のために、われはその父母と近親が残すものの相続者を決めた』『アッラーはあなたがたの子女についてこう命じられる。男児には、女児の二人分と同類』『あなたがたの中、死が近付いて、もし財産を残す時は、両親と近親に公正な遺言をするよう定められている』父の知らないあなた方だけに特別に啓示された節があるというのですか。クルアーンの一般教義と特別の教えに関して、あなた方は父とその従弟(アリー)よりも知識を持っているというのですか。それとも異教徒間で遺産相続できないとでもいいたいのですか。あなた方の行為は記録され封印されました。最後の審判に召集される日、その前に立たされるのです! 最良の審判者はアッラー、最良の指導者はムハンマド。定められたのは復活の日。その日、嘘吐きは皆、敗者となるのです」


  注132:サヒーフ・ムスリム 1/61「アンサールとアリーへの愛は信仰の一部であり、彼らへの           憎悪は似非信者の印であることの証拠の章」。サヒーフ・ティルミディー 5/306。
          スナン・アル=ナサーイ8/116。

注133:サヒーフ・ブハーリー 3/143。

注134:サヒーフ・ブハーリー 4/5、4/20。

注135:サヒーフ・ムスリム 7/121 「アリー・イブン・アビー・ターリブの美徳の章」

注136:サヒーフ・ムスリム 6/27 「アッラーは天使を遣わせて預言者を祝福するの章」           スーラ33

注137:サヒーフ・ムスリム 2/16 「礼拝の書」の「預言者への祈りの章」

注138:サヒーフ・ブハーリー 3/68






ザカート差出を拒んだムスリムを殺害したアブー・バクル

ブハーリーの「背教者に悔悛を求めることの書」の「宗教上の義務を拒否する者および背教者として訴えられた者を殺すことの章」、ムスリムの「信仰の書」の「戦いの命令」両者にアブー・フライラの権威でこう報告がある。
――預言者が亡くなり、アブー・バクルがカリフに選ばれた後、或る人びとは信仰を捨てた。
そこでウマルが「おお、アブー・バクルよ。あなたは彼らと戦わないのか。かつて神の使徒(SAW)は『彼らが、アッラーの他に神はなし、と告白するまで戦うようにわたしは命じられた。アッラーの他に神はなし、と言う者は罪に価する以外、生命と財産を護られ、その報いはアッラーが引受けられる』と教えたではないか」と言ったとき、アブー・バクルは「礼拝の義務は守るが喜捨はしない者に対してわたしは敢然と戦う。喜捨はそれぞれが財産のうちから当然出すべきものだからだ。もし彼らが神の使徒に差出すべき山羊を斥けるならば、その拒否の故にわたしは彼らと戦うであろう」と応えた。これを聞いてウマルは「アッラーがアブー・バクルの心を戦へとお開きになったことを見て、わたしは彼が正しいことを認めた」

アブー・バクルとウマルは女性の指導者ファーティマとその家にいた教友たちにアブー・バクルへの忠誠の誓いを強制し、そうしなければ家を焼くと脅していたのだから、これは奇妙な話ではなかった。〈注139〉

アリー、ファーティマ、ハサン、フセイン、そして忠誠の誓いを拒んだ最良の教友一団の焼殺行為が些細なことであるならば、喜捨を拒んだ人を殺害するのはいたって簡単なことだろう。
預言者の家族と善良なる教友に比べれば、遠い砂漠の部族にどんな価値があろうか。忠誠の誓いを拒んだ彼らは、カリフ権限が神の使徒(SAW)の任命によって彼らにあるものと理解していたということを付加えておきたい。仮にそのような任命はなかったと仮定しても、拒否や批判する権利はあったし、[スンニが]主張するように協議が必要だというのであれば、意見を述べる権利があった。神の使徒の家族を焼殺するとの脅しについては圧倒的多数の報告がこれを証明している。ムスリムの血を流させないために、又イスラーム統一を維持するために、アリーが抵抗を止めて教友たちに家から出て忠誠を誓うよう命じていなかったら、彼らは皆、焼殺されていたことだろう。

やがて論争はおさまり、アブー・バクルウとウマルの権力は増していった。ファーティマの死後にアリーが彼らと和解した後、抵抗は一切なかった。それなのに、なぜアブー・バクルとウマルは喜捨を拒んだ部族に対する態度を改めなかったのだろうか。彼らが喜捨を拒んだのは、預言者の逝去後のカリフ問題がはっきりするまで待とうとしていたからだった。カリフ選出が不意だったことは、ウマル自身が認めているのである。〈注140〉

拠ってアブー・バクルとその政府が罪なきムスリムを殺そうとしたり、尊厳を冒したり、彼らの子女を奴隷にしたりしても不思議ではない。歴史家が記録しているのである。アブー・バクルはハーリド・ブン・アル=ワリードを遣わせてスレイム族を焼殺した。〈注141〉それからヤマーマ族とタミーム族を捕虜にし、彼らを裏切って首を斬った。ハーリドは、神の使徒から喜捨を信託されていたほど信頼されていた高名な教友、マーリク・ブン・ヌワイラを殺害し、同夜、彼の妻を寝取っているのである。至大至高なるアッラーに並ぶ偉力ある御方はない。

マーリクとその部族は全く抵抗していなかったのだ。ただ、預言者(SAW)の死後、何が起きていたかを耳にしていた。アリーが疎外されていたことや、ファーティマ・アル=ザハラが憤慨したままこの世を去らねばならぬほど抑圧されていたこと、アンサールの長サァド・ブン・ウバイダが反抗していたこと、彼が忠誠の誓いを破っていたことを彼らは知っていた。砂漠の部族がアブー・バクルへの忠誠の誓いに疑惑を抱いているとの噂が広まっていることも知っていた。そのために、マーリクとその部族は喜捨を差し出すのを躊躇していたのである。それでカリフとその従者によって殺害され、子女は捕虜となり、尊厳を汚され抑圧される結果となった。このような方法で、カリフへの反論がアラビアの残る地域に広まらないようにさせたのである。

アブー・バクル本人がハーリドの犯した過ちを認めていた事実があるにもかかわらず、不幸にもハーリドの過ちを正当化したアブー・バクルとその政府を擁護する者たちがいた。〈注142〉彼らは「アッラーがアブー・バクルの心を戦へとお開きになったことを見て、わたしは彼が正しいことを認めた」とウマルが述べたことを口実にする。

その確信の秘密をウマルに尋ねてみたいものだ。「アッラーの他に神はなし」を告白した者と戦うことを神の使徒が禁じていると、ウマル自身が発言しているではないか。実際、その伝承を持ち出してアブー・バクルに反論したのはウマルである。それなのに、なぜウマルは突然その見解を変え、アッラーがアブー・バクルの心を戦へとお開きになったと考え、それが正しいことだと確信したのだろうか? 自己と向き合ったとき、ウマルは心中でこのことをどう受け止めていたのだろう?

「アッラーがアブー・バクルの心を戦へとお開きになった」と言ったが、アッラーが使徒の舌を介して教えた神の法に反する人の心をお開きになるだろうか? アッラーがしもべに預言者を通して「アッラーの他に神はなし、と言う者の命は守られアッラーの報いを受ける」と教えられた後、そう宣言した人と戦ったアブー・バクルとウマルの心をアッラーはお開きになるだろうか? 預言者(SAW)の後、この二人に啓示が下ったとでもいうのだろうか。いや、彼らの私的見解だったのか? 神の法を無視した政治的理由によるイジュティハードだったのか?

イスラームに背いた者を殺すのは義務だと弁明者は主張するが、その言い分は正しくない。
ザカートを拒んだ人々がイスラームから背信してはいなかったことを、歴史書を読んだ人は間違いなく知っている。 ハーリドが破壊しにやって来た時、ハーリドに殺害された人びとは、ハーリドとその軍隊といっしょに礼拝していたのだから、 背信行為をしていたなどとどうすれば言えるのだろうか。さらにはアブー・バクル本人が過った言い分を取り消し、 公庫からマーリクの血の代償金を支払って謝罪していたのである。

敬虔な先達は、ザカートを拒んだからといってその人を背信者呼ばわりしてはいなかった。
そうなってしまったのは、法学派の違いが生じるようになった後の時代からである。[ハーリドに殺害された人びとが]背教者でなければ辻褄が合わない。成功しなかったもののアフルル・スンナは全力でアブー・バクルの行為を正当化させようと試みたが、それは彼らがムスリムに対する不正行為が邪悪で殺害が不信心に匹敵する行為だということを、確かに認識していたからである。アフルル・スンナの文献であるサヒーフが報告しているのだ。〈注143〉

ブハーリーは「礼拝の義務は守るが喜捨はしない者に対してわたしは敢然と戦う・・・・・・」というアブー・バクルの発言を記録し、さらにはその報告に「宗教上の義務を拒否する者および背教者として訴えられた者を殺すことの章」という題目を付けた。ブハーリー自身が[殺された人びとが]背教者ではなかったと考えていたことがこの題目から明らかである。

にもかかわらず、アブー・バクルがそうしたように、ザカートは所有物に対する権限であるとしてこの伝承を説明しようとする人びとがいた。だが正しい文脈に沿った解釈ではない。

第一に、神の使徒(SAW)は「アッラーの他に神なし」を告白した者の命は守られねばならないと教えた。以下に紹介するが、これについてはシハーフが認めるいくつかの伝承報告がある。

第二に、ザカートが所有物に対する権利なのであれば、この伝承からはザカート差し出しを拒んだ者を殺害せずに取り立てねばならないと判断する必要がある。

第三に、仮にあのような解釈が正しいのなら、神の使徒(SAW)はザカートの差し出しを拒んだサァラバと戦っていたはずである。(これは周知の話であるからここではあえて繰り返さない)〈注144〉

第四に、「アッラーの他に神はなし」の告白をした者を殺してはならないことに関するシハーフで真正性が確立した伝承がある。手短にブハーリーとムスリムの伝承報告だけを紹介しておこう。

ムスリムの「信仰の書」の「『アッラーの他に神なし』と告白した背教者の殺害禁止の章」、ブハーリーのサヒーフ「遠征の書」がこう報告している。 ハーリファがミクダード・ブン・アル=アスワドの権威で私に言った。ミクダードが神の使徒(SAW)に、「もしわたしが不信仰者と戦ってその人が剣をふりかざしてわたしの片手を切り落とした後で木に退き、『アッラーの他に神なし』と告白して懇願した場合、その人を殺すべきでしょうか」と尋ねると、使徒が「殺してはならない」と答えた。それでミクダードが、「おお、神の使徒よ、しかし、その人はわたしの片手を切り落とした後で信仰告白したのです」と言うと、使徒は「殺すべきではない。もし殺せば、彼はあなたが彼を殺す前の状態になり、あなたは彼が信仰告白する以前の彼の状態になるであろうから」と言った。

この伝承は、信仰告白したカーフィル[不信心者]がムスリムを攻撃してムスリムの手を切断した後であっても、この不信心者の命は守られねばならないと教えている。ムハンマドは神の使徒(SAW)であり、義務の礼拝、喜捨、ラマダーンの断食、巡礼の義務に疑問はないのだから、これをどう解釈するというのだろうか。

ブハーリーが「遠征の書」の「預言者(SAW)がウサーマ・ブン・ザイドをジュハイナ族のアル=フラカートに派遣した」の章、ムスリムが「信仰の書」の「信仰告白した後でカーフィルを殺すのは禁じられている」の章にウサーマ・ブン・ザイドの権威でこう報告している。
「神の使徒(SAW)がわたしたちをアル=フラカートに派遣され、日が昇るころに到着し、襲撃した。わたしとアンサールの一人が敵の一人と戦って倒したとき、男が『アッラーの他に神はなし』と言ったので、アンサールはその男から離れた。だが私は自分の槍で突いて殺してしまった。わたしたちがこの遠征から戻り、預言者(SAW)にそのことを報告すると、『おお、ウサーマよ、あなたは男が、アッラーの他に神はなし、と告白した後で殺害したのか』と言われたのでわたしが『命を守ろうとして告白したのです』と答えた。預言者が繰り返してそのように尋ねられたので、わたしはあの日以前にイスラームを受け入れていなければよかったとさえ思った」

「アッラーの他に神はなし」と告白した者を殺してはいけないということを、この伝承が疑惑の陰を落とすことなく証明した。だから神の使徒(SAW)はウサーマを厳しく非難し、非難されたウサーマは、「イスラームに帰依する依然に犯したことについては許される」の伝承があるように、その日以前にムスリムになっていなければよかったと後悔し、己の犯した大罪にアッラーの許しを求めていたのである。

ブハーリーが「衣服の書」の「白衣」の章、ムスリムが「信仰の書」の「アッラーに何も帰属させなかった者は天国に入る」の章に、アブー・ザッル・アル=ギファーリーが述べたと報告している。「わたしが預言者(SAW)のところに来た時、彼は白衣を着て眠っていた。二度目に行ったとき目覚めていて『アッラーのほかに神はなし、と告白した後に死んだ者は必ず天国に入る』と言ったので、わたしが『盗みや姦通をしてもですか』と尋ねると、『そうだ』と答えたので、わたしが『盗みや姦通をしてもですか』と二度目に尋ねると、『そうだ』と答えた。わたしが三度目に尋ねたとき、『そうだ、盗みや姦通をしても。アブー・ザッルの意に反して』と答えた」

