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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[藤麿]

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藤麿王 ふぢまろ
 のち筑波藤麿 つくば ふぢまろ(ふじまろ) [侯爵]
 
【出自】
 
菊麿王[山階宮]の三男。
 
【母】
 常子 ひさこ
 菊麿王妃
 島津忠義の三女。
 
【經歴】
明治三十八年(一九〇五)二月二十五日午後十時十五分、東京市麹町區富士見町の山階宮邸において出生。
『法令全書』明治三十八年二月 告示
○宮内省告示第三號
二月二十五日午後十時十五分菊麿王妃殿下分娩王男子誕生セラル
    明治三十八年二月二十七日            宮内大臣子爵田中光顯
藤麿王
明治三十八年(一九〇五)三月三日、「藤麿(フヂマロ)」と命名。
『法令全書』明治三十八年三月 告示
○宮内省告示第四號
二月二十五日午後十時十五分誕生セラレタル菊麿王殿下ノ王男子名ヲ藤麿フヂマロト命セラル

    明治三十八年三月三日              宮内大臣子爵田中光顯
『明治天皇紀』
大正十三年(一九二四)三月三十一日、學習院高等科を卒業。
大正十三年(一九二四)四月十五日、東京帝國大學文學部國史科に入學。
大正十四年(一九二五)三月二十三日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
大正十四年(一九二五)三月二十五日、成年式。
『官報』第三七七五號 大正十四年三月二十六日(木曜日) 告示
○宮内省告示第七號
本日藤麿王殿下成年式ヲ濟マセラル
 大正十四年三月二十五日
      宮内大臣 子爵 牧野 伸顯
『法令全書』大正十四年三月 告示「宮内省告示第七號(官報 三月二十六日)」
本日藤麿王殿下成年式ヲ濟マセラル
 大正十四年三月二十五日
      宮内大臣 子爵 牧野 伸顯
昭和二年(一九二七)三月三十一日、東京帝國大學文學部國史科を卒業。
昭和二年(一九二七)四月二十一日、東京帝國大學大學院に入學、奈良時代史を研究する。
筑波藤麿 [侯爵]
昭和三年(一九二八)七月二十日、臣籍降下。「筑波(ツクバ)」の家名を賜わり、侯爵を授けられ、從四位に敍される。
『法令全書』昭和三年七月 告示 「宮内省告示第十四號」
本日勲一等藤麿王殿下竝勲一等萩麿王殿下
ノ情願ヲ允サレ藤麿王殿下ニハ筑波ノ家名
ヲ賜ヒ萩麿王殿下ニハ鹿島ノ家名ヲ賜ヒ華
族ニ列セラル
 昭和三年七月二十日
        宮内大臣 一木喜コカ
昭和三年(一九二八)十月二十八日、毛利高範[佐伯]の五女 喜代子と結婚。
筑波家にて。媒酌は島津忠重・伊楚子。
『しらゆき ── 島津忠重 伊楚子 追想録 ──』(東京、島津出版会、昭和五十三年(一九七八)四月五〇六頁
昭和七年(一九三二)三月三十一日、東京帝國大學大學院を修了。
昭和八年(一九三三)八月一日、正四位に敍される。
昭和十年(一九三五)二月二十五日、貴族院議員となる。
昭和十四年(一九三九)八月十五日、從三位に敍される。
昭和二十一年(一九四六)一月二十五日、靖国神社宮司となる。
『高松宮日記』昭和二十年十二月十四日(金)
昭和二十一年(一九四六)三月二十四日、妻 喜代子が歿。
筑波藤麿
昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族(侯爵)・貴族院議員の身位を喪失する。
昭和二十二年(一九四七)十一月二十日、三好貞子(肥田和三郎の三女)と結婚。
昭和二十五年(一九五〇)一月、靖国神社の評議委員会により、あらためて靖国神社宮司に選任される。
昭和四十八年(一九七三)十月一日、妻 貞子が歿。
昭和五十三年(一九七八)三月二十日午前六時十分、横濱市磯子區弘明寺の田仲醫院において、心筋梗塞により死去。七十三歳。
昭和五十三年(一九七八)三月二十三日、葬儀。
昭和五十三年(一九七八)六月二十七日、埋葬祭、納骨。院號「嘯月院」。
 
