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第7回 ACkid 2012

ACKidは異なるアーティストが協動して舞台を造り上げていく表現の試みです

第7回

アート コラボレーション



会 期:2012年4月22日()〜29日(
時 間:
開場18:30 開演:19:00
入場料:予約2,000円 当日2500円
会 場:キッド・アイラック・アート・ホール マピオン(地図検索サイト)の地図を見る
   156-0043 東京都世田谷区松原2-43-11





<プログラム> 開場18:30 開演19:00
2012年4月
      
4月22(小宮伸二+吉本裕美子 記録
      (開場16:30 開演17:00 この日のみの時間です)   
     
4月23(月)ヒグマ春夫+木村愛子 記録
       
4月24(火)沢田滋野+七感弥広彰 記録
      
4月25(水)安藤栄作+岡佐和香+添光 記録
     
4月26(木)フリオ・ゴヤ+若尾伊佐子 記録
     
4月27(金)李容旭+小野明子 記録
      
4月28(土)関直美+森下こうえん+風人 記録
        

4月29(ヒグマ春夫+吉本大輔 記録



●お問い合わせ先
キッド・アイラック・アート・ホール
TEL:03-3322-5564 FAX:03-3322-5676
メールでの予約・問い合わせはこちらから


京王線・井の頭線「明大前駅」下車、徒歩1分

照明:早川誠司
企画:HIGUMA
主催:ACKid実行委員会
協力:KID AILACK ART HALL
   CT-Project



第7回 Ackid2012                                                                     宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

4月22(日)小宮伸二+吉本裕美子
既に、吉本裕美子はアコースティック・ギターを断片的に鳴らす。水が滴る音が、スピーカーから流れている。小宮伸二による水滴を受け止める作品が5台、客 席のところどころに置かれている。吉本が演奏する舞台には不透明の紗幕が張られ、6台目の作品の水の揺らぎが投影される。

吉本は僅かなハウリングを生み出すアコースティック・ギターを床に置き、鉄琴を手持ちで鳴らしながら舞台を巡る。作品にマイクが付けられ滴る音を拾うと同時に、会場外部の音、録音された音さえもスピーカーを通して聴こえてくる。この日は雨だった。

吉本が卓上に鉄琴を置いて叩くとマイクが音を拾い上げ、会場の広さのためか不可思議なエフェクトが自ずとかかる状態になる。吉本はエレクトリック・ギターを手に持ち、E-bowを用いてヴァイオリン奏法を始める。

吉本は、単音を噛み締めるように弾き続ける。5台の作品から滴り落ちる水滴の速度は恣意的で、それぞれ異なっている。小宮の作品が生み出すのは現象である。吉本はそれに従う。まるで時間が止まってしまったかのような錯覚に陥る。

吉本はアコースティック・ギターのスイッチを切り、エレクトリック・ギターをミュートしながら弦を弾いていく。楽曲を用いず即興的な取り留めのない演奏 が、却って功を奏している。小宮の形成する水滴と雑踏音、吉本が生み出す楽器による音楽は、互いに吸い込まれては立ち昇っていく。

吉本は様々なエフェクトを駆使して、素早い単音を繰り広げる。それは、線を揺るがせ、面を塗っていくような感触に等しい。雷鳴のような音が響き渡っても、ギターをプリペイドし、吉本は粘り強く続ける。

吉本は再びアコースティック・ギターのスイッチを入れる。音をループし、ギターを床に置き、外へ出ると公演は終了する。時計の針は18時10分を指していた。

小宮のインスタレーションのシリンダー、吉本の演奏の振動スピーカーと、極めてアナログの感覚を捨てないコラボレーションが行われた。それにより美術、音楽を超越する機運が齎されていく。

そもそも小宮の作品は「作品」と呼ぶよりも「装置」に近い印象を受ける。受け皿の形容、照明の当て方など、綿密な計算が施されているのは前提としても、主役となるのは水滴である。水滴は自然物であり、人間が構築した人工物とは大きく異なる。

吉本もまた「演奏する」というよりも、ギターを素材として音を「発生させる」というスタンスを保ち続けている。当然ギターで無くては鳴らない音を研究し、それに相応しいエフェクターを使用していても、吉本は音のマッス=塊を現場に投じていく。

水滴と塊、この抽象的な素材は幾らでも他の要素へ変容することが可能である。互いに入れ替わることも可能であるし、異なるエレメンツとして闘い、響き合うことも許される。最早、視覚か聴覚かは問題ではなくなる。

美術作品は固定化され、音楽作品は現象的であると認識されることが多々ある。しかしそれらがその根底に到達することが可能であるのならば、その主張は同一である筈だし、何よりも小宮の作品は現象的であり、吉本の演奏は固定化される。

小宮の作品で重要なのは水滴という自然物であると定義したとしても、その水滴は指先の間から砂が零れ落ちるように、視覚的にも、記憶的にも通り過ぎてい く。留まることがないのだ。水滴すらも作品の枠から外れていくのであれば、何が小宮の作品なのか、定義することが不可能となる。

同じように、吉本の演奏はその都度、食い込むように固定されていくのではあるのだが、リズムや旋律といった概念を携えていないために、忘却の彼方へ投じら れていく。記憶されつつも忘却されるマッスは、演奏される瞬間のみを意識として留め固定される。瞬時に凍りつく絶対零度の世界に等しい。