アブー・ザッルがこの伝承を述べるときは必ず、「アブー・ザッルの意に反して」と言っていた。これが「アッラーの他に神はなし」の告白後に死んだ人は必ず天国に入り、その人を殺してはならないことを示すもう一つの伝承だ。アブー・バクル、ウマル、二人を助けた人たちが先達の威信を守るために事実を逆さにして解釈しようとしても、又神の法を変えてしまった先達がどう思おうとも、この伝承がそう示しているのだ。

アブー・バクルとウマルは我々よりもイスラームの宣教者に近かったのだから、神の法に関しては、間違いなく我々よりも理解していたはずだった。だがしかし、二人はカリフの目的のために、神とその使徒(SAW)の教えた法の大半を解釈し直したのである。

アブー・バクルがザカートを拒んだ人々と戦おうとしウマルが預言者のハディースで禁じられていると反論したとき、おそらくアブー・バクルは、ファーティマの家を焼こうと松明を掲げて先導したのがウマル自身であったことを、そして又ファーティマに関して少なくとも「アッラーの他に神はなし」の信仰告白をしているということを、ウマルにわからせようとしたのであろう。
またアブー・バクルは、アリーとファーティマは依然としてカリフ中心地では高い地位にあったが一方のザカートを拒んだ部族はそうではないので、イスラーム国家内で問題を処理しておかねばその後のカリフ中央政権に大きな影響があるかもしれぬことを、ウマルに納得させたのであろう。だからウマルはアブー・バクルが(ザカートを拒んでいた部族と)戦おうとするのを、「アッラーがアブー・バクルの心を戦へとお開きになった」と悟り、アブー・バクルの言い分が正解だと認めたのではなかろうか。

注139:サキーファの伝承。Ibn Qutayba, al-Imama wa`l Siyasa Al-`Aqd al-Farid, vol.2.
          Al-Tabari, Ta`rikh. Al-Mas`udi, Muruj al-Dhahab, Abu`l-Fida al-Shahrastani etc.

注140:『サヒーフ・アル=ブハーリー』の「背教者との戦いの書」、
          「姦通した妊婦に対する石打刑の章」

注141:Muhibb al-Din al-Tabari, Riyadh Nuzra, 1/100.

注142:アブー・バクルはマーリクの兄弟に謝罪し、血の代償金を公庫から支払った。その際、
          ハーリドが誤った解釈で過ちを犯してしまった、と述べていた。

注143:『サヒーフ・アル=ブハーリー』の「信仰の書」の「無意識のときの無駄な行為を信者が
          恐れることの章」、ムスリムの『サヒーフ』の「信仰の書」の「預言者の言葉(ムスリムを
          侮辱するのは邪悪、これを殺害するのは不信仰である)についての章」

注144:Then I was guided、p.183.






預言者のスンナの記録を妨げたアブー・バクル、ウマル・アル=ハッターブ、
ウスマーン・イブン・アッファーン


歴史書をよく調査し、三人のカリフ政府の内部構造に精通する研究者は、預言者のハディースの記録を禁じたのがこの三人だったことをはっきり認識している。実際、彼らは人びとがハディースを語り広めるのを妨げていた。ハディースが広まれば、自分たちの利益にならないことを認識していた。少なくとも自分たちの判定の多くがハディースに矛盾していたのを知っていた。
三人は、自分の論理で、自分の利益になるように解釈をしていた。
預言者(SAW)のハディースはイスラーム法における第二の拠りどころである。
イスラームの一番の源である聖クルアーンを明確に説明するためのものだ。
だが、三人がカリフ時代、預言者のハディースは軽視され、記録は禁じられていた。

ハディース学者や歴史家は、ハディースの収集・記録が始まったのがウマル・ブン・アブド・ル・アズィーズ(アッラーが嘉みし給いますように)の時代かその少し後だということに同意している。ブハーリーが「知識の書」の「知識をいかに習得するかの章」に、ウマル・ブン・アブド・ル・アズィーズがアブー・バクル・ブン・ハズムにこう書き送ったと報告している。
「貴方のもとにある神の使徒(SAW)の教えを集めて書き留めよ。わたしは知識の消失と学者達の消滅を恐れる。預言者に由来する教えのみを受け入れて知識を世に広め、知識のない者たちに教えるよう共に集まれよ。知識はそれが秘密になるまでは亡びることはない。」

だが、預言者(SAW)の逝去後、アブー・バクルはこう説教していた。
「あなた方は同意しない預言者(SAW)の伝承を語って不一致に陥る。次世代にはさらに深まるであろう。だから神の使徒(SAW)に由来する教えを語ってはならない。そのことを尋ねた者には『あなた方と私たちの間にはアッラーの書がある。その中のハラールを享受し、ハラームを禁じよ』と言いなさい」〈注145〉

なんと驚くべき命令であろうか。悲しみの日(木曜の災難)からわずか数日後、「神の使徒(SAW)は病でうわごとを言っている。私たちにはアッラーの書があれば充分です」と言ったウマル・ブン・アル=ハッターブに同意しているのである。

アブー・バクルは、「預言者に由来する教えは語ってはならない。そのことを尋ねる者には『あなた方と私たちの間にはアッラーの書がある。その中のハラールを享受し、ハラームは禁じよ』と言いなさい」と述べていたのである。

彼らは預言者(SAW)のスンナを投げ捨てた。預言者の教えは彼らにとっては忘れられたものとなったのである。そのことをはっきりと御示しになったアッラーにすべての称賛あれ。

アブー・バクルとウマルを擁護し、この二人を預言者(SAW)の次に優れた人物として評価するアフルル・スンナ・ワッルジャマッアに問いたい。

「わたしが去った後、あなた方に二つの重大なものを残す。この二つにしがみついていれば、
あなた方は決して道を踏み外すことはない。神の書とわたしのスンナ」この預言者(SAW)の言葉をあなた方のサヒーフが報告しているという。これが真正ハディースであることに合意するとして、あなた方に質問したい。あなた方の最も優れた教友は、なぜこのスンナを拒否し、軽視し、人びとが語るのを禁じ、記録させなかったのか? ザカートの差出しを拒んだムスリムと戦い、その子女を捕虜にするのを合法とする節はどこにあるかとアブー・バクルに尋ねた者はいたのか。

我々とアブー・バクルの間の、神の書にはこうある。
かれらの中アッラーと約束を結んだ者は(言った)。
「もしかれらが、わたしたちに恩恵を与えれば、わたしたちは必ず施しをなし、必ず正しい者の仲間になるでしょう。」 だがかれが、恩恵を与えれば、かれらはそれに貪欲になって、(約束に)背き(宗教への貢献を)嫌う。それでかれらがかれに会う日まで、その心の中に偽善を抱かせて懲らしめられる。それはかれらがアッラーとの約束を破り、(度々)偽りを言っていたためである。 (9:75‐77)

クルアーン解説者の同意するところは、この節が預言者存命中、サァラバがザカートを差出すのを拒んだ時の啓示だということだ。サァラバはジズヤ(人頭税)だと言って預言者に差出すのを拒んだ。アッラーはこの節で彼が似非信者であることを御示しになったのである。このようにザカートを拒んだにもかかわらず、そうすることも可能だったのに預言者(SAW)はサァラバと戦ったり、彼の所有物を強制して取り上げたりしなかった。マーリク・ブン・ヌワイラとその部族についていえば、彼らはザカートが宗教上の義務であることを拒んだのではなかった。そうではなく預言者の後、カリフの地位を威圧と機会操作で奪った人を拒んだのである。

全世界の女性の先導者であるファーティマ・アル=ザハラが、神の書から明白なる節を朗唱し預言者たちを受け継ぐことが保障されているのを証明したのに、アブー・バクルはさらに奇妙な驚愕の態度をとった。神の書を無視したのである。ファーティマが証拠とした節を拒んで彼女の要求を却下し、ハディースを持ち出して自己の利益を満たしたのである。
「預言者に由来する教えは語ってはならない。そのことを尋ねる者には『あなた方と私たちの間にはアッラーの書がある。その中のハラールを享受し、ハラームは禁じよ』と言いなさい」これが真のハディースなのであれば、なぜアブー・バクルは神に選ばれた使徒(SAW)の一部である純化された誠実な人と「預言者の遺産は受け継がない・・・・・・」のハディースのことで論争した時、自分が述べたハディース通りに行動しなかったのだろうか。
なぜ彼は神の書の「ハラールを享受し、ハラームを禁じ」て、ファーティマの要求を判断しなかったのか。

答えは明白である。この件に関して神の書が定めたことがアブー・バクルにとっては都合が悪く、ファーティマの言い分が正しかったからである。あの日、この件でファーティマが勝っていたなら、ファーティマは後にアリーがカリフに任命されていたことを議論していたかもしれない。だから彼女の言い分を拒む必要があった。アッラーはそのことについて、 「おお、信ずる者たちよ、なぜ自分の実践しないことを説教しよとするのか」 と仰せになった。

このような理由で、アブー・バクルは預言者(SAW)のハディースが人びとに広まり、記録され、暗唱され、町から町、村から村へと伝わることを不安に思った。こうしたハディースは自分のカリフ政権樹立に反した伝承テキストなのだから、それが広まっては困るだろう。ハディースを隠蔽して葬り去るしか方法はなく、実際、それを焼却していたのである。〈注146〉 アブー・バクルの娘アーイシャが父に対して証言した伝承報告がある。「父は預言者のハディースを収集した。全部で五百あった。父は一晩それをどうするか決められないでいた。私は何か非難されたからではないかと言った。翌朝、父は私に『娘よ、おまえのもっている伝承をすべて集めなさい』と言われてそうすると、父はそれを燃やした・・・・・・」〈注147〉


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注145:Al-Dhahabi, Tadhkira al-Huffaz, 1/3

注146:Kanz al-`Ummal 5/237. Ibn Kathir, Musnad al-Sadiq. Al-Dhahabi, Tadhkira al-Huffaz,             1/5

注147:Kanz al-`Ummal 5/237.






人びとに伝承を語るのをアブー・バクルより厳しく禁じたウマル・ブン・アル=ハッターブ

ハディースの記録保存を禁じたアブー・バクルの政治をみてきた。伝承の知識を渇望していた教友やムスリムたちの間に広まらないように、アブー・バクルは収集した500件のハディースをすべて焼却していたのである。アブー・バクルの遺言でウマルがカリフに就任したときも、同じような政治を行った。だがウマルは周知のように、さらに手厳しい為政者だった。ハディースの記録を禁じて伝達を防いだだけではなかった。伝承を語ろうとする者を威圧して暴力を振るい、自宅監禁を強いていたのである。

『スナン』の第1巻、「ハディースに誠実であることの章」に、イブン・マージャがカルザ・ブン・カァブの権威で語っている。
「わたしたちがクーファに派遣されたとき、ウマル・ブン・アル=ハッターブも付き添い、一緒に山道を歩いていた時、 ウマルが『わたしが付き添ったのがなぜかわかるか』と言ったので、カズラが『預言者(SAW)の教友、 アンサールの権利のためではありませんか』と応えると、ウマルは『いや、あなた方に言っておきたいことがある。 これから言うことをよく覚えておきなさい。クルアーンを聴いてやかんが振動するように、心を動かす人たちに出会うだろう。 あなた方に会うと畏怖の念に背筋をすっと伸ばして、彼らはムハンマドの教友だ、と言う。だから神の使徒(SAW)の伝承を 減らしなさい。あなた方を助けよう』と言った。その後、カズラ・ブン・カァブがやって来たので彼らが『伝承を語ってください』 と言った時、カズラは『ウマルに禁じられた』と言った」〈注148〉

同じような報告がある。

ムスリムのサヒーフ「礼儀の書」の「許可を求める章」に、アブー・ムーサ・アル=アシュアリーが神の使徒(SAW)の伝承を語ったためにウマルから暴力の脅しを受けていたことが報告されている。
アブー・サイード・アル=フドリーが言った。
「わたしたちがウバイ・ブン・カァブと座っていたところへアブー・ムーサ・アル=アシュアリーが取り乱してやって来て、『アッラーに誓って。あなた方に懇願する。許可の求めは三回まで許され、許可されなければ引き返しなさい、という預言者(SAW)の伝承を聞いた人はいますか』と尋ねたので、ウバイが『それがどうしたというのか』と言うと、アブー・ムーサが『昨日、わたしはウマルに三度面会の許可を求めたが、忙しいように見受けられたので立ち去った。それで今日、ウマルの許に行き、昨日も来て挨拶をし、三度許可を求めたが引き帰したことを言うと、ウマルは、あなたが許可を求めたのは知っていたが忙しかった、わたしが聞き入れるまで言い続けていれば許可したのだが、と答えたので、わたしは神の使徒(SAW)から教えられたやり方で許可を求めたのだと言うと、ウマルはわたしに、その教えの証言者を連れて来なければ殴打すると脅した』と言った。それでウバイ・ブン・カァブが『アッラーにかけて。我々のうちの一番年少の者が証言するでしょう。アブー・サイードよ、さあ行きなさい』と言うので、わたしはウマルの許に行き、『わたしは確かに神の使徒がそう命じられたのを聞いています』と証言した。」

