前頁 「 菊 [菊丸]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[菊麿]
 
フレームなし

工事中

菊麿王 きくまろ
 
 山階宮(二)
 もと梨本宮(二)
 
【出自】
 
晃親王[山階宮]の一男。
 守脩親王[梨本宮]の養子。
 
【生母】
 中條千枝子
 滋賀県栗田郡第七区下笠村(現草津市下笠町)の中條權左衞門の女子。
 大正十年(一九二一)三月十八日、死去。
 「C光院」
 
【經歴】
明治六年(一八七三)七月三日、京都府上京區第二十二組東櫻木町の儒醫並河尚ヘ宅にて出生。
宮内省への菊麿王出生の屆出は、明治七年(一八七四)四月四日のことであり、明治七年(一八七四)三月十六日誕生、とされた。
菊麿王
明治六年(一八七三)七月九日、「菊麿(キクマロ)」と命名。京都市上京區第十一區梨木町の山階宮家扶川上忠臣宅で養育される。
明治七年(一八七四)四月四日、菊麿王の出生が宮内省に屆出られる。このとき、明治七年(一八七四)三月十六日誕生、とされた。
菊麿王の出生日は、明治二十二年(一八八九)十二月二十六日に、實日明治六年(一八七三)七月三日誕生、に訂正された。
明治七年(一八七四)四月二十二日、守脩親王[梨本宮]の養子となる。二歳。
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「山階宮」一〇〇頁に「同七年四月二十三日爲梨本宮守脩親王養子」とある。
明治八年(一八七五)三月十六日、梨本宮邸に移る。
明治十四年(一八八一)九月一日、養父梨本宮守脩親王が薨逝。
明治十四年(一八八一)十月二十日、特旨を以て諸王に列される。
『皇親録』明治十四年「梨本宮繼嗣菊麿王御所置之儀ニ付伺」(『皇族制度史料 皇族四』二二一〜二二二頁所引
二品守脩親王今般薨去候處、同宮御儀ハ二代目ヨリ賜姓華族ニ被列候旨、明治三年御沙汰之趣モ有之候ニ付テハ、同宮繼嗣菊麿王ハ如何御處置相成候哉。此段相伺候也。
  明治十四年九月日  (【傍注】宮内卿代理)宮内少輔
   太政大臣
    ────────────
          宮内省
菊麿王ヘ別紙ノ通御沙汰相成候條、此旨相達候事。
  明治十四年十月二十日
          太政大臣三條實美(印寫)
    ────────────
              菊麿王
特旨ヲ以テ諸王ニ被列、爲賄料一个年金壹萬貳千圓下賜候事。
  明治十四年十月二十日
           太政官
明治三年(一八七〇)十二月十日の規定(『太政官日誌』明治三年第七十號(追録)/十二月十日)では、四親王家以外の新立の親王家は二代目より賜姓され華族に列されることとなっていた。守脩親王は一代皇族であったため、菊麿王も華族となるべきところであったが、朝彦親王[久邇宮]等の請願によって、特旨により菊麿王は諸王に列された。
明治十四年(一八八一)十一月十四日、東京移住を命じられ、麻布市兵衛町の舊靜寛院宮(親子内親王)邸を賜わる。
菊麿王[梨本宮]
明治十四年(一八八一)十一月二十二日、宮號は舊により梨本宮と賜わる。九歳。