しかし、二者に共通する事項とは、実体が存在しない点にある。公演が進む度に、二者の作品の存在は失われていく。しかし二者の作品は会場にいるものを幻惑しない。虚構もまた、ここには存在しないのだ。この特質により、観客を含めた会場に一体感が生れた。

それは時間の経過すらも忘却させる力を持った。時間感覚とは、前の時間に対し今進んでいる時間の間隔が新しい時間を生み出す合図となっていく。小宮と吉本が生み出す水滴と塊は、この間隔を余すことなく消滅させたのであった。

時間の間隔の消滅、それは、我々の体内に流れる血液が水滴と塊と同化したことを示すのかも知れない。我々は意識して自己の鼓動を確かめることなく、日々の 生活を続けている。そうであるのならば、鼓動を意識することが、芸術と向き合い、自覚する証左になるのではないだろうか。

我々は生きるために文化は必要ないと思い込んでいる。しかしこの公演のように、生きることが即ち文化であることを自覚すると、我々は文化がなければ生きていけないのではないかという問いを発することができる。

4月23(月)ヒグマ春夫+木村愛子
無音の中、ヒグマ春夫は手持ちの小型カメラを持ち場内をとらえ、舞台後方壁面右上にライブ映像として投影する。舞台左前には砂が盛られ、右奥に木村愛子が横たわっている。更にその奥に、ビニール袋が積み上げられている。

ヒグマは木村の手、肩、背中をとらえていく。暗いためか、映像はモノクロームに投影される。ヒグマは客席に角度をつけてカメラを向け、再び舞台へ戻す。木村にスポットが投じられる。

木村は素早く手を動かしては沈黙する。その動きは機械的となり続いていく。照明が明るくなっていくと、床一面に黒いビニールシートが敷かれていることに気が付く。木村は足と腰で座る。

舌打ちするような音が響き渡る。砂の山にオレンジ色のスポットが当たり、木村は四足で素早く場内を巡っていく。照明が床を強く照らすと、客席右前に水が入ったガラス瓶が二つあることが認識できる。

木村は頭部を床につけ、両手を掲げる。そして、立ち上がっていく。舌打ちの音にノイズが重なる。木村はゆっくりと前に歩み、止まるとライブ映像も止まる。砂の山のみにスポットが当てられる。

木村は右壁面に寄り掛かり、体をうねらせる。足を大きく開き、素早く大きく移動する。木村のダンスは緩急が利いている。床に肩をつけ、砂の山に近づく。立ち上がり体を揺すり、跳躍を繰り返す。

木村は後方にあるビニール袋を一つ持って振り、頭に乗せて止まる。ゆっくり前に足を踏み出す。左奥へ向かい、左右に歩を進める。ノイズが止まり、舌打ちの音のみとなる。ヒグマは右壁面に映像を投影する。引き伸ばされた写真のようで、機械に見えるが認識できない。

木村は後方壁面中央で右足をあげ、両手を上に大きく踏み出す。もう一歩、更にもう一歩と歩を進めていく。指先のライブ映像が投影される。舌打ちの音が大きくなっていく。ヒグマは自らの手を小型カメラで写し、舞台にレンズを向けると閉じる。

腰を落とした木村は膝を抱えて揺れる。その振幅は、次第に広くなる。舌打ちの音が止まる。木村は踵と腰で床を進み、両手を掲げて立ち上がる。木村は自らの髪の毛を抜き、砂の山の上に落とし、砂と自己を一体化させる。

木村は素早く床を巡り、左肩を軸に足を上げ、倒れる。立ち上がり、旋回を繰り返す。ホワイトノイズ音が響き渡り、天井からのライトが点滅する。木村が砂の山に手首を入れ、乗っていくとノイズ音は止まる。

木村が自らを砂の山に埋めていくと暗転する。後方壁面に、ソラリゼーションされた木村が海に踊る動画が投影される。現地で録画された音が鳴り響く。木村は右手をゆっくりと上げ、砂を落とすとジェット音が渦巻く。

映像の中で、会場にある水の入ったガラス瓶を木村は持ち上げる。ジェット音は海岸の風の音か、映像と同調している。映像は、水の入ったガラス瓶に迫る。水の入ったガラス瓶は波に浚われ、飲まれていく。

映像が閉じられ、木村が砂を舞台に撒くと、凡そ一時間の公演は終了する。

ここ数年、ヒグマと木村のコラボレーションは幾度となく行われている。今回の公演は、ヒグマの映像が最小限に抑えられ、木村のダンスが中心となって行われ た。木村のダンスの記述を行うと、歩や動きを「進める」ことが多かったことに気が付く。木村はヒグマに与えられた3.11のテーマに対して、歩を進めるこ とを辞めない覚悟を示したのだ。

最小限といっても、ヒグマの映像は公演に強く作用した。ライブ映像を投じたことによって、木村は実体と映像という二重構造と化し、その後ヒグマは会場に水 の入ったガラス瓶を置き、その上で録画した映像を投影し、ガラス瓶の二重構造を示した。当然、木村とガラス瓶は互いを象徴し、その存在を入れ替えている。

木村もまた、砂の山と海岸の風景の二重構造を形成し、そのどちらでもない地点にまで、自らを消滅させた。木村はヒグマの映像に同調しないことによって、公演の立体化を計ったのではないかと私は解釈する。