ブハーリーもこの出来事を報告しているが、彼の慣習により、ウマルがアブー・ムーサを脅したことについては ウマルの威信を保護するために省略している。〈注149〉尚、ムスリムはウバイがウマルに「おお、イブン・アル=ハッターブよ! 神の使徒(SAW)の教友を苦しませるようなことをしてはならない」と言ったのを記録している。

ザハビの『Tadhakira al-Huffaz』1巻4頁に報告がある。
アブー・サラマがアブー・フライラに「ウマルの時代にこれを語ったか」と尋ねると、 アブー・フライラは「ウマルの時代に、このように語っていたら、わたしはウマルからむち打ちにあっていただろう」と答えた。
ウマルはハディースの収集を禁じ、むち打ちを脅し、さらには教友の収集していた伝承を焼却していた。ある時、ウマルは言った。「人びとよ、あなた方が或る書物を手にしていると聞いた。アッラーにかけて。わたしがその書を訂正できればよかった。わたし以外がそれを所持してはならない。わたしが調べるので渡しなさい」 人びとは、見解の相違を防いで訂正するために調べるのだろうと思い込んで渡したのだが、ウマルはそれを焼き捨ててしまったのである。〈注150〉

イブン・アブドル=バッルの『Jami` Bayan al-`ilm wa Fadlihi』の報告によると、ウマル・ブン・アル=ハッターブはスンナを記録しようと思っていたが、自分のためにそうしない方がよいとみて告示を出し、伝承の記録を持っている人はそれを破壊するよう命じていた。

ウマルによる脅し、禁止令、焼き捨て行為といった策略があったものの、 神の使徒(SAW)から聴いた伝承を保存した教友たちがいた。 彼らはメディーナの外の旅路で人びとからハディースを求められた。 ウマルは彼らをメディーナに監禁するのが適切だとみなし、自宅監禁を強いた。 イブン・イシャークがアブド・アッ・ラフマーン・ブン・アウフから聞いて語っている。 「ウマルは死ぬ前に、遠い場所の教友たち、アブド・アッラー・ブン・フザイファ、アブー・ダルダーゥ、 アブー・ザッル・アル=ギファーリー、ウクバ・ブン・アーミルに説教した。 『離れたところであなたたちが語っている神の使徒(SAW)の伝承は何だ』教友たちが 『わたしたちが語るのを禁じるというのですか』と言うと、ウマルは『そうではない!  だが、わたしに従いなさい。アッラーにかけて。わたしが生きている限り、わたしから離れてはならない』と応えた」〈注151〉

ウマルの没後、先達二代カリフに従ったのが三代目カリフのウスマーンである。
彼は説教壇から堂々と宣告した。
「アブー・バクルとウマルの時代に聴かなかった神の使徒(SAW)のハディースを語ることは許されない」〈注152〉

かくのごとく三代カリフ政権の25年間、このような制限は継続した。
三代カリフ時代だけのことならまだしも、伝承の制限はその後も続いていった。
その後権力を握ったムアーウィヤは、説教壇に立ち、「人びとにアッラーへの畏怖を呼び起こさせたウマルの時代以外のハディースを禁じる」と宣告した。 ムスリムが第3巻「喜捨の書」の「質問の禁止の章」にこのことを報告している。

以後、ウマイヤ朝が同じ道を辿り、預言者の真正なるハディースを禁じた。
ウマイヤは預言者に対する偽りを捏造する専門家となった。 そのために、どの時代のムスリムもイスラームと全く関係ない矛盾、神話、伝説に 悩まされるほどの状況に陥ってしまう。マダイニが『al-Ahdath』にこう報告している。
「統一の年の後、ムアーウィヤは、全知事に『アブー・トゥラブ(アリー・ブン・アブー・ターリブ)とその家族の美点に関する伝承を語った者は政府の保護下にないものとする』と告示を出した。 こうしてあらゆる場所のあらゆる説教壇に立つ説教者がアリーを冒涜するようになり、彼とその家族から離れ、 誹謗中傷したのである」

続けてこう告示した。
「アリーとその家族の従者の証言を一切受け入れてはならない」さらには、
「ウスマーンを愛する者とその友、守護者、彼の美徳を称賛する者たちを探し出し、 彼らの仲間になって市会を召集し、親密な関係を保ちながら彼らを称賛しなさい。 彼らが語ったことは漏れなく報告せよ。語り手の名とその父と子孫の名はすべて報告せよ」

ウスマーンの美徳がおびただしく称賛されるまでになったのは、彼らがムアーウィヤからの 領土や衣料の報酬を受けていたからだった。こうした報酬はアラブ人だけでなく非アラブ人の手にも渡った。 あらゆる町に拡大していき、誰もが競って地位と現世の利益を求めた。ムアーウィヤの役人の許でウスマーンの 美徳を称賛する者は歓迎され、その者の名は記録され、仲間として報酬が与えられた。こうした状況がしばらくの間続いた。

次にムアーウィヤは役人に告知した。
「ウスマーンの様々な面を好むハディースが増大し、各町に広まった。 この書簡を受け取ったら教友と一代目カリフの美徳に関するハディースを民衆に尋ねてみなさい。 アブー・トゥラブを好む伝承を語ったムスリムに関する情報は見逃さないように。 そのような伝承をみつけた場合は、あのサハーバに矛盾する伝承を考え出しなさい。 ウスマーンの美徳・善行の列挙よりアブー・トゥラブとその従者(シーア)の議論への反論が我が目を悦ばせる」

ムアーウィヤの書状は民衆の前で読み上げられた。教友たちの美徳に関する多くの伝承が報告された。 そのほとんどは偽造の伝承で真実ではなかった。民衆はこれに影響され、 ついには説教壇から同じように偽造された伝承を語り始めるようになる。 学びの場にある教師らも偽造された伝承を教え、やがて子どもや若者たちまでクルアーンと同じように そういった伝承を学び語るようになる。そして娘、妻、奴隷、側近にも教え広めていった。 このような行為がアッラーの御意思の続く限り継続していったのである。

ムアーウィヤは、この後、各地域の役人に告示を出した。
「アリーとその家族を敬愛している証拠がある者を探し出して、この者の名を国家登録簿から消し、 政府の報酬を打ち切りなさい」ムアーウィヤはまた別の書状を送ってこれを強化させた。 「この者を援助した者には足枷をして捕えなさい。そして家を破壊せよ」
最も過酷な苦しみを受けたのが、イラクの、主にクーファの住民であった。 彼らシーアは自宅で信頼する人に秘密を話した後、自分の召使や奴隷の密告を恐れ、 秘密を漏らさないと厳重に誓わせるまでは口を開かなかったというくらい悩まされていたのである。 嘘と中傷の伝承が出現するようになると、法学者や権力者たちはそれを宣伝した。 この災難の悪質極まりない犯人は、伝承を偽造しながら、見せびらかすためにクルアーンを唱えたり、 敬虔な信者にみせかけて宗教儀礼を行ったりするような信仰心の弱い人たちであった。 こういった信者たちは、権力者の機嫌を取り、彼らの会合に参加し、地位や土地、金の報酬を受けた。 こうした伝承が嘘や批判は一切受け入れぬという狂信者の手に渡るまでその状況は続いた。 狂信者は、嘘や批判を受け入れぬというのではなく、真正な伝承だと信じ込んで伝え広めていったのであったが、 もしも彼らが偽造の伝承だということを認識していれば、決してこれらの伝承を語り広めたり従ったりはしなかっただろう。〈注153〉

この責任はアブー・バクル、ウマル、ウスマーンにあると言えよう。
預言者(SAW)の真の伝承の記録を妨げたのはクルアーンとハディースの混合を危惧したからだ、 というのが三人を擁護する口実だが、狂信者ですら笑いたくなるような言い訳ではないか。 クルアーンとスンナが、混じりあった砂糖と塩を再分別できぬようなものだというのだろうか。 砂糖と塩が混ざらないようにするには別々に保管すればよい。 ウマル・ブン・アブド・アッラー=アズィーズ(アッラーが嘉みし給いますように)の時代から伝承が記録されてきたように、 今、我々が持つクルアーンと伝承が別々の書物として存在するように、クルアーンを一つの巻物に記し、 預言者のスンナは別の書物に記しておくというようなことを、カリフが考え付かなかったとでもいうのだろうか。

現にハディースの書は何百冊も存在しているが、クルアーンとスンナは混合していないではないか。 ブハーリーとムスリムのサヒーフは混合していないし、ムスリムのサヒーフ、アフマド・ブン・ハンバルの ムスナード、マーリク・ブン・アナスのムワッタは混合していない。これらの伝承書が聖クルアーンと混合していないのは いうまでもなく。

クルアーンとハディースの混合を危惧したからという議論は蜘蛛の巣のごとく貧弱で、 証拠を綿密に調査すれば歯が立たない。実際、この議論に対する証拠ははるかに明白だ。 ウルワの権威によるアル=ズフリの報告によると、ウマル・ブン・アル=ハッターブが神の使徒(SAW) の教友にスンナを書き記そうと相談し、教友が記録するよう忠告したが、ウマルはこのことで一月祈り続けた。 そしてある朝、「わたしはスンナを記録しておきたかったが、あなた方以前の人びとのことを思い出した。 彼らは神の書より自分たちの書いたものを選んだ。アッラーにかけて。わたしは神の書をいかなるものとも混合させない」と言った。〈注154〉

読者諸賢よ、この伝承に注目されよ。
預言者(SAW)の教友がスンナを書き記すよう忠告していたにもかかわらず、 以前の人びとが神の書を無視し人間の記録を選んだからという理由で、ウマルはそれを拒み、 個人的意見を押し通していたのである。ここにアフルル・スンナ・ワッルジャマッアの主張する協議(シューラー)が みられるだろうか。アッラーの書よりも人間の記録した書を選んだのは誰だろう。

以前の人びとのことなど我々は知らないし、ウマル・ブン・アル=ハッターブが想像したことである。 仮にそのような人々の存在を認めたとしても、神の書を歪め自分たちの書を作り出したのだから比較の根拠にならない。 クルアーンにこうある。「災いあれ、自分の手で啓典を書き、僅かな代償を得るために、 『これはアッラーから下ったものだ。』と言う者に。かれらに災いあれ、その手が記したもののために。 かれらに災いあれ、それによって利益を得たために。(2:79)」

これはスンナの書について述べているのではない。 スンナは誤謬絶無の預言者に由来するものである。預言者は私欲で語る方ではない。神から啓示されたことを語った。 スンナは神の書を明確にさせるための説明である。 至大なる御方は仰せになった。 「われがあなたにこの訓戒を下したのは、かつて人びとに対し下されたものを、あなたに解明させるためである。(16:44)」 預言者(SAW)は「わたしはクルアーンを授かり、それに類似するものを授かった」と語っている。 クルアーンを知る人ならすぐにわかろう。クルアーンには五回の礼拝のやり方、喜捨の金額、断食や巡礼の規則、 その他、預言者(SAW)が説明した様々な教えは語られていない。
だからアッラーは仰せになったのである。 「使徒が与えたものは受け入れ、禁じたことから遠ざかりなさい」或いは「言ってやるがいい。 アッラーを愛するならわたしに従いなさい。そうすればアッラーもあなたを愛される」と。

もしもウマルが神の書を注意深く学び理解していたなら、神の使徒の命令を拒むことなく従っていたであろうに。〈注155〉 神の書を注意深く学んでさえいれば、アル=カラーラの判定を学んでいたあろうに。〈注156〉 だが彼は亡くなるまで知ることがなかった。ウマルはそのカリフ時代、いくつも矛盾した判定を下していた。 水がないときは礼拝すべきではないとの判定を下した。カリフであるウマルが無知だったタヤンマムの規則を、 彼が神の書を注意深く学んでさえいれば知ることができていたのに。〈注157〉神の書を注意深く学んでいれば、 「離婚(の申し渡し)は、二度まで許される。その後は公平な待遇で同居(復縁)させるか、あるいは親切にして別れなさい。」 を正しく理解していただろうに。ウマルは一回の離縁で三回宣言すれば離縁が成立するという教えに変えてしまったのである。 〈注158〉個人的意見と自己判断でアッラーの教義に反したのである。

カリフがハディースの広まるのを妨げたという真実を否定することはできない。 伝承を語る人がいれば誰であろうと脅し追放した。カリフの企みをわからせないようにするためであり、 自分たちの計画の妨げにならぬよう、クルアーンを解釈するように解釈の余地を与えないためであった。 アッラーの書の教えは多角的に示されている。アッラーの書に口はついていない。 しかし預言者のスンナは預言者(SAW)の言行によって成り立つものなので誰にも反することはできない。 だから信者の司令官アリー(AS)はイブン・アッバースをハワーリジュとの討論に派遣した際、このように言ったのだ。 「クルアーンで彼らに反論してはならない。クルアーンには異なる解釈があるのだから。 あなたがあることを述べれば彼らは別のことを言う。彼らとの議論にはスンナを用いて議論されよ。 そこからは逃れられないのだから」〈注159〉


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注145:Al-Dhahabi, Tadhkira al-Huffaz, 1/3

注146:Kanz al-`Ummal, 5/237. Ibn Kathir, Musnad al-Sadiq. Al-Dhahabi, Tadhkira al-Huffaz,
          1/5.

