アジア・フォーラム横浜

2007年 第14回証言集会記録

07年証言集会案内へ   2007128日 15時より かながわ労働プラザにて

証言者 蕭文虎さん(マレーシア)

林博史さん講演1 蕭文虎さん証言の背景

マレー半島における日本軍の住民虐殺、特に中国系の方が大量に虐殺されていますので、華僑虐殺と言われています。日本でこれが、紹介され、知られるようになったのは、1987年です。思い返すとちょうど20年前です。    

レジメに従って紹介します。マレー半島、シンガポールも含めて、日本軍による華僑の虐殺が行われます。当時は、マレー半島はイギリスの植民地ですから、戦争犯罪人の戦犯裁判が行われます。その中で、イギリス当局が日本軍の残虐行為をいろいろ調査した。マレー半島各地では生き残った方の証言集が1946年、47年にできた。亡くなった方々のお墓や記念碑を作ることも行われた。この問題について、地元で取り上げられるのは、1960年代です。1962年ごろから、ちょうどシンガポールの開発が始まった。建設工事が始まり、そんな中で、日本軍に殺された方たちの遺骨が工事現場から出てくるわけです。あらためて日本軍の占領時代の記憶というのが、思い出されるわけです。ちょうど1960年代にシンガポール、マレーシアと日本は、賠償を巡る話し合いに入ります。1967年に協定が結ばれますが、その中で、地元から、「戦時中日本軍からこういうひどいことをされたんだ、だから賠償を要求しよう」という運動が起こります。その中で、改めてこの問題は取り上げられます。そのときにいくつかの記念碑が作られています。マレーシアに関しては、日本が「賠償に準じた協定」と書いています。どういう形でこの賠償問題に決着を付けたかというと、日本政府がマレーシア政府に貨物船を二隻渡すということです。マレーシア政府が貨物船二隻を取っているのですから、被害者にとっては、何の関係もないですね。日本政府は、これで戦争にかかわる被害の賠償はすべて解決済みだということにしました。それ以降、被害者の声はまったく聞こうとしない。貨物船二隻で済ませたということは、当時から、もう聞こうとしていないわけです。 

82年教科書検定 侵略が進出に」がマレーシアでも問題となる!

その後、1982年に文部省が、いわゆる教科書検定において、「侵略戦争やさまざまな残虐行為について削除させる。世界史の教科書で、東南アジア侵略が、進出に書き換えさせる」というような検定が行われて、これは国際問題化します。当時日本の中では、中国や韓国からの批判は、メディアでも報道されました。マレーシアでもこの問題は、非常に取り上げられます。当時のマレーシアの新聞などを見ますと、連日のようにこの問題が取り上げています。日本ではほとんど報道されない。当時、朝日新聞に松井やよりさんが居られて、シンガポールにいたので、松井さんが少しフォローした記事を出しているぐらいです。それが非常に貴重な報道です。この時に、蕭さんが居られたネグリセンビラン州は、クワラルンプールの少し南側にあります。マラッカの少し北側です。クアラルンプールとマラッカに挟まれた地域です。ここは観光では行かないところですね。ネグリセンビラン州に中華大会堂という組織があります。日本で言えば中国系の商工会議所のようなものです。

84年に カンウェイに追悼記念碑!

そこで、80年代にそうした問題が出てきたときに、日本がそのように虐殺や侵略の事実を否定するのであれば、きちんとした事実を残そうと、84年にカンウェイの記念碑が作られます。戦後、いったんは遺骨を収集して、簡単なお墓を作ったようですが、左の写真にあるように、84年に立派な記念碑がカンウェイ村に作られます。仮に埋葬されていた遺骨がここに集められます。その下の写真は、遺骨を移し替えたときの写真です。マンティン、プタスなどでも同じように立派な記念碑が作られます。

高嶋伸欣さんが、マレー半島縦断の旅を83年からやっておられます。83年の記録を見ますと、83年にはネグリセンビラン州は素通りしていますが、現地の新聞や松井さんの記事を見て、ネグリセンビラン州でそういうことがあったことを知って、84年からは高嶋ツアーは、ネグリセンビラン州には必ず寄るようになっています。

「陣中日誌」発見!

この問題が非常に大きく知られるようになったのは、87年です。878月に高嶋ツアーでマレー半島の旅をしました。日本軍に殺された方のお墓がたくさんあるわけです。それは、ほとんどが19423月で、ひとつだけ428月というのがありました。これは組織的にやっていることに間違いはないということになります。防衛庁の資料室に行って資料を探したところ、ネグリセンビラン州で粛清をした日本軍の部隊の資料が出てきた。第5師団歩兵第11連隊第7中隊の陣中日誌が、レジメ1ページに載せてあります。陣中日誌の3月12日の命令に「渡作命第一〇八号」とありますが、これは連隊命令です。連隊長の渡辺の「渡」をとり、その作戦命令ということです。そこの一に「カンポンピラー」とありますが、カンポンというのはマレー語で村という意味です。『「カンポンピラー」四囲ノ山地ニハ敵性分子存在シアリテ特に「カンポンパリトチンギ」付近ニハ相当潜在シアルガ如シ』とあります。ここで言う「パリトチンギ」とは、「パリテッティンギ」村のことで、これはマレー語で、中国語ではこれを「カンウェイ」村といっています。レジメ2ページに地図があります。作戦命令に付いている地図です。「敵性分子状況並攻撃要領要図」とあります。地図の真ん中に「カンポンピラー」とありますが、これは現在は「クアラピラ」といっています。このあたりが比較的大きな町です。左上の斜線で囲まれた部分があります。この中に抗日分子が多くいると日本軍が思っていたようです。この中にパリテッティンギ村が入っていた。なぜ日本軍がこういう判断をしたのかということですが、シンガポールからイギリス軍が、日本軍をかく乱するためのゲリラ部隊を送り込んできます。それがカンポンピラーの警察署を襲撃します。すぐ失敗して、そのゲリラ部隊が、北西の方向に逃げていくのです。逃げていく途中にパリテッティンギがあったのです。ゲリラはそのままパリテッティンギをぬけて、点線のように、北西の方向のジャングルに逃げていくのです。行き止まりにあるようなパリテッティンギ村にゲリラは潜んでいると日本軍は思ったのだろう。どうもそういう判断をしたようです。実際にはゲリラはとっくに山を越えて逃げていますから、何も罪のない村人が殺されたということになります。

カンウェイ村の虐殺に係わったのは第5師団〜広島の師団だった!

5師団というのは広島にある師団です。広島城の中に師団司令部があった。広島城のお堀のそばにこの11連隊の記念碑が建っています。この部隊の兵士は、広島市を含む広島県の西半分から集められた部隊だったのです。たまたま広島の部隊がそこに投入されたということですが、しかし広島の中では非常に大きなショックを受けたようです。まさに原爆を投下された広島の市民が兵士として、その前にマレー半島でこういうことをやっていたということが、分かったわけです。

87年の12月に陣中日誌を見つけてから、もう一度現地に行って、現地での証言と、日本軍の記録を照合します。その結果、基本的には日にちや場所は一致し、裏付けられる。その時、現地で証言集を刊行する準備をしており、お金がないので行き詰っているという話を聞きました。そこで、その時は、高嶋伸欣さんと二人で行ったのですが、日本人が寄付をするのはそれは受け入れがたいだろうから、300冊買い取ることにした。前払いということで、26万円で300冊買うことにした。証言集の刊行には、そういう経緯がありました。証言集は、ネグリセンビラン州の中華大会堂が出版した。買い取ったことを、幹部は喜んでくれたのだが、私たちが、お金を置いていったことで、出版できるということになったとき、中華大会堂の会議で「そんな残虐なことをやった日本人から金をもらうなどとはけしからん」と言う反発が起きた。その時に、反対されたのが蕭さんだった。蕭さんが何故そのように感じたのかと言うことは証言を聞いていただければ分かると思います。

証言者広島訪問(88年)!