そこで重要になるのは、木村のダンスそのものである。今回、木村は自己の持ち味である身体性よりも内面の発露を強調した。懇々と湧き出てくるもの、時間をかけて滲み出て来るもの、見るものが残像に焼きつくものを創作し、創造し、瞬時に組み立てることが可能となった。

更なる飛躍を求めるのであれば、何故、そこで踊るのかといった根源的な課題が残されていくのであろう。体がある、場所がある、踊りがあるといった発想では なく、踊りがある、場所がある、体がある、だからどうすればいいのかといった、視線という目的が収斂された状態に身を置き、その上で作品となればいいので はないだろうか。

ダンスとは、実は身体などどうでもいいのだ。勿論、コンセプトを重視せよという意味では決して無い。ダンスと身体と自己は異なる。自己が存在すること、そこに確信が生れれば、踊りである意味が発生すると私は考えている。

4月24(火)沢田滋野+七感弥広彰
沢田滋野は和紙に円形の図像を刷った作品を、天井から吊り下げた。開演と同時に作品には青いライトが投じられ、全く異なる作品に変容する。七感弥広彰は客 入口からキャラクターの着ぐるみを着て入場し、作品を見上げる。腕を組み、下を向く。左右の手を掲げ、作品の円を体に採り込んでいく。

沢田の作品は、舞台中央にも丸めて置かれている。七感弥は腕を大きく回し、作品と自己を区別する。無音の状態が長く続く。七感弥は腕を揺すっているだけではない。足の裏、膝、腰という全身を通して舞踏を繰り広げる。

七感弥は摺足で横に移動し、作品に背を向けたまま大きく体を開き、床に背を付け両手両足を強く振る。腰で座り、体を引き上げていく。動きによって脱げた着ぐるみの帽子を被りなおし、四足で場内を隈なく巡る。

後方壁面左右に床から天井に向けて、光が発信している。素早く立ち上がった七感弥は手を叩きながら、後方壁面前で両手を広げるポージングを繰り返す。広げた両手を痙攣させ、音楽のようなリズムを生み出していく。

跳躍し、倒れ、止まる。腰で座り、沈黙する。それは長い休符を育んでいるようにも見える。座ったままゆっくりと着ぐるみを脱ぐと、青いシャツが浮かび上がってくる。七感弥は立ち上がる。

背を向け、右手を大きく揺らして動機とする。その動きは左手に派生する。こちらを向き、腰を屈め、水平、垂直、勾配をつけた自在な両手の動きに体が導かれ、床を伝って四足の移動となる。

この四足の移動が、重力を90度転換させたように見える。すると、立ち上がった垂直性が強調されるのだ。再び床に到達すれば、見る者は自己の磁場を完全に喪失するのであろう。宙を漂うのではなく、地に足をつけているからこそ可能な動きが、舞踏なのである。

七感弥は速度を上げていく。すると、実は吊り下げられている作品に磁場が存在していることに気が付く。作品の奥行きが明確化されていくのだ。我々は七感弥の顔、即ち頭を中心に見てしまう。ここに作品の中心が移動しているのだ。

掌が中心となった周りを廻っていく。つまり我々は、作品の中心、七感弥の顔、掌という二つの顔、計四つの中心が渦を巻いていることを確認することができるのだ。それは七感弥が下を向き、右掌のみを振ることによって消滅する。七感弥は次の段階へ移行する。

摺足のステップは、実は膝の動きからきている。七感弥が足音を立てたとしても、重要なのは膝の存在である。折り畳んだ屈強な膝が舞踏の特徴とされる。七感弥はその膝を固定するのではなく稼動させることにより、自らの舞踏を示す。

七感弥は声で合図を入れる。不確かなピアノと電子音が断片的に聴こえてくる。七感弥は両掌を主に下に向けて舞踏を発信していく。舞踏の持つ地の霊への賛歌であると共に、吊るされた作品を更に天空へ、床置きされた作品を更に地の底へ移動させるための舞である。

七感弥は音の激しさに反応し、舞踏の速度を上げて後方壁面の領域へ移動する。中央で上半身を落としたかと思うと、素早く全身を巡らせる。伝う床が最早現実と化しても、七感弥は現実の中で喘ぎ、蠢き、存在する。

ピアノの音色が止まると、七感弥は深く息を発する。右手を背中へ、左手を闇の中へ差し込ませ、この世に存在している不確かさを実感させる。そこから抜け出そうとしても抜け出すことが出来ない不条理な現実が明かされていく。

それは作品に生命が投じられていようとも、作品は自らの力のみでは生きることが出来ない不可能さを解き明かしているようにも感じる。作品は、見ることによって生命が吹き込まれるのだ。それは、舞踏も同じことである。

再び断片的なピアノが遠くで鳴る。七感弥は作品と向き合い、足場を作り、腰を入れて両手を巡らせる。それは二つの作品の間の空虚を埋める役割を果たしていく。そこは七感弥の心臓が脈打っている位置と同じ場所だ。

目を瞑った七感弥の右手が緩やかに横へ伸び、脇腹と腕の間に空間が巻き起こる。腕を下げたとしても、その空間は何時までも会場に漂っている。七感弥は扉を開け、腰を落とし呼吸を整える。中と外を入れ替えた瞬間、41分の公演は終了する。