注147:Kanz al-`Ummal 5/237.

注148:Al-Dhahabi, Tadhikira, 1/3-4.

注149:サヒーフ・アル=ブハーリー「許可を求める書」の「挨拶をして許可を三度求めることの           章」

注150:Ibn Sa`d, Tabaqat al-Kubra, 5/188. Baghdadi, Taqyid al-`Ilm.

注151:Kanz al-`Ummal 5/239.

注152:Ahmad b. Hanbal, Musnad, 1/363

注153:Ibn Abi`l-Hadid, Sharh Nahj al-Balagha, 11/46

注154:Ibn `Abd al-Barr, Jami` Bayan al-`ilm wa fadlihi, 5/239. Ibn Sa`d, Al-Zuhri.

注155:サヒーフ・アル=ブハーリー 1/37「知識の記録の章」並びに5/138。

注156:Sunan al-Bayhaqi. Kanz al-`Ummal, 6/15. サヒーフ・ムスリム、『K.アル=ファラーイド』           の「アル=カラーラの相続の章」

注157:サヒーフ・アル=ブハーリー1/90、ムスリム 1/193「バーブ・アル=タヤンマム」

注158:サヒーフ・ムスリム、1巻、K. al-Talaq「三度の離縁の章」

注159:アリー・イブン・アビー・ターリブがイブン・アッバースに宛てた書簡。
         『ナフジュ・ル・バラーガ』1/77






アブー・バクルからウマルへのカリフ継承は明白なテキストに反する

この件に関してはイマーム・アリー(AS)がはっきり述べている。
「イブン・アビー・クハファは自分にカリフという衣服を着せた。だが彼はそれに対するわたしの地位が粉挽きの軸ほどに重要不可欠であることを知っている。わたしから吹き出す風に鳥ですらわたしのところへ飛んでは来られない。わたしはそこに幕をたらして、その人から離れた。切断された腕で戦うべきか。それとも、老人が衰弱し、若者が老いていき、信ずる者が主の御許に帰するまでの(抑圧の)暗闇の中で、じっと耐えるべきなのか、わたしは考えた。 わたしは忍耐と寛容の方が賢い道とみた。目に埃が入っても、窒息しそうになっても、わたしはじっと耐えることにした。 わたしは自分の権限が略奪されるのを見た。彼はその後のカリフをイブン・アル=ハッターブに渡した。(この後にアリーはアル=アシャの詩を引用した。『駱駝の背(困難)で我が日々は過ぎる。ジャービルの兄弟に付いていれば楽々と過ぎたのに』)
驚いたことに、アブー・バクルは存命中、カリフの地位から退きたいと願っていたのに、 その後のカリフをウマルに与えた。なんと才気縦横な二人であろうか。手厳しい言葉と、手荒な方法で、 カリフは強固な囲いに守られ、多くの過ちが生じ、数多くのいい訳が用意された」〈注160〉

神の使徒(SAW)が逝去前にアリー・イブン・アビー・ターリブを自分の後継者に任命し ていたことは、研究調査した人なら知っている。そのことを知っていた最も高名な教友が アブー・バクルとウマルだった。〈注161〉だからイマーム・アリーは、「カリフに対するわ たしの地位が粉挽きの軸ほどに重要不可欠であることを彼は知っている」と述べたのだ。

前項でクルアーンがあれば十分と発言した出来事をみてきた通り、預言者に由来する伝承 が広まることをアブー・バクルとウマルが禁じたのはそのためだったのだろう。クルアーンには後継者に関する節はあるが、アリーの名前は書かれていない。 ところが、ハディースにはアリーの名がはっきりと述べてある。
「わたしをマウラー[マスター]とする者はアリーをマウラーとする」
「アリーはわたしにとって、ムーサにとってのハルーンと同等の地位にある」
「アリーはわたしの兄弟[akhhi]、継承者[wasiyyi]、わたしの後のカリフ[khalifati]である」
「アリーはわたしから、わたしはアリーからである。わたしの後、彼が信者一人ひとりの指導者である」 このように預言者(SAW)は述べていた。〈注162〉

これらの伝承から、アブー・バクルとウマルが預言者のハディースを語らせず、伝承を消滅することに成功していたことが理解できる。すでに述べたカズラ・ブン・カァブの報告からわかるように、教友ですらハディースを語らなくなるほど人びとの口を封じ込めていたのである。
こうした制限は四分の一世紀、つまり、最初の三代カリフの後アリーがカリフに就任するまで続いたのである。 だが我々には、アリーがガディール・フンムの日の出来事について教友に証言を求め、そのとき30人の教友が立ち上がって証言し、 そのうちの17人がバドルの戦いに加わっていた教友たちであったことがわかっているのである。〈注163〉

この出来事は、信者の司令官アリーが懇願していなかったら30人の証言者は沈黙を続けていたかもしれぬことを示唆している。アリーがカリフの地位に就いていなければ、彼ら教友たちは証言を恐れ沈黙していたのだろう。

確かに、嫉妬と恐怖に負けて沈黙した教友もいた。
アナス・イブン・マーリク、バラーゥ・イブン・アーズィブ、ザイド・イブン・アルカム、ジャリール・イブン・アブド・ アッラー・アル=バジャリーがそうだった。〈注164〉
彼らにアリー(AS)の主張は伝わっていたものの、アリーが平穏にカリフで在ることはできなかった。 アリーのカリフ時代は試練と悪事と陰謀の毎日だった。あらゆる方角から戦いが挑まれ、 バドル、フナイン、カイバルの戦いで反乱者の嫉妬と悪意が表面化し、その最後アリーは殉教者となって世を去った。

忠誠の誓いを破った者、伝承に従わぬ者、真実から目を逸らす者、日和見主義者たちは、 預言者の伝承に聞く耳を持たなかった。ウスマーンのカリフ時代、彼らは不道徳に甘んじ、 賄賂を受け取って現世を享受した。わずか三、四年の間でアブー・ターリブの息子は半々世紀続いた腐敗と逸脱を正した。 だが、その人の命は奪われてしまったのである。
「あなた方を正すものが何かをわたしはよく承知しているが、わたしを破壊することであなた方を正すことはできない」とはアリーの言葉である。

ムアーウィヤ・ブン・アブー・スフヤーンがカリフの座に就くのはそれから間もなくのことだった。ムアーウィヤは、ウマルの時代に有力なハディース以外はすべて禁じるという企てを続行させた上、教友の一団とその支持者に伝承を偽造させた。このようにして預言者(SAW)のスンナは、彼らの嘘と作り話、みせかけの利益の罠にはまっていったのである。

一般のムスリムたちは、一世紀の間、ムアーウィヤのスンナに従った。ここで言う「ムアーウィヤのスンナ」とは、要するにムアーウィヤを悦ばせた三代カリフのアブー・バクル、ウマル、ウスマーンの言行、そしてムアーウィヤとその支持者による嘘と偽造、アリーとその家族と誠実な従者への誹謗中傷のことである。アブー・バクルとウマルが預言者のハディースを語ることを禁じ消滅させるのに成功した、と先に述べたのはそういうことだ。

十四世紀という歳月が経過した今日、はっきりと見えよう。途絶えることなく語り伝えられたアリー任命を証明した伝承テキストで議論すれば、必ずこう反論が返ってくる。「預言者のスンナは多様なのだからさておいて。我々には神の書で充分だ。クルアーンにはアリーが後継者だとは書かれてない。『あなた方の諸事は互いに協議しなさい』とあるではないか」わたしがこれまで議論してきたアフルル・スンナの学者の誰もがそういって反論した。シューラー(協議)は彼らのスローガンであり、彼らの基準なのである。

アブー・バクルのカリフ就任が突発的な出来事だったという事実は無視された。 しかし、アッラーはムスリムを悪から御守りになった。〈注165〉
一部の人びとの主張するような協議で決定されたわけではなかったのである。
そうではなく、義務の怠慢、暴力、強制、脅し、殴打といった手段によって決定していたのである。〈注166〉
これに反抗したのは、アリー・イブン・アビー・ターリブ、サァド・イブン・ウバダ、アンマール、サルマーン、ミクダード、アル=ズバイル、アル=アッバースといった数人の優れた教友たちだった。高名な歴史家がこの出来事を承認している。それはさておき、ここではアブー・バクルがウマルを後継者として任命した件に話を進めよう。シューラーの理念を誇示するアフルル・スンナに問うてみたい。 「なぜアブー・バクルはあなた方が主張する協議をしないでウマル任命をムスリムに押し付けたのか?」と。

このことを明確にさせるためには、これまで通りアフルル・スンナ側の書のみに依存する。
そしてアブー・バクルがどのようにウマルを後継者に任命したかを示そう。

イブン・ウタイバが『カリフの歴史(ターリフ・アル=フラファ)』の「アブー・バクルの病、ウマルを後継者として任命する」の章にこう記している。
「そして彼はウスマーン・イブン・アッファーンを呼び、『わたしの遺言を書き留めなさい』と 言ったのでアブー・バクルが口頭し、それをウスマーンが書き記した。

『慈悲深き慈愛あまねくアッラーの御名において。 これはアブー・バクル・イブン・クハファの遺言として決定した現世の証言である。 今、この世を去ろうとするわたしの、来世への最初の証言として。 ウマル・イブン・アル=ハッターブを我が後継者として任命する。 あなた方が彼を公正な人とみなすなら、それはわたしの意見でもあり、彼がそうあることを願う。 彼が変えることがあっても、わたしには未知の知識はなく、それがあなた方の善のためであることを望む。 過ちを犯す者はまもなくその運命を知ろう』

封印されたこの書状がウスマーンに渡された。
ウマルを後継者とすることの知らせがアンサールとムハージルーンに届くと、彼らは言った。 『貴方は我々ではなくウマルをカリフに任命した。貴方が我々の側にいたとしてもウマルがいかに我々に手厳しいか、 貴方は御存知ではないか。貴方が去った後、我々は一体どうすればよいのか。 貴方は至大至高のアッラーの御許に召されようとしているが、アッラーから問われるだろう。どう答えるおつもりなのか』 これに対してアブー・バクルは『アッラーに問われるなら、彼らの中でわたしが最善の人とみなした者にカリフを任命したと答える』と答えた」〈注167〉

タバリーやイブン・アーシルといった歴史家の報告によると、アブー・バクルがウスマーンを呼んで遺言を書かせていた時、ウスマーンがウマル・ブン・アル=ハッターブの名を書いていたその瞬間にアブー・バクルは意識を失った。その後、意識が回復して「なんと書いたか読んでみなさい」とアブー・バクルが言うのでウマルの名前を読み上げた時、アブー・バクルはウスマーンに「どこからそのようなことを書いたのか」と尋ねたので、ウスマーンは「あなたは彼には絶対に反論しようとしなかった」と言ったので、アブー・バクルが「その通りだ」と言った。

遺言の口頭を終えた時、何人かの教友がやって来た。その一人、タルハーが呼ばれ、彼がアブー・バクルに 「明日、あなたの主の御許で何と言うつもりですか。あなたが選んだ人は、指導者としては乱暴で容赦ない。 彼を見た人びとは心臓を縮み上がらせて逃げてしまうような人ではないか」と言ったので、アブー・バクルは 「あなた方はわたしを助けた。彼はわたしを助けてくれた人だ。だから彼を助けなさい」と述べた。 そしてアブー・バクルはタルハーに言った。「アッラーの名を述べてわたしを恐ろしがらせるのか。 明日、アッラーに問われた時には、統治者として最良の人を選んだと答える」〈注168〉

アブー・バクルが教友との協議なしにウマルを後継者に選んだことは、歴史家全員が同意していることである。 明白なのは、アブー・バクルはウマルを好まなかった教友たちの希望を無視してウマルを任命したということだ。 イブン・クタイバがムハージルーンとアンサールは「指導者としては乱暴で容赦ない」と述べたと報告していようが、 タバリーが「タルハーが呼ばれ、彼がアブー・バクルに『明日、あなたの主の御許で何と言うつもりですか。 あなたが選んだ人は、指導者としては乱暴で容赦ない。彼を見た人びとは心臓を縮み上がらせて逃げてしまうような人ではないか』 と言った」と報告していようが、いきつく結論は同じである。

教友たちはアブー・バクルが協議なしに決めたウマルをカリフとすることを認めていなかったのである。アブー・バクルへの忠誠の誓いを強いられ、ウマルから手荒く扱われた時、イマーム・アリーは、 「彼はあなた方から搾取したが、その半分はあなた方のものになる。今は彼の命令に従いなさい。明日、それをあなた方に返すのだから」 と述べていたのだが、彼のこの予言通りの結果となったのである。

