確かに「精神」のレベルにおいて、もっとも尊敬する音楽家はキース ジャレットです。

ただ 僕はピアニストではなく ギタリスト(といっても、かなり特殊)であります。

作曲 や演奏の才能においても はるか及びません。

ただ、わが思いの丈を音楽に託す精神は 同じ高さ、同じ深さにあると思っています。

そこのところ、どうか ご勘弁願いたいと思います。

しかしながら僕には、音楽だけで生きているという生意気な誇りもあるのですが。

 

僕のinner viewsは、友人のmusicianに贈ったり取られたりで、もう6冊め、

通して読んだ のは7回、断片的にはまるでキリスト教徒がバイブルを開くように読んでいます。

僕の音 楽への道の地図でもあります。

あの本を読んで、音楽が思想、哲学、宗教と深く関わることを「確信」し、

今は禅を学びたいと考えています。

もちろんそれは、音楽を磨きたいから、つまり音楽の精神 性をより高めたいからなのですが。

今年の七夕、短冊に何か書け、と言われ、「キース ジャレットに会いたい」と書いたの はついひと月まえのこと。

 かく言う僕は Keith Jarrettのステージさえ見た事がありません。

 会って、話をしたいと思っています。

一連のソロ作品の精神性は高く、ケルンを凌駕するものも多々ありますが

僕は 「BELONGING」「PERSONAL MOUNTAINS」「MY SONG」など、

いわゆる「ヨーロピアンカル テット」も大スキです。

ヨン・クリステンセン、パレ・ダニエルソンのリズム隊に、ヤン ・ガルバレクのサックスがあまりにも素晴らしいです。

 僕は「ただ美しいのではなく、時には毒毒しい」キース・ジャレットの音楽に惹かれま す。

それをあえて表現する、表現者としての潔さ、それに伴う苦悩や痛みを超越した(時 には人を拒むような)強さに、

彼の精神の本質があるように思えます。

信奉者のひとりとして、彼の音楽を聴く人のすべてが inner viewsを読むことを祈りま す。

何かに衝き上げられて 音楽専業の道に立ち、とにかく「他人のフンドシで相撲をとる」

 要するに「他人のかいた曲で生計を立てるジャズ・クラシック」の世界と、

「売ることに 重点をおいた音楽」に反旗をひるがえし、異論を唱え続けましたが、

反感だけを買ってし まいました。 ただひとりの味方が、キース・ジャレットだったのです。

もちろん、僕のコンサートにいつも来て下さる人々は、何よりもの味方ですし、

その人々 によって、僕は生かされてきたのです。

「自分の曲しかやらない」という生き方は、同業者や興業主との軋轢を産み、

仕事もとて も少なかったので 経済は困窮を極めましたが 信じる道を曲げることはせずに、

なんとか やり通しました。 inner viewsは、僕の道が間違っていなかったことを 確信させてくれたのです。

自分の音楽だけで生きて行くなんて、「お金をくれないマグロ漁船に乗るようなもの」で す。

それでも 僕のマグロを待つ人々がいますから、また自分の音楽と言う大海原に立つので す。

キース・ジャレットとプロデューサーのマンフレート・アイヒャーの偉業は、

僕の心に、 本当にたくさんのものを刻み込みました。

 

賛辞や、激励、皆さんが話して下さるエピソードを食べて生きています。バクのごとく。 (笑)