終了後、七感弥は語る。「この作品は人の体の前と後ろ、前と背中という両面がある。それに対して自分の二面性、対極ではなく一つのものであると受け止めら れたいと思います」。正面から見ると作品も七感弥も面に見える。その面に奥行きが生まれ、渦を巻き、立体化しただけではなく、作品と七感弥には裏面=背中 も存在したのであった。

問題はその狭間に何があったのかということになる。舞踏は自らの体の中を空にすることに意義が発生する。その空とは何かを問うことが、沢田の作品と共演し た意味と化していくのであろう。そこに舞踏と美術の本質が隠されている。空と無は異なる。根源的な空とは充足している状態かも知れない。(この原稿は、坂 田洋一撮影の映像に拠った)

4月25(水)安藤栄作+岡佐和香+添光
舞台左側には平台が5×2段積み上げられ、弓が置かれている。右側には3×1、1×1の平台が積み上げられている。右奥は地下に通じる扉が開かれ、靴が置かれている。中央には花が供えられている。

安藤栄作はこの日、映像のみで参加した。ヒグマ春夫が正面前方からプロジェクターにより映像を後方壁面一杯に投影する。暗転後、安藤が木を斧で刻む実写が投影される。次々とリズミックに木が刻まれていくのを目の当たりにすると結構、恐ろしい。

右奥から、笠を被った岡佐和香が階段を上って舞台へ出てくる。膝を曲げたまま、中央へ向かう。映像が止む。風が吹くような微細な音が聴こえてくる。添光が何処かで演奏しているようだ。鈴を鳴らす足踏みとヴァイオリンの底を叩く音が、交互に鳴り響く。

岡は腰を平台につけ、右爪先を立てて両手を捩っていく。添光は旋律を奏でていく。岡は肘と膝をこよなく使ってポージングを展開し、腰が平台から外れる。添光は細やかな音を発しながら左の平台に座り、ヴァイオリンをギターのように構えてストロークする。

岡は中央へ向かう。自己をぶらすことなく、肘と膝の柔らかい動きを続ける。添光はテンポ良い弓弾きを始める。岡は首に巻きつけた椿の茎を左手で探り、中央に腰を付け左足を前に流す。

その足を畳み、両手を前に構えて足を手繰っていく。添光は強く大らかなボーイングを放つ。立ち上がった岡は遠くを見詰め、大きく、深く、ゆっくりと肘と膝の舞踏を続ける。岡の頭から笠が落ちる。添光は、反復させる音をずらしていく。

岡の舞踏は民謡の調子にも見える。そのポージングの速度を上げ、床に背をつけ独自の振付を生み出していく。岡の舞踏は、添光が奏でる不規則な演奏に合わせては崩していく。体を曳き付け、力を溜めては放出する。

添光は、左手で鈴とヴァイオリンの底をテンポ良く鳴らす。弓を置き右手でヴァイオリンの弦を弾いたり叩いたりして、リズムの形成に励む。岡は椿を回し、投げ、床でポージングを繰り返す素早い展開を見せる。

岡は右指で椿の花弁を掴み、掲げながら床を回る。憑依されたような表情を浮かべ、幾度にも変容する姿が素晴らしい。添光は、再び弓弾きを始めるが、リズムは崩さず、スラーを多用する。

緩急をつけた舞踏を岡は続ける。ヒグマは、安藤が撮影した野外における作品のカラー写真を投影する。空に手を掲げる作品の写真に対して、岡は腰をつけて両手を掲げ、見上げる。様々な作品の写真がスライドされ、38分の公演は終了する。

安藤の優れた彫刻作品は、画廊で何度も見たことがある。木が持つ生命力を失うことなく、まるで木の中に埋もれていた彫刻を掘り起こすような作品は、現代の失われた仏像であると解釈することも出来る。

安藤は被災したことよりも生きる力を選択し、生きるためにはこの国がどのように展開すべきかを熟考している。この国の政治はその発生時から、常に及び腰に なっている。そのため、宗教を弾圧して責任を逃れる歴史が多々ある。安藤は特定の宗教観ではなく、宗教が本来携えている筈の祈る力を持っている。

この祈る力に対して、岡と添光が応えた。添光の音楽は印度をベースとしながらも、添光の生き様が反映されている。闘争することだけが人生ではない。時には 脅え、休み、期を待つことが必要だ。そのような、日々生きることで微妙に発生する漣が添光の音に立ち現れている。そこに立ち会う者は現実を実感するのだ。

添光の音は、決して弱い訳ではない。その愚直なまでの虚勢を張らない音に魅了されるのだ。竦み、怯み、たじろぐ姿にこそ、現代と闘争する姿が浮かび上がっ てくる。舞踏とは本来、そうであったのではないだろうか。だからこそ、舞踏は特殊な存在であった筈だ。そのような舞踏の精神を、添光に感じたのだった。勿 論、舞踏を崇拝するのではない。舞踏は踊りの分野の一つではなく、精神の様々にある形の側面に過ぎないのだ。

何よりも驚愕したのが、岡の舞踏であった。安藤に与えられた畏怖すべき自然の力を動機として、自らが揺らぐことなく、そしてこれまで自らが培ってきた舞踏と民謡の調子を融合させる。添光の音楽を導き、時には身を任せ、最後に投影された安藤の作品の本質に迫る。

