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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[萩麿]

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萩麿王 はぎまろ
 のち鹿島萩麿 かしま はぎまろ [伯爵]
 
【出自】
 
菊麿王[山階宮]の四男。
 
【母】
 常子 ひさこ
 菊麿王妃
 島津忠義の三女。
 
【經歴】
明治三十九年(一九〇六)四月二十一日午前六時十八分、東京市麹町區富士見町の山階宮邸にて出生。
『法令全書』明治三十九年四月 告示
○宮内省告示第七號
四月二十一日午前六時十八分菊麿王妃殿下分娩王男子誕生セラル
    明治三十九年四月二十三日            宮内大臣子爵田中光顯
『明治天皇紀』
萩麿王
明治三十九年(一九〇六)四月二十七日、「萩麿」と命名。御印は菊印。
『法令全書』明治三十九年四月 告示
○宮内省告示第八號
四月二十一日午前六時十八分誕生セラレタル菊麿王殿下ノ王男子名ヲ萩麿ハギマロト命セラル

    明治三十九年四月二十七日            宮内大臣子爵田中光顯
大正十一年(一九二二)三月三十一日、學習院中等科第三學年を修了し、退學。
大正十一年(一九二二)五月二十三/二十五日、江田島の海軍兵學校豫科に入學。
大正十二年(一九二三)四月七日、海軍兵學校本科に進む。
大正十五年(一九二六)三月二十七日、海軍兵學校を卒業。海軍少尉候補生となる。
大正十五年(一九二六)四月二十一日、貴族院議員に列される。
大正十五年(一九二六)五月八日、成年式。
大正十五年(一九二六)六月三十日から昭和二年(一九二七)一月十七日まで、「櫻伯爵」の假名で、練習艦「八雲」に乗組み、遠洋航海。
昭和二年(一九二七)十月一日、海軍少尉に任官し、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
鹿島萩麿 [伯爵]
昭和三年(一九二八)七月二十日、臣籍降下。「鹿島(カシマ)」の家名を賜わり、伯爵を授けられ、從四位に敍される。
『法令全書』昭和三年七月 告示 「宮内省告示第十四號」
本日勲一等藤麿王殿下竝勲一等萩麿王殿下
ノ情願ヲ允サレ藤麿王殿下ニハ筑波ノ家名
ヲ賜ヒ萩麿王殿下ニハ鹿島ノ家名ヲ賜ヒ華
族ニ列セラル
 昭和三年七月二十日
        宮内大臣 一木喜コカ
昭和四年(一九二九)十一月三十日、海軍中尉に昇進する。
昭和七年(一九三二)三月十五日、待命を仰せ付けられる。
昭和七年(一九三二)八月二十六日午前十一時五十分、鎌倉町稻瀬川において、穿孔性腹膜炎により死去。二十七歳。八月二十五日付を以て、正四位に敍され、海軍大尉に任じられる。
昭和七年(一九三二)八月二十八日、葬儀。院號「鹿園院」。
昭和七年(一九三二)八月二十九日、埋葬。
 
【墓所】
 東京市多摩墓地
 
【繼承者】
 鹿島晃久 かしま あきひさ
 島津忠重[鹿児島]の二男。
 大正三年(一九一四)生。
 鹿島萩麿沒後、繼承者を缺いた鹿島伯爵家に、昭和八年(一九三三)三月二十八日、後嗣として入籍する。
 昭和八年(一九三三)五月一日、伯爵を襲爵する。
『木戸幸一日記』昭和八年九月二十八日
 海軍技術大尉
 島津産業株式會社社長、島津興業副會長
「日本の名家『旧宮家はいま』4」山階家(『週刊読売』一九八八年六月五日)、一六〇頁
 