ラウンド ミッドナイト、僕も大好きです。DVD買おうと思ってもいます。

なにせ、配役の ミュージシャンが全部ホンモノ、リアルです。

既成の、商業音楽に異を唱える僕も、才能が枯渇する恐怖とも戦いながら、

時には己を責 めながら創造を続けます。結果、死ぬる寸前まで身体に負担をかけていたのです。

でも、それは、自分の生き方を守るためだからしかたないのです。

僕は、ストレートなジャズは苦手、本当はフォーク系から今のコンテンポラリーのスタイ ルになりました。

そして、衝撃を受けたのが ECMというドイツの小さなレコードレー ベルのつくる音楽なのです。

このレーベルこそがキース・ジャレットの音楽を世界に発表 し続けているレーベルで、

ECMというその会社名は 今やひとつのジャンルをあらわす ことばになっています。

この会社の社長であるマンフレート・アイヒャーが発表する音楽の精神性と独自性は限り 無く高く、

聴き込むと、はじめて聴く音楽でも「ECMだ」とわかることがあります。

民族音楽の精神性、クラシックの美とジャズの自由を独特の組み合わせでつくりだしま す。

ここには、一切妥協なんてなく、ただ深い思いが存在するだけ。

僕の目標のひとつは、 いつか、このレーベルからCDを発売してもらうことです。

キース・ジャレットはもちろん、 初期のパット・メセニー(g)、 ラルフ・タウナー(g)、 ヤン・ガルバレク(sax)、

スティーブ・キューン(p)、 オレゴン、そして アヌアル・ブラヒム(ウード) などが僕が崇拝するECMのアーティストです。

妥協を廃し、ただ己の音楽を磨き続けるのは、修行僧の「行」と同じ、

そこには、食える 当てなどなく、それでもなお 己を磨き続けるひとびとが

今日もどこかでいのちを賭して 頑張っています。 また、己の道をあゆむことができます。

ただ口先だけでなく、これからも、「行」としての創造を続けて行きます。

それがただ、僕に示された道です。 「理解者」は、われわれを救います。

そう、僕は、音楽家で、ギターを弾くことが僕の道なんです。

しかし、「思い」を知って頂くことは、限り無く力強いのです。

 

『Spiritual、Technical, Mental の三角形』 

 その通りなのですが、テクニカルがあまりに重要視され、それが頂点に来てしまっている のが現実だと。

inner viewsは、そこのところをスパッと切りますね。

 演奏するとなるとTechnicalも技術を実践に移すMentalも テクニックとメンタルは、

スピリッツに追従するもので、メンタル、テクニックを磨いた から、と、スピリッツが追従することは有り得ません。

>どのみち趣味ですが基礎となる理論を学ぶのも今は楽しいというところです。そもそも ジャズはフィーリングで適当に演奏しているものとばかり思っていたので理論があること を知っただけでも新鮮でした。 (^-^)

 その気持ち、僕も通った道なので、とてもよくわかります。

 >即興の名人であったバッハの音楽は構造的、、、 それは類稀なる才能あってのことで、、、構造や理論を打ち破る創造力がない人はいくら 勉強しても、または勉強しなくてもどのみち一段上に行くのは無理ですね!

 一部の音楽理論は「自然科学」以外の何物でも無いですから、意識しなければしないほ ど、自然のシステムに近付きます。

それを無理矢理打破しようとしたところで、素晴らしい音楽ができるとは限りません。

コンテンポラリーの命題(公案)は、いかに自分に忠実であるか、です。

理論や構造はそ れについて解析、統合整理した物であって、音楽の前に理論は存在し得ません。

創造は、捻り出す物では無く、己の内面にある精神や魂を音やかたちや色に現すことです から、

自分の内面と対話する能力を磨く作業です。

それを公に曝すかどうかは別の問題と して。

キース・ジャレットのタイトルはほら、inner views、でしょ。

創造とは、自らの才能を受け入れる作業でもありますが、それができない時、非常な苦を 覚えます。

 それを乗り越える精神力こそが才能と呼ばれる物の一つかも知れません。

 

作品を演奏することで、作家と自分を重ね、同化するのでしょうか。

僕にも、とても短い間だけれど、そんな時期があったかも知れません。 人

が、その人自身であることは、それだけで素晴らしい才能です。

 創造を生業とする者には、 自らの感性に従って表現する義務がある。

僕が話したのは、音楽を生業とする人間のことです。

表現者には表現者としての責任があ るのです。

僕には、他人の曲を演奏している時間はありません、

 明日、生きている可能性が、以前 にも増して低いのですから。

たった一つの音も無駄にできないのです。

わかってもらいにくいかも知れません。

僕は、死ぬ瞬間も表現者であらねばなりません。

己の、生き様のために。

 