『皇親録』明治十四年「梨本菊麿王宮號之儀伺」(『皇族制度史料 皇族四』二二二頁所引
  明治十四年十一月四日    宮内卿コ大寺實則(印寫)
   太政大臣三條實美殿
伺ノ趣、從來ノ通リ宮ト稱スヘキ事。
  明治十四年十一月二十二日(印寫)
明治十五年(一八八二)六月五日、東京へ出發。六月二十一日、東京の梨本宮邸に到着。
明治十八年(一八八五)三月二十日、博恭王[華頂宮]と共に、海軍兵學校へ通學するよう、明治天皇より仰せ付けられる。
菊麿王[山階宮繼嗣]
明治十八年(一八八五)十二月二日、勅旨を以て、梨本宮から實系に復せられ、晃親王[山階宮]の繼嗣となる。十三歳。
明治十九年(一八八六)一月十日、麹町區富士見町に移轉。
明治二十二年(一八八九)九月十七日、博恭王[華頂宮]と共にドイツ國海軍兵學校へ留學するよう、明治天皇の口達があり、江田島の海軍兵學校を退校。
明治二十二年(一八八九)十一月十六日、ドイツ留學のため神戸より出港。十二月二十四日、ベルリンに到着。
明治二十二年(一八八九)十二月二十六日、これまで明治七年(一八七四)三月十六日誕生とされていたのが、實日明治六年(一八七三)七月三日誕生に訂正される。
明治二十三年(一八九〇)四月九日、キールのドイツ國海軍兵學校に入學。
明治二十五年(一八九二)三月三十一日、ドイツ國海軍兵學校を卒業。
明治二十五年(一八九二)四月十八日、海軍少尉候補生となる。
明治二十六年(一八九三)四月二十七日、海軍少尉に任じられる。
明治二十六年(一八九三)十月一日、ドイツ國海軍大學校に入學。
明治二十六年(一八九三)十一月三日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
明治二十七年(一八九四)九月、ドイツ國海軍大學校を卒業、十一月十六日、歸國。
明治二十八年(一八九五)二月七日、日清戰爭の威海衛の戰いに参加。
明治二十八年(一八九五)五月五日、佐世保に凱旋。
明治二十八年(一八九五)九月十四日、九條範子と結婚。
明治二十八年(一八九五)十一月二十日、功五級金鵄勲章を賜わる。
明治二十九年(一八九六)十一月二日、海軍大尉に任じられる。
菊麿王[山階宮]
明治三十一年(一八九八)二月十七日、父晃親王が薨逝。
明治三十五年(一九〇二)十月六日、海軍少佐に任じられる。
明治三十五年(一九〇二)十一月二十六日、島津常子と結婚。
明治三十六年(一九〇三)十一月三日、大勲位に敍される。
明治三十七年(一九〇四)二月九日・二十五日、日露戰爭の旅順口海戰に参加。
明治三十八年(一九〇五)一月十二日、海軍中佐に任じられる。
明治三十九年(一九〇六)四月一日、功四級金鵄勲章を賜わる。
明治四十一年(一九〇八)四月二十八日午前九時死亡(急性肺炎)。三十六歳。
明治四十一年(一九〇八)五月一日、海軍大佐に任じられる。
明治四十一年(一九〇八)五月二日「薨逝」(發喪)。「海軍大佐大勲位功四級菊麿王」
『法令全書』明治四十一年五月 告示
○宮内省告示第七號
海軍大佐大勲位功四級菊麿王殿下今二日午前九時薨去セラル

