阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
親 王 ・ 諸 王 小 傳 (三)
伏見宮 貞 致 親 王


 「御落胤」と言われれば、つい我々は時代劇の世界を想起してしまいそうであるが、皇族の「御落胤」が宮家の當主になった、という事例が江戸時代において現實に存在した。即ち、承應三年(一六五四)、嗣子のない邦道親王[伏見宮]が薨逝して伏見宮家が繼承者を缺いたとき、「丹波國□□」の養子となっていた二十三歳の青年が、京都所司代による吟味の上、伏見宮の落胤として召し出され、伏見宮を繼承した。これが伏見宮第十三代の貞致親王である。
◎『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日庚午
 貞致親王の親王宣下を傳える『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日庚午條によると、彼は、十二・三歳のとき、即ち、西暦一六四三・一六四四年に、鍛冶「西陣埋忠」の弟子となり、十八歳の時(一六四九年)まで「長九郎」と稱し、「鍛冶モ事外【殊の外】きよう【器用】」であったという。なお、紀伊和歌山藩主であった時の徳川吉宗の夫人であった「眞宮(さなのみや)」は、貞致親王の娘であるので、元「鍛冶屋の徒弟」の娘ということになり、また、今日の「舊皇族」及び「元皇族」男子の家系は皆この貞致親王の後裔となるので、内閣總理大臣稔彦王[東久邇宮]も、山階芳麿博士も、竹田恒和JOC會長も、皆、元「鍛冶屋の徒弟」の子孫ということと相成るのである。
 さて、この貞致親王の出自については諸説ある。『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日庚午條によると、貞致親王は邦道親王の「御舍兄」にして「下戚腹」であるとされる。また、『系圖纂要』には、貞清親王の子と邦道親王の子との双方に貞致親王の名が擧げられ、邦道親王の子の方には「實邦尚親王弟」と注記される。
 
 貞清親王
  ├ 邦尚親王
  ├ 貞致親王
  └ 邦道親王
    └ 貞致親王
 
 これらから、貞致親王は、貞清親王の落胤であったことが知られる。しかし、貞致親王の出自については異った所傳もある。其れは、水戸の國學者安藤年山に關聯した文獻に現れるものである。即ち、貞致親王は邦尚親王の子であり、生母は伏見宮家女房「少納言局」こと藤原定子であったという。そして、彼女は、丹波國桑田郡出雲村の安藤滿五郎定實(稻津甚左衛門)の男子 定吉の女子であるとされるが、この安藤滿五郎定實とは、安藤年山の曽祖父に當り、また、伏見宮邦輔親王の男子「長松軒惟翁(維翁)」の男子とされている人物である。
 この安藤年山系情報によると、貞致が誕生した當時、伏見宮家は邦尚親王と邦道親王との間の繼承問題により家内混亂していたため、貞致は、母に連れられて、母の從兄弟に當る丹波國桑田郡尾口村平野の安藤内匠頭定爲のもとに寄寓した、という。そして、邦道親王の薨後、後水尾院の皇子が伏見宮を嗣いで貞致は出家することとなったが、安藤定爲が庭田雅純・慈光寺冬仲と相談し、京都所司代板倉周防守に訴え出、それが聞き屆けられて幕命により貞致の伏見宮家繼承が決定された、という。
◎ 安藤年山『年山紀聞』
◎ 飯田忠彦『野史』巻二百七十四「隱逸列傳」「維翁」
 安藤年山系情報を系圖化すると、次の通りとなる。
 
 邦輔親王
  ├ 邦茂 「長松軒惟翁」
  │(母方の安藤家を頼り丹波國桑田郡に隱遁、安藤惟實と稱す
  │ └ 安藤滿五郎定實
  │   ├ 定吉
  │   │ └ 定子 「少納言局」
  │   │   (貞致親王の母
  │   └ 定明
  │     └ 安藤内匠頭定爲
  │       ├ 安藤内匠爲實 「安藤素軒」
  │       └ 安藤外記爲章 「安藤年山」
  ├ 貞康親王
  └ 邦房親王
    └ 貞清親王
      ├ 邦尚親王
      │ └ 貞致親王
      └ 邦道親王
 