【逸事等】
學習院初等科では、西園寺公一と同級であった。
『西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」』(アイペックプレス、一九九一年五月) 二一〜二三頁
江田島の海軍兵學校では、上級の宣仁親王[高松宮]、同級の博信王(のち華頂博信)と交流した。
『宣仁親王日記』大正十二年九月三十日日曜
十一時頃、甲三號【兵學校甲三號官舍】ノ二方【博信王・萩麿王】イラツシヤル。油繪ヲナサルトカデ油ヲオ見セシタ。此方モ一更【向】シラナイノデアルガ。
宣仁親王[高松宮]は、海軍兵學校における萩麿王の友人のことを「ヨクナイ」「感心シナイ」と評したが、その後、良友の影響で「探偵小説を好讀」するようになっていた、という。
『宣仁親王日記』大正十二年十月七日日曜、予記欄
博信王ハドウモ神經衰弱ノキミダ。ヤハリオ友達デモツクツテ快活ニオシムケスルコトガ肝要ダ。私モ少シ手傳フカト思ツタガ、ヨク考ヘテ見ルトソレハ私ノ主義ニ戻【もと】ツタ行爲ノヤウダ。萩麿王モオ友達ガヨクナイ。土山トカ原田トカヨクナイ人デモナイガ感心シナイ。
『宣仁親王日記』大正十五年一月六日水曜
萩麿王樣、堀井【三千雄。海兵五四期生】とは親しくなさるゝ由結構なり。堀井は滿蒙に活躍したき望みあるらし。探偵小説など好むとはさもあらむ。萩麿王も仝じ探偵小説を好讀さるゝとは模倣の然らしむるためか。
萩麿王は、江田島の海軍兵學校豫科・本科一學年の時に上級生であった宣仁親王[高松宮]を深く敬慕した。『伯爵鹿島萩麿』によると、「博文館發行の當用日記に當時丹念に日々の御行事御感想等を記註して居られた。中には高松宮御敬慕の御記事も少くはなかつたが、御日誌類は後年伯爵御自身にて全部燒却處分された」。『宣仁親王日記』によると、萩麿王の日記には、宣仁親王に對する同性愛的感情が吐露されており、宣仁親王のために「身をどうする」とまで記されていた。それを讀んだ宣仁親王[高松宮]は「萩麿王の人に交はれるにセックスの上に原因がありはしないか」云々と感想を抱いている。
『伯爵鹿島萩麿』二九三〜二九四頁
『宣仁親王日記』大正十五年一月七日木曜
10時昨日の約束で萩麿王御日記をもちて來られ、讀めとておいてゆかる。(明治神宮にお詣りの途中)。
・・・・・
 萩麿王の人に交はられ友と交はれるにセックスの上に原因がありはしないか。そうだとそれに偏しすぎるのは面白からず思ふ。私についても誤解が大でないかとも考へられる。なぜならば、私の人格を禮讚して、私のために身をどうするとまで書いておありになるのは如何かと思ふ。私もお力にはならうが、それは same level に於ての事なり。その他略す。
『宣仁親王日記』大正十五年一月九日土曜
萩麿王のことについて堀井に手紙を出さうと思ふ。
『宣仁親王日記』大正十五年一月十二日火曜
「純な心持ち」と云ふものがあることに氣づいた、性慾の研究を始めようか。そしたら私の心もちも純なものになることが出來るかも知れない。そして清い(私の氣持ちが)友だちが出來るかもしれない。まだ、羞恥心はあるのだから。
・・・・・
「純な心持ち」からそこに戀愛に近い感情のおこることも有り得るわ[け]だ。これは萩麿王のお日記をみつめて苦しむだ産物としては大きなものだつた。ほつと息をつく。何にせ萩麿王には、私を對象とせぬ樣云つてやらう。理屈もなにも云ふことはいらぬ。堀井に手紙できくこともゐらなくなつたわけだ、けれど私の不純な氣持から出して見たい樣な氣もする。
『宣仁親王日記』大正十五年一月二十九日金曜
萩麿王樣にお日記を返へす。手紙そへず。
海軍軍事研究に從事し、「おれの趣味は海軍である、海軍の外に趣味はない」としばしば語り、海軍に關する書籍に高額を投じ、「おれの友達は書籍だ、書籍があれば一日中唯一人で居ても退屈しない」と話していた、という。
『伯爵鹿島萩麿』二七九〜二八一頁
薨去の前月にあたる昭和七年(一九三二)七月、『ジャットランド海戰史論集』を脱稿した。
 
【著作等】
鹿島萩麿『ジユットランド海戰史論』(伯爵鹿島家、昭和九年(一九三四)三月
『伯爵鹿島萩麿』二六四〜二六六頁
 
【文獻等】
『伯爵鹿島萩麿』(東京都澁谷區代々木本町、伯爵鹿島家、昭和十二年(一九三七)六月)
『山階宮三代 下』(山階會(和田軍一)編集。山階會、昭和五十七年(一九八二)二月) 七五六〜七五八頁
平成新修旧華族家系大成 上巻』四一一頁
昭和新修華族家系大成 上巻』三七六頁


 
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更新日時: 2011.09.04.
公開日時: 2008.09.02.

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