ウマル・ブン・アル=ハッターブがカリフに任命された書状を手にして出てきた時、一人の教友がウマルに、 「アブー・ハフスよ、それは何の書状か」と言った。 ウマルが「わからない。だが一番にこれを聞き従うのはわたしだ」と答えたので、教友は、 「アッラーにかけて。わたしはそれが何かを知っている。あなたは最初の年、彼を指導者にさせた。 そして今、彼はあなたを指導者にした」と言った。〈注169〉

アフルル・スンナはシューラー(協議)の原則を主張するが、アブー・バクルとウマルがこの原則に従っていなかったことを、このことが疑問の余地を残すことなく証明しているのである。換言すれば、協議という原則を破った最初の人はアブー・バクルだったのだ。彼の行為に従ったウマイヤ朝の世襲制の道はこうして開かれていったのである。その後のアッバース朝も同様で、権力は父から息子へと引き継がれたのである。シューラーの概念はアフルル・スンナ・ワッルジャマッアの求める実践されたことのない夢のままなのである。

ところで思い出したのだが、わたしはケニアのナイロビにあるモスクでサウジアラビア人のワハービ学者と遭遇し、カリフ問題について会話したことがあった。わたしは、カリフは任命によるものですべての諸事はアッラーの定めであり、人びとが決める余地はないとの見解を展開させたのだが、相手は協議の支持者でシューラーの概念を強く擁護した。彼の数人の弟子たちも彼の見解を支持した。アッラーが預言者(SAW)に啓示を下した聖クルアーンの言葉、「あなた方の諸事は互いに協議しなさい」「彼らの間の諸事は協議で決めなさい」がその根拠であった。

若者たちはその学者からワハービの教えの隅々を学んでいたため、真のハディースに耳を貸そうとしない。というより、自分たちの暗記したハディースの一部だけに依存した。そしてその大半が誤ったハディースだった。この状況に圧倒されたわたしはシューラーの原則に降参して彼らに言った。
「あなた方のサウジ王の政府にシューラーの原則を納得させ、退位させて誠実な先達の例に従ってもらうことができますか? アラビア半島のムスリムに統治選択の自由を与えることができるでしょうか? わたしは王がそうするとは思いません。サウジ王の父、そのまた父と代々がカリフの権威者だったというだけでなく、アラビア半島全体が支配され、王国になり、ヒジャズ全体が『サウジ王国』と呼ぶまでになってしまったのですから」
すると学者は言った。
「わたしたちはアッラーの家の住人です。政治には関与しません。アッラーの御名を忘れずに礼拝するように命じられているのです」
これに対しわたしが、
「知識の探究も命じられましたが」
と応えると学者は、
「その通りです。わたしたちは若者にそのことも教えています」と言った。
「では、この議論は学問の議論ですね」私が言うと、
「あなたは、そこに政治を持ち込んできて議論を台無しにしたのです」と応えた。

連れと立ち去った後、わたしはムスリムの若者たちの心がワハービ思想に何もかも影響され、彼らの父たちに宣戦しているのを見て、ひどく悲しくなった。彼らは元来、預言者の家族の教えと一番近かったはずのシャーフィイー派の従者だった。純粋な子孫という背景のシャイフたちは学識者からも無学の人からも隔たりなく敬愛されていた。そこへワハービが入り込み、彼らの貧困に金や物で付け込み、彼らの視野をすっかり変えてしまったのである。ワハービ思想が、シャイフを敬う行為は人間崇拝を引き起こす偶像崇拝だと信じさせてしまったのである。息子たちは父たちに背を向けるようになった。残念ながらこれがアフリカの多くのイスラーム諸国で発生している状況なのだ。

話題をアブー・バクルの死に戻そう。
アブー・バクルは死ぬ寸前、自分の犯した行為を後悔していた。
イブン・クタイバが『カリフの歴史』にアブー・バクルの言葉を報告している。
「アッラーにかけて。わたしは三つの行為を悔やむ。(1)アリーの家をそっとしておけばよかった」別の語りには「たとえ彼らから宣戦を受けていても、ファーティマの家を侵害すべきではなかった」とある。
「(2)あの日、バヌ・サイードのサキーファ[サイード家の会合の場]でアブー・ウバイダかウマルに忠誠を誓っていれば、指導者が彼でわたしはその使いだったのに」
「(3)ディ・アル=ファジャーア・アル=スラーミ(Dhi al-Faja`a al-Sulami)が捕虜だったとき、彼を焼殺せずに斬るか、命を救っていればよかった」〈注170〉

我々はこの三つにこう付加えたい。
「アブー・バクルよ、あなたがファーティマ・アル=ザハラを抑圧しなければよかった。彼女を傷つけてその怒りを買うようなことをしなければよかった。アル=ザハラが亡くなる前に悔い改めていればよかった。彼女を悦ばせていればよかった。だが、あなたはアリーの家が焼かれるのを許した。

カリフに関してあなたの教友のアブー・ウバイダとウマルの二人ではなく、アッラーが定めその使徒が後継者として任命した人に忠誠を誓ってさえいれば、その人が指導者になっていたはずだった。そうなっていれば今日、世界は全く違っていたはずだ。アッラーの約束通り、その教えが地上の隅々に広まっていただろう。アッラーの約束は絶対の真実なのである。

あなたが焼殺したアル=ファジャーア・アル=スラーミに関しては、あなたが収集した預言者のハディースを焼失させてはならなかった。焼かれたハディースから正しいシャリーアを学び、個人的意見で勝手に判断を下すことはなかったはずだ。

最後に、あなたは死床で本来そうあるべきだった人に後継者を任命するべきだった。カリフにとって粉挽きの軸に値する人に、その地位を返還すべきであった。あなたはよく知っていたではないか、彼がいかに卓越し、知識を持ち、禁欲のすばらしい美徳の主であったかを。イスラームの保護のためにあなたにカリフを譲り敵対しなかったとき、まさに預言者(SAW)のようであったことをあなたは知っていたではないか。あなたにはムハンマド(SAW)のウンマに忠告する自由があった。諸事を正し、適切に統治し、ウンマを栄光の頂点に導くことのできる人を選ぶ自由があった。

至大至高のアッラーがあなたの罪を御許しになりますように。我々はあなたのためにアッラーに祈ろう。ファーティマとその父の怒りを和らぐために、そして彼女の夫と息子たちの怒りを和らぐために。伝承は語っていた。アル=ムスタファの一部が怒ればアッラーも御怒りになる。彼女が悦べばアッラーも御悦びになる。彼女を傷つけた者はその父を傷つけた、と。そしてアッラーは仰せになった。『アッラーの預言者を悩ませる者には厳しい懲罰が下る』と」

アッラーの御怒りから御加護を求める。アッラーが全ムスリム男女の信ずる者に御悦びになるように。


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注160:Muhammad `Abduh, Sharah Nahj al-Balagha, 1/84‐87.

注161:Imam al-Ghazali, Sirr al-Alimin.

注162:これらの伝承は以下が報告している。
         Al-Tabari, Al-Riyadh al-Nazara.
         Al-Nasa`i, Al-Khasa`is.
         Ahmad b. Hanbal.

注163:Ibn Hanbal, 1/119. Ibn `Asakir, Ta`rich Dimashq, 2/7.

注164:Al-Baladhuri, Ansab al-Ashraf, 2/156.
          Sira al-Halabiyya, 3/337.
          Ibn Qutayba, Al-Ma`arif, 194.

注165:Al-Bukhari 8/26, K. al-Muharibi min ahl al-Kufr wa`l-ridda,
          「姦通した妊婦の石打刑の章」

注166:Ibn Qutayba, Al-Imama wa`l-Siyasa, 「アブー・バクルの任命」

注167:Ibn Qutayba, Ta`rich al-Khulafa, 1/24. (al-Imama wa`l-Siyasaで知られる)

注168:Ibn Abi`l-Hadid, Sharh Nahj al-Balagha, Shaqshaqiyyaの説教。

注169:Ibn Qutayba, Al-Imama wa`l-Siyasa.「アブー・バクルのウマル任命の章」

注170:Tarih al-Tabari, 4/52.
           Ibn `Abd Rabbih, Al-`Aqd al-Farid, 2/254.
           Al-Mas`udi, Muruj al-Dhahab, 1/414。






個人的意見で神の書に背いたウマル・ブン・アル=ハッターブ

二代目カリフのウマルの歴史は、高貴なるクルアーンと預言者のスンナの明白なテキストに
反する個人的判断で溢れる。アフルル・スンナはウマルの個人的判断を彼の美徳として誇り称賛している。 客観的な人ですら理性やロジックで受け入れ難い言い訳で擁護する。
神の書と預言者のスンナに反する者に、どうしてイジュティハードを実践することができるというのだろうか? 

アッラーは仰せになった。
「信仰する男も女も、アッラーとその使徒が、何かを決められた時、勝手に選択すべきではない。アッラーとその使徒に背く者は、明らかに迷って(横道に)逸れた者である。(33:36)」

また、こうも仰せになった。
「アッラーが下されたもので裁判しない者は不信心者(カーフィル)である・・・・・・アッラーが下されるものによって裁判しない者は、不義を行う者である・・・・・・凡そアッラーが下されるものによらずに、裁く者は主の掟に背く者である(5:44、45、47)」

ブハーリーは「個人的意見や類推の非難。―知らないことをについて語るな」の章で、預言者がこう語ったと報告している。 「アッラーはあなた方に一旦知識を与えた後でそれを御取上げにはならないが、知識をもった学者達をみもとへ召し寄せることに よって、あなた方から知識を奪われる。その結果、無知な者だけが残り、これが意見を求められた場合、個人的意見によって答え、 人を迷わせ、自分も迷ってしまう」〈注171〉

続くサヒーフの章にはこう報告されている。
「啓示の下っていないことについて尋ねられた場合、預言者は『アッラーが示し給うところに従って・・・・・・』という神の言葉に 従って、啓示が下るまで『わたしは知らない』または『答えがない』と答え、個人的意見や類推によっては答えなかった。 〈注172〉

古今の学者はそろって、「クルアーンを個人的判断で実践した者は不信心者である」と言う。
明白な節と預言者(SAW)の言行からこのことは明らかだ。

では、なぜウマル・ブン・アル=ハッターブとその教友、そしてスンニ四法学派の学祖に関連するときはこの規則が忘れられているのだろうか。 アッラーの判定に反したときは個人的解釈が間違った場合は報酬が一つで、正しい場合は報酬が二つとさえ言われているのである!

シーアとスンニ両者が認める預言者のハディースからイジュティハード自体には同意しているといえる。確かに一致しているのだが、 二派の論点はイジュティハードをどう扱うかにある。

シーアはアッラーとその預言者(SAW)からの教えに全くみられないことについてイジュティハードを用いる。一方のアフルル・スンナにはそういった制限がない。カリフと謙虚な先達の例をみてみると、明白なテキストがある場合にもイジュティハードを採用して差し支えないようである。偉大な学者サイード・シャラフ・アル=ディン・アル=ムサウィが『アル=ナス・ワッル・イジュティハード』の中で、主に三代カリフの教友がクルアーンとスンナの明白なテキストに反した個人的判断を下した例を百件以上挙げている。研究者はこの書をよく調査してみるべきだ。

本題の肝心な点なので、ここでウマルが明白なテキストに反した例をいくつか示しておこう。
ウマルがそうしたのはテキストを知らなかったからかもしれないが、本当にそうだとすれば驚きである。無知の者に個人的判断で合法・不法の判定を下すことはできないのだから。

アッラーは仰せになった。
「あなたがたの口をついて出る偽りで、『これは合法[ハラール]だ、またこれは禁忌[ハラーム]です』と言ってはならない。それはアッラーに対し偽りを造る者である。アッラーに対し偽りを造る者は、決して栄えないであろう。(16:116)」

無知な者がカリフの地位に立つことはできないし、ウンマを導くことはできない。
「アッラーは真理に導いて下される。それで真理に導く方と、自分が導かれなければ道を見い出せない者と、どちらが従うのに値するのか。あなたがたはどうしたのか。あなたがたはどう判断するのか。(10:35)」

ウマルはテキストを知らなかったわけではないかもしれない。知っていながら状況に迫られて
イジュティハードに従ったのかもしれない。アフルル・スンナはこれをクフル(逸脱)とはみなさない。 ただ、正しい判定を知っていた同時代の一人が存在するのを知らなかったに違いないと擁護する。だが、それには基盤がない。 彼はイマーム・アリーがクルアーンとスンナを完璧に理解していたことを知っていたのだから。そうでなかったら、 ウマルが窮地に立った時、アリーに助言を求めたりはしなかったはずである。その証拠にウマルは、 「アリーがいなかったらウマルは消えていた」と発言していたのだ。ウマルは自分の判断が間違っていたことを知っていた。
その自分の判断したことにアリーの指導を求めていた。なぜだろう?