 一見して明らかなように、この情報は、安藤年山の出自に關わるものであるため、客觀性の點では問題なしとし難い。現に、貞致親王の父について、同時代一次史料である『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日庚午條と矛盾している。また、貞致が鍛冶屋の徒弟であったことも記されていない。よって、これら安藤年山系情報の全てを無批判に鵜呑みにすることは出來ない。なお、貞致親王の繼承に盡力した筈の安藤内匠頭定爲は、後日、貞致親王の命によって伏見宮家から追放されており、ここにも何か不可解な疑念を抱かされる。伏見宮家や、庭田家・慈光寺家、また、貞致親王の指南・後見に當った久我廣通に關係する諸史料から、貞致親王についての情報が發掘されることを心より望む次第である。
 さて、伏見宮家を嗣いだ貞致親王は、宮廷社會に馴染むことは出來なかったようである。貞致親王の夫人の弟に當る近衛基煕によると、貞致親王は、いささか「異風人間」であり、晩年には全く宮中に赴くことはなく、義弟の基煕とさえも會うことがないまま數年を經て薨逝したという。
◎『基熈公記』元祿七年五月十八日乙卯
 
 貞致親王についての基本史料は、
『皇室制度史料 皇族四』、七五〜七九頁
にまとめられており、また、安藤年山系情報については、
渡辺金造(刀水)「安藤素軒と年山」
渡辺金造 『渡辺刀水集 二(日本書誌学大系四七(二))』
武蔵村山、青裳堂書店、一九八六年十月)所収

を參照されたい。
 また、安藤爲章(年山)『年山紀聞』は、『日本随筆大成 第二期 16』(日本随筆大成編輯部編。東京都文京区本郷、吉川弘文館、昭和四十九年(一九七四)八月復刊。初版、『日本隨筆大成 第二期 第八巻』、日本隨筆大成刊行会、昭和三年(一九二八)十二月)に收められているが、落丁に起因する脱文があると思われるので、注意が必要であろう。
(2001.10.26 誤字等改訂アリ

 附 記 
 三年以上も前のものですが、安藤内匠頭定爲が貞致親王の命により伏見宮家を去った事情について記した書信がありますので、その内容の一部を次に引用いたします。
拝啓
 (中略)
当方は、その後も、安藤一族や伏見宮貞致親王に関する情報に注意しておりましたが、安藤朴翁が伏見宮家を致仕する要因と関係があると思われる情報がありました。即ち、貞致親王は、「末男」(五男)の勝宮(かつのみや)を寵愛し、勝宮に家督を相続させるよう遺言したものと考えられます(『基熈公記』元祿七年五月十九日・廿日・廿一日)が、これをめぐり、伏見宮家では、家臣が二派に別れて争ったようです。結局、貞致親王に取り入って勢力を伸ばした派が敗れ、一宮(邦永親王)が家督を相続したとのことです。これらの事情について書かれた文章が何処かにあるのですが、自身の多忙の間に紛れてしまい、今、探し出すことができません。しかし、それはさておき、ここから、貞致親王への諫言をいとわなかった朴翁が、親王の歓心を買おうとする派と対立し、伏見宮家を去らざるを得なくなったのではないか、と推測することができるのではないかと思われます。
 (中略)
 まだまだ厳しい寒さが続きますが、
先生にもますます御自愛たまわりますようお祈り申し上げます。
                              敬具
平成十七年二月二十一日
                             (署名)
(宛名)
 
 なお、勝宮(かつのみや)は、後に近衞基熈の猶子となり、伊勢一身田の專修寺を繼承し、その男系子孫は二代まで續いております。
(2010.6.26)

  
親王 ・ 諸王小傳 (二)
清 胤 王
親王 ・ 諸王小傳 (四)
深 草 王



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増補改訂日時 : 2010.06.26.
本頁開設日時 : 2001.10.31.

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