北白川宮永久王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[永久]

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永久王 ながひさ
 北白川宮(五)
 
【出自】
 
成久王[北白川宮(四)]の一男。
 
【母】
 房子内親王 ふさこ
 成久王妃
 明治天皇の七女。
 のち北白川房子
 
【經歴】
明治四十三年(一九一〇)二月十九日、誕生。
『法令全書』明治四十三年二月 告示
○宮内省告示第二號
二月十九日午後十時成久王妃殿下分娩王男子誕生セラル
    明治四十二年二月二十一日           宮内大臣 公爵岩倉具定
明治四十三年(一九一〇)二月二十六日、命名。
『法令全書』明治四十三年二月 告示
○宮内省告示第三號
二月十九日午後十時誕生セラレタル成久王殿下ノ王男子名ヲ永久ナガヒサト命セラル
    明治四十二年二月二十六日           宮内大臣 公爵岩倉具定
大正六年(一九一七)四月九日、學習院初等科に入學。
大正十二年(一九二三)三月三十一日、學習院初等科を卒業。
大正十二年(一九二三)四月一日に於ける父 成久王の事故死により、北白川宮を繼承。十四歳。
大正十二年(一九二三)四月十二日、學習院中等科に入學。
大正十三年(一九二四)四月、學習院中等科を退校(四月四日付)。
大正十三年(一九二四)四月三日、陸軍幼年學校に入學。
昭和二年(一九二七)三月九日、陸軍幼年學校を卒業。
昭和二年(一九二七)四月一日、陸軍士官學校豫科に入學。
昭和四年(一九二九)三月十六日、陸軍士官學校豫科を卒業、士官候補生を命じられる。
昭和四年(一九二九)三月二十二日、近衞野砲兵聯隊に入隊。
昭和四年(一九二九)六月一日、陸軍砲兵伍長の階級に進む。
昭和四年(一九二九)八月一日、陸軍砲兵軍曹の階級に進む。
昭和四年(一九二九)十月一日、陸軍士官學校本科に入學(第四十三期)。
昭和五年(一九三〇)二月十八日、成年に達す。
昭和五年(一九三〇)二月十九日、成年式。
昭和三年(一九二八)十一月十日付で、昭和三年勅令第百八十八號の旨により大禮記念章を授與される。
昭和六年(一九三一)七月二十二日、陸軍士官學校本科を卒業。
昭和六年(一九三一)十月二十六日、陸軍砲兵少尉に任じられ、近衞野砲兵聯隊附に補され、勲一等に敍され、桐花大綬章を授けられる。
『官報』第一四四九號 昭和六年十月二十七日 敍任及辭令「昭和六年十月二十六日」
              永久王
敍勲一等授旭日桐花大綬章
            陸軍砲兵少尉永久王
    補近衞野砲兵聯隊附
昭和六年(一九三一)十二月二十四日に、昭和五年十二月五日付で帝都復興記念章を授與される。
『官報』第一四九九號 昭和六年十二月二十八日 敍任及辭令「昭和六年十二月二十四日」