「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む会」が、888月、蕭さんら5名の証言者をマレーシアから招いています。各地で証言集会をします。その後、この地域で、彼らの家族を殺したのは広島の部隊だったということで、広島に行き、案内した。原爆資料館見学し、被爆者たちとの交流も持った。原爆資料館を見ているときに、取材を受けた。証言者たちは「原爆で非戦闘員まで殺されたのはかわいそう」という感想を言っていた。その後、被爆者との対話をしたときに、最初はそのように言っていたのだが、「アメリカに原爆を落とされたことについてどう思いますか」とひとりの証言者が被爆者に質問をしたときに、「アメリカはどうしてそんなひどい事をしたのか」とアメリカを批判する発言を被爆者の方がした。ごく自然な流れだったのですが、5人の方が、怒ったように口々にしゃべり始めた。「何故、我々マレーシアの人間がこんなふうに虐殺されなければいけないのか。もし原爆が落とされなくて、もっと日本の占領が続いていたら、自分たちも殺されてこのように日本には来れなかったのだ」と次々には発言された。原爆について語るときに、日本の加害の問題を抜きにして、「アメリカはひどい」と日本の被害の事だけを言うときに、証言者の方々は、非常に憤りを持つと分かりました。

日本の加害をきちんと謝罪する大切さ!

別の会で被爆者と交流した時、被爆者が、「広島の兵士がマレーシアまで行って、皆さんにひどい事をして、申し訳ありませんでした」と謝罪をした上で、「わたしも原爆で被害を受けました」言いました。その方は原爆で片足をなくされていました。日本がやった事をきちんとお詫びをした上で、「自分たちも広島もこのような被害を受けたのだ」と話した時は、5人の証言者は涙を浮かべて、その人のところに駆け寄り、抱き合ったのです。非常に対照的だったので、今でもその光景が思い浮かびます。ですから日本の加害の事をきちんと見つめた上で、広島の被害の事を訴えると、理解してもらえるが、そうでないと非常に反発を受ける。あらためて、日本人の戦争による加害の問題と被害の問題の両方をきちんと見なければいけないのだと感じました。

来日したとき、マレーシアの証言者の方は、広島の原爆慰霊碑の前で原爆の犠牲者に花輪を捧げた。証言者の方々が、ぜひそうしたいということで、していただいたのです。被爆者の方もマレー半島での日本軍の犠牲者の方にきちんと追悼したいと翌年、3人の人が、広島からマレーシアのネグリセンビランに行く旅をしました。

加害が先にあってそれがまた被害に繋がっていく。単純に全て日本が加害者だというわけではないと思いますが、加害に加担することによって自分たちも被害を受けていく。加害と被害は重層的な構造だと思う。その事をすごく考えさせられました。蕭文虎さんが、日本に最初にいらしたときのことは、日本の平和運動を考える上で、とても大きな出来事でした。その時に、蕭さんは「日本人はみんな憎いと思っていたよ。でも日本に来て、そういう取り組みをしている人々と知り合って、日本の中にも良い日本人がいると言うのが分かった。」と言ってくれました。私自身、非常にうれしかった。たぶんそういう経験をすれば日本人は全て憎いと思うのは、あたり前のことですが、日本人の中にも、みんながそうなのではなくて、きちんとこの問題を考えている人たちがいると言う事を分かっていただいた。そこから蕭さんとの交流も生まれた。被爆者たちとマレー半島に行ったときに、家族と一緒に行き、3歳の娘を連れて行ったのだが、蕭さんがとても娘を可愛がってくれました。蕭さんがとてもうれしそうな顔をして、娘と遊んでくれたので、とても感激しました。

蕭さんは10年前にもここで証言されています。10年前に比べて、日本がもう少しましになって、蕭さんに日本は良くなったねと、言って貰えるような状況態で迎えたかったのですが、残念ながら、そうはなっていません。あらためて、そういう時だからこそ、蕭さんの体験を皆さんに伝えていただきたいと思います。

蕭文虎さんの証言〜銃剣は母を貫いた…

足が弱くて立てないので座ったままで申し訳ありません。日本に来て、20年前の友だちと会えてうれしいです。日本にこうして来て、自分の体験した事をこのように話すことが出来るのは、アジア・フォーラムの方々やその他の方々のおかげです。こうして日本に来て証言できるのは、亡くなった父母や弟妹のために何よりのことです。戦争で罪の無い人々が虐殺されたてしまったことの教訓は、これからも記憶に残していきたいと思います。

その時私は、6歳だった!目の前で家族が殺された!

その当時、私は6歳でした。中国式の数えだと7歳です。日本軍がカンウェイ(パリテッティンギ)にきたとき、人を殺しの来たとは思わなかった。食糧を配ってくれると思い、わくわくしていました。当時、村の人々は600人以上いて、日本軍は老若男女、赤ちゃんまで殺した。日本軍は、わずか4台のトラックで来て、六百人以上も殺してしまった。こんなことになるとは、家族は予想もしなかったが、結局、虐殺されてしまったのです。村人は列に並ばされ、ジャングルに連れていかれ、そこで殺されてしまった。私の目の前で、4人の日本兵がその場で銃剣で刺し殺しはじめた。当時の悲惨な場面は、どんなにそれを書き表そうとしても、できないほどの悲惨なきごとです。わたしの目の前で父や弟が殺されたのです。自分の目の前で起こったのです。その時は、まわりの人々は、悲鳴をあげ、「許して」とか頼んだりしたのですが、全然、聞いてもらえませんでした。

母親が私の上に覆い被ってくれて、母親のおかげで命が助かりました。母親のおかげで生き残ることができました。今日ここでこうして話ができるのも母親のおかげです。

今、私は73歳です。しかし、今でもその時のことは、忘れられない鮮明な記憶として残っています。虐殺のあったジャングルの中は、死体だらけ、血だらけだった。私も血だらけだった。この虐殺のあと、日本兵は死んだことを確かめにまた現場に来ました。日本兵は、蹴ったりして本当に死んだかどうかを確認しました。その後、店や住宅は火を放ち、焼いてしまった。その後、あるおじいさんが現場に来て助けてくれた。私は当時、6歳だった。体は傷だらけだった。その夜は、幸いなことに、雨が降っていなかったが、もし雨が降っていたらきっと死んでいただろうと思います。

わたしの家族が日本軍に無差別に殺された理由はわかりません。わたしたちは、抵抗運動もしてないし、抗日運動もしていないのに、何故殺されたのか分かりません。「焼き尽くし殺し尽くし、奪い尽くす」三光作戦だったのでしょう。日本軍がマレー半島に侵略し、占領していた38ヶ月は、我々華僑には大変な毎日だった。今回も含めて前の証言集会でもそうですが、アジア・フォーラム横浜、吉池先生、刻む会の上杉さん、林先生たち皆さんのおかげで、このように証言する機会がもてました。ありがとうございます。

歴史教科書歪曲、首相の靖国参拝への危惧!

しかし、時間経過とともにわたしたちの気持ちは穏やかになってきていたのに、日本政府は過去の事実を見ようとせず、さらに教科書を歪曲したりしている。日本政府の靖国神社参拝や教科書の歪曲をみて、わたしたちの気持ちは穏やかでなくなり、不満が湧き起こりました。皆さんにお願いがあります。歴史は歴史ですから、簡単に自分の都合で書き換えたり、ちがう意味にしたりしないようにすることが大事です。わたしが日本に来て証言するのは、個人の賠償を求めてではない。賠償よりも、歴史の事実を大切にするように訴えることのほうが大切だと思います。現在、日本政府がやっていることについてよく理解するようにお願いします。

平和な世界を一緒に作りましょう!