岡は既に音楽、美術といった他の分野とのコラボレーションには定評があるが、今回の公演にはコラボレーションという枠を取り払った魅力が生れてきた。岡が 中心となるのでもなく、完全に消え去るのでもない。岡独自の舞踏は岡という枠を通り越して、一つの生きた様式に変容してきたように思える。これからの岡の 課題は、そういった自己を乗り越えた存在とどのように付き合うのかが勝負となる。

安藤、添光、岡による公演は、今後、様々な展開に満ちている。分野を超越し一つに融合した多面体的な存在は、あらゆる角度から光を当てても耀き続けることが可能であろう。異なる形でも再演を待ち望む。

4月26(木)フリオ・ゴヤ+若尾伊佐子
フリオ・ゴヤは今回、貝殻、珊瑚などを縦横無尽に張り巡らせて吊るし、中央に一本の「蜘蛛の糸」を着陸させた。この中で行われる若尾伊佐子の踊りはコラボレーションというよりもむしろ、完全に内在化することに終始した。

無音であり、ほの暗い光の中で若尾は床に展開する。その踊りに隙間は見当たらない。若尾は作品の影とすらも同化する。ここは海の中では決して無い。それでも若尾は自生している。そしてフリオのインスタレーションも。

若尾の踊りとフリオのインスタレーションは、意識を交換している。踊りが鼓動することによって作品に新たな息吹が吹き込まれていく。それは作品が踊りに命を注いでいることにもなる。

若尾はフォルム、メソッド、形、型、価値、信頼、絆、そういったものを総て度外視し、この世の存在の根底に触れようとしている。作品を支配することも一つのあり方となる。踊りと作品は等価であっても、今回は完全に若尾の時間となりつつある。

フリオのインスタレーションには貝殻や珊瑚だけではなくアルミ、銅線も含む「造られた自然」が組織されている。それは人工物と自然物という垣根を通り越し た、育成された空間の形成を指摘することが出来るであろう。人間だけが自然に手を加えるのではない。火山、津波、ハリケーンと、自然物も自然を加工するの だ。

若尾はこのインスタレーションを掻い潜り、歩み続ける。その際、作品の一部に身が触れるたびに、作品の全体が呼応する。そして、オブジェは互いに触れ合 い、音を発生させる。フリオが二階でインスタレーションを微細に揺すっていたという情報もあるが、自然物と人工物が等価になるこの公演では問題にならな い。

若尾の踊りは「踊り」に拘る必要が生じていない。若尾が踊りによって女、人、動物、植物、鉱物、水分などに変化する瞬間こそ、人工と化す時である。そのため、若尾は一切の表現はしていない。驚異的に客体となり、自らのフォルムを溶解する。

それは、存在することの困難さを示していることに通じる。そのため、ここには始まりも終わりもない。影という主体なき存在になったとしても、しかし影は客体でないとすると、やはり若尾の踊りは主体であり続ける。

フリオのインスタレーションが、生き物のように見てくる。生まれ、成長し、死に逝き、再び生れ出るように。ここには中心がない。時間も空間も消え失せる。エネルギーすら存在できないため、無窮状態が続いていく。質感も生れない。

中心を集め、若尾の支配から拾いあげる。この行為に物語は生まれない。一時間程の公演であった。

大自然の驚異を考慮に入れると、我々が造りだす物など、如何に他愛のないものかを思い知らされる。自然物の造型の美しさだけではなく、過去の人類が編み出 した創作に新たな解釈を施したのが、シュルレアリズムのオブジェの概念である。オブジェの思想は既存品=レディ・メイドが強調されるが、そこには自然物が 多く含まれている。

それでも、M・デュシャンは便器をオブジェとして見出した。それは便器というよりも、便器の「デザイン」であると言った方が的確であろう。当時、便器は新 しい存在であった。プロダクト・デザインもまた、その黎明期に差し掛かる。M・デュシャンは人間が形成したデザインに自然物と同様の「発見」をしたのでは ないだろうか。

フリオの場合はM・デュシャンに系譜しながらも異なり、オブジェを見出すのではなく加工してインスタレーションとする。集積するオブジェは個々に近い存在 であるにも関わらず、それぞれがまた異なって見えていくのは、シュルレアリズムのディペインズマンがその方法として作用しているのかも知れない。

しかし、フリオのインスタレーションで重要なのは、オブジェをエレメンツとして認識しているところにあるのではないかと思う。ダダと構成主義、バウハウスのアーティスト達は、未曾有の大量殺戮を目の前にして、キリスト教文化以前の古代ギリシャ哲学に自らの根底を求めた。

そして自らが神になるのではなく、世界の創造に「立ち会う」スタンスを取り続けたのであった。この姿勢をフリオが受け継いでいると考察しても、無理はある まい。これまでのフリオの作品は集積しながら集合する場合が多かった。今回の作品は、集積しながら拡散していくのである。

この空間で舞った若尾もまた、フリオのこのような姿勢に対して応えたのではないだろうか。我々は大量殺戮を経験しながらも、常に自らが「行う」のではなく 「受けた」姿勢を保っている。東京電力に対して責任を叫ぶ者がいるとしても、震災に対して海底の活断層を告訴するものは一人もいない。