昭和七年(一九三二)十二月五日、陸軍砲工學校普通科に學生として入校。
昭和八年(一九三三)十一月二十五日、陸軍砲工學校普通科を卒業、更に一年間、高等科學生として修學。
昭和九年(一九三四)三月五日、陸軍砲兵中尉に任じられる。
昭和九年(一九三四)十一月二十六日、陸軍砲工學校高等科を卒業。
昭和十年(一九三五)三月二十六日、從三位勲四等男爵コ川義恕の二女 祥子との結婚が勅許される。
『木戸幸一日記』昭和九年六月十九日(火)
北白川宮永久王・徳川義恕男二女祥子の御結婚の御内意伺は、午前九時四十五分勅許あり、十一時半非公式に發表す。
 午後三時半、北白川宮邸に伺候、石川別當に面談、祝詞を述ぶ。
昭和十年(一九三五)四月二十六日、コ川祥子と結婚。
『官報』第二四九三號 昭和十年四月二十七日 告示
◎宮内省告示第十號
永久王殿下本日從三位勲四等男爵コ川義恕
二女祥子ト結婚セラル
 昭和十年四月二十六日
        宮内大臣 湯淺 倉平
『木戸幸一日記』昭和十年四月二十六日
昭和十一年(一九三六)二月一日、陸軍野戰砲兵學校乙種學生を仰せ付けられる。
昭和十一年(一九三六)六月二十五日、陸軍野戰砲兵學校乙種學生を免じられる。
昭和十二年(一九三七)三月一日、陸軍砲兵大尉に任じられ、近衞野砲兵聯隊中隊長に補される。
『官報』第三〇四六號 昭和十二年三月二日 敍任及辭令「昭和十二年三月一日」
     陸軍砲兵中尉勲一等 永久王
任陸軍砲兵大尉
・・・・・
       近衞野砲兵聯隊/附陸軍砲兵大尉永久王
補近衞野砲兵聯隊中隊長
昭和十二年(一九三七)十一月十三日、陸軍大學校に入校。
昭和十二年(一九三七)十二月一日、近衞野砲兵聯隊附に補される。
昭和十四年(一九三九)十一月二十七日、陸軍大學校を卒業(第五十二期)。
昭和十五年(一九四〇)三月九日、駐蒙軍司令部附を仰せ付けられ、駐蒙軍參謀として勤務。
昭和十五年(一九四〇)九月四日、蒙疆の張家口に於いて、午前十時二十分頃、防空監視哨ヘ育を視察中、對地低空射撃演習中の飛行機に接觸して事故死。同日付で、陸軍砲兵少佐に任じられ、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
『宣仁親王日記』昭和十五年九月五日〜十二日[以下](『高松宮日記』三ノ九三〜一〇五頁[以下])
『官報』號外 昭和十五年九月五日 宮廷録事
◎永久王殿下薨去御經過 陸軍砲兵少佐大
勲位永久王殿下ニハ豫テ御出征遊ハサレ軍
參謀トシテ御勤務中ナリシ處昨九月四日作
戰任務御遂行中蒙疆某地ニ於テ飛行機事故
ニ因リ戰死遊ハサル
『官報』號外 昭和十五年九月五日 敍任「昭和十五年九月四日」
    陸軍砲兵大尉勲一等 永 久 王
任陸軍砲兵少佐
          勲一等 永 久 王
敍大勲位授菊花大綬章
昭和十五年(一九四〇)九月五日午後一時に、九月四日午後七時十二分薨去と發表。