初めて「刻む会」に招かれ、日本に来たときは怖かった。どんな対応されるか分からなくてそれで少し遠慮してきたのです。一人のメンバーが「日本は平和で民主主義の国だから安全です。言いたいことがあって、事実であれば自由に言ってください。」と念を押してくれました。それで証言するようになりました。今わたしは73歳ですが、6歳のときから今までにどんなことがあったのか、どんなひどい目に会ったのか、たくさんありすぎて語りつくせません。皆さんの力を借り、若い世代に事実をしっかり伝えていかなければなりません。戦争は残酷です。一般の人々が被害者になります。平和の世界を一緒に作っていきましょう。

林博史さん講演2 シンガポール・マレー半島から沖縄へ

お母さんが蕭さんの上に覆い被さった!

下の写真は蕭さん一家の写真です。左の男の子が蕭さんで弟と妹です。このときに蕭さん以外の4人が殺されているのです。こういう子どもたちが殺されているのです。パリテッティンギ村に日本軍が来ます。中心部に住民集めるのです。食糧配布をするとか、身分証明書を配布するとかいろいろな言い方をされている。10人ぐらいの住民を日本兵が何人か付いて、近くのゴム園とかに連れて行く。跪かされ、日本兵が銃剣で刺し殺す。彼が生き残ることができたのは、お母さんが覆い被さってくれたので、お母さんは亡くなったけれど、彼は助かった。背中や脇に何箇所か銃剣の傷がありますが、お母さんが身代わりになって彼は助かった。ですからその想いがあるので、冷静には証言できない。先ほども蕭さんの証言は、ちょっと簡単になってしまったのですが、そういう背景があります。写真を見ていると彼のお母さんに対する思いはすごくよく分かる気がします。

 

1984年追悼記念碑を作る

その写真の左の写真、遺骨を前に何人かが立つ写真があります。1984年に記念碑を作ったときにその土台に入れたのです。蕭さんが真ん中に立ち、蕭さんの肩に手を乗せているのが蕭さんの奥さんです。その反対側が蕭さんの娘さんです。写真がいくつか資料として付いています。「日治時期森州華族蒙難史料」(資料1ページ)というのが、資料にあり、その中にいくつか写真が入っています。「蒙難史料」の表紙が写っているのがあります。これは日本軍の憲兵隊の集合写真です。「ひさまつたい」とあるが、これはシンガポールにいた憲兵隊です。その次に蕭さんが、疲れきった顔で写っている写真(資料2ページ)があります。次のページに蕭さんが、右わき腹の傷跡を見せている写真(資料3ページ)があります。84年に記念碑を作るときに遺骨を納めたときの写真が3枚入っています。このカンウェイ村での日本軍の虐殺は、3月16日で、命令が3月12日。現地では殺されたのは675人と記念碑には刻まれている。

日本からの賠償は貨物船二隻!

さきほど、賠償が貨物船二隻と話しました。中華大会堂などが日本に来て、日本の外務省、あるいはクアラルンプールにある日本大使館などに来て、賠償を請求したことが何度かある。日本政府はまるでやる気が無い。マレーシアは半分以上は、マレー人で、次が中国系で、インド系あるいは欧米系の人たちです。マレーシアはマレー人が中心の政府です。この被害は中国系の人たちの被害が大きかった。そして、日本軍は、マレー人はうまく利用し、中国系は抑えるという政策をとり、分断統治をします。大規模な住民虐殺の被害者はほとんど中国系だった。ですから、マレー人優遇政策を採っているマレーシア政府は、できるだけこの問題を取り上げたくない。ですから、マレーシアの声と言うのがなかなかこちらには伝わってこない。

粛清の軍命令! 

シンガポール、マレー半島での粛清は、第25軍で、司令官は山下中将です。まずシンガポールで粛清をやるんですね。「シンガポール 華僑粛清」(高文研)という本を今年出したところです。マレー半島の粛清の前提がこのシンガポール粛清です。日本軍内部での命令、どういう議論がされたのかをかなり詳しくここで書いている。シンガポール、マレー半島を含めて、第25軍の命令というのは、「軍は馬来全域の治安を迅速に粛清しつつ次期作戦を準備す」という命令なんですね。先ほどのネグリセンビラン州を担当した第11連隊の命令では「迅速なる治安粛清をなすべし」「敵性分子を摘発(さん)(じょ)せんとす」芟除(さんじょ)とは害虫を駆除するという言葉です。軍の命令とはどういうことかというと、第25軍の命令とは抽象的な命令です。それをさらに軍の参謀長が口頭で詳しく指示するんですね。参謀長の指示の中で、「すべての抗日分子を秘密裏に処分する」とあるが、これが口頭で伝えられる。これは文書には当然残りません。この命令を受けた、戦後戦犯裁判で死刑になった川村三郎少将という人物が証言しているのでこれが分かる。さらにこれが下のほうに命令が伝わっていくときにどうなるのか。

皆殺しの命令は口頭でされる!

423月にマレー半島粛清が始まろうとするときに、クアラルンプールに第5師団(この広島の第5師団がマレー半島のほとんどの地域の粛清を担当する)の下の連隊レベルの副官たちが集められます。そこで命令が伝えられます。その時に師団参謀の緒方捨次郎から師団参謀長命令として「反日分子を剿滅せよ」ということが伝えられます。この会に出席していた伊藤大尉という連隊の副官が、「剿滅とは皆殺しのことですか」と聞くと、緒方が「そうだ」と言う。伊藤が「今は占領後の治安工作時代です。それに剿滅となると女子供まで殺さなければなりませんが、実際問題として不可能です」と言うとすごく叱られた。どういうことが叱られたかと言うことまでは書かれていないのです。(第11連隊副官伊藤敏大尉の回想)命令の文には女子どもまで殺せとは書きません。これは当然なことです。口頭で伝えられるわけです。マレーシアのケダ州を担当したのが第21連隊です。ここの連隊でも上からの命令が伝えられたときに、実際現場に行く大隊長、中隊長クラスが「いくら抗日で共産党員であっても、罪なき子ども迄殺さなくても」と意見を言った。上官としか書いてなかったのですが、上官に「大正時代に朝鮮の独立運動で、地下に潜行した独立運動家は、共産党員となった。勅令によりその運動家たちは殺された。その殺された子どもはほとんど日本人を仇とし、成人すると必ず独立運動員となった。つまり、独立運動をするものを殺すとその子どもが恨みを持って、大きくなるとまた独立運動をやる。だから子どもたちも殺すのだ。」とこれも口頭で言われる。この会議に出たある将校が自分の回想の中で書いている。

資料のさらにその下に『19423月 歩兵第11連隊における命令伝達(ネグリセンビラン) 第7中隊長の記した「行動日誌」』とあります。この第7中隊長は戦後戦犯裁判で死刑になります。たぶん獄中で書いた手記だと思います。その中で「連隊長渡辺大佐は今次抗日華僑団共産党分子の殲滅に関する第二十五軍第五師団各作戦命令の下達並に粛正行動に関する説明ありたる後 連隊命令の下達あり 大隊長中隊長等の意見具申をせるも許容されず」この時もどうも大隊長中隊長クラスはこの命令はちょっとおかしい、困ると言う意見を言ったようです。たしなめられて実行すると言う形だったようです。何故日本軍は女性や小さな子どもまでも殺していったのかと言うことは、日本軍の将校たちの回想中でも口頭で命令が伝えられている。

 シンガポールの粛清と関係あるので取り上げたのですが、その下に1940年はじめごろの中国山西省のケースがあります。山西省にいたのは第一軍という日本軍がいます。その司令部の中に田中隆吉参謀長がいた。この田中参謀長は東京裁判で東条英機を攻撃し、検察側と一緒になって東条が悪いんだと主張した人物です。彼が参謀長だったときに「要するに、一部落を占領したら、全部焼き払うのだ。情け容赦は要らん。子孫を残したら必ず仇を討たれる。根こそぎやれ。食糧も全部焼き払うのだ」と檄を飛ばしていた。ということを当時第一軍の朝枝参謀が書いている。その朝枝がシンガポール・マレー半島の華僑粛清の際の第25軍の参謀にもなる。山西省では性暴力の被害者が訴訟を起こしている。山西省は三光作戦が最も多く行われたところです。「殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす」という「三光作戦」です。その経験が、シンガポール、マレー半島の華僑粛清にも繋がってきている。沖縄戦でも軍命令を示す文書が無いという言い方をされますが、細かく文章を作るわけが無いので、みんな口頭で伝えられる。たまたまそれを聞いていた将校たちが、何らかの形で書き残していれば、分かるが、たいていの場合はそれが分からない。こういう中で粛清は行なわれる。

日中戦争、シンガポール、マレー半島、フィリピン、インドネシア、沖縄戦のつながり!