このようなイジュティハードは、法的判断だけでなくイスラームの教えを腐敗させた。
法的判断は無効となり、ウンマの学識者はばらばらになり、多くの宗派や法学派が生じるようになってしまったのだ。このために意見の相違と反抗が広まり、イスラーム精神と、ウンマの物理的・精神的後退を招いた。偏見のないムスリムなら同意してくれると思う。

カリフの座から神に定められた人を排除し、アブー・バクルとウマルが就任していても、この二人が預言者のスンナを収集し特別の書に保存していれば、自分たちのためにもウンマのためにもなっていただろう。そうなれば預言者のスンナに全く無関係なことが入り込みはしなかっただろうし、クルアーンとスンナによって一つの教えとなり、一つの共同体、一つの教義であり続けることができただろう。しかし、今日の状況はその全く逆である。

収集したハディースを焼失させ、記録したり語ったりするのを禁じてしまったためである。
それは大災難であった。至大至高のアッラーに並ぶ偉力ある御方はない。

ここでウマルが個人的意見を実践しクルアーンに反した例を紹介しよう。
クルアーンにはこう啓示されている。
「あなたがたがもし大汚の時は、全身の沐浴をしなさい。またあなたがたが病気にかかり、または旅路にあり、また誰か厠から来た者、または女と交わった者で、水を見つけられない場合は、清浄な土に触れ、あなたがたの顔と両手を撫でなさい。(5:6)」
神の使徒(SAW)が教友にタヤンマムのやり方を教えていたというスンナはよく知られている。ウマルがその中にいたのはもちろんだ。

ブハーリーのサヒーフ「タヤンマム(砂による浄め)の書」の「水のないときに砂で浄める」の章に、イムラーン権威の報告がある。
「預言者(SAW)と遠征中、我々は夜を徹して行進を続け、明け方近くしばしの間こよなく甘い眠りに落ちていたが、 陽の光が暑くなった頃はじめて目を覚ましました。最初に目覚めたのは或る三人の男達とウマル・ブン・アル=ハッターブであった。 預言者(SAW)が眠っている間、
その心に何が起っているか我々にはわからないため、彼が自分で目を覚ますまでは起こさなかった。 ウマルは威勢のよい人で、目を覚まして、信徒達に起ったこと、すなわち彼らが朝の礼拝の時間を寝過ごしてしまったことを 知ったが、大声を張り上げてタクビール(アッラーは偉大なり)を唱え、さらに繰返して唱え続けたので、 遂にその声によって預言者も目を覚ました。
そのとき、人々が礼拝の時を寝過ごしてしまったことを訴えると、 預言者(SA)は『かまわない。さあ出発せよ』と言ったので彼らは出発した。しばらく進んだところで彼は止り、 水を持ってこさせてそれで浄めを行い、信徒達を祈りに呼びかけ、彼らの先に立って礼拝を行った。礼拝を終えてふと見ると、 人々と一緒に祈らずに離れて立っている人がいたので、『なぜ一緒に祈らないのか』と尋ねると、その男は、 穢れているのですが水がありません、と答えた。そこで預言者は『砂で浄めよ、それで充分なのだ』と言った」〈注173〉

このようなクルアーン節と伝承があるにもかかわらず、ウマルはそれに反した個人的意見で「水が得られない場合には礼拝を行ってはならない」と述べていたのである。このウマルの意見を伝承家のほとんどが記録している。

ムスリムのサヒーフ1巻「浄めの書」の「タヤンマムの章」に報告がある。
或る男がウマルのところにやって来て「わたしは穢れた状態だが水がない」と言うと、 ウマルは「では礼拝を行ってはならない」と言ったので、アンマールが「おお、信者の司令官よ、 預言者と遠征したときのことを覚えていないのですか。わたしたちは穢れた状態で水がみつかりませんでした。 それであなたは礼拝をせず、わたしは砂の上で転がってから礼拝したので、預言者(SAW)が『手で地面を一度叩いてから振り 払い、手と顔をこすりなさい。それで充分だ』と言われました」と言うと、ウマルが「アンマールよ、アッラーを畏れなさい」 と言ったので、アンマールは「御望みならわたしはそれを語りません」と言った。〈注174〉

アッラーに栄光あれ! ウマルはクルアーンとスンナの明白なテキストに反していた。
自分の見解に反することを言う教友にはそうさせなかったのである。アンマールは「御望みならばわたしはそれを語りません」と余儀なくカリフをなだめているのである。このように教友の明白なテキストがウマルの個人的意見を証明しているのに、どうしてこのイジュティハードに驚かないのか。

ウマルは死ぬまで自分の見解に頑なに固執して譲らなかった。彼の見解は大勢の教友に影響を及ぼし、ウマルのやり方が受け入れられた。実際、神の使徒よりウマルの見解を優先したこともあったのだ。ムスリムが「浄めの書」の「タヤンマム(砂により浄め)の章」1巻192頁にはシャキークの権威による報告がある。
「わたしたちがアブド・アッラーとアブー・ムーサと共に座っていると、アブー・ムーサが 『おお、アブー・アブド・アッ・ラフマーンよ、穢れている人が一月の間水を得られなかったとき、 礼拝をどうすればよいと思うか』と尋ねたので、アブド・アッラーが『一月の間水が得られなかったときでもタヤンマムはしない』と言ったので、 アブー・ムーサは『ではスーラ・アル=マーイダの節はどう取るのか。水がなかったら土で浄めをするのか』と言い、 アブド・アッラーは『この節によると、もし砂による浄めを許すとすれば、水が非常に冷たいときには砂でやることになろう』と 言った。それでアブー・ムーサはアブド・アッラーに『アンマールが預言者と遠征したとき、穢れていて水がなかったので砂の上を 動物のように転がってから礼拝をし、後でこれを預言者に話すと、それで充分だと言って、手の平で土を叩いてから振り払い、 左手の平で右手の甲をこすり、顔をこすった、と言ったのを聞かなかったのか』と言った。するとアブド・アッラーは 『あなたはウマルがアンマールの言葉を認めなかったことを知らないか』と言った」〈注175〉

ブハーリー、ムスリム、その他のサヒーフが真正と認めるこの伝承を調査すれば、ウマルの見解がいかに大勢の長老の教友たちに影響力を持っていたかがわかる。
また、伝承の語りが互いに矛盾したり弱まっていたりするだけでなく、法的判定においても矛盾があるのが理解できる。ウマイヤ朝とアッバース朝の権威者が、一つの事柄に対していくつもの一致しない判定を認め、イスラーム法を重んじないでその価値を貶めたのであろう。
まるでこの二つのカリフが[四法学祖の]アブー・ハニーファ、マーリク、アフマド、シャーフィイーに、「自己の見解で自由に述べよ。あなた方の指導者ウマルがクルアーンとスンナにないことを言ったのなら〈注176〉、あなた方に罪はない。あなた方はただ従者に従う従者にすぎないのだから創案者ではない」と言ったかのように。

さらに驚くのは、アブド・アッラー・ブン・マスードがアブー・ムーサに「一か月水がないような場合、砂による浄めを否認する」と述べていることだ。アブド・アッラー・ブン・マスードは最も高名な教友の一人である。その彼が、穢れているときに水がみつからなければ礼拝をするな、タヤンマムをしてはいけない、と言っているのである。それでアブー・ムーサは、砂の浄めのことを示すスーラ・アル=マーイダの節の言葉を問いつめると、アブド・アッラー・ブン・マスードは
「砂による浄めを許すとすれば、水が非常に冷たいときには、人は早速それを捨てて砂で浄めを行なうことになろう」と応えているのである。

彼らが個人的判断(イジュティハード)に従ってクルアーンを解釈していたことがこのことからもわかる。 「アッラーはあなたがたに易きを求め、困難を求めない(2:185)」とアッラーは仰せになったが、彼らの推測でウンマが非常に厳しい状況に置かれてしまったのは、誠に残念なことだ。

気の毒なこの教友は「砂による浄めを許すとすれば、水が非常に冷たいときには、人は早速それを捨てて砂で浄めを行なうことになろう」と述べた。彼は神とその使徒の教えを伝える地位に自分を立たせたのだろうか? 彼は創造主より信者に愛情を持って保護する力を持っていただろうか?

この後、アブー・ムーサはアンマールがウマルに言った言葉(タヤンマムに関して預言者がどう教えていたかを報告したスンナ)で納得させようとしたが、アブド・アッラーは「ウマルがアンマールの言葉に満足していたとは思わない」と応え、有名な預言者のスンナを否認しているのだ。

このように、ウマル・ブン・アル=ハッターブの個人的見解は一部の教友には納得のいく証拠だった。ウマルが承認したハディースやクルアーン節の意味は、それがたとえ預言者(SAW)の言行と一致していなくても、ハディースの真正性や節の解釈を決定する唯一の基準だったことがわかる。

その結果、合法(ハラール)・非合法(ハラーム)に関して、今日、多くの人びとはクルアーンとスンナに矛盾した行為をしているのである。テキストに反するウマルのイジュティハードが従うべき法学となってしまったからである。背教者で知識を持つ一部の者たちは、カリフ時代に禁じられていた伝承が後の語り手や学者によって記録されているのを知ると、それがウマルの「マズハブ[法学派]」に反していれば、今度は彼らの手で間違ったハディースを創意し、預言者に由来させることでアブー・ハフスのマズハブを支持した。

ムトア婚やタラウィ礼拝などがその例だ。このようにして矛盾する伝承が存在するようになり、今日までそれが続き、ムスリムの間で不一致が生じるようになった。ウマルだからというだけの理由でウマルを擁護する者が消えない限り、そして真実を追求しようとしない限り、こうした不一致は続くだろう。ウマルにこう問いたださぬ限りは。

「あなたの判断は間違っていた。水がないときに礼拝を放棄してはならない。タヤンマムの節は啓示されている。タヤンマムの伝承はどのスンナ書にも報告されている。そのことを知らない人にウンマの指導者であるカリフの地位を認めることはできない。定められた教えに反した知識は不信心者にする。アッラーとその使徒が何かを命じているとき、あなたが信ずる者ならば、好き勝手に判定または否認するのは適切ではない。アッラーとその使徒に服従しない人が完全に道を逸脱していることをあなたは他の誰よりも知っているのではないか」と。

アッラーは仰せになった。
「施し(サダカ)は、貧者、困窮者、これ(施しの事務)を管理する者、および心が(真理に)傾いてきた者のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道のため(に率先して努力する者)、また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英明であられる。(9:60)」

アッラーは心が真理に傾いてきた人びとのために、特に分かち合うことを義務とされた。
それは、よく知られる神の使徒(SAW)の実践行為であった。しかし、ウマル・ブン・アル=ハッターブはカリフ時代、この義務である教えを放棄して「我々はあなた方を必要としない。アッラーがイスラームを強化されたのだから」と、テキストに反する判断を下していた。

アブー・バクルがカリフ時代、心が真理に傾いてきた人びとが預言者の慣習に従ってやって来たが、この教えは放棄された。アブー・バクルが彼らに承認書を記し、彼らが分配を求めてウマルにそれを差出したのだが、ウマルは破り捨て、 「我々はあなたたちを必要としていない。アッラーがイスラームを強化なさったのだから。イスラームを受け入れるならそれがよい。受け入れないならあなた方とわたしの間には剣がある」と言った。

アブー・バクルの許に戻って彼らが、 「カリフはあなたか、それとも彼(ウマル)か」と言うと、アブー・バクルは、 「アッラーの御意思があれば、むしろ彼といえる」と応えて教友のウマルに同意し、承認書を無効にしたのである。〈注177〉

驚くべき事実は、今日、これをウマルの美徳とし、才ある考案とみなして擁護する人びとがいるということだ。その一人、シャイフ・ムハンマド(アル=ダワリビとして知られる)は『ウスル・アル=フィクフ』(239頁)に書く。「心が真理に傾く人びとへの対応をクルアーンは命じているが、ウマルがそうしなかったのは、クルアーンのテキストは今も無効ではなく従われねばならないが、時の経過に伴い変化する必要条件に応じて下した判定のためであり、これは重要な判断の一つであった」

著者はさらに、ウマルはテキストの明瞭な意味(文字通りの意味)に従った判断を下したのではなく、テキストの〈動機・根拠〉によって判断したのだと述べて、最後までウマルを擁護している。だが理性がこれを受け入れない。

ウマルがクルアーンの命令を変えたのは時の経過に伴う変化に応じた判定だったという見解に同意したとしても、 テキストの明瞭な意味ではなく〈動機・根拠〉により判定したという見解を
受け入れるわけにはいかない。ウマルにとっても誰にとってもクルアーンとスンナは時の経過で変化するものではない。預言者(SAW)でさえ変える権限を持たないことをクルアーンが明瞭に示している。
「ところがわれの明瞭な印が、かれらに読み聞かされた時、われと会うことを望まない者たちは言った。『これとは別のクルアーンを持って来なさい。それともこれを改竄しなさい。』言ってやるがいい。『わたしは自分の裁量でこれを改竄することは出来ない。只、わたしに啓示されたものに従うだけである。わたしがもし主に背いたならば、偉大な日の懲罰を本当に恐れる。』(10:15)」

さらには預言者の純粋なスンナがこう教える。
「ムハンマドがハラール(合法)と宣告したものは審判の日までハラールであり、ハラーム(禁止)と宣告したものは審判の日までハラームである」