 

映画では「恋のゆくえ(fabulous Baker boys)」という売れないピアニストの兄弟のス トーリーが大スキです。

音楽はデイヴ グルーシンというピアニストがやっています。

デイヴ グルーシン、大スキですなんです。

キース・ジャレットに比べて、完成された緻 密な曲を書きますが、18年前の日本公演ではアドリブをバリバリ弾いていました。 MIGRATIONと言うアルバムが僕のオススメです。

彼は他にも、ザ ファーム、 ミラグロ〜奇跡の地(おすすめ、でも意味不明)、ハバナ、 トッツィー、チャンプ などの音楽も書いています。

 

 

音楽映画では 「ギター弾きの恋」も、チープですが良。

あと、往年の名作 「sound of music」! これは、素晴らしすぎます。

いつも、同じところで涙がこぼれます。

inner viewsのなかで、共感できない唯一のパートが、

「作者の意図を探る必 要は無い」というところなのです。

 inner viewsと、ケルンのスコアの本人による解説において 違うことを言っています。

僕は自分の音楽を僕を知らない赤の他人に演奏して欲しくないです。

僕の音楽は、他人が 演奏しても意味がありません。

演奏するなら、その曲がどんな思いでできた曲なのか、尋ねてほしいし、曲は僕自身だか ら、

音だけを捉えて弾かれることは本意ではありません。

大切なのは、出来た曲ではな く、精神ですから。

事実、そのようなことがありましたが、妙な不快感を覚えたのです。

それは、僕の音楽が、他人が演奏するのを前提にして作曲したものではないからでしょ う。

そして、「表現のかたちのひとつ」として表現された「音楽」は、

それをつくった「精神 や魂」にくらべて、そんなに大切なものではありません。

 そのかたちが、常に変化し続けるからでもあります。

僕が音楽をつくり、演奏する行為は「思想、哲学」ですが、 他人の曲を演奏するのは、

僕にとっては「考古学」です。 作家の思想を探ることやinner viewsを読むのは哲学です。

考古学は僕の生き方の対象ではありません。

 いくつか、他人の曲を演奏することがありますが、いずれも 歌詞のある曲で、

そのうた の意味に従って、自分の思いをのせた即興を加えて演奏します。

スタンダーズトリオについてkeith Jarrettが書いているように、「詩」を再重要視しています。

僕は、「創造、表現者」であり 思想家であります。 「考古学者」ではありません。

考古 学は興味の対象ではありません。

同じ音楽でも、これらのそれぞれを演奏することの意味は、 精神性をもって、まったく 別の次元のことです。

 

 

何年も前に、1ヶ月に40本の映画のビデオを見た のですが、、

特にデイヴ・グルーシンが音楽やってるのを選んで見ていた んです。

作曲家や音楽監督で映画を選ぶあたりは、さすが変人ノダゴローです。

 

 

さて、演奏のこと。

コードは、地図なんです。自分がどこにいるのか、どこへいくのか。。。

でも、気にせず に、弾きたい音を重ねてみてください。

詳しく書くと理論書が一冊できますので詳細は割愛します。(笑)