山下奉文中将は39年には北支那方面軍、すなわち華北にいた。その時に「治安粛正要綱」を作っている。これは満州事変の経験を基に作っている。どういうことかというと、「抗日分子は捕まえればその場で処刑してもよい」という考え方です。普通、抗日活動をしても、戦闘中に撃ちあって殺すのは戦闘行為として認められているが、捕まえたものはゲリラであっても、一応裁判にかける必要があるのです。満州では抗日分子は捕まえればその場で殺してもよい。現場で殺せと。そういう法律を満州国に作らせる。そして日本軍もそれを実行する。その経験を中国に持ち込んでくる。そのときの要になったのが山下だった。これがエスカレートしていったのが、後の三光作戦だった。そして、マレー半島、シンガポール、フィリピンに持ち込まれる。そして山下は1944年の末からフィリピンに日本軍の最高司令官、第14方面軍司令官として来ます。東南アジアにおいて、最も日本軍の残虐行為がひどかったのはフィリピンだと思います。

マレー半島では、広島の第五師団がマレー半島の華僑粛清のほとんどを担当している。南のはじにジョホール州というのがあります。シンガポール対岸です。ここの粛清だけが、第18師団という久留米の師団だった。この師団長が牟田口廉也という人物で、彼は377月に盧溝橋事件、日中全面戦争が始まるきっかけになった事件のときに、そこにいた。彼は支那駐屯歩兵第1連隊長で、この機会に中国をたたけという拡大派だった。その当時、軍の中には盧溝橋事件のときに交渉で早く終わらせるべきだというのと、拡大派と両論があった。彼がジョホール州(ネグリセンビランの隣)の粛清を担当した。後に彼はインパール作戦を強行する司令官にもなった。インパール作戦では日本軍の将兵が飢えとマラリア犠牲になっていく。

シンガポールの華僑粛清では、市街地とシンガポールの郊外に別れています。市街地は憲兵隊がやる。郊外は近衛師団がやる。近衛師団はまさに天皇を守るものです。その師団長が西村琢磨中将です。彼は1940年9月に北部仏印進駐、いわゆるベトナム北部に進駐するときの司令官です。北部仏印に日本軍が入った時の参謀長が長勇といって沖縄戦のときの第32軍参謀長です。西村軍司令官と長参謀長がぶどう酒を飲みながら慰安所を急いで作れと気炎を上げていたということが、当時ここにいた外務省の役人の本省に対する報告で述べられています。

シンガポール郊外で粛清を行なった近衛師団の中で、実際にシンガポール粛清を担当したのが師団の下にある歩兵団だが、その歩兵団長の小林隆少将という人物が、実際のシンガポール郊外の華僑粛清を行います。彼は44年から45年のときは、マニラ防衛司令官で、ここで戦死をします。マニラは452月にアメリカ軍が入ってきて、日本軍は市街戦をやり、日本軍1万数千人がほぼ全滅します。このときにマニラ市民約10万人が亡くなるすさまじい市街戦だった。それにも彼は係わっている。

山下軍司令官のもとで、第25軍参謀長として粛清計画を作ったのが鈴木宗作中将。沖縄にという特攻艇が配備される。今大阪で自分は軍命令を下してないと訴えている梅沢戦隊長がこのの戦隊長だった。赤松戦隊長の弟が一緒に原告になっているが、それは渡嘉敷にいた。普通の5メートルほどのボートに250トンの爆弾を一個積んでこれで、体当たりをする特攻艇ですが、実はこれを考え、推進したのが、第25軍の参謀長の鈴木宗作だった。彼は1944年に陸軍船舶司令部にいるが、そこで攻撃艇の試作と戦法研究を命じている。このことは、たまたま最近靖国神社の展示を見ていて知ったことです。鈴木がこんなところに出てくるのかと、遊就館もなかなか勉強になります。シンガポールの粛清と沖縄戦がそういった形で繋がってくる。辻政信(第25軍作戦参謀・華僑粛清の計画立案者)は有名なので省略します。

山西省の第1軍参謀朝枝繁春がシンガポール・マレー半島華僑粛清のときの参謀です。彼は辻政信と一緒にシンガポールの粛清の時には、憲兵隊を回って「しっかりやれ」と激励というか、「もっと殺せ」というように激励して回った強硬派の人物です。それが先ほどの山西省のケースに係わっています。インドシナで「慰安所を作れ」とワインを飲みながら叫んでいた長勇という人物ですが、彼は沖縄戦のときの第32軍の参謀長です。牛島満というのが、第32軍の司令官です。この2人のコンビが、沖縄戦の日本軍を指導します。2人とも実は南京虐殺に係わっている。長勇は南京戦のときには、上海派遣軍司令部情報主任参謀です。長は各師団から「捕まえた中国兵捕虜をどうするか」という問い合わせに「やっちまえ」と繰り返し命令していた、というのを別の大佐が証言している。南京虐殺のときには捕まえた捕虜をどんどん殺していく。実はそういうことを指導していた。彼は沖縄戦の時には、第32軍参謀長になっていた。彼が新聞で次のように語っている。「一般県民が餓死するからといったって軍はこれに応ずるわけにはいかない。我々は戦争に勝つ重大な任務こそ使命であれ、県民の生活を救うがために負けることは許されるべきものではない」「全県民が兵隊に」「一人一〇殺」。「住民が飢え死にしようと絶対食糧などはやらない。住民を救うために負けることは許されないのだ。」と堂々と公言している。「全県民が兵隊になれ、そして一人十殺、すなわち一人の県民が十人の米兵を殺せ、そうすれば勝てる」と言っている。実はそういう人物が沖縄戦を指導している。

牛島満も南京攻略戦のときの歩兵第36旅団長で、彼はその後、陸軍士官学校校長となる。その教え子たちが、海上挺進戦隊、いわゆる渡嘉敷、座間味に駐留していた部隊の中隊長、幹部クラスだった。山西省での性暴力を行い、三光作戦を行った部隊をもとに編成されたのが第62師団です。実はこれが沖縄に来ているわけです。石部隊というのが有名です。山西省での経験のある部隊が沖縄に来ているのです。

歩兵第41連隊、これは広島県福山で編成された部隊ですが、連隊の上に旅団というのがあって、シンガポールの華僑粛清を実際にやったのが、歩兵第9旅団長の河村参郎少将です。41連隊はセランゴール州、クアラルンプールのある州の粛清をやった。この部隊は南京戦にも参加した。後にこの部隊は、ニューギニアのモートモレスビー作戦で全滅した。餓死などで亡くなっている。非常に悲惨な目にあった部隊です。モートモレスビー作戦のときのこの連隊の資料がアメリカ軍に押収されている。その中で、クアラルンプールの華僑粛清の報告書(教員は反日教育をやっているので教員だけで粛清の対象になる等)が残っていて、アメリカの公文書館でたまたま見つけることができた。