『入江相政日記』昭和十五年九月五日(木)
侍醫頭の所へ行き大夫の車に乘せてもらふ。車中大夫から永久王薨去の事を聞く。惜しい宮樣を失つた。いたましき限りである。・・・・・ 永久王薨去の旨は午后一時發表、・・・・・
『官報』號外 昭和十五年九月五日 告示
◎宮内省告示第十八號
陸軍砲兵少佐大勲位永久王殿下昨四日午後
七時十二分薨去セラル
 昭和十五年九月五日
        宮内大臣 松平 恒雄
◎宮内省告示第十九號
陸軍砲兵少佐大勲位永久王殿下薨去ニ依リ
宮中喪ニ付宮中ニ參内スル者ハ左ノ通喪服
著用スヘシ
 昭和十五年九月五日
        宮内大臣 松平 恒雄
 皇室喪服規程男子喪服制式及女子喪服制
 式第一號第二號第三號各第三期ニ依ル
昭和十五年(一九四〇)九月六日、遺體が立川まで航空機で運ばれ、立川から北白川宮邸に到着。
『入江相政日記』昭和十五年九月六日(金)
・・・・・ 永久王の御遺骸は今夕立川へ御着といふことは決つたが午后一時、四時、五時、六時等と色々に予想され、さつぱり見當が着かない。・・・・・ 五時四十五分御安着。
『官報』第四一〇五號 昭和十五年九月十日 宮廷録事
◎永久王殿下御遺骸御歸還 永久王殿下御
遺骸ハ本月六日東京市芝區高輪南町北白川
宮邸ニ御歸還アラセラレタリ
昭和十五年(一九四〇)九月四日付で、支那事變における功により、功四級に敍され、金鵄勲章を授けられ、年金五百圓を賜わる。
『官報』第四一〇五號 昭和十五年九月十日 敍位及辭令「昭和十五年九月四日」
           大勲位永久王
敍功四級授金鵄勲章
 ・・・・・
支那事變ニ於ケル功ニ依リ功四級授金鵄勲章
竝ニ年金五百圓ヲ授ケ賜フ(支那事變從軍/記章ヲ併セ賜フ
九月/四日賞勲局)
昭和十五年(一九四〇)九月十八日、葬儀。
『官報』第四一〇八號 昭和十五年九月十三日
◎宮内省告示第二十號
故永久王ノ喪儀ヲ行ハセラルル期日場所及
墓所左ノ通定メラル
  期日  昭和十五年九月十八日
  場所  豐島岡墓地
  墓所  豐島岡墓地
 昭和十五年九月十三日
        宮内大臣 松平 恒雄
『官報』第四一〇九號 昭和十五年九月十四日 宮廷録事
◎故永久王御喪儀 故永久王御喪儀ハ本月
十八日午前八時十五分芝區高輪南町十七番
地北白川宮邸御發引豐島岡墓地ニ於テ執行
『官報』第四一一四號 昭和十五年九月二十日 宮廷録事
◎御斂葬濟 故永久王御斂葬一昨十八日午
後四時四十五分滯リナク濟マセラレタリ
昭和十五年(一九四〇)八月十五日付で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
昭和十六年(一九四一)十月六日、張家口に鎭座した蒙疆神社の祭~として奉祀される。
昭和三十四年(一九五九)十月四日、靖國~社に、臺灣~宮と臺南~社の祭~たる能久親王と、蒙疆~社の祭~たる永久王が合祀され、靖國~社の二~座の一座となる。
 