    明治四十一年五月二日             宮内大臣 伯爵田中光顯
菊麿王の發喪が遲れたのは、四月三十日に恒久王[竹田宮]と昌子内親王との婚儀が行なわれる予定があり、菊麿王薨去の公表により慶事が延期になることを避けるため、宮内大臣田中光顯は菊麿王薨去を秘匿し、五月二日午後三時にいたり、本日午前九時心臟痲痺のため薨去せられたと公表した。
明治四十一年(一九〇八)五月七日葬送。「寶光院」
 
【墓所】
 東京都文京區大塚の豐島岡皇族墓地
 
【配偶】
 範子 のりこ
 菊麿王妃
 九條道孝の二女。
 明治十一年(一八七八)十二月四日生。
 明治二十八年(一八九五)九月十四日、結婚。
 明治二十八年(一八九五)十二月十日、勲二等寶冠章を敍授される。
 明治三十一年(一八九八)二月十三日、武彦王を出産。
 明治三十三年(一九〇〇)七月五日、芳麿王を出産。
 明治三十四年(一九〇一)十月三十一日、安子女王を出産。
 明治三十四年(一九〇一)十一月九日、勲一等寶冠章を敍授される。
 明治三十四年(一九〇一)十一月十一日薨(産褥熱)。二十四歳。
 明治三十四年(一九〇一)十一月十七日、豐島岡皇族墓地に葬送。
『徳大寺實則日記』明治參十四年十一月十六日
山階菊麿王妃範子殿下去九日薨去。明十七日後一時出棺、豐島岡葬送也。・・・・・
『徳大寺實則日記』明治參十四年十一月十七日
山階菊丸王妃範子殿下本日葬式施行。予【徳大寺實則】豐島岡ヘ出向。・・・・・
『山階宮三代』下、二八九〜三五三頁
 
 常子 ひさこ
 菊麿王妃
 島津忠義[鹿兒島]の三女。
 明治七年(一八七四)二月七日生。
 明治三十五年(一九〇二)十一月二十六日、結婚。勲二等寶冠章を敍授される。
 明治三十八年(一九〇五)二月二十五日、藤麿王を出産。
 明治三十九年(一九〇六)四月二十一日、萩麿王を出産。
 明治四十一年(一九〇八)四月二十九日、茂麿王を出産。
 大正二年(一九一三)十月三十一日、勲一等寶冠章を敍授される。
 昭和七年(一九三二)十二月二十五日、高輪假寓所へ移轉。
 昭和十三年(一九三八)二月二十六日薨。六十五歳。
『官報 號外』昭和十三年二月二十六日 宮内省告示第六號
 昭和十三年(一九三八)三月三日葬儀。
『官報』昭和十三年三月一日 宮内省告示第九號
『山階宮三代』下、三五五〜四九〇頁
 