5師団の中の歩兵第42連隊がマレー半島北部のペラ州の粛清を担当している。この部隊が194410月のインドネシアのババル島で500人から600人の村民を皆殺しにするという事件を起こします。戦後この部隊が戦犯として追及されることを恐れて、事実経過をねじ曲げる文書を作っていた。実はこの部隊の関係者がその文書を20年ぐらい前に公表してそれが分かった。普通の村人を広場に集めて機関銃でみな撃ち殺したのがこの部隊です。

194510月インドネシアのジャワ島のスマランでスマラン事件というのがあった。独立を求めるインドネシア軍と衝突して約2000名の市民を殺害するということをやった。戦後インドネシア国籍を取ったハッサン・田中という元憲兵軍曹が「愛国青年の行動を理解できず、共産党過激派と判断を誤った」と言っている。普通の人を、インドネシアで言うと独立を求める人々を全部共産党の過激派と考えて殺してしまう。そういう体質はマレー半島で行ったこととまったく同じです。マレー半島で行われたことが、戦後のインドネシアで繰り返されていたということです。第42連隊は山口の部隊です。

インドネシアのビアク島で日本兵の遺骨がたくさん出てきたということが今年の夏ぐらいの新聞で報道された。その時の大隊長が西原登一大尉だった。ネグセンビラン州の粛清の大隊長だった。彼はニューギニア方面で戦死したとは知っていたが、ビアク島にいたということは追及できていなかった。そういうところに投入されて全滅したという悲惨な目にあった部隊です。もし生きていれば、彼はイギリスが戦犯として追及している。ネグリセンビラン州粛清の大隊長として死刑になっただろう。その時の連隊長、中隊長は死刑になっているので。

責任を問われない戦争犯罪 〜 侵略戦争の経験が蓄積されていく!

シンガポールマレー半島を手がかりにしていろいろな広がりを見て見ます。日中戦争、南京虐殺、シンガポール、マレー半島、沖縄戦、フィリピン、インドネシアとかで、同じ人物がいろんなところで顔を出している。残虐なことをやりながらまったく処罰もされないし、左遷もされない。牟田口廉也は最終的には予備役に回される。インパール作戦の失敗から、やっと現役から外され予備役に回されます。そうした事をやりながら、だれも責任を問われないで出世をしていく。それがいろんなところで顔を出していく。日本の侵略戦争の経験がずっと蓄積されていく。

軍の命令書はないから強制はなかった!

その蓄積の最後に集約されたものが、沖縄戦だろう。沖縄戦の集団自決が問題になっているが、この23日のわたしの知っている状況を言うと、文科省は3月に検定結果が公表されたときには、「日本軍は集団自決の命令は出して無い、だから、日本軍の強制はなかったのだ」と非常に乱暴な言い方をしている。これは慰安婦問題で「強制連行せよとの命令書はないから、慰安婦は強制ではなかったのだ」と同じ構造です。「ある軍命令が文書で無いから全体の強制自体が無いのだ」という論理とまったく同じだと思う。

沖縄戦は日本の侵略戦争のまさに行き着いた先!

集団自決についてはいろいろな要因がいくつかありますが、非常に大きいのが、次のようなことです。「アメリカ軍につかまると女性はみんな暴行される、男たちは戦車やブルドーザーで轢き殺される、どちらにしても女も子どももひどい目にあわされる、皆殺しにされるんだ」ということが日本兵から繰り返し叩き込まれた。特に沖縄では10万人の日本兵が来ましたから、学校とか公民館とか、一般の民家にも宿泊していた。山西省を経験している部隊ですから、中国での経験を話す。女は暴行されるというようなことが話される。当時日本軍は絶大な信頼を得ていましたから、日本軍でもこんなひどいことをするのだ、まして鬼畜であるアメリカには何をされるか分からない恐怖心を持った。それが単なる宣伝ではなくて、日本兵たちが自分たちが実際中国でやったことを話すわけですから、ますます実感として受け取られる。だからアメリカ軍には捕まってはだめなのだということが、徹底されてしまう。捕虜になるなというのはもともとは軍人に対しての言葉だった。住民に対してもそれが強要されてくる。「捕虜になるな」等という命令は出さないだろう。当時、10代、20代だった人は共通の経験があると思いますが、住民であっても「米軍の捕虜になってはいけない」と信じ込まされていた。これも元をたどると誰が出した命令か分からない。まさに日本軍が一般の民間人にも叩き込んでいったことはまちがいない。もちろん学校教育などでもされる。慶良間列島の場合は小さな島ですから、逃げ場も無い。米軍につかまるわけにはいかない。つかまればひどい目にあわされる。渡嘉敷でも、座間味でもあらかじめ日本軍から手榴弾を渡されている。手榴弾を渡すときに、「いざというときはこれで自決しなさい」という形で渡されます。手榴弾を渡すときに「自決しなさい」と言わなくても、住民に手榴弾を渡すことがどういう意味を持つのかということを、当時その中に入れば明確なわけです。「自決しなさい」と言われた人もたくさんいます。いわなくっても手榴弾を渡すということは、何を意味するのかは明確なわけです。アメリカ軍は住民と分かれば保護する。だから住民が出て行けば保護してくれたわけですが、住民は生き残るという選択肢が無いと信じ込まされている。そんな中で集団自決が起きていく。教科書の記述だとこれを「日本軍によって集団自決を強いられた」あるいは「集団自決に追い込まれた」という表現をしている。そういう事態を一言で表すとそういう表現になる。文科省は「戦隊長が自決せよと命令をしないから、強制とは言えない、追い込まれたというのもだめだ」という非常に乱暴なやり方をやっている。沖縄戦は日本の侵略戦争のまさに行き着いた先である。日本のアジアの人々に対して加害・残虐行為が、逆に日本人自らに跳ね返ってきた。そうした事態だと考えるべきです。

レジメの4ページ目、「軍命令がないから強制では無い」という論理は、慰安婦問題でも集団自決でも使われます。元官房長官、河野洋平が10年ほど前にインタビュー(朝日1997.331)に答えています。「本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明らかだった。こうした問題で、そもそも 『強制的に連れてこい』と命令して、『強制的に連れてきました』と報告するだろうか。当時の状況を考えてほしい。政治も社会も経済も軍の影響下にあり、今日とは全く違う。国会が抵抗しても、軍の決定を押し戻すことはできないぐらい軍は強かった。そういう状況下で女性がその大きな力を拒否することができただろうか」と言っている。実にまっとうな歴史認識だ。これは慰安婦問題に関して言っていることだが、まさに沖縄の人たちが置かれた状況と全く同じです。

被害者の証言は信用しない!

レジメの5ページ、6ページをご覧ください。文科省にしても「新しい歴史教科書を作る会」またはそれから分裂した人々にしても被害者や住民の証言は信用しない。中国人の証言は信用しない。インターネットでもそういう人々がたくさんいます。沖縄戦に関しても1982年のときに、教科書で「侵略」を「進出」に書き換えさせるという問題が起きた時に、沖縄戦における日本軍の住民殺害が、検定で削除される。「日本軍の住民虐殺は教科書に書くな」という検定がされる。約1000頁あまりある「沖縄県史」という膨大な証言が集まっている証言集がある。この県史を執筆者が根拠にして「この中に日本軍の住民殺害の証言がたくさんある。これが根拠だ」と出したら、調査官は県史というのは証言を集めただけで一級の資料にはならない。だからこんなのはだめだ」と否定をするわけです。元慰安婦の方たちの証言もそうですし、被害者の証言はいっさい信用できないのだと切り捨てていくその手法がずっと一貫している。全体の状況から切り離して、一点から否定するという手法もそうです。部隊戦隊長の命令、今自決しなさいという命令がないから、強制が全部ないのだというような検定なのです。

沖縄戦に関してでも、「金ほしさに嘘をついている」と言っている。元「慰安婦」の方たちは日本政府からの金ほしさにああいう嘘をでっち上げている。沖縄戦においても戦傷病者戦没者遺族等援護法の金欲しさに軍命という嘘をついている。被害者は金欲しさに、日本軍が命令したとかという嘘をついている。そういう形で否定する手法は全く同じだ。だから、マレーシアの簫さんの証言やマレーシアの人々の証言などは、全く相手にされない。命令書で残っているのは「治安粛清しなさい」というようなもので、「子どもまで殺せ」などという命令書は残ってないですから、そんな事実はないとか、または一部の者が間違ってやったことに過ぎないという言い逃れで処理する。

加害を否定すると起こる反発!