つまり、私たちは常にやってくるものに対して自己責任を負わなければならない。理不尽な話だ。そのような動向に対しても、若尾は答を出したと認識しても過言ではないと考える。踊りが踊りを支配する。それでいいのではないか。

4月27(金)李容旭+小野明子+河合孝治
舞台には何もない。李容旭の映像と小野明子のダンスと河合孝治の音楽だけが正面から向かい合う。公演が始まると、新宿の実写カラー映像が流れる。突き刺すような電子音が流れる中、雨と人が映像の中で流れていく。撮影時の声も混じる。様々な人の営みのシーンが連続する。

映像は山中のカラー写真のスライドへと変化する。開始から10分後、サングラスをかけた小野が地下から登場する。映像は山中と山道の写真が反復する。小野は大きく、しかもゆっくりと舞台を巡り、中央で立ち止まる。

映像は海と砂浜のカラー動画へと変化する。小野は一礼を繰り返す。「お父さんはどうして死んだの…?」。呟きながら小刻みに歩み続け、左手を翳す。映像は降り頻る雨が砂と水溜まりと海に注ぐ動画と化す。

小野は右奥の階段を通じて会場の二階へ上がり、サングラスを取って幾つもの香に火を点けて降りてくる。小野は1から6のローマ数字を繰り返しカウントしながら進む。巻き上がる砂の中で小野が踊る映像が投影される。

小野は「7」を数えて止まり、「あいうえお」を繰り返し、速度を上げる。小野は「右、左」のカウントを繰り返し、動きに旋回を加える。弦の音がスピーカーから聴こえてくる。参道を歩む小野のカラー実写映像が投じられる。

小野は右奥からモノリスのような形状で高さ15cm程の短波ラジオのような装置を六台舞台に持ち込み、円陣を組みながらも、直ぐに横並びに床へ置く。このオブジェはホワイトノイズを発し、光センサーが組み込まれている様子で、小野の動きに合わせて音がオン/オフする。

梢の間を通り抜ける小野のカラー実写映像が流れている。スピーカーから鐘の音と英語のアナウンスが聴こえる。小野は執拗にオブジェを干渉する。河合孝治が形成した電子音が鳴り響く。

小野はオブジェを舞台の中央に一台だけ残し、多を端へ避ける。この一台を右手で翳し、片付ける。両掌を合わせて肘を張り、体を傾けながら両手を巡らせるダンスを繰り返す。右側から煙が噴射されても、小野は怯むことなくダンスを続ける。

土の丘の上に踊る小野のカラー実写映像が投影される。持続的電子音が続く。激しい旋回と運命を手繰り寄せるような手の動きにより、8度噴射された煙を小野は掻い潜る。「右、左」と声を上げながら交互に腕を漕ぐ。

「18、19、20」、カウントしながら立ち上がり、声にならない唸りを上げながら腕を漕ぐ。「21、22、23」、続ける。34までカウントし、映像が潰えても小野は踊り続け、50分の公演は終了した。

終演後、李は今回の公演は雨、風、霧といった自然現象を主題とし、九十九里浜と伊豆大島でロケを行ったと語った。

李の映像は、それほどまでに実写に終始した。加工したのではないかと思われるほど、自然の営みは険しく、深い。小野を俯瞰的にとらえ、脚色を一切施さないのはそう簡単なことではない。李は恐ろしい自然の姿を余すことなくとらえることに終始したのであった。

それに応えた小野の踊りも見事であった。小野は両手を交互に翳す、腰を落とす、床に展開する、立ち上がるといった、素人でも出来そうな、メソッドと物語を一切排除したダンスを見せてくれた。

しかし簡単そうに見えるダンスほど、超絶技巧を乗り越えた所にあり、そう簡単に踊ることは不可能である。小野が持つテクニックは相当なものがあり、引き出しもまた数えられないほど無数に存在する。

実体と映像の狭間に、そのどちらでもない小野のダンスが垣間見られた。小野が複合的に増殖するのではなく、三者は相殺し、小野が消滅していくのだ。その消滅した彼方に、小野のダンスが浮かび上がる。

それは、複数の音を同時に発生させることによって音楽を消尽させるテリー・ライリーの楽曲、物語ることによって物語を燃焼させるカルロス・カスタネダの書 物の在り方に似る。共にヒッピー思想を支えた作品であることにも注目したい。そして、西洋文明の没落から身を遠ざけ、印度や東洋の思想に根ざしたことにつ いても。

すると、李と小野と河合の共通点とは、仏教や禅の思想にあるのではなく、西洋から遠く離れた東洋の思想にあるのかも知れないという想像力を巡らせることが できる。全く有りの侭の自己を伝達しようとした二者は、武装することなく自然と対峙する東洋的思考回路に支えられているのかも知れない。

小野は現在の自らをそのままダンスとして示した。そこに感動という生易しい感情は生まれない。事実を凝視する厳しさが立ち会った者に残された。

我々は自らの想像力を駆使するのではなく突き抜けなければならない。虚実、情報、保障、権利、生存といった問題など、所詮、自己を顧みるための所作に過ぎ ない。更なる根源的世界に立ち戻って自己を見詰め、生きている内に手が届かない場所へ到達しなければ意味を成さないのだ。「生きている」という定義事態 が、既に自己を顧みる過去の作業と化している。未来をカウントするのだ。小野のように。