【子女】
武彦王
山階宮(三)
のち山階武彦
芳麿王
のち山階芳麿
安子女王
のち淺野安子
藤麿王
のち筑波藤麿
萩麿王
のち鹿島萩麿
茂麿王
のち葛城茂麿
 
【逸事等】
海軍にあって水雷術・氣象學を專門とし、「科學王」とも稱されたほど、科學研究に造詣が深かった。
明治三十四年(一九〇一)、自費で筑波山頂に日本初の高層氣象觀測所を建てた(山階宮筑波山觀測所。明治三十五年(一九〇二)一月一日開業)。
木村繁『筑波山』(水戸、朝日新聞社水戸支局、一九五九年三月初版、一九五九年四月再版。初出、『朝日新聞』茨城版、昭和三十三年連載)、301〜304頁
     山頂に気象観測所
気象台のすすめ 明治も後半に入ると、西洋文明の吸収が進んで、自然科学が盛んになった。筑波山にも明治三十五年に気象観測所が作られ、信仰の山が「科学の山」へ脱皮することになった。
 観測所を創立したのは山階宮菊麿(やましなのみや・きくまろ)という皇族だ。彼はドイツの海軍兵学校、海軍大学で勉強したが、海上生活と気象との関係に強い興味を持ち、ドイツの軍艦で実習する時も自記晴雨計を艦内に持ち込んで、艦長を感心させるほどだった。帰国後も気象の研究を続けたが、東京の自宅で観測するだけでは満足できず、どこかに私立の観測所を建てて日本の気象研究に貢献したいと考えるようになった。そこで、明治三十四年三月、東京気象台に場所の選定を頼んだ。気象台では「静岡県清水港で海洋【302頁】気象を観測するか、筑波山の頂上で高層気象を観測するか、そのどちらでも貴重な気象学的資料が得られるはずだ」と返事した。
 特に筑波山については「天気予報を改良するには高層気象の観測が必要だが、山上に観測所を作ることは、官庁も民間も容易に実行できないことである。これが実現すれば、学術上の資料を得られるだけでなく、公衆一般にも利益を与えることになり、また、わが国の学術熱心を海外に発揚することにもなる」と注をつけた。
所長に佐藤順一を 山階宮は筑波山に決め、その年の三月と五月に登山して建設場所を調査した。六月には、気象台の推薦で大分測候所主任技手、佐藤順一を招いて初代の観測所長に任命し、中野海軍技師、黒板工学士をまじえて建物と観測鉄塔の設計を始めた。日本の観測では、風速の最大記録は毎秒五十㍍程度だったが、外国の記録なども調べて、建物や鉄塔は風速百二十㍍に耐え得るように設計した。
 工事は八月に始められ、十二月に完成したが、建物は五㍍四方ぐらいの小さな平屋にすぎなかった。しかし、建物全体をトタン板でおおって、落雷の時に電気がすぐ地中に入るようにしたり、山のハンレイ岩に穴をあけて柱をはめ込んだりなど、安全性には十分な注意が払われていた。鉄塔の方は高さ約十㍍で、その上に風向計、風速計、寒暖計、気圧計などが取りつけてあった。これは山頂の観測所だが、同時に中腹にも観測所が置かれ、明治三十八年には、ふもとの八幡丘にも観測所が建てられて、海抜三十㍍、二百四十㍍、八百七十㍍の三ヵ所で総合的な気象研究が出来ることになった。
風速72メートル 明治三十五年一月一日、山頂の「山階宮筑波山観測所」に関係者数人が集まって、ささやかな開所祝いをあげ、その日から、わが国で初めての山岳気象観測を始めた。
 そして、その年の九月二十八日、早くも驚くべき観測記録を打ちたてて、気象学界に筑波山観測所の名をとどろかした。その日は朝早くから雨風が激しく、台風の接近が予想されたので、佐藤所長は筒井百平所員をつれて午前八時ごろ中腹の観測所を出て山頂に向かった。登るにつれて雨風は一段と激しくなり、目の前で木がバリバ【303頁】リ、ドシーンと何本も倒れた。それを見すまして倒木を乗り越え、乗り越え登頂を急ぎ、佐藤所長は九時すぎに山頂に着いた。さいわい観測所は無事だったが、風速計は猛烈な勢いで回転しており、風向計などは、いまにもちぎれそうだった。佐藤所長は「家ごと吹き飛ばされはしないか」と心配しながらも、当直の所員を指揮して観測を続けた。ところが、午前十時すぎ、あまりの強風に耐えかねて風速計がこわれてしまった。強風の中で鉄塔によじのぼり、風速計を取り替える時は、全く生きた心地はしなかtったという。あとで、こわれた風速計の記録紙をとって、こわれる前十分間の風速を平均したところ、なんと毎秒七十二・一㍍もあった。この数字が気象学者たちをアッといわせたのだ。明治三十三年八月十五日鹿児島測候所が観測した四十九・六㍍の最大風速記録を二十二・五㍍も引き離して、新記録を作ったのである。みんなが驚いたのも無理はない。この数字は、その後四十年間も日本の最高記録として輝いていたが、昭和十七年四月五日富士山頂で七十二・五㍍が観測されたので、残念ながら二位に落ちてしまった。
 ・・・・・
【304頁】
     珍しい山の気象
政府に寄付 その後、明治四十年五月二日、山階宮菊麿が病死し、遺族は筑波山観測所の経営に困難を感じたので、施設のすべてを政府に寄付することにした。そのため、明治四十二年四月から観測所は「中央気象台付属筑波山測候所」と名前を変え、全国気象網の一環として観測を続けることになった。
 
【備考】
『徳大寺實則日記』明治參十四年十一月十七日條に「山階菊丸王」と見える。
 
【文獻等】
『山階宮三代 下』(山階會(和田軍一)編集。山階會、昭和五十七年(一九八二)二月) 一〜二八八頁
『皇族制度史料 皇族四』 二二一〜二二二頁
『系圖綜覽』所收『皇室系譜』「山階宮」一〇〇頁
平成新修旧華族家系大成 上巻』四九頁
昭和新修華族家系大成 上巻』四三頁


 
次頁 「 吉 [吉]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 き 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


更新日時: 2008.12.20.
公開日時: 2008.08.28.


Copyright: Ahmadjan 2008.8 - All rights reserved.