今回の沖縄に関しては、沖縄県議会、41の市町村全部で検定撤回の意見書があがっています。自民党も含め、政党政派を超えて「この検定はおかしい」と言った。日本が南京虐殺を否定するとか、マレー半島の虐殺はゲリラを殺しただけだということになると、中国、韓国、マレーの中国系の人々が反発する。そういうときには政治的違いを超えて反発するわけです。その構造というのは全く同じです。日本が残虐行為を否定する。それに対する反応として出てくる。「韓国や中国は、日本の侵略のことをいつまで言うのか」という言い方をします。彼らは普段から言っているわけではない。きちんと日本が事実を認めてくれれば、それなりに納得するわけです。日本が否定すると、それに対する反発として出てくる。必ずそうです。ですから、向こうから持ち出してくるわけではなくて、日本が事実を否定すると、「それはおかしいじゃないか、事実はこうだ」といって人々が証言を始める。それを新聞やテレビが取り上げる。その記念館や記念碑を作る。そうすると日本で、あれは「反日キャンペーン、反日教育」だとレッテルを貼ってしまう。そのパターンを繰り返している。本土の側では沖縄の全体がまとまるのを「ファシズムだ、反日キャンペーンをしている」という言い方で全部否定しようとしている。沖縄の人々の痛みというのは、蕭さんなどのマレーシアの人々、中国、韓国の人々の痛みと全く同じです。否定しようとする人々は同じパターンで、同じ思考方式で否定してくる。ですから、沖縄の問題は、けっして沖縄だけの問題ではない。いろいろなところで共通する問題だと思う。

なぜ いま日本の戦争責任が問われるのか

レジメの6ページ、「なぜいま日本の戦争責任が問われるのか」のところです。「慰安婦」問題との関係で少し話します。2007年の7月30日、アメリカの下院で日本軍慰安婦問題に対する決議がほぼ全会一致であがりました。「日本政府はきちんとした謝罪をしなさい」という決議です。日本ではそれに対して「何でアメリカに言われるのか。何でいまさらこんなことがいわれるのか」という反発が強い。ハイド元下院国際関係委員会議長が決議採択にあたって「太平洋戦争を戦った兵士としてこの決議を歓迎する。女性や子どもを戦場での搾取から守ることは、単に遠い昔の第二次大戦時の問題ではありません。それはダルフール(スーダン)でまさに起こっているような悲劇的状況に関る問題です。『慰安婦』は戦場で傷つく全ての女性を象徴するようになったのです」と声明を出しています。

マイク・ホンダ議員を下で支え、日本軍「慰安婦」資料などを提供した「アジア・ポリシー・ポイント」のミンディ・カトラー代表が、下院の公聴会(2007.215)でこういう言い方をしています。「日本のケースは、今日の人道問題と戦時性暴力の理解の前例となります。将来の戦時性暴力を裁き防ぐための最も重要な手段は、性暴力・奴隷制、搾取の事実を認めるという前例を作ることです。日本軍の慰安所は、ボスニア、ルワンダ、ニカラグア、シエラレオネ、ダルフール、ビルマなど、今日の戦争や市民紛争の議論で煩雑に取り上げられる性奴隷制・戦時性暴力・人身売買など全ての問題の前身ともいうべきものでした。」

悪循環を断ち切るため〜「慰安婦」問題の解決を!

つまり、アメリカであの議会決議を追求した人々の問題意識は、何なのかということです。つまり現在の世界において、日本軍の「慰安婦」制度と同じような戦時性暴力が、世界中で頻発する。なぜ今世界でこんな問題が頻発するのか。女性の人身売買、これも戦時、平時を問わず深刻な問題となっている。売春目的で、人身売買された女性たちの主要な送り込み先は日本です。そういう女性たちのもとに買春に行っている日本の男たちがたくさんいるわけです。なぜ今こういう問題が世界で頻発するのか。世界がきちんとこの問題に対して、対処してこなかったからではないか。だとするとその出発点は何かということです。戦時性暴力をあれほど組織的にやったのは日本軍が最初であったと言っていいと思います。それに対して戦後、東京裁判でもBC級裁判でも若干は取り上げられていますが、ほとんどそれが裁かれなかった。これは連合国の問題でもある。もちろん日本が悪いわけですが、国際社会がその問題をほとんど処罰せずに、問題だと言わないで見過ごしてきた。見過ごされたことがいたるところで繰り返されている。どこかでこの悪循環を断ち切らなければならないと言うのが、彼らの問題意識なのです。日本がこの「慰安婦」問題できちんと模範的な例を示せば、世界のいろいろな問題の模範的なケースになるだろう。そのようなことがそこでは考えられている。ですから決して、アメリカ議会決議を推進した人々の意識というのは、60数年前のことを取り上げているわけではなくて、まさに今の世界の問題があると。この問題を解決するためにこそ、20世紀最初の組織的な重大な戦時性暴力である「慰安婦」問題をきちんと解決するのだ。それを日本が率先してやってほしい。ラントス外交委員長がインタビューに次のように答えています。「この決議は、日本の過去の政府の行為を罰しようというものではありません。そうではなく、日本の真の友人として、米議会は決議案121を通じて、これらの女性と日本の国が癒され未来に向かうために、日本が過去の困難な時期の出来事を全て公式に認めるよう、頼んでいるのです。そのような癒しの過程は、日本の人権擁護への取り組みを再確認するだけでなく、日本の隣国との関係を改善し、アジアと世界におけるリーダーとしての地位を強固にするでしょう。」そういう期待を込めて決議が作られている。

戦争における残虐行為は、人権問題!

1990年代に慰安所問題を一つのきっかけとして、戦争における残虐行為は、人権問題であるという、認識が国際的に生まれます。日本の中では「戦争なのだから、ああいうひどいことはあるんだ、仕方ないんだ、悪いことだけれど、かわいそうだけれども戦争だから、ああいうことがあるんだ」という言い方がされます。「戦争だから、ああいう残虐なことが起きる、だから戦争は無くそう、憲法九条はいい」という話にはなる。しかし、その発想でいくと、「戦争だから、ああいうことが起こってしまっても、仕方ない。そこで責任者を追及とか、そういうことは止めよう。あれは戦争なんだから、兵士もおかしくなって、そういうことをやったのだ。」ということで全部処理されてしまう。戦争は国家間で平和条約を結んで、賠償も払えば、それでもう終わりにしよう、という形で日本は、戦争における残虐行為を全部処理してきた。そこには重大な人権侵害であり、人権を蹂躙された人々の被害をどう回復するかという観点はどこにもない。全部国家間で処理する。戦争だから仕方ないという形で処理されてきた。マレーシアに対する賠償も貨物船二隻やったから、一応マレーシアとは決着が付いた、ということになる。しかし、これは被害者にとっては、貨物船二隻渡されても、全く関係ない話なわけです。そういう処理の仕方でいいのだろうかということが問題になっている。

責任者を処罰して、悪循環を断ち切る!