日本でJAZZを学ぶと、コードとスケールの関係から、理論で音楽をつくる方法や、

論理的 システムでアドリブを構築する方法を教わる、または、覚えます。

しかし、その理論の ほとんどが、「既成の」「なんら面白みのない」「月並な」アドリブを生む「元凶」で す。

本来JAZZとは 破壊、逸脱、創造の音楽なはず。

なのにみんなが同じ理論上の方法 論でJAZZを解釈し、

この理論を知らない人を馬鹿にしたりする世界。

本来の目標とはほど 遠い、創造を排除した、論理的に構築された音楽がそこに現れる。。。。

極めて「日本人 的」であります。

「プロミュージシャン」のほとんどは曲をつくらず、他人のふんどしで相撲を取る。

そし て理論の「枠」の中でアドリブを「こなす」。ジャズは、そんなんじゃ無いと思うのです が。

システムで音楽をするから、そこに精神や感情は存在し得ない。

 なのに、聴衆は、雑誌やTVが騒げば、自分で判断せずに飛び付き、それが素晴らしいと 思い込む。

JAZZには、アドリブを駆使して 最大の「表現」を試みる、「最先端」のイメージがある のですが、

今のJAZZの実態はもっと「画一的で非創造的で。。。」です。

ただ、「聴衆が知ってる曲をのぞむ」から、しかたないのですが、だからって、

自分の音 楽を突き詰めないのは、いわゆる「迎合」以外のなにものでもない。

そして、聴きに来る 人がいなくなるのを恐れて、それ以外できなくなる、結果、新しいことをしなくなり、

聴 衆は飽きてしまう。巷には「だれがやっても同じJAZZ」が溢れかえります。

古いはずの民 族音楽の方が逆に斬新で、なぜなら、

民族音楽は、その「方法論」が画一化されていない ことが逆に幸いしているからです。

それを「現代化したのがコンテンポラリー」ということになるのだと思います。

僕は、standard JAZZを演奏しませんから、それを演奏する楽しみを知りません、

それよ り、自分の音楽をつくるのに必死、です。

曲をつくらないプロミュージシャンにこの話は、まったく通用しません。

悲しいことに。 曲をつくることをやってみてください。 キース・ジャレットがいってることが より深く、感じられると思います。

 

キース・ジャレットが 89年に出版した本にわざわざ手を加えてまでinner viewsを出版し た理由は何でしょう。

その生き様を知らしめたいからではないでしょうか。

 inner viewsは、僕の生き方が間違っていなかった事を確認させてくれた本ですが、

inner views(その元の本)がなければ、僕は今も迷い続けているかも知れません。

彼は、コンサートの客に説教をした時期もあるそうです。

なぜ? 「聴くな、弾くな」とは言わないと思いますが、その精神や哲学は知って欲しいと考えて いるはずです。

でなければ inner viewsは何? ということになります。

そして、ケルンの楽譜の前書き。

「覚醒した聴衆」が必要である、とも言います。

やはり、味方が必要なのです。

創造は孤独です。

才能が、創造が途切れる恐怖。

自分 のフンドシだけで相撲を取り続ける。

即興、ただの音の羅列では無い、すべての音に魂 を入れる精神力。

誰が、理解し得るでしょうか。

音の羅列と化したJAZZ、作家の魂をしらないクラシック、僕は、これらを音楽とはいいた く無い。

「ほんとうの音楽家なら、自分はこうは弾きたくないと思う。」

「ジョージ・ウィンストン、音楽の美しい部分だけを切り取り商業化した最低のもの」

というのは 誰あろう、キース・ジャレットその人。

彼も人間、それにinner viewsの元のインタビューからはすでに15年以上、

inner views発 売からももう3年。 彼の中でもたくさんの事が変っているでしょうが、

inner viewsは、 彼が「知って欲しかったキース・ジャレット」がそこにいます。

「ケルン」は素晴らしいですが、彼には単なる通過点、

そう、演奏されたその瞬間にのみ 意味をもつもの。しかもすでに25年以上が経過。

彼が言いたいのは、「創造せよ」という事。 ケルンのあの前書きには「苦悩」が見てとれます。

あれを出版するのは 彼の本意ではあ りません。

きっと。

あの楽譜は僕が謎に思う事のひとつです。

ひとつは、出版した山下邦彦のエゴだとも感じます。

残念ながら、そして幸い、僕はキース・ジャレットではなく、

ノダゴローというひとりの 単なる創造者です。(才能が枯渇しなければ。)

創造者の立場からしか inner viewsを読む事は出来ません。

この会話によって、僕が音楽にどう取り組んでいるのか、再認識することができました。

 やはりそれは、inner viewsという本のおかげ、そして 大きな勇気で僕にメールをくだ さった

あなたのおかげでもあります。 今後も、頭に来なければ、すべてをぶつけてください。

僕は自分自身にたくさんのことを 問うことができます。


2004年9月    ある人から頂いたMAILへの返信、ほぼ全文。