前頁 「 胤 [胤世]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[宇津峰]
 
フレームなし

工事中

宇津峰宮」「宇津峯宮
 
【出自】
 未詳。
 
【經歴】
工事中 興國三年(一三四二)五月、吉野より下向し、常陸國の關城に入城。
久米邦武『訂正増補 大日本時代史 南北朝時代史』(早稲田大學出版部、大正五年(一九一六)二月)五六一頁に、
高師冬の軍大に疲困し、關大寶兩城も亦糧盡きたり、伊達行朝伊佐の糧を分つて關城に餉り、支へて月を越ゆるを得たり、田村宗季金千疋を大寶城に餽るも達せず、春日顯時僧をョみて調辨せしむ。小田親郷(初名朝氏)素より兩端を持す、結城親朝勸めて事を倶にせんとす、故を以て因循不斷にて月日を送れり、大塔若宮親郷の言を信じ、出でて其城に赴き、親郷これを奉じながら遂に事を擧げず、北畠准后密に吉野に奏して別に親王の下向を請ふ、五月一日、某親王(後に宇都宮【宇都峯宮歟】といふ)關城に入る、准后これを秘し、明日使を白河に遣はし密に親朝に告げて、前親王は危殆なれども其方さへ決行せられなば無事なるを得ん、當城には新親王を迎へたれば、軈て四方より之を仰ぐべしと。親朝の使者は行違ひ十餘日を經て關城に達し、諸族申合せて來援せんとする由を報ず、・・・・・
とある。
魚住惣五郎『吉野朝史』一(綜合日本史大系 第六巻 一)(東京、内外書籍株式會社、昭和二年二月發行、昭和十五年(一九四〇)八月訂正再版)二九二頁に、
常陸では興國三年三月下野の小山朝卿が迎へるまゝに興良親王は大寶城を出られて小山に赴かれた。四月になつて春日顯時は大寶寺城より關城に入り、勝に乘じて伊佐城に轉じ屢々敵を敗り關城を援けた。五月某親王(註)吉野より下向せられて關城に入られたが、常陸の諸城は依然として危急であつたので、親房はこゝにまた急使を結城親朝に送つて伊達、田村、石川の諸氏は直に應ずるから親朝の季子朝胤に兵を副へて、伊達以下の兵と共に伊佐城の兵に合して關城を救援せんことを求めた。
 〔註〕 此親王の御名は明かでない。或は尊良親王の御子にて顯信に奉ぜられた宇都峯宮ともいはれてゐる。
とある。
工事中 常陸の關城・大寳城に居たが、興國四年(一三四三)十一月の落城後、陸奥埋峯(宇津峯)に入る。
久米邦武『訂正増補 大日本時代史 南北朝時代史』五六四〜五六五頁に、
九月高師冬關城に迫り、船を湖に泛べてK子に綴り、大寶の往來を絶つ(集古文書)、親房既に死を決す、往年著はせる~皇正統記を校訂し、補ひて興國に至り、これを吉野に献じ(古本~皇正統記)、猶守禦する兩月なるも外援至らず(別府、税所文書)、十二月十一十二日兩城相繼いで陷ゐり(相馬文書)、關宗祐、下妻政泰等討死す(結城家譜、關城書考)、某親王は陸奧の春日顯信の許に走り(結城文書)、親房は吉野に逃歸る(阿蘇文書)、師冬兵を伊佐に移し、伊達行朝は出降る(別府、税所文書)、・・・・・ 常陸諸城敗れ、其殘徒多く陸奧に逃入る、石堂義房諸郡の關門を固めしめ、若し徴發に應ぜぬ者は捕致し、延遷する者は違亂に科す(相馬文書)と令す、是より南黨は陸奧國司に集り、某親王を奉じて北軍を拒め【五六五頁】り。
とあり、同五六九頁に、
陸奧。九州の南軍不利〕 吉野には北畠准大臣の歸朝せし比なれば、其賛畫にや、恢復の運籌をなして四月諸國に師期を戒しめ大藏卿某旨を阿蘇惟時に傳へて、征西府に軍忠を致さんことを勸勉す(阿蘇文書)、其他も幕府に欺瞞せられて失操を後悔したるの徒は多く此例の勸誘を受けたるべし。斯くて諸國の形勢寖く變化し、鎭守府には將軍春日顯信某親王を奉じて、田村荘の宇都峯に兵を擧ぐ、石堂義房報を得て、子ョ房(左馬助)を將となし廿二日進發し、相馬親胤を先鋒となし、直義の沙汰として岩城郡平窪關所を飯野八幡宮に寄附して逆徒平定を禱り、標葉荘落合を社領となして伊賀氏の心を慰勉す、軍遂に利なく秋に至り顯信の軍進んで伊達信夫郡に入る(岩城、相馬、飯野文書)、爾後の事は徴跡乏し、是より某親王は宇都峯宮ヽヽヽヽと稱す。
とある。
工事中 正平二年(一三四七)九月、埋峯落城により源朝臣顯信[北畠]と共に出羽へ逃れた。
工事中 正平六年(一三五一)十月、伊達・田村一族と共に多賀國府を攻撃、占領。
工事中 正平六年(一三五一)十一月末、源朝臣貞家[吉良]を名取郡廣瀬河に破る。
工事中 正平七年(一三五二)、田村荘に退き、同年七月、田村荘より宇都峯に退く。
久米邦武『訂正増補 大日本時代史 南北朝時代史』六六三頁に、
奧羽の形勢〕 鎭守府將軍春日顯信は畠山吉良兩探題の中惡しきに乘じて攻守を謀りしに尊氏吉野に降り、勅命を稱して不順の徒を退治せしむと雖も、國人多くは吉良貞家に就いて其命に抗せり、貞家令す、將軍の命ありとも顯信より兵を加ふるを以て其備をなさヾるを得ずとて、兵を名取郡に集む、顯信は柴田郡に營せり。尊氏復叛くに及んで、顯信は大波城より田村荘に退き、宇都峯の險に據りて自ら保つ、四月貞家これを攻めんと戸谷田(安積郡)に陣し兵を催して相對すること數旬なり、七月相馬、國魂、伊賀諸氏の兵を得て進攻し、三日顯信の軍と柄久原に戰ふ、利なし。顯信も亦久しきを支えず、宇都峯宮を奉じて田村を去らんとす、貞家偵知して、道路を警固し懸賞して宮を捕へしむ、尋いで鎭守府の軍を市庭矢柄に攻め、八月進んで宇都峯を攻む、顯信志を得ずして此年を終れり(相馬國魂飯野文書)。
とある。
 