日本のメディアはほとんど報道しないのが、レジメ6ページの安保理決議1325号で、国際的には大きな決議です。その決議は「すべての国家には、ジェノサイド、人道に対する罪、性的その他の女性・少女に対する暴力を含む戦争犯罪の責任者への不処罰を断ち切り、訴追する責任がある」ことを強調する。つまり、「そういう戦争責任者を処罰してこなかった不処罰という悪循環がある。これを断ち切ろう。戦争なのだから何やってもいいのだ。何やっても許される。そういう国際社会の認識が、これだけ世界中でひどい残虐行為を許すことになっている。きちんと責任者を処罰して、悪循環を断ち切ろう」というのがこの安保理決議なのです。これを受けて、2000年に「女性国際戦犯法廷」が開かれ、その中で当然日本の責任が追及されますが、その判決の中で、連合国の責任が言われている。つまり、連合国側、国際社会が日本のこの問題をきちんと裁かなかった。それが現在の問題に繋がっている。実はこのアメリカの下院決議は、この延長線上にある。少し時間がたったのは、20019.11以降アメリカの社会が少しおかしくなってしまったためだ。やっと今、アメリカ社会が正気を取り戻しつつある。あらためて、この戦争の問題をきちんと人権の問題として、人権を回復していく問題として考えていこうということです。

ですから、蕭さんのお話も、60数年前に日本軍がやったことですが、しかしそれは決して過去の問題ではなくて、今世界で繰り広げられている問題でもある。この問題に対してどう対処するのか、被害者の人権、名誉が全く回復されないまま、蕭さんがいくら訴えても、(もちろん良識ある日本の人の中にはきちんと耳を傾ける人はいますが)日本政府は全く耳を傾けない。マレーシアの中華大会堂などは、何度も、きちんとした謝罪と賠償を行うべきだと、日本政府に出していますが、返事も何もない。全く無視されている。こういうあり方が問題だ。

「日本軍によって強いられた」と、責任の主体を明確にしている記述!

結局、沖縄の人の被害についても、あれは戦争なんだから仕方ないのだ、という形で、なぜあのようなことが起こったのかも追求されないままに、曖昧にされてくる。集団自決について、これまでの教科書で、「日本軍が集団自決に追いやった、日本軍によって強いられた」と、はっきりとした責任の主体を組織として明確にしている。あの記述は非常に重要だと思う。つまり、あたかも戦争は自然現象であるかのように、誰にも責任がないかのように、あの戦争が起きてみんなひどい目にあったのではなくて、明らかに酷い人権侵害をした主体と責任があるわけです。これを明記することはすごく重要なことです。だからこそ逆に、文科省はそれを消したいわけです。その責任の主体を消したいのだと思う。この間の動きがどうなるかまだ予断を許しませんが、沖縄戦にしても、今日の蕭さんの証言にしても、「慰安婦」問題にしても、来週は南京虐殺のシンポジュウムが東京で開かれますが、その問題も、皆繋がってきている問題です。そしてそれは今の問題だと考えるべきです。

蕭さんにいろいろ質問があると思いますので、蕭さんに答えて頂いて、必要なら私も答える形を取りたいと思います。どうもありがとうございました。

質問コーナー

 

質問「戦闘が再開されれば軍の命令など出るわけがないのは明白なことだ」と思うが?

林博史さん

戦闘が始まって、命令がいろいろでますが、それは文書で残らない。口頭で伝えられることが多いので。残らないのは当然なことです。華僑粛清の場合でも、そんなに混乱している状況ではない時でも、命令は口頭でされる。質問「米軍が上陸する前にあらかじめ手榴弾を配っていたのだからこれは強制だ」と思うが?

林博史さん

全くその通りだと思います。あらかじめアメリカ軍の捕虜になるなということ、つかまったらひどい目に合わされるということを叩き込んで、そして、手榴弾を配る。慶良間の場合には、特攻隊の基地だから自分たちはいざとなったら死ぬのだと覚悟している部隊です。日本軍が玉砕するときには住民も玉砕するんだと、あらかじめいろんな形で吹き込まれている。慶良間で集団自決が起きているのは、日本軍は全滅した、あるいは全滅するんだと思いこんでいるときに、集団自決が起きている。ところが日本軍は全然その気がないので、特攻艇は破壊して、山の中に隠れるわけです。生き残った人たちが一番ショックを受けるのが、生き残って山の中をさまよっていると、日本兵が生き残っていたということです。非常に衝撃を受けるわけです。「日本軍は玉砕するんだ、自分たちが玉砕するときには住民も玉砕するんだ」と住民に叩き込んでいた。みんなそれを信じ込んで集団自決をする。しかし、日本軍は生き残っていて、自分たちは裏切られたと知るわけです。全体として、まさに強制されていくわけです。強いられていく、追い込まれていくということは強制であるわけです。ご指摘の点はその通りだと思います。

質問

ご家族の誰がどのような状況で日本兵に殺されたのか、具体的にお教えください。

ご自分はどのような状況で命が助かったのですか。

日本語の言葉を覚えていますか。

蕭さん                          

わたしの証言は文書にしてある。経験談は500冊印刷してある。

6歳のときだったので、日本兵の日本語は分からなかった。

母親が自分の体を盾にしてくれ、母親の体の下にいて助かった。そのうちに、親戚を見つけに来たあるおじいさんが、私がまだ生きていることを見つけてくれた。そして、「ここにいてはいけない、母親も死んでしまっているし、私のあとについてきなさい」と私を説得した。近所の丘の上に連れて行き、薬草を傷に付けてくれた。

パリティンギ、カンウェイの村には残っていませんが、クランに親戚がいる。親戚の名前と店の名前を教え、連絡を取る。クランの親戚が私を迎えに来た。クランのおじさんの家には子どもがたくさんいた。だから、食糧が足りない。鶏のえさも競争でとって食べるような悲惨な生活だった。8歳のとき、インドネシアに連れて行ってもらった。18歳のときにインドネシアから戻った。

質問                                                        

蕭さん一家は、クアラビラからパリッティンギに時局が緊迫したので、避難したとありますが、蕭さん一家は、かなり裕福に見受けられますが、都市部にいると、危険があったのでしょうか。

蕭さん

もともと家族は中国にいました。中国は生活が大変だったので、マレー半島のカランの町に移住してきた。それは戦争の前です。その時は、まだ余裕があって、故郷に写真を送った。これは中国に送ってあった写真です。パリッティンギ村にあった写真は全部焼けてしまいました。写真は一枚も残っていません。この写真は、幸い故郷の中国に送ってあったので残りました。戦争が終わってから返ってきました。写真で見ると豊かに見えますが、普通の生活でした。クランの生活は、港ですから、交通が便利なので、日本軍がくるのではないかとうわさがあった。そうなると、女性は必ず捕まるといううわさもあり、母は美人だったので、髪の毛を剃ってしまった。カンウェイ、パリッティンギのようなもう少し交通の不便なところに、行けば安全だと思い込んだ。それで、町の方から、パリッティンギのほうに移動してきた。

林博史さん

ちょっと補足説明します。

都市部にいると女性は危ないというので、男手は都市部に残り、女性や小さな子どもたちは、親戚などを頼って、幹線道路から外れた奥の村に送った。パリッティンギも山の行き止まりです。あるいは、ゴム園の宿舎などです。ゴム園の宿舎は、今でも道路からずっと入ったところに宿舎があります。そういうところに避難させたわけです。日本軍は、「都市部に残っているものは怪しいものではない。むしろ奥地にいるのが、ゲリラやゲリラ協力者だ」と、どうもみなしているようです。虐殺にあっているのは、かなり道路から入っているところです。その結果、ネグリセンビランでは、女性や子どもの犠牲者が非常に多い。都市に残った大人の男は生き残って、避難していた女性や子どもたちが殺されるケースが多い。ということは、パリッティンギだけでなく全体に言えることです。