【墓所】
 東京都多摩靈園筑波家墓所
 
【配偶】
 筑波喜代子 つくば きよこ
 毛利高範[佐伯]の五女。
 明治四十二年(一九〇九)四月三日生。
 昭和三年(一九二八)十月二十八日、筑波藤麿と結婚。
 昭和二十一年(一九四六)三月二十四日、死去。三十八歳。
『宣仁親王日記』昭和二十一年三月二十五日(月)
一一四五筑波樣ヘ(昨日一四三〇急に奧樣オナクナリノ由、今朝聞ク)。オ花ト「オスモジ【鮨】」モツテユク。燒出サレノ御手ゼマニテ一層大變。白ノオ召、夜具ツクツテオトドケス(二〇〇〇頃出來タノデ)。
 筑波貞子 つくば さだこ
 肥田和三郎の三女。
 明治四十年(一九〇七)八月二十七日生。
 もと三好禎介の妻。
 昭和二十二年(一九四七)十一月二十日、筑波藤麿と結婚。
 昭和四十八年(一九七三)十月一日、死去。
 
【子女】
 筑波常治 つくば ひさはる
 早稻田大学政治經濟学部教授(專門、自然科學史・科學技術史・農業史)
 昭和五年(一九三〇)生。
 昭和二十年(一九四五)四月、海軍經理學校に入校(第三十九期生)。
『宣仁親王日記』昭和二十年二月三日(土)
一八三〇筑波樣御夫婦【藤麿・喜代子】ト常治(今四月經理學校入校ノ筈)ヲ招キ食食【ママ】(町野【トキ。御用取扱】支那料理ツクル)。
『宣仁親王日記』昭和二十年十一月十二日(月)
筑波樣【藤麿】、經理學校ニ入ツタオ子樣【常治】モ上京ニテ一緒ニ。
 昭和二十三年(一九四八)、東京農業大學豫科に入學。
 昭和二十四年(一九四九)、東北大學農學部に入學。
 昭和二十八年(一九五三)、東北大學農學部農學科を卒業し、東北大學大學院農學研究科に入學。
 昭和三十一年(一九五六)、東北大學大學院農學研究科修士課程を修了(專攻、作物遺傳育種學)。
 昭和三十一年(一九五六)より法政大學に勤務。助手、專任講師、助教授を歴任(擔當、「生物學」「科學史」)。
 昭和四十三年(一九六八、法政大學を依願退職し、青山學院女子短期大學助教授となる(擔當、「自然科學概論」「科學文化史」)。
 昭和四十五年(一九七〇)、青山學院女子短期大學を依願退職。昭和五十六年(一九八一)まで科學評論家として文筆業。早稻田大學教育學部等において非常勤講師。
 昭和五十七年(一九八二)、早稲田大学政治經濟学部助教授となる。
 昭和六十二年(一九八七)、早稻田大学政治經濟学部教授に昇進。
 早稻田大學の所謂「名物教授」の一人であり、緑色が大好きであつたことでも大變に有名。即ち、服装の色調を緑色で統一し、眼鏡の縁も緑色。大學での連絡掲示も緑色地の用紙に緑色のペンで字が書かれてゐたといふ。なお、住所も東京都武藏野市緑町。早稻田大學の學生には、筑波教授の擔當する授業を全て履修することを「りゅーいーそー(緑一色)」と稱する隱語まであつた。
 著書 :
『日本農業技術史』(地人書館、一九五九年
『日本人の思想』(三一新書)(三一書房、一九六一年
『科学事始 ── 江戸時代の新知識』(筑摩書房、一九六三年
『明治天皇』(角川新書230)(角川書店、一九六七年九月
『米食・肉食の文明』(NHKブックス85)(日本放送出版協会、一九六九年三月
『五穀豊饒』(北隆館、一九七二年
『創造者たち』(小学館、一九七二年
『自然と文明の対決』(日本経済新聞社、一九七七年
『農業博物誌』全四巻(玉川大学出版部、一九七八〜一九八三年
『生命科学史』(放送大学教育振興会、一九八五年
『日本の農書』(中央公論社(中公新書)、一九八七年
  他
「筑波常治教授略年譜」(早稲田大学政治経済学部教養諸学研究会『教養諸學研究』第百十号「志賀謙教授・筑波常治教授 定年退職記念号」(二〇〇一年三月)、二二五〜二二七頁
 筑波登喜枝 のち松浦登喜枝 まつら ときえ
 松浦擇(まつら えらむ。松浦陞の三男)の妻。
 ※『平成新修 旧華族家系大成 下巻』 六五四頁
 筑波常遍
 もと筑波常秀 つくば ひさひで
 昭和十年(一九三五)生。
 勸修寺の繼嗣となり、高校三年生のとき東寺高校(のちの洛南高校)へ轉校。
 昭和二十九年(一九五四)、東寺高校を卒業。種智院大學に入學。
 昭和二十九年(一九五四)十月、鷲尾光遍[石山寺座主]を師に得度。
 昭和四十二年(一九六七)、勸修寺門跡を繼承。
 ※ 筑波常遍/横山健蔵『京の古寺からC 勧修寺』(京都、淡交社、一九九五年二月) 七四〜七五頁
 筑波常忠
 筑波和俊 つくば かずとし
 昭和二十四年(一九四九)生。
 宮内庁掌典
 筑波幸子 つくば さちこ
 筑波藤麿の養女。母は貞子。三好禎介の長女。
 山本光英の妻。
 ※『平成新修 旧華族家系大成 下巻』一〇〇頁には不見。
 