それなのに、イジュティハードに関してアル=ダワリビをはじめウマルの擁護者は、法的判定は時の経過に伴って変化するもので、神の定めた法を権威者が変えたとしても彼らに非はなく、法の変更・改竄は必要不可欠だと主張するのである。これは明らかに神の法に反している。 「後退、貧困、無知と戦う今日、断食は必要ない。生産性を妨げている。敵に勝つために断食を止めよ」 などと言う者がその中にいる。さらに彼らは、一夫多妻制は女性の権利侵害と抑圧だといって禁じる。ムハンマドの時代の女性は「尿の一滴」としかみられなかったが、現代の我々は女性解放者であり女性に完全な権利を持たせた、と言うのである。

このように主張する大統領も、ウマルと同じく、テキストの明瞭な意味を無視し、テキストの動機に従おうとする。 「男女平等の遺産相続は不可欠である。アッラーが男に女の倍の相続を定めたのは、女は働かないで男が一家の大黒柱であるという理由による。だが、今日の女性たちは驚くべき努力により家族を支え労働する」 この大統領は例を挙げ、自分の妻は彼女の兄弟を援助している、彼女の恩恵で大臣になった、と述べる。 また、成人が誰と関係しようが金銭利益や強制でない限り、個人の自由だとして姦通を許している。非嫡出子のために保育施設を開設し、昔は貧困と不名誉を恐れて生き埋めにしたが、自分は非嫡出子に慈悲深いのだと主張するのである。彼はほかにも周知の見解を持っている。

奇妙なことに、この大統領はウマルの性格を賛美した。しばしば、ウマルを称賛した発言をしている。ある時はイジュティハードに関してウマルは存命中も死後もその責任を果たさなかったと述べ、またある時、アル=ダワリビは存命中も死後も責任を果たす、と述べているのである。ところが別の時には、ムスリムが彼の解釈を非難しているのに気付いたのか、「ウマルは彼の時代にイジュティハードを初めて実践した偉大な人物である。現代に生きる私がイジュティハードを用いてはならないというのか。ウマルは国家の指導者だった。この私も国家の指導者なのだ」と発言しているのだ。

ところが、神の預言者ムハンマド(SAW)について語る彼の言葉の中には軽蔑の声が聞こえる。ある演説で、預言者は地理さえ知らなかったと軽蔑したように発言していた。「たとえ知識が中国の果てにあったとしても求めなさい」と述べたムハンマドは、中国が地球の最果てだと思っていたのだから、飛行機で空を飛ぶ時代の到来を想像すらできなかった、ウラン、原子力、レーザー武器の啓示が下っていたらどうなっていたことか、と。

神の書と預言者のスンナから何も理解していない哀れな魂の主を、個人的に非難するつもりはない。 だが、イスラームを冷笑し西洋文明に従う者が、或る日、イスラームの名の許に一国家の指導者になってしまったのだ。 彼が考える「先端」を目指して、自国が欧州の一国となることを望み、西洋諸国からの援助を受けるとその指導者たちの例に従い、 彼らから称賛された。「最も偉大なるムジャヒード」という称号まで与えられた。彼が運んできたものには驚かないので彼を 非難するつもりはない。コップからこぼれ出るのは注がれたものだけなのだから。
この大統領を批判する前に、預言者(SAW)が亡くなった日、この扉を開いてウマイヤ朝・アッバース朝によるイジュティハードのすべての原因を作ったアブー・バクル、ウマル、ウスマーンに責任があると言いたい。7世紀の間、それは続いた。イジュティハードの法的判定とそのテキストが真のイスラームを消滅させた。ムスリム国家の指導者が預言者(SAW)を冷笑した説教をしても、国内からも国外からも批判の声が上がらないほど、イスラームは廃れてしまったのである。

イスラーム運動に奮闘する一部の兄弟たちに向けて私はこう言いたい。
「あなた方がクルアーンの言葉と預言者のスンナに従わない指導者を受け入れないのなら、
テキストを無視してイジュティハードを創意した人たちも受け入れるべきではない。
あなた方が本当に客観性があり、真実に従おうと思っているのなら」
だが、彼らは、今の国家指導者を正統カリフと比較するなどとんでもない、といって私の批判に耳を貸さない。

では、彼らの反論にこう返答したい。
今日の国家指導者や国王は歴史が招いた不可避なる結果である。預言者(SAW)が亡くなってから今日に至るまで、ムスリムは一日たりとも解放されていたといえるだろうか。
すると彼らはいう。
「教友を誹謗中傷するシーアが何をいうか。我々が権威を得た日には、シーアが消滅するまで焼殺する」と。「アッラーがそれを御許しにはならない」私の彼らへの返答だ。

アッラーは仰せになった。
「離婚(の申し渡し)は、二度まで許される。その後は公平な待遇で同居(復縁)させるか、あるいは親切にして別れなさい。あなたがたはかの女に与えた、何ものも取り戻すことは出来ない。もっとも両人が、アッラーの定められた掟を守り得ないことを恐れる場合は別である。もしあなたがた両人が、アッラーの定められた掟を守り得ないことを恐れるならば、かの女がその(自由を得る)ために償い金を与えても、両人とも罪にはならない。これはアッラーの掟である。それ故これに背いてはならない。凡そアッラーの掟を犯す者こそ不義の徒である。もしかれが(三回目の)離婚(を申し渡)したならば、かの女が他の夫と結婚するまでは、これと再婚することは出来ない。だが、かれ(第二の夫)が彼女を離婚した後ならば、その場合両人は罪にならない。もしアッラーの掟を守っていけると思われるならば、再婚しても妨げない。これはアッラーの掟である。かれは知識のある者たちに、これを説き明かされる。(2:230)」

預言者の高貴なるスンナが明瞭に説明している通り、離婚は三回まで許されているが、三度目の離婚後、その妻が別の男と再婚してから離婚すれば、その妻との復縁は許されている。妻が離婚後に結婚した男にも同じく、この妻と別れた後は以前の妻と復縁することは可能だし、その妻の再婚相手の男にも同じことが当てはまる。復縁を受け入れるか入れないかは女性の自由だ。

アッラーは人びとが理解できるように明瞭にその掟を示されたのに、ウマル・ブン・アル=ハッターブはそれに背き、自分の見解で変えてしまった。一回の離婚は、離婚宣言の言葉を三回いえば成立するものとしたのである。ウマルはクルアーンと預言者のスンナに反していた。

ムスリムが「離婚の書」の「三度の離婚の章」で報告している。イブン・アッバースが言った。「神の使徒(SAW)の時代には三度の離婚が許されていたが、アブー・バクルとウマルがカリフだった時代の二年間は、これを[離婚宣言を三回述べて]一回の離婚成立とみなしていた。ウマル・ブン・アル=ハッターブが『夫はこのことで急いではならず、忍耐が必要である。彼らのためにこれを許可する』と述べてそのようにした」

カリフが教友の目の前で神の法を変えることができ、教友たちはウマルがいうことは何でも同意したというのだから奇妙な話だ。誰もウマルに問いたださなかった。そうして哀れな我々に或る一人の教友がウマルにこう言ったと信じさせた。
「アッラーにかけて。あなた方に不正があれば、剣で正す」

だがこの伝承は嘘である。自由と民主主義の最良の例はカリフだったと自慢するための改竄された伝承なのである。歴史上、実際にあった出来事が、このような伝承を否定する。いくら主張しても行為がその全く反対だったとあれば、その主張には重要性がない。

彼らはクルアーンとスンナの方に不正があり、ウマル・ブン・アル=ハッターブが正したとでも思ったようである。このような愚かさからアッラーの御加護を請う。

私がカフサにいた頃、妻に離婚宣言の言葉を三回発してしまったと悩む男の相談を受けることが度々あった。そんな男たちに、カリフの個人的意見が入り込む隙間のない、本来のアッラーの正しい法を教えると、彼らは喜んだ。だが、自分に知識があると言い張る人たちは、シーアにかかってはすべてがハラール(合法)になる、といって男たちを怖れさせた。そのような一人の発言を私は今でも覚えている。彼は礼儀正しく私に言った。
「この件や他の件でマスター・ウマル・ブン・アル=ハッターブがアッラーの法を変え、教友たちがそれに同意していたのなら、なぜアリー―アッラーが彼の御顔に輝きを与え、嘉みし給いますように――はマスター・ウマルに反論しなかったのでしょうか」

私はイマーム・アリー(AS)が、勇敢だが戦略のことはわかっていない、とクライシュ族から言われたときに返答した彼の言葉でその人に応えた。

「アッラーが彼らの両親を御助けになりますように! わたしより経験がある人はいるのか。わたしはまだ二十歳に満たない年齢で戦いに加わった。今、わたしは六十を超えているのに、それでもその人の意見に従わない」(ナフジュ・ル・バラーガ 説教27)

アリーをイマームとするシーアのほかにイマーム・アリーのいうことをきいたムスリムはいたのだろうか。アリーはウマルによるムトア婚の禁止とタラウィ礼拝の創意に抵抗した。
アブー・バクル、ウマル、ウスマーンが変えた法は一切受け入れなかった。そんなアリーの見解を受け入れるのはアリーの従者に限られてしまった。それ以外のムスリムはアリーに宣戦し、彼を誹謗中傷し、全力で彼を殺そうとし、その記録を消そうとした。

ウマルの死後、アブド・アッ・ラフマーン・ブン・アウフは条件付でアリーをカリフに指名しようとした。そのときのアリーの勇敢な行動ほど彼の抵抗を証明しているものはない。二人のカリフ(アブー・バクルとウマル)の実践通りの統治を求められた際、アリー(AS)は「わたしは神の書と預言者のスンナに従って判断する」と、きっぱりこれを拒絶した。そのためにカリフの座から追放されてしまい、この条件を受け入れたウスマーン・イブン・アファーンが選ばれたのである。アリーは亡くなったアブー・バクルとウマルにさえ抵抗できなかったのだから、二人が生きていたときに、どう抵抗できたというのだろうか。

「知識の市の門」といわれ、神の使徒(SAW)の後、最も知識ある人、クルアーンと預言者のスンナを暗記し、最も優れた判定者である人を、アフルル・スンナ・ワッルジャマッアは放棄し、 今日、そのかわりにマーリク、アブー・ハニファー、アル=シャフィッイー、イブン・ハンバルを優先した。 信仰から契約にいたる宗教事項のすべてにおいて、イマーム・アリーではなくこの四人を模倣している。 スンナ派のイマーム・ブハーリーやムスリムもハディースに関して同じことをした。預言者に近い人や遠い人、 アブー・フライラ、イブン・ウマル、アル=アクラ、アル=アーラジュといった語り手に依存した伝承を何百件も報告しながら、 アリーに由来した伝承はごく僅かしか報告せず、アフルル・バイトの威信を汚したが、それでもまだ十分ではなかった。

アリーの言行を模倣し従った誠実な信者のことを不信心者といい、アリーに従った信者を「ラワフィド(拒絶者)」という酷い名前で呼び、拒絶した。だが真実は、三代カリフ時代に疎外させられたアリーに従ったという以外に罪を犯してはいないのである。ウマイヤ朝とアッバース朝はアリーとその従者を冒涜し、戦った。歴史を知る理知ある人なら、これが正真正銘の真実であることを認識し、アリーとその家族と従者(シーア)に対する奥に秘められた陰謀を理解するだろう。


注171:サヒーフ・アル=ブハーリー 8/148

注172:同上

注173:サヒーフ・アル=ブハーリー 1/88

注174:サヒーフ・アル=ブハーリー 1/87

注175:サヒーフ・アル=ブハーリー 1/91 「浄めの書」の「砂による浄めは手で土を叩いてから              行う」の章。

注176:サヒーフ・アル=ブハーリー 5/158.「キターブ・タフシール・アル=クルアーン」の

          「アッラーの道におしみなくつくす」

注177:Al-Jawhari al-Nayyira fi figh al-Hanafi, 1/164






テキストに反した教友二人に従ったウスマーン・イブン・アッファーン

カリフ就任の忠誠の誓いが行なわれた夜、ウスマーン・イブン・アッファーンはアブー・バクルとウマルのスンナに従ってウンマ統治にあたることをアブド・アッラフマーン・ブン・アウフに誓ったが、本質的には自分の判断に従うと誓ったようなものだった。
二代カリフのようにクルアーンと預言者のハディースのテキストを変えてしまうのだ。
カリフ時代のウスマーンの生き様を調査してみれば、イジュティハードに関しては、先の二代カリフがそうしていたことを忘れてしまうくらい、 さらに踏み込んだ行動をしていたことがわかる。
この件をここで長々と述べることはしないが、ウスマーンの奇妙な創意に人びとが抵抗したため命を落とす結果となったことが、今昔のおびただしい数の歴史書に記録されているのである。これまでどおり、読者諸賢のために、個人的解釈が預言者ムハンマド(SAW)の教えをどのように変えてしまったかを例を示しながら説明していこう。

(1)ムスリムのサヒーフの「旅の途中の礼拝に関する書」にアーイシャの報告がある。
「アッラーが礼拝を御定めになった時、ラクアは二回だった。それから家での礼拝は四回のラクアとされたが、旅人は最初の定めにより、 二回のラクアとされた」同書にはヤァラー・ブン・ウマイヤの報告もある。「わたしがウマル・ブン・アル=ハッターブに 『礼拝を短縮しても害はない、
フィトナを恐れるなら人びとは今では信じている』と言うと彼は、『あなたの言ったことに驚いたので神の使徒(SAW)に尋ねてみたのだが、使徒は、アッラーからの御慈悲であるから受け入れなさい、と言われた』と答えた」

