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<最終更新日>
平成28年07月12日

空港の歴史

 
◎火山灰で覆われた大地

 明治時代の終わり頃に日本の空を飛ぶようになった飛行機は、大正時代の始めには北海道の空にもその姿を見せるようになりました。
 その当時の千歳は、数十回にわたって噴火を繰り返した樽前山がもたらした火山灰、火山礫で覆われた土地で、おもな産物は、木材、木炭、薪、馬鈴薯、山葡萄などでありました。お米などの作物がならない広大な土地に村民たちは大変苦しんでいました。

◎千歳に飛行場を

 大正5年、当時の山田旦村長と渡部栄蔵村議が、現在の千歳飛行場内にあったサンナシ沢で、この農業に適さない土地をなんとか利用する道はないかと語り合い、軍の飛行場ができないかという話になりました。
 ただ、そのときは一つの夢の話に過ぎませんでした。

◎千歳に鉄道が

 大正15年8月、私鉄北海道鉄道が開通して、千歳村に初めて汽車が走りました。この新しく開通した鉄道を利用して小樽新聞社(現、北海道新聞社)が、10月に千歳で観楓会を催すことになり、役場に湯茶の接待を申し入れました。役場はそれに応えて、山葡萄、馬鈴薯、三平汁などをごちそうすることにしたところ、新聞社側は感激して、当日汽車が千歳駅に到着する時に飛行機を飛ばして、空から宣伝ビラをまくということにしました。

◎着陸場を造ろう

 村は千歳の上空に飛行機が飛ぶなら、着陸して村人たちに飛行機を見せて欲しいと新聞社に頼みました。村の人たちと飛行士が、着陸する場所を探したところ、整地すれば何とか使える場所が見つかりました。その場所こそ、山田村長と渡部村議が話し合った現在の飛行場付近だったのです。
 村では早速、「着陸場を造るか否か」の件について村民大会を開いて協議したところ、全会一致で村民自らが着陸場を造ることに決定しました。

◎無償の汗で

 着陸場を造る作業は、2日間にわたりました。大人も子供も一緒になって村民総出で手に鋤や鍬を持ち、無償の汗を流して抜根と整地をしました。そして、長さ150間(約200m)、幅50間(約110m)、面積にして7,500坪の待望の着陸場を完成させました。

◎飛行機が来た

 大正15年10月22日、酒井飛行士が操縦する「北海」1号機が札幌飛行場から千歳へ向けて飛び立ちました。千歳には、飛行場を見たいという村人たちの他、恵庭や広島、苫小牧などからあわせて約7千人の人々が集まってきました。
 朝から晴れ渡った西の空に、午後1時過ぎ、豆粒のような小さな飛行機が現れました。飛行機は見る見る近付き、人々の歓声と万歳の声があがる中、完成したばかりの滑走路に着陸しました。
 ここに新千歳空港の第1歩が始まったのです。

◎海軍の基地から米軍の基地へ

 昭和9年に陸軍の大演習が千歳飛行場で行われました。そのため村では、滑走路を拡大して、新しい千歳飛行場(4万5千坪)を造りました。そして、昭和12年には、海軍航空隊の基地(長さ1,200m×幅80m 2本)となりました。第2次世界大戦が始まると、千歳飛行場は北海道の空の基地として重要な役割を持つようになりました。
 昭和20年、日本が戦争に敗れると米軍が千歳に進駐してきました。千歳飛行場は、米空軍戦闘機部隊に使用されました。米軍は飛行場を拡張(1,050ha)して滑走路も延長(長さ2,700m×幅45m・現千歳飛行場西側滑走路)しました。その他の施設も整備して、羽田をもしのぐ第1級の飛行場となりましたが、日本人がふれることは出来ませんでした。

◎日本の空が日本に

 昭和26年、平和条約の発効を前に日本の空が日本に戻ることになり、民間航空が再開されることになりました。それに先立って、北海道の空の玄関を千歳にするか、丘珠にするかで激しい誘致合戦が展開されましたが、積雪などの気象条件、平らな地形や火山灰地のために堅い地盤、そして、将来国際空港にする環境が備わっていることから、千歳に決定しました。
 10月23日、民間の最初の飛行機「もく星号」が試験飛行で千歳に飛来して、大変な歓迎を受けました。千歳にも平和な空が戻ったのです。そして10月26日、千歳−東京間に待望の定期便が開設され、千歳空港が開港しました。