4月28(土)関直美+森下こうえん+風人
舞台右側には藁の上に木片が一つ、横に置かれている。木片にはプラスティック梱包材が少なくとも60本は付けられている。右側の円状の藁には、直径18cm程の青い毛糸の鞠が乗せられている。関直美はこの二つの作品を展示した。

青い布を纏い、洟をティッシュペーパーで塞いだ森下こうえんが入口の両方の扉を開き、激しく呼吸をしながらその場で体を崩していく。爪先で立ち上がり、両手で扉を閉めて舞台へ入っていく。布の下は白い襤褸着を身につけている。

舞台右奥に位置する風人が些細な音を圧縮し、直ぐに沈黙する。森下は膝を折り、両手を翳し、体を捻らせながら進んでいく。風人は手でマイクを叩いた音にディレイをかけた、繊細な音を奏でる。

森下は左側の藁に向かうのだが、中央でこちらに背を向けて左の奥へ進む。風人はノイズゲイトを用いていないため、音の襞が発生している。森下は四足となり、体を竦めては伸ばす。

風人が強烈なハウリングをコントロールする。マイクに向かって舌打ち、ヴォイスを放ち、エフェクトして放射を続ける。森下は上体を起こし、右掌を上にして左右に振る。立膝を伸ばし、よろめくように旋回する。

風人は、スクリーミングを繰り返し、声を編集していく。森下は藁を通り越して前方へ歩む。中央で飢えた表情を見せ、青い布の裾を噛み、右奥へ移動する。風人は反復する電子音を形成する。

風人は微細な音とマッスの重い音を、緩急をつけて交互に繰り返す。森下は時間をかけて後方壁面を這いずり回る。風人の音がドライヴする。右側の藁の下から、150cm程の12本から成る木片が引き摺りだされる。

森下は前方中央で蹲る。風人が爆音を発生させる。森下は右側の藁に横たわる。引き摺りだされた木片が開き、六面体が形成される。これもまた、関の作品なのである。風人の微細な電子音が流れる。

森下は腰をつけたまま両手を広げ、六面体の中に膝を曲げて立ち上がり両手を掲げて肘を巡らせていく。風人の鋭い電子音が会場の至るところに突き刺さる。森下は背を向け、肩をうねらせる。

風人は掻き毟るような電子音、吼えるような電子音と次々に音色を変える。森下は右掌を顔の横に置き、円の藁に倒れ、起き上がる行為を繰り返す。風人の生み出す音は、破滅と歓喜を共にしている。

森下は素早く手を振りながら緩急をつけて進み、腰を据えて痙攣する。風人は音を増殖させる。森下は犬のように徘徊し、右側の木片の作品を手にとって振り、藁を広げ、その中で跳躍を繰り返す。

森下は重力から逃れるかの如く、作品を潜り、また入る。隙間のない電子音が響き渡る。森下は六面体から抜けて、後方壁面に佇む。風人は噴出するような電子音を織り込む。森下は背中で作品と語り合う。

電子音が失速する。作品を通して見える森下は、二次元に閉じ込められてしまう。森下は前に出て、作品から離れて三次元に復帰する。風人はディレイを利かせ、電子音を広げていく。森下は床を這いずる。

森下が床に背をつけて竦むと、右上からもう一つの六面体が降り落ちてくる。柔らかい電子音が響き渡る。森下は上体を起こし、立ち上がっていく。風人は重い反復音を発する。それが一つの黙示録に聴こえるのは偶然ではあるまい。

照明が点滅する。闇の中で二つの立方体が崩壊する。一時間程の公演が終了する。

近年、舞踏と音楽という瞬時の公演において変化する作品を発表し続ける関の作品は、常に驚きがある。それは「時間の中で動く」という作用とは別に、現代美術が本来携えるべき「いま、ここ」という瞬間を彫刻として現前させる点にある。

今回の作品はセンサーや動力を用いずに、手動で六面体が地と天を裂いて出現したことが特徴として挙げられる。また、今回の作品群の素材が藁、木材といった自然物にプラスティック梱包材を滑り込ませたことにも特徴があるだろう。総て、燃焼してしまうのだ。

森下はいつも以上に森下でなくなった点に、森下の新しい魅力が生まれた。藁と木とプラスティックという異様な森に彷徨う異邦人の訪問者といった、異形の存在感が光った。ここに森下の「我」が冴えてしまうと反って違和感が生まれてしまったのではないだろうか。

森下は舞踏でもパフォーマンスでも演劇でも定義できない世界観を持っている。この精神力を更に「体」ではなく「動き」に埋没させることが出来れば、更なる飛躍が訪れることに間違いはあるまい。

それでも今回の公演を支えたのは風人であった。風人は様々な手法を駆使しても、「音を出す」という根源に身を置いている。そのため、音を発する前の沈黙、 即ち声を出す前の呼吸が明確に立ち現れているので、安心して想像のつかない展開を期待することが出来る。楽器ではない楽器を含めた機材による、音の増大を これから期待したい。それを操ることが可能な筈だ。