蕭さん

戦争が始まったときには、カランにいました。食糧が手に入りにくかった。都市部にいるよりも、田舎へ行けば畑で食糧を作ることもできるから、いいのではないかと思い、また、日本軍は、女性を襲うと知られていたので、安全のためにパリッティンギに移動しました。食料も充分ではなく、ミルクの代わりにおかゆのようなものを妹には食べさせた。そのような難しい状況でした。

質問

日本軍に対して、最初よい印象があったようですが、もう少し詳しく説明してください。

一番最初に日本に来たときのことを話してください

蕭さん

戸籍があれば、お米を配ると言われた。それで、我々家族も全員分の麻袋を持ち、集まった。その時は、実際はだまされたのだが、お米を配ると言われ、よい印象を持った。日本兵の中にも台湾出身の兵士もいました。「酒」と言っている台湾人の兵士がいたが、あんな状況で「酒」などと言うわけはないので、今から考えると「逃げろ」と言っていたのかもしれない。「酒」と「逃げろ」は発音が似ている。いい人も中にはいたのかもしれない。

クアラピラの追悼碑が完成してから、住民や家族はお墓参りをした。林先生や高嶋先生や上杉先生が私たちに声をかけてきた。「日本に行って話をしてくれませんか」と。その話を聞いたときに、ちょっと心配でした。知らないところで知らない人にこんな悲惨な話をして大丈夫かと心配でした。先生たちは「日本は平和な国ですから、事実を話すことは、全然問題ない。」と言ったので、考えた末、やっと納得しました。その時のことは、林先生のレジメの3ページ目に書いてあります。19888月にいろいろなところを回ってきました。最初はYMCAとかいろいろなところで話をしました。

千葉、東京、大阪、広島などを回ってきました。大勢の人を呼ぶ集会のために、皆さんが、ポケットマネーを出し、カンパもして、そこまでやってくれているのには感動しました。あまり費用が掛らないように、わたしの食事はチャーハンぐらいで充分です。このように証言しつつ、日本政府の反応を待っていました。日本政府の反応は無かったので、残念です。また、靖国神社参拝や教科書の書き換えなどを続けているので、がっかりしました。

質問

「過去の歴史を無視することは、被害者の傷跡に塩をまくようなもの、二度被害に遭うことと同じ」(07127日 神奈川新聞)と述べられています。そのことを詳しくお聞きできますか。

蕭さん                       

2次大戦でひどい目にあったことは、忘れてはいけない。高島先生や林先生たちが何度も繰り返し、追悼碑やお墓に来てお参りしてくれました。その誠意は充分見せてくれました。傷も徐々に癒えてきています。

しかし、教科書の歪曲や靖国神社参拝のニュース(マレーシアでも流れる)が流れるのを見ると治りかけた傷がもう一度痛み出します。傷跡というのは治ったあとの傷のことですから、傷跡ではなく、傷です。傷に塩を塗れば痛みます。

質問

辻政信などの軍人たちが処罰されることなく、生きき延びたが、日本の国民がきちんとさばくべきではなかったのか。昭和天皇の戦争責任も国民が裁くべきではなかったのか。

林博史さん

戦犯裁判は、連合軍が一部しか裁いてない。日本の国民がなぜあのようなことをやってしまったのか、その問題をきちんと追及してこなかった。そのつけが現在きていると思います。沖縄国民は自分の国民ですから、基本的にはあれは戦争犯罪にはならない。自分の国の国民をいくら焼こうが殺そうが、戦争犯罪にならない。敵国民に対する犯罪が戦争犯罪です。日本軍の沖縄の人々に対する残虐行為を連合軍は基本的には裁かない。そもそも、裁くという法的な考え方がないからです。日本の国民が問題をはっきりさせる必要があるにもかかわらず、日本の本土が何もやってこなかった。沖縄では沖縄戦の研究はされてますが、ヤマトの人間は誰もやらないと言うそういう問題がある。だから、A級戦犯の孫が首相になったり、A級戦犯が首相になったりする。あらためて自分たちの問題として考えないといけない。特に沖縄戦問題は、他の国はやってくれないのだから、ヤマトの人間がきちんと取り組むべきことです。

司会

これで質問の時間を終わります。最後に蕭さんお話ください。

蕭さん

マレーシアの遠いところから、来られたのは、皆さんのおかげです。特に、アジア・フォーラムとか、名前を全ては挙げられませんが、本当に感謝いたします。20年前にお会いした先生や友人に会えてとてもうれしいです。感動しました。感激の涙も出てきます。悲しい涙ではありません。マレーシアにぜひいらしてください。マレーシアにいらしたら、私の小さい店で料理を出してご馳走します。簡単な料理ですが、ぜひいらしてください。

アジア・フォーラム横浜の事務局長吉池俊子挨拶

アジア・太平洋戦争開戦のこの日に、こんなにもたくさんの方がお忙しい中、長時間おいでいただきまして、ありがとうございました。蕭さんは、10年前にお招きしましたが、今回、前回語りつくせなかったことを、存分に語りたいと、おっしゃっておられました。証言の時には胸が詰まって、前回は充分に話すことができませんでした。私はむしろそのように語られないことに、蕭さんの被害の重さ、強さを感じました。66年経った今でも、そのことを語るときに、いつもは穏やかで辛抱強い蕭さんが、涙ぐんで、胸を詰まらせ、声が震えます。蕭さんの語られるようなことを、なぜ日本が過去に行なえたのか、そして、なぜ今も本当の謝罪が出来ていないのか、悔しくて、申し訳なくて、怒りが湧いてきました。何故そうなのかということを、林先生が沖縄、シンガポール、マレーシアと壮大な展開をして、解明してくださいました。その解明によって、その問題が今に続いているんだということを、あらためてここで学ぶことが出来ました。10年前にお招きしたので、10年経ったら日本はこんな風に良くなったよと、お迎えしたかったと、林先生がおっしゃいました。その言葉で、そしてお迎えする過程で、10年間を振り返らざるを得ませんでした。この間の盗聴法イラン特措法、昨年の教基法の改定、改憲の手続法、このいくつかを取り上げただけでも、日本がアメリカとともに戦争をするレールに乗ってしまっている事を思わざるを得ませんでした。蕭さんは御足が不自由で、この寒い日本に御招きするのが心配だったのですが、直接会って日本のこの右傾化、教科書の改訂、靖国神社の参拝、そういったことについて、直接皆さんに訴えたい、二度と再びあのようなことが起きないように伝えたいと、そのような思いで、日本をこんなひどくなったからあきらめてしまうことではなく、粘り強く訴えたいと思ってきてくださったことに、蕭さんの二つ目のメッセージを感じます。つまり、私たちは、あきらめずに、粘り強く事実を伝えていかなければいけない。そのことが一番力になるのだと、今日の蕭さんの話から、私たちはしっかり受け止められたのではないかと思います。集団自決の問題についての大きな闘い、それを見ても、わたしたちは決して事実を歪める動きに対して、目を塞ぐことなく、大きな怒りをもって、私たちの意思を示していく必要があるのだということを、この間、実感として味わってきました。蕭さんに10年後、この10年で日本が少しは良くなったと伝えられるようにしたいなと思いながら、今日にお話をうかがいました。壮大なお話で、今の日本が過去と直接結びついており、過去と同じパターン、同じ方法で、また同じことを繰り返そうとしている。その問題を解明してくださった林先生、あきらめることなく訴えるために、来てくださった蕭さん、蕭さんをずっとケアーして、自身も日本の加害について調査、研究を進めながら、日本まで付いてきてくださり、通訳をしてくださった楊さん、本当にありがとうございました。皆様も長時間ありがとうございました。

(これは証言集会での証言や講演をもとにアジア・フォーラム横浜がまとめたものです)
07年証言集会案内へ