阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
親 王 ・ 諸 王 小 傳 (五)
勸 修 寺 宮
濟 範 親 王


 勸修寺宮濟範親王、後の山階宮晃親王は、毀誉褒貶の甚しい皇族である。
 即ち、勸修寺門跡の身にありながら、妹(實は年少の叔母幾佐宮と共に出奔するという不祥事を引き起こし、天保十三年(一八四二)七月二十二日、光格天皇養子、親王宣下、二品、勸修寺住職等を停められ伏見宮より除籍されるという前代未聞の處分を被っている。
 しかし、その一方で、勝海舟により、
山階宮は、實に卓識なお方で、世間が攘夷説で騒いでいたころから、既に開國説をもっておられた。當時開國の意味がほんとうにわかっていたのは、宮方では山階宮、公家では堤中納言【ママ】のみであった。
と評された程の見識があり(『氷川清話』)、また、鹿兒島藩士高崎佐太郎(正風)等が、謹愼中の濟範に攘夷策を伺ってみたところ、
御話しを承はるに果して攘夷の策といふものを七十ヶ條も書いて居らつしやる、何處其處に關門を置くとか何處を防がねばならないとか云ふやうな譯で、ほぼ西洋の事情にも通じて御座つて色々繪圖など示されましてコツチは吃驚りしました。・・・・・ 何分他の御公家樣とは違つて、武張つた風で床の間には足輕の着さうな破れ鎧を飾つてあつて、厩には痩馬が一匹飼つてあるといふ有樣であつた。夫れから是は何になさると御尋ねしたら、朝廷に事あらば佐野源左衛門をやる積りであるといふやうなことであった。
という氣概を持っていた(『山階宮三代 上』一二九〜一三一頁所引『史談會速記録』第五十五輯所載「男爵高崎正風君國事に盡力せられし事實」)。濟範は、これらの卓抜した資質によって、幕末の國事多難時に際し、文久四年(一八六四)正月、罪を免じられて還俗し、「山階宮」として再び世に出ることができたのであった。なお、佐久間象山が元治元年(一八六四)七月十一日に三條木屋町筋にて暗殺されたのは、晃親王と會ったその歸途の出來事であったという。
 さて、濟範の二十有餘年にわたる謹愼の原因となった、妹との出奔事件については、《夫ある女性と共に駆け落ちした》というような類の不正確な話が一部において流布している。これは、山階宮家の「正史」とも言える『山階宮三代』において、
初夜、近習二人を召し連れ、無断にて西国へ向け出走せられた。
『山階宮三代』上「晃親王」天保十二年十月八日
等とあるのみで、幾佐宮について全く觸れられていないため、かえって誤った情報の流布する餘地を生ぜしめたものであろう。
 それはともかく、勸修寺宮濟範親王は、如何なる状況のもとで、妹と共に出奔するという不行状を敢行するに至ったのであろうか。そこで、この事件を傳える同時代史料の一つ、少外記平田家記録 K61-82 少外記平田家日次記『天保十二年雜録』の記載を見てみよう。まず、十月二十日庚子條には次のように記されている。
一、 當月十三日伏見故兵部卿宮御息女【東明宮】關東一橋殿御入輿云々。當年八歳爲成給姫君云々
一、 右前日十二日夜右御入輿之姫君【東明宮】御姉君當年廿五歳爲成給御方【幾佐宮】、與御乳人共出奔給、御行方不相知。宮之御騒動愁傷不大方。此節先内蜜【密】ニ而諸方人御穿鑿最中云々。併何以傳奏廻武邊御屆、從武邊之吟味ナラテハ難知由專風聞區□。予昨日關知于實。希代珎事、前代未聞、誠奇怪、畏入之至也。尤關東御發輿之前晩御混亂中故出給口不相知云々。誠宮之御騒動而已ニアラズ、京家之瑕瑾。速内々ニ而出現給樣奉祈事也。雖無益、任筆次記于是矣。
 また、同十月廿九日己酉條に、
一、 伏見宮姫君【幾佐宮】去十二日出奔給ニ付御内分ニ而色々雖御吟味不相知給ニ付、無詮方武邊御屆相成、從武邊與力同心等諸方手分、依吟味漸々噴々【?】出現給云々。尤御〓處、勸門主【濟範親王】右姫君御譯有之御同伴、伏見〓【ヨリ】御乘舩、播州明石迄參給之處、明石ニ而與力同心奉追付、奉迎歸由風聞。誠前代未聞、絶言語珎事。勸門主侍兩人召具給。於姫君御乳人兩人、都合五人ニ而御出給内【由】云々。何分御調中云々。如何。
とあり、事件の概要が簡潔に述べられている。
 ここから、當該の出奔事件は、幾佐宮(二十五歳)の妹である東明宮(八歳)が一橋家に入輿するため出立した前の晩、その準備等の混亂のさなかにおいて發生したことが知られる。この東明宮(とめのみや)とは、一橋家において源朝臣慶喜[徳川]の養祖母であった徳信院(直子女王)のことであるが、二十五歳の姉には、十七歳も年少の妹の出輿が堪え難いものであったのであろうか。わが身の不幸を嘆き悲しむ彼女の前に、出家の身である兄が現れた。兄は妹を慰め、同情のあまり..... 憶測を逞しくすれば、大體、このような筋立てとなるのではなかろうか。
 幾佐宮は、伏見宮より除籍され、剃髪、瑞龍寺室に預けられ、十八年後の萬延元年(一八六〇)六月、四十三歳で死去した。彼女の罪が免じられるのは、妹の中宮寺宮尊澄成淳の愁訴を弟(實は甥)の賀陽宮朝彦親王(のちの久邇宮)が請願し、元治二年(一八六五)正月、これが勅許されるまで待たねばならなかった。
 なお、晃親王は、還俗後、孝明天皇の精神論的攘夷思想に對して反對の立場を貫いたためか、孝明天皇の覺えは めでたからず、また、好色の風聞も絶えなかったようであり、一部においては極めて評判が惡かった。明治維新後、皇族は悉く軍人となったが、晃親王は辭して軍人とならず、終に文官皇族として通した。茶道の復興など文化的な方面での活動も知られている。明治三十一年(一八九八)二月十七日薨。享年八十三歳。
(2003.07.28. 訂正あり

  
親王 ・ 諸王小傳 (四)
深 草 王
親王 ・ 諸王小傳 (六)
常 明 親 王



親王 ・ 諸王小傳 の目次 へ
日本の親王 ・ 諸王
阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページの
トップページ



更新日時 : 2009.02.19.
本頁開設日時 : 2003.08.03.


Copyright: Ahmadjan 2003.7 - All rights reserved.