三者は入れ替わることをせずに、美術、身体、音楽といった、それぞれの特徴を最大限に引出していたのであった。

4月29(日)ヒグマ春夫+吉本大輔
ヒグマ春夫が制作した銀色のオブジェが天井から床に伸びる。有機的なその形はモビール的役割も果たす。オブジェは僅かな空調の作用によって揺れ、光を反射し、黒い壁面に流線の筋を生み出している。ヒグマは入口で佇む。

後方壁面にライブ映像が投影される。ヒグマは小型カメラで、手元のDVDプレーヤーをモノクロに映している。天井の猫道に、白塗りした吉本大輔がいる。ヒグマは小型カメラをゆっくりと吉本に向ける。吉本はオブジェを揺する。

無音の中、吉本は右足を下に出す。ヒグマの映像が実体で、上にいる吉本が虚像に見えるほどに幻想的な風景だ。それほどまでに、映像がリアルでもある。それにもかかわらず、映像に時間が存在しない。

静かなピアノ曲が流れる。吉本は猫道から移動し、二階の手摺に横たわる。ライブ映像は、現実を完全に無化している。吉本が二階から降りてくる。ヒグマは小型カメラを90度傾けた映像を投影する。

ヒグマはオブジェの真下に設置したカメラからのライブ映像に切り替える。吉本が右奥で黒いズボンを履くと、ピアノ音が止む。ヒグマは、左壁面にソラリゼーションされた九十九里浜におけるヒグマとガラス瓶の実写動画を投影する。

スピーカーから流れる風の音に、吉本は耳を傾ける。ガラス瓶は波に洗われている。後方壁面はライブのままである。左の画面上部に、黒い帯が広がる。吉本は左へ転がる。上着で顔を隠し、仰向けとなる。

左の映像から帯の虚像が消える。再びピアノ音が鳴る。ヒグマは左の映像を閉じる。影が実体と化す。吉本は立ち上がって左後方へ移動する。ヒグマは手持ちカメラに映像を切り替え、壁に佇む覆面の吉本をクローズアップする。

光を浴びる吉本は、膝を落としていく。右手で顔を押さえ、腰を屈めながら右手を前に差し出す。ヒグマは再度、左の映像を開くが何が映し出されているのか、認識出来ない。後方の映像は、オブジェ下からのライブに切り替える。吉本は中央で顔の覆いを取る。

無音の状態が続く。吉本は倒れては立ち上がり、前に歩み、右手を掲げる。ピアノ音は続く。吉本は体を撓らせ、中腰になると動かない。そのまま左右に体を振り、全身を開いていく。

ヒグマは左の映像を閉じる。後方を小型カメラのライブ映像に切り替える。吉本は左前に走り込み、右手を大きく伸ばす。ヒグマはその吉本の腕を映し出し、後方をオブジェ下からのライブに切り替える。

吉本は腰を屈め、右手をしゃくり旋回する。右足を上げた瞬間に倒れ、スパイダーウォークの体勢となり、素早く左右に移動する。ピアノ音は止まっている。ヒグマは再度、左の映像を開く。

吉本は激しく舞台を巡る。ヒグマは後方を映し出すプロジェクターに掌を翳すと、暗転し、一時間の公演は終了する。

吉本は自己の舞踏を包み隠さず、総てを炸裂させた。吉本の舞踏は森羅万象の「在り方」について問うている。そのため、自らが今振り絞った舞踏が、瞬時に問いと化し、吉本はそれに答えるために問いを発し続ける。この連続性にこそ、吉本の舞踏の美しさが浮かびあがる。

天井の高さを利用し、猫道を潜り抜けることは、誰にでも出来よう。しかし、吉本が潜ることは、他の誰にも真似の出来ない迫力に満ち溢れた。二階から降りて両手を掲げるだけで、会場全体の雰囲気を破壊し、まるで昆虫が脱皮を繰り返すように新世界を生み出していく。

ヒグマはオブジェ、蛙眼と手持ちカメラのライブ、波の映像と多角的に展開したが、吉本の総てを完全に掴み取り、把握し、理解し、自らの主張を高らかに謳った。吉本を捕らえることは並の作業ではあるまい。ヒグマ本来の凄みがこの公演で垣間見ることが出来た。

また、ヒグマは映像の可能性を極限までに追求した。この追求は、他の追従を許さないどころかヒグマでしか出来ない探求である。ヒグマは映像そのものだけで はなく、常に映像を未知の領域へ自ら追い込み、全く異なる位相を発見していく。これこそ、現代美術が課せられている使命であろう。

何よりも絶句したのは、吉本、ヒグマ共に自らの世界観を壊さないのに、ソロと全く異なる公演を行ったことである。コラボレーションは実験の意味合いが強 く、優劣をつける必要がないため、良し悪しは存在しないのだが、これほどまでに自らの主張を曲げずに互いの力を引き出し、全く新しい世界へ到達した例を私 は見たことがない。

それは二者共に年季の入ったアーティストであるからではなく、二人とも常に公演と鍛錬と探求を行っているからに他ならない。ヒグマは最低毎月一度の公演を 続け、吉本は12月に一週間連続の舞踏ソロ公演を果たしたばかりだ。作品を数多く発表すればいいわけではない。作品が思考し、連続することの重要性を改め て噛み締めた瞬時であった。

モノクロームという色彩に満ちた二人の次の出会いが待ち遠しい瞬間でもあるのだ。次の二人の介錯は何時か。その時はどのような時代か。