ムスリムはサヒーフの「旅人の礼拝を短縮することの書」にイブン・アッバースの言葉を報告している。
「アッラーは預言者(SAW)の舌を介して礼拝を定めた。家での礼拝は四回のラクア、旅人は二回のラクア、恐怖の状態にあるときは一回のラクアとされた」

ムスリムはアナス・ブン・マーリクの言葉も報告している。
「神の使徒(SAW)は旅の距離が3アムヤル(マイル)又は3ファルサフスのときには二回のラクアをした。アンマールも言った。『神の使徒とメディーナからメッカを旅したとき、旅から戻るまでの礼拝は二度のラクアだった』と言ったので、『メッカにどれだけ滞在したのか』と尋ねると、『10日』と答えた」

ムスリムのサヒーフに報告された上述のハディースから明らかなのは、旅人の礼拝の短縮に
関する聖なる節の啓示を神の使徒は理解し、言行でこれを説明し、アッラーからムスリムへの御慈悲であるから受け入れる義務があるとした。 アル=ダワリビのようなウマル擁護者は、文字通りの意味ではなく理由を考慮したのだと議論してウマルの過ちを正そうとするが、 上述の報告がこれを否定している。

この節が啓示された時、神の使徒(SAW)はウマルに礼拝の短縮を教えていた。 ウマルは成立のテキストが啓示の条件ではないと驚きを示し、結果として旅人の礼拝は不信仰者の攻撃の恐れがなく安全な状態のときでも短縮するものとなった。ウマルの言ったことはアル=ダワリビやスンナ派学者と一致していない。それでも彼の擁護者はウマルを高く評価するがために口実を求めるのである。

ウスマーン・ブン・アッファーンについて調べてみよう。
「正統カリフ」の一人とみなされるためか、彼もクルアーンとハディースのテキストを個人的判断で実践していた。 ウスマーンは旅人の礼拝を定められた二回のラクアではなく四回のラクアとした。

私はウスマーンがなぜこのように変えたか、その理由と根拠を繰り返し考えてみた。
ウスマーンは民衆に、それも特にバヌ・ウマイヤに、自分が預言者ムハンマド、アブー・バクル、ウマル以上に神を畏怖する敬虔な信者だと信じさせたかったのではないか。私にはそれしか思い浮ばない。

ムスリムが「旅人の礼拝とミナでの礼拝の短縮の章」でサリム・ブン・アブド・アッラーがその父から聞いて語った伝承を報告している。それによると、神の使徒(SAW)はミナで旅人に命じられた二回のラクアをし、また別の場所でも二回のラクアをした。アブー・バクルとウマルもそうした。ウスマーンもカリフ初期時代は同じく二度のラクアをしていたが、後で四回に定めた」

ムスリムの次の報告もある。
アル=ズフリが言った。「わたしがウルワに『なぜアーイシャは旅の際にも完全な礼拝(四回のラクア)と言うのでしょうか』と尋ねると彼は、『ウスマーンと同じように解釈したからだ』と答えた」アッラーの命令と伝承テキストは、このような人びとの解釈や説明から免れなかった。

(2)ウスマーンはムトア・ハッジとムトア婚の禁止についてもウマルの言い分を支持して自己判断に任せた。 ブハーリーのサヒーフ「巡礼の書」の「巡礼と小巡礼を続けて行うこと(tamatta`a)。両者を一緒に行うこと(aqrana)・・・・・・の章」報告がある。 [和訳注tamatta`aはイフラームの状態を一旦解く合間をはさんで巡礼と小巡礼を続けて行うこと。Aqranaはイフラームの状態を解くことなしに巡礼と小巡礼を一緒に行うこと]

「マルワーン・ブン・アル=ハカムによると、彼はウスマーンとアリーを直接知っていたが、ウスマーンは巡礼と小巡礼を続けて行うことおよび巡礼と小巡礼を一緒に行うことを禁じた。アリーはこれを聞いて、わたしは預言者の立てた慣行を一人の人間の言葉によって棄てることはできない、と言い、巡礼と小巡礼のためにタルビーヤを行った」

ムスリムが「巡礼の書」の「巡礼と小巡礼を続けて行うこと(tamatta`a)は許されるか」の章に、サイード・ブン・アル=ムサィヤブの権威で報告している。「ウスマーンとアリーがウスファーンで会った。ウスマーンは小巡礼と巡礼を続けて行うことを禁じたので、アリーは、神の使徒(SAW)が立てた慣行を禁じるのか、と言った。これを聞いてウスマーンは、干渉しないでくれ、と言い、アリーは、そうするわけにはいかない、と応えた。アリーはそれを見たとき、小巡礼と巡礼を続けて行った」

そうなのだ! これがアリー・イブン・アビー・ターリブ(AS)という人間だった。彼は預言者(SAW)のスンナを他の人の言葉で棄てることはできなかった。二人の会話でウスマーンは、干渉するな、とアリーに言ったことから、ウスマーンが抵抗してアリーの従兄(SAW)の教えに従おうとしなかったことがうかがえる。この伝承は省略して報告されている。干渉するなと言われたアリーは、そうすることはできない、と応えているが、その後に、「アリーがそれを見たとき」とある。一体、アリーは何を見たのだろうか。

アリーが預言者のスンナを指摘したにもかかわらず、このカリフがスンナに反して自分の見解を通したということに疑いはない。ウスマーンはイフラームを一旦解く合間をはさんで巡礼と小巡礼を続けて行うこと(tamatta`a)を禁じたが、アリーは巡礼と小巡礼を続けて行った。

(3)ウスマーン・ブン・アッファーンは、礼拝においても個人的判断で、平伏す前にも後にもタクビールを言わなかった。

イマーム・アフマド・ブン・ハンバルが『ムスナード』4巻440頁に、イムラーン・ブン・アル=フセインの権威による語りを報告している。「わたしはアリーの後ろで礼拝をしたことがあった。預言者(SAW)と二人のカリフと行った礼拝を思い起こさせた。アリーが、『それで彼と礼拝した時、平伏すたびにタクビールをし、ルクーウから頭を上げた時にもした』と言いわたしが、『おお、アブー・ナジードよ、これから最初に離れた人は誰ですか』と尋ねると、彼は『ウスマーン(アッラーが彼を嘉みし給いますように)である。彼が年老いて声が弱った時、そうするのを止めた』と応えた」

このように預言者(SAW)のスンナは棄てられ、カリフのスンナ、教友のスンナ、ウマイヤ朝と
アッバース朝のスンナといれかわってしまったのである。創意された教えがどんどんイスラームに入り込んでしまったのである。創意は間違った教えに導く、間違った教えは火獄に導く、とは預言者(SAW)の言葉である。

今、ムスリムの間で礼拝の様々なやり方が存在しているのはこのような理由による。ムスリムはひとつと思うだろう。だが、ムスリムの心はばらばらである。ムスリムは一列に並んで礼拝する。両腕をおろしたままのムスリムもいれば、腕を前で組むムスリムもいる。その組んだ手の置き方も様々で、お腹の上で組む人もいれば、胸のところで組む人もいるし、両足をつけて立つ人もいれば、開いて立つ人もいる。誰もが自分のやり方が正しいと思っている。そう言うと戻ってくる言葉は、「兄弟よ、気にしなくてもいい。形態はいろいろあるのだから、自分が正しいと思うように礼拝をすればよい。大切なのは礼拝することなのだから」

もちろんある意味ではそうだろう。一番重要なのは礼拝だ。しかし、神の使徒(SAW)のやり方に従うのは不可欠だ。なぜなら「あなた方は、わたしの礼拝を見たとおりにやりなさい」と言われたからである。だから、私たちムスリムは最大の努力を払って、預言者(SAW)から教えられたとおりの礼拝を行わねばならない。礼拝は宗教の柱なのだから。

(4)ウスマーンは御慈悲の方の天使が恥ずかしがる人だった。
アル=バラズリが著書『アンサブ・アル=アシュラーフ』5巻54頁に述べている。
「アル=ラブザでアブー・ザッルの死が知らされた時、ウスマーンは、彼の上にアッラーの御慈悲がありますように、と言った。そのとき、アンマール・ブン・ヤーシルが、わたしたちを疲れさせた彼の上にアッラーの御慈悲がありますように、といったのでウスマーンは、『おお、父の陰部をかじる者よ! わたしが彼を追放したのを悔やんでいると思うのか』といってから、アンマールを捕えるよう命じ、『彼のところへ行くがよい』と言った。  彼らが去ろうとしていたところへバヌ・マフズムがアリーの許にやって来て、ウスマーンに彼のことで話してほしいと言った。そこでアリーがウスマーンに『ウスマーンよ、アッラーを畏怖されよ。あなたは敬虔なムスリムを追放し、彼はそのまま消えてしまった。今、また彼のような人を追放しようというのか』と言い、二人が言葉を交わした後、ウスマーンがアリーに『アンマールよりあなたが追放されるべきだ』と言ったのでアリーは、『望むなら、そうすればよい』と応えた。  そのときムハージルーンがウスマーンの許にやって来て、『誰かに問われでもしたら、彼を追放するのは間違っている』といったので、ウスマーンはアンマールに対しての判断を撤回した」

ヤークビの『ターリフ』2巻147頁に報告がある。
「アンマール・ブン・ヤーシルは、ミクダードの遺言で、ウスマーンに報告せずに彼の葬儀の礼拝を行った後で埋葬していた。これを知ったウスマーンがアンマールに激怒し、『この黒人女の息子のせいでわたしの上に災いが降りかかる。このことを知っていれば』と言った」 天使ですらはずかしがるほど謙虚だといわれた人に、優れた信者に対してこのような悪い言葉で話すことができるだろうか。

ウスマーンは「父の陰部をかじる者」と言ってアンマールを侮辱するだけでは満足しなかった。召使に命じてアンマールの手足をつかませ、靴を履いた足で彼の陰部を蹴り、老人で弱っていたアンマールは意識を失って倒れた。この話は歴史家にはよく知られている。〈注178〉なぜなら、一団の教友がこのような出来事を記録しており、彼らはアンマールに(彼の災難の出来事を)語るよう求めていたからである。

ウスマーンは同じことをアブド・アッラー・ブン・マスードにもやっていた。ウスマーンが彼の前を兵士のアブド・アッラー・ブン・ザムーアと通りすぎた際、兵士にアブド・アッラー・ブン・マスードをつかませてモスクの扉のところまで連れてこさせ、そこでウスマーンは彼を地面に強く投げ倒し、彼のあばら骨を一本折ってしまったのである。〈注179〉そこまでされた理由は、堕落したウマイヤにムスリムの所有物を説明もなく与えたことにアブド・アッラー・ブン・マスードが抗議していたからであった。

こうしてウスマーンに対する反乱が始まり、最後に彼は殺害されてしまう。反乱者たちはウスマーンの遺体を3日間埋葬させなかった。バヌ・ウマイヤの4人が葬儀の礼拝を唱えようとしたが、教友の中にはそうすることさえ拒んだ人たちもいたのである。バヌ・ウマイヤの一人が「アッラーとその天使が祝福した人を埋葬しなさい」というと、教友たちは「アッラーにかけて。ムスリムの埋葬地には埋葬させない!」といった。最終的にウスマーンの遺体は、かつてユダヤ人たちが埋葬地としていた場所、「ハッシュ・カウカブ」に埋葬された。後に権力を握ったウマイヤ朝がこれをアル=バキにしたのである。

三代カリフのアブー・バクル、ウマル、ウスマーンの歴史をざっと述べてきた。
簡潔に述べるためにほんの数例しか紹介できなかったが、伝えられている美徳の後ろに隠された真相を暴くには十分だろう。彼らはこのような美徳を知りもしなかったし、体現するなど夢にも思っていなかった。わかりきった質問だが、アフルル・スンナ・ワッルジャマッアはこれらの事実に対してどう返答するのだろうか?

神に従っている人びとにとっての答えとはこうである。
「これらの事実を知るならば、事実を否認できない。いくら事実を消そうとしても自分たちのシハーフの書が真相を証明しているのだから。正統カリフの神話ははぎ取られた。 これらの事実を否定して正確さに同意しないというのであれば、それを報告し、あなた方が依存する『真正書(サヒーフ)』を否定することになる。そうなれば、あなた方は自分たちの信仰のすべてを放棄したことになるのだ」


注178:Al-Baladhuri, Ansab al-Ashraf, 5/49、al-Isti`ab, 2/422、Ibn Qutayba, al-Imamawa`l-Siyasa, 1/29, Ibn Abi`l-Hadid , Sharh Nhj al-Balagha, 1/239、Ibn `Abd al-Rabbih, al-`Aqd al-Farid, 2/272.

注179:Al-Baladhuri, Ansab al-Ashraf, Al-Waqidi, Al-Ya`qubi, Ta`rich, 2/147, Ibn Abi`l-Hadid , Sharh Nhj al-Balagha, 1/237.



00889.gif(1103 byte)  第6章 カリフに関して









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