【備考】
菅政友『南山皇胤譜』卷三「浪合戰死之宮」に、
サラバ此時戰死セラレシシハ守永親王ナル事疑ヒナカラン、親王ヲ關城釋史(宮本元球著)ニ、尊良親王第一宮ト決メ、サテ興國五年五月關城ニ入リ、城陷ルニ及ビ、陸奧ニ逃レテ北畠顯信卿ニ依リ、田村荘宇都峰城ニ籠ラセ給ヒシカバ、世ニ宇都峰宮(飯野文書)トイヘル由記ルセルハ、確證ナケレド、大カタハ違ハザルベシ、
とある。
平田俊春『吉野時代の研究』(東京、山一書房、昭和十八年(一九四三)三月第一版、昭和十八年七月第二版)所收「宗良親王の御終焉」(一)、一一六〜一一八頁
『南山巡狩録』首巻「系圖」、尊良親王の子「守永親王(母詳ならす)」に、
  一品に叙し上野國の大守たり(新葉集)
 案するに關城書に竹園とのみ志るし 元弘日記結城氏古文書等に一品家或は宇津峰宮西應寺宮抔と志るせしハ此宮にやあらん後吉野に來り給ひしと見えて新葉集に御歌見ゆ
とある。守永親王をも見よ。
村田正志『南北朝と室町』(初出、講談社(日本歴史全集八)、昭和四十四年五月。改稿、講談社(日本歴史文庫八)、昭和五十年四月。『村田正志著作集 第三巻 續々南北朝史論』に收録)に、
・・・・・ 彼【北畠顯信】は鎭守府將軍に任じ、興國元年(一三四〇)の春、下野守道世とともにふたたび吉野を出發して東國に向かつた。その後常陸に着いたが、同年五月のなかば頃ここを立つて陸奥に向かい、六月十一日埋峯(【振假名】うずみね)を發して更に行進した。埋峯は今は雲水峯と書いているが、石川郡と田村郡の境界につらなる山脈中の高山であり、白河から奧羽に至る關門をなし、當時南朝の重要なる據點であり、同地の豪族田村荘司宗季が城を構えた。この後常陸の關・大寶城が陷り、ここにいられた南朝の某宮も移つてこの埋峯城にはいられ、同城が陷るまでこもられた。そこでこの宮を世に宇津峯宮と稱している。
 ・・・・・ 興國四年十一月關・大寳城が陷落してからは、奧羽の形成は南軍にとつて一段ときびしいものになつた。正平元年(一三四六)幕府が吉良貞家・畠山國氏を奧州探題に任じて下向させてから後は、南軍にとつてきびしさは更に加わり、二年七月貞家・國氏および石塔義房らは陸奧南軍の諸城をいつせいに攻め、伊達郡の藤田城がまず落ち、ついで九月靈山・埋峯の城も陷落した。そこで宇津峯宮や顯信は出羽に逃れた。
 ・・・・・ 同【正平六年】三月の初め顯信は出羽で擧兵し、これを討つために貞家は多賀國府を出發している。十月宇津峯宮は、伊達・田村一族を率いて府中を攻撃し、國府はついに南軍の手に奪回されたが、更に十一月末には宮は貞家を名取郡廣瀬河にうち、貞家は敗走して伊具館にはいるという状況であつた。・・・・・。
とある(『村田正志著作集 第三巻 續々南北朝史論』、三〇八〜三〇九頁)。
C原業忠は、宇都峰宮尹良親王に仕えて、津島へ赴いたというが、要確認。
 
【文獻等】



 
次頁 「 宇 [宇多]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 う 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


更新日時: 2008.12.27.
公開日時: 2004.01.27.


Copyright: Ahmadjan 2004.1 - All rights reserved.