【配偶】
 祥子 さちこ
 もとコ川祥子
 のち北白川祥子
 徳川義恕の二女。
 勲一等寶冠章
 大正五年(一九一六)八月二十六日、誕生。
 昭和九年(一九三四)、東京女子高等師範學校附属高女を卒業。
 昭和十年(一九三五)四月二十六日、結婚。勲二等に敍され、寶冠章を授けられる。
 昭和十五年(一九四〇)八月十五日付で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
 昭和二十年(一九四五)五月十日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
 ◎『官報』第五五〇九號 昭和二十年五月二十八日 敍任及辭令「昭和二十年五月十日」
 昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十四条第一項の規定により皇族の身位を離れる。
 ◎『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示「◎宮内府告示第十七号」
 昭和四十四年(一九六九)五月、宮内廳女官長となる。
 平成元年(一九八九)一月、皇太后宮女官長に轉ず。
 皇太后(香淳皇后)崩御後も、皇太后宮女官長を平成十三年(二〇〇一)六月まで務める。
 平成二十七年(二〇一五)一月二十一日、急性肺炎で死去。九十八歳。
 
【子女】
 □
道久王  のち北白川道久
 ○ 肇子女王 のち北白川肇子、島津肇子
 
【逸事等】
伯爵酒井忠克の三女、香枝子との間に婚約が整ったとの情報が流れた。
『木戸幸一日記』昭和八年十二月二十七日
木戸幸一から、「殿下の御將來には最も希望を有する」と、將來を嘱望されていた。
『木戸幸一日記』昭和十年四月二十三日(火)
午後五時、北白川宮邸に至り、妃殿下【房子内親王】並に永久王殿下に拜謁、殿下御結婚に當り皇族としての御心得、御態度等につき、進言す。予て、妃殿下よりの御依頼ありしによりしなり。余も亦、殿下の御將來には最も希望を有するを以て、心肝を披瀝して言上す。
宣仁親王[高松宮]は、永久王について「若い皇族の中で一番シツカリしてゐらつしやると、自他ともに許してゐた方であつた」と評している。また、宣仁親王は、昭和十八年(一九四三)において、時局困難に際し、皇族中にョむに足るものが少なく、永久王が既に亡きことを嘆じている。
『宣仁親王日記』昭和十五年九月五日(『高松宮日記』三ノ九四頁)
『宣仁親王日記』昭和十八年七月三十一日(土)の次、日記帳第十四册の卷末(『高松宮日記』六ノ五〇九〜五一一頁)
秩父宮【雍仁親王】ニシテ些カニテモ活動シ得ラルヽトセバ、三年ノ命ヲ一年ニツメテモ國家ノ危急ニ應ゼラルベキハ明カナルモ、未ダ之ヲタノムベク體力ノ快復シ給ハザルヲ惜ム。三笠宮【崇仁親王】ハ餘リニ幼稚【編者注「若年の意」】ナリ。數年後ヲ委スルニ足ルベキモ、今直ニモノノ役ニ立ツトハ思ヘズ。軍人タラントシテ已ニ命ヲ保ツニ專念シテ今日アリ。政治家タラントシテ未ダ機運ノ熟セザルモノアリ。モトヨリ政治に關與スルニハ東久邇宮【稔彦王】ヲ先ヅオサントスルモ、他ノ皇族ニシテョムニ足ルモノナキ觀アリ。竹田宮【恒コ王】ハ一臂ノ力トナルベシ。北白川宮【永久王】ハ已ニナシ。
近衞野砲兵聯隊の中隊長であった時、連隊長の町尻量基に高く評價された。
梅田次郎「永久王と町尻様」(『町尻量基追悼録』(町尻量基追悼録編纂会編纂。東京都文京区音羽町、講談社内 町尻量基追悼録編纂会、昭和三十三年(一九五八)十二月)三一〜三三頁)三三頁
 町尻様【町尻量基】が近衛野砲連隊長になられました時、永久王殿下は同連隊の中隊長であらせられましたので、母宮殿下【房子内親王】もご満足であらせられたように拝察致しました。町尻様は自然軍事にも亦軍事以外のことにも、何かとご指導申上げられました。
 或る秋のことでした。大分県の日出台ひじゆうだいで、砲兵特別演習が行われました。永久王はこの演習のご見学のためにご参加遊ばされました。町尻様も亦侍従武官としてお出かけになったのでございます。由布院のご宿舎は両方ともあまり離れていませんでしたので、町尻様は殿下のご宿舎をご訪問になりました。お話は兵学などのお話が主であった事は勿論でありました。お話もすんで下って来られて、しばらく私とお話の時「殿下は実にご立派な将校になられましたね、また、皇族としてもご立派な宮様におなりで、将来砲兵の中心としてお立ちになられるのに申し分ないご視覚をお具え遊ばされましたね」と、つくづくお頼もしそうにおっしゃったので、その時のご様子が今でも眼底に残っています。