【逸事等】
明治四十三年(一九一〇)二月七日、明治天皇より、武彦王は將來海軍に、芳麿王は陸軍に奉職させ、藤麿王は伊勢神宮祭主に人無き時は之に任ぜられんとの叡旨あり。よって、軍人にならず、東京帝國大學文學部國史科に入學した。
『明治天皇紀』
勸修寺(祖父晃親王が門跡をつとめた)の門跡となる話もあったが、實現しなかった。
筑波常遍/横山健蔵『京の古寺からC 勧修寺』(京都、淡交社、一九九五年二月)、七四頁
昭和四年(一九二九)九月一日、自宅に筑波家研究部(昭和十八年(一九四三)四月十五日、筑波家國史研究部と改稱)を創立。國史關係の年鑑の編集を行なう。また、六國史索引の作成を始め、この事業は、戰後、吉川弘文館が繼承し、完成させた。
藤麿と同年生まれの宣仁親王[高松宮]は、戰災に遭った藤麿一家に配慮している。
『宣仁親王日記』御日記帳第十七冊、昭和二十一年一月四日(金)
午前、筑波樣御夫妻【藤麿・喜代子】イラツシヤル。ヤハリ着物等デ御不自由甚ダシキ御樣子。
『宣仁親王日記』御日記帳第十八冊、昭和二十一年一月四日(金)
午前、筑波樣御夫妻【藤麿・喜代子】年始ニテ成ラセラル。
『宣仁親王日記』昭和二十一年二月十四日(木)
一一三〇〜一五四五、筑波樣皆樣六方【藤麿・喜代子・常治・幸子・登喜枝・常秀】。鴨スキ燒デ食糧不足ヲ滿腹ナサイトテ御馳走。
 
工事中【靖國~社宮司としての筑波藤麿】
昭和四十五年(一九七〇)六月三十日の靖國~社總代會で、青木一男(元大東亞相)の強硬な主張によって極東軍事裁判A級戰犯を靖國~社に合祀する方針が決められた。ただし、合祀の時期は宮司に任せる、とされた。宮司の筑波藤麿は、A級戰犯を「戰爭責任者として合祀しないとなると~社の責任は重いぞ」という青木一男による脅迫まがいの主張に對して、「ご方針に従う。時期は慎重に考慮したい」と答え、實施を延ばし、結局、在任中は遂にA級戰犯合祀を行なわなかった。
徳川義寛『侍従長の遺言 昭和天皇との50年』(岩井克己 聞き書き・解説。朝日新聞社、一九九七年二月)、一八〇〜一八二頁
靖國~社宮司が筑波藤麿から松平永芳に代わって間もなく、昭和五十三年(一九七八)十一月、秘密裏にA級戰犯合祀が實施された。翌年四月、それが新聞に報道され、さらに、中曾根康弘總理大臣の靖國~社參拜により、批判が生じるに到った。A級戰犯合祀について、徳川義寛は、「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と語っている。
 なお、松平永芳は、宮内廳に、コ仁親王[浩宮]が「御成年におなりになつたのだから靖國~社に御參拜になるべきだ」と言ってきたり、コ仁親王[浩宮]のオックスフォード留學に反對するという「馬鹿なこと」を言ってきたりしている人物である。また、松平永芳は、新發現の『宣仁親王日記』を燒却すべきであると意見しており、歴史に對する認識に著しく缺けた人物でもあったことが窺われる。
「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(『朝日新聞』一九九五年八月十九日
『入江相政日記』昭和五十五年五月三十日
『入江相政日記』昭和五十八年三月十四日
高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』(中央公論社、一九九八年十一月) 四八頁
 
【文獻等】
『山階宮三代』下(山階會(和田軍一)編集。山階會、昭和五十七年(一九八二)二月) 七五〇〜七五五頁
平成新修 旧華族家系大成 下巻』 一〇〇頁
昭和新修 華族家系大成 下巻』 九四頁
 


 
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更新日時: 2012.02.23.
公開日時: 2008.09.03.


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