ティーガーの騎士


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ミヒャエル・ヴィットマン  Michael Wittmann
(1914〜1944)
撃破スコア戦車138両


ティーガーの騎士として伝説を創った男。

1914年4月22日オーヴァファルツ、バイエルングリース近くのフォーゲルタールで生まれる。
1934年10月、国防軍に入隊し、第19歩兵連隊に配属。
1937年4月1日に武装親衛隊に入隊。SS自動車化連隊『親衛旗“アドルフ・ヒトラー(LAH)”』に配属。
1939年の戦争開始までにSS軍曹になり、ポーランド戦とフランス戦に従軍。
1941年7月12日、ソ連に侵攻後、第2級鉄十字章を受賞、その2ヶ月後には第1級鉄十字章、更に戦車突撃章と戦傷章も加わった。
1942年7月、SS仕官学校に入り、好成績で同校を修了、12月にSS少尉として原隊へ復帰。

1943年初頭、ティーガーと運命の出会い。
7月のクルスク戦のみで戦車30両、火砲28門を撃破。
1944年には柏葉騎士鉄十字章拝受と同時にSS中尉に昇進。
6月に連合軍のノルマンディ侵攻が発生、これに対しヴィットマンのエピソードの中でもっとも有名なヴィレル・ボカージュ戦が起きる。
ノルマンディー地区のヴィレル・ボカージュに進入してきた英軍第7機甲師団をティーガー4輌と4号戦車1輌で迎え撃ち、彼だけで25両の装甲車両を撃破、大損害を与え進撃を停止させました。
この功績で彼はSS大尉に昇進、総統官邸で剣付き柏葉騎士鉄十字章を授章。

輝かしい栄冠を得た数多くの兵士たちがそうされてきたように、ヴィットマンにも後方勤務職に転じて訓練学校の教官になり、技能を伝授するという話が持ちあがったが、彼は仲間と戦うことを選んだ。
結果的にこの判断は彼の命とりとなった。

1944年8月8日、第12SS装甲師団『ヒトラー・ユーゲント』側面援護の為、サントーへ向かう途中、英軍戦車部隊と遭遇、3両を撃破したものの、集中砲火を浴びて、ヴィットマンは搭乗員とその運命を共にした。
生涯の撃破スコアは戦車138両、火砲132門。

彼の最後については何の確認もなされないままであったが、1983年、道路の拡張工事中に遺体が発見され、正式の軍隊葬の後、ラ・カンプの軍人墓地に埋葬された。
彼は生真面目で寡黙であり、戦友からも尊敬、信頼され、上官からも高い評価を得た。
戦車の撃破数だけでは彼を上回る者もいたが、数々のエピソードや悲劇的な死、そしてその知名度において、最強、最高の戦車兵である事は間違いないであろう。
オットー・カリウス      Otto Carius
(1922〜
撃破スコア戦車150両


ヴィットマンと双璧をなすティーガーエース。

1922年5月27日、南西ドイツのプファルツのツヴァイブリュッケンに生まれる。
1940年5月に軍に召集され ポーゼンの第104補充歩兵大隊に入隊。
1941年8月、軍曹に昇進。
1942年10月、少尉に昇進。
1943年1月、プトロスの第500戦車補充大隊へ異動し新型重戦車ティーガーの訓練を受け、第502重戦車大隊第2中隊へ配属される。
7月、レニングラード戦線で初陣。
11月23日、一級鉄十字章授章
1944年2月、SS第11義勇機甲擲弾兵師団に配属。
5月4日、騎士十字章授章。
7月27日、柏葉付騎士十字章授章。
1945年2月11日、第512重戦車駆逐大隊に配属、ヤークトティーガーに乗る。
4月16日、「もはやこれまで」とドイツ国内イーザーローンで大隊ごとアメリカ軍に降伏。

1956年、戦後、薬剤師の勉強に励み、薬局を開業、その名も「ティーガー薬局」。
現在も生存中。

激戦の東部戦線を戦い抜いた彼は言った「最高の戦車(ティーガー)以外に必要なのは、経験と用心深さだけだ」。
その言葉通り、常に沈着冷静で勤勉に行動し、敵味方の戦力を判断して的確に行動した彼は素晴らしい戦功をたて、戦争を生き抜いた。
祖国は負けてしまったが、彼の戦争は勝ったのだ。
クルト・クニスペル     Kurt Knispel
(1922〜1945)
撃破スコア戦車168両


名誉を求めぬ真の撃破王

1922年生まれ。
1940年、軍に入隊、サガンの戦車学校で学ぶ。
その後、第12装甲師団に配属、4号戦車の砲手となる。
1943年、ティーガー戦車の育成訓練を受けた後、第503重戦車大隊に配属。
クルスク戦では砲手として8日間で27両の戦車を撃破、一級鉄十字章授章。
1944年5月20日、ドイツ十字章金を授章、ケーニッヒス・ティーガーの砲手となる。
8月20日、戦車長となる。
1944年10月、第503重戦車大隊はハンガリーに移動。
1945年4月29日、ヴォスティッツ近郊の防御戦でソ連軍と激戦のうえ戦死。
生涯の撃破スコアは戦車168両(未公認入れると195両)

彼はバルバロッサ発動からスターリングラード救出作戦、レニングラード、クルスク、ノルマンディとあらゆる激戦区を戦い抜き、類まれな戦果をあげたにもかかわらず騎士十字章を授章していない。
授章できなかったのは、自分の戦車に娼婦を連れ込むなど、素行に問題が多々あったようで、上層部からの評価は低く、騎士十字章に4回も推薦されながら、叶うことは無かった。

しかし戦友からの信頼は厚く、頼られる存在であったようだ。
また、彼自身も勲章等にはあまり興味が無く、ヴィットマンのように有名になって顔が広く知られるようになると、自由な行動がしずらくなるほうを嫌がっていたのではないだろうか。
いずれにしろ、名誉を求めず自分のスタイルを貫いたため、彼を評価する記述が極めて少ないが、その偉大なる撃破記録は永遠に不滅であろう。