 永久王が蒙疆でご戦死遊ばされました時、宮家にご弔問に参られて、只無言のまま両頬に涙が流れ落ちていましたので貰い泣きしました。
 その後私は、永久王をご祭神とする蒙疆神社がご戦死の地に建立され、私はそこに奉仕することに致しましたので、町尻様とは再び拝接の機会はなく、永遠にお別れとなったのでございます。
有馬ョ義は、人間としても永久王を尊敬していた、という。
有馬頼義「二人の女官長」(有馬頼義『原点』(毎日新聞社、昭和四十五年(一九七〇)四月)所收)、一〇四〜一〇六頁
 ・・・・・ 成久王の子が永久王であった。この人が、僕の従兄弟にあたる。
 当時、皇族はすべて軍人になることになっていたので、永久王は砲兵になった。ところが、昭和十五年九月四日、張家口の飛行場で、着陸する飛行機の翼にふれて、即死した。僕はそのとき、北満の孫呉にいた。初年兵であった。ある夜、不寝番が僕を起こしにきて、参謀肩章をつった中佐が、僕に面会にきたという。僕は驚き、あわて、二装の軍服にスリッパをはいて、人気のない中隊の将校室へ行った。
 参謀は、永久王のお付武官で、初年兵である僕に対して同等の口をきいて、いや、むしろ、彼の方が下級者のような口調で、永久王の死を告げた。そして、休暇をとって内地へお帰りになりますか、ときいた。
 永久王には、子供のころ随分とかわいがられていたし、人間としても、僕は永久王を尊敬していたので、その死を告げられたとき、いっとき呆然ぼうぜんとしていたようである。しかし、休暇の話が出たとき、突然僕の心の中に別の考えが浮かんだ。
 兵隊は、肉親の死亡のとき、一時帰休する権利を持っていた。日本を離れて半歳少し経っていたから、望郷の念の一番強い時期である。しかし、僕は、同じようなケースで内地へ戻り、一週間くらい後に帰隊した仲間を何人か知っていた。たとえば、親が死んだ、というような場合に、中隊長や、人事掛准尉や、内務班長や、初年兵掛上等兵は、口をそろえて、帰れ、とすすめるのであった。戦友は内地の家族への手紙を託したり、何かを買ってきてくれと言う。状況は、全く同情的なものであった。しかし、休暇がきれて帰隊すると、これが一変する。つまり、やっかみなのであった。上級者は、貴様は内地へ行ってきた、いい思いをしてきたのだ、もう一度精神を鍛え直してやる、ということで、一週間くらいは、意味もなくなぐられる。僕は、それがいやだった。永久王の葬儀に参列したいとは言っても、僕は当時、父から勘当されていたので、自分の家へ帰りたい、とは思わなかった。それで中佐に
「自分は今、前線の警備の任についているゆえ、内地へ帰る気はない」
 と答えた。
 中佐は再三、僕の休暇をすすめたが、僕は頑固がんこに応じなかった。死んでしまった人は、死んでしまった人だ、という気持もあった。多分、僕自身の父母が死んでも、僕はそうするだろう、と思ったのである。
 ところが、僕の頑固な固辞が、中佐には反対の意味にとられた。つまり僕は中佐に、兵士として戦線を離れない、責任感の強い人間に見られたのである。全くびっくりした。隊内での僕の株が上がったのだ、全く、人生ははかり知れない。その年の暮れ、僕は思いがけず上等兵になった。僕は兵隊として少しも優秀ではなかったし、上級者にゴマをすったこともない。ほかにいっぱい上等兵候補者はいたのだ。だから、僕が初年兵の暮れに上等兵になったのは、あのお付武官の中佐から、連隊長か副官を通じて、中隊の人事掛准尉へ一声あったとしか解釈しようがない。
 僕はさいわい、昭和十八年に満期除隊になって内地へ戻った。まっさきに永久王の墓に詣でたのは、いうまでもない。墓前で掌を合わせて、僕は心の中で「ごめんなさい、ながさま」と言った。それで気がすんだ。
 
【文獻等】
中島武改訂版 北白川宮永久王殿下』(東京市神田區小川町、清水書房。昭和十七年(一九四二)九月初版、昭和十七年十一月改訂版
甲斐克彦『人物陸大物語 「天保銭組」から見た昭和史』(東京都千代田区九段北、光人社、昭和六十三年(一九八八)四月) 二三三〜二四四頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三六頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 三〇頁
「日本の名家『旧宮家はいま』3」北白川家(『週刊読売』一九八八年五月二十九日) 一三九〜一四〇頁、一四一〜一四二頁


 
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公開日時: 2015.01.26.

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