◎ターミナルビルの建設

 昭和30年代に入ると旅客数や貨物の取扱量が増え、また、民間の航空会社の他に昭和32年には航空自衛隊が設置されて共用飛行場となり、千歳空港はますます重要な役目を担うようになりました。そのため、今までの施設では間に合わなくなり、ターミナルビルを建設することになりました。
 昭和36年12月には、東側滑走路(長さ2,700m×幅45m)を新設して、昭和38年4月、民間航空専用地域の使用が開始され、2階建てのターミナルビルが開館して、営業を開始しました。

◎民間専用の空港を

 千歳空港は、昭和48年12月までに東側滑走路を長さ3,000m、幅60mに延長するなど着々と整備が進められましたが、自衛隊との共用飛行場であることなどから、航空需要の増加に対処するとともに、国際航空網の新たな形成にも対応できる民間専用空港の建設が以前から叫ばれていました。
 そして、ついに昭和48年12月24日、新千歳空港設置の告示がなされ、昭和50年11月10日に新千歳空港着工式が挙行されました。

◎国際線の就航

 千歳空港の国際化は、昭和33年に千歳市が道議会に請願書を提出したときから動きが始まりましたが、なかなか実現しませんでした。新千歳空港の建設が決まり、新空港での国際化を目指しましたが、開港の予定が大幅に遅れる見通しとなったため、千歳空港において、早期に国際化を実現しようという動きが活発化しました。国際化促進の道民大会が開催されるなどした結果、昭和56年3月23日、道民待望の国際定期便(千歳−成田−ホノルル)が就航しました。

◎新千歳空港開港

 新千歳空港は、昭和61年3月に施設変更の告示がなされ、翌62年12月、第T期工事が完成しました。そして、昭和63年7月20日、総面積719ha、長さ3,000m、幅60mの滑走路を有する念願の新しい空港が開港しました。
 平成4年7月1日には、第U期の供用が開始され、国内初の半円周型の旅客ターミナルビル(総床面積約15万平方メートル)や駐車場、JR新千歳空港駅などが開業し、名実ともに民間専用の空港がオープンしました。

◎世界へ羽ばたく眠らない空港

 平成6年6月には、わが国で初の24時間運用が開始され、国際エアカーゴ基地の実現に向け、大きな前進となりましたが、深夜便は、平成8年度以降、実際には運航されていない状況が続きました。
 しかし、平成15年11月5日、全日空の国内初となる深夜定期貨物便の第一便が羽田にむけて新千歳を離陸しました。本格的な24時間運用の始まりです。
 就航以来、首都圏における道内の生鮮品の需要が高まるなど、翌日配達の利点を活かし順調に運航されております。この深夜貨物定期便は国内線ですが、夜間就航の良き前例として国際線への波及が期待されるなど、国際物流に携わる企業各社は強い関心を寄せています。

◎国際拠点空港化を目指して

 平成7年には2本目の滑走路(B滑走路、長さ3,000m、幅60m)が完成、平成8年4月から供用が開始され、本格的に新千歳空港が機能し始めました。
 平成24年の運航実績は、国内線が29路線、国際線は12路線で、年間乗降客数は、国内線・国際線合わせて約1,746万人となっています。
 国内線利用者数は、世界的な景気後退や新型インフルエンザなどの影響を受けて、平成20年秋以降大きく減少していましたが、平成24年には国内格安航空(LCC)3社の相次ぐ就航などから4年ぶりに1,600万人を上回りました。また、新千歳−羽田線には国内4社(JAL、ANA、AIR-DO、SKYMARK)が就航し、平成24年の年間乗降客数は約940万人と、単一路線では世界最大級の輸送人員を誇っています。
 近年、特に国際線の成長が著しく、平成4年に26万人だった乗降客数も、平成14年には50万人を突破しました。翌年、SARSやイラク戦争の影響により減少したものの、平成16年には再び増加しています。その後、平成22年3月に国際線旅客ターミナルが完成し、平成24年12月には新千歳空港国際線年間出入国者数が100万人を突破しました。円安傾向や東南アジア諸国に対するビザ発給要件の緩和が影響し、平成27年は、年間乗降客数が210万人と4年連続で過去最高を更新しました。
 このように新千歳空港は、国内航空路線網の基幹空港としてだけではなく、北海道における国際拠点空港として発展し続けており、さらなる地域経済への波及効果が期待されています。 

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