人物・関連事項

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阿部余四男|安倍能成|阿部六郎|岩波茂雄|魚住影雄(折蘆)|内村鑑三|太田水穂|大塚保治|岡崎義恵|荻原藤吉(井泉水)|小山内薫|

阿部余四男(あべ よしお)

1891.1.3-1960.4.22
明治二十四年(1891)一月三日、山形県飽海郡上郷村山寺に生誕。
大正五年(1916)東京帝国大学理科大学動物学科、卒業。
大正九年(1920)第二高等学校教授、任命。
大正十年(1921)広島高等師範学校教授に転任。
昭和ニ年(1927)文部省在外研究員として、オーストリア、イギリス、ドイツ
フランスに滞在。
昭和四年(1929)広島文理科大学教授に改任。
昭和三十年(1955)定年退官。広島文理科大学名誉教授の称号を受く。
安田女子短期大学教授委嘱。広島ペンクラブ会長(初代)に就任。
昭和三十五年(1960)四月二十ニ日、逝去。

出典
阿部次郎・阿部余四男・竹岡勝也・阿部六郎
『根芹』角川書店、1982 pp262-263

安倍能成(あべ よししげ)

1883.12.23-1966.6.7
哲学者、教育者。愛媛県生まれ。一高を経て1909(明42)年東大哲学科卒。
24(大13)年のヨーロッパ留学後、京城大教授。その後40(昭15)年に戦時下の一高校長となり、
名校長とうたわれた。46年幣原内閣の文相に就任、その後帝室博物館館長を経て47年学習院の院長
となり、約20年間その職にあった。哲学者としては『西洋古代中世哲学史』『西洋近世哲学史』
『カントの実践哲学』などの業績があるが、むしろ安部の本領は教育者にあったといってよい。
また硬骨の学者、教育者という世評の反面、安部の人間形成には一高の寮生活と夏目漱石の影響が
著しい。安部の在学当時の一高生は、国家主義の無批判的な肯定から個人主義、自由主義への過渡期
にあり、人生の意味を問いつめて華厳の滝に身を投じた一高生藤村操の自殺に、、多くの学友とともに
安部も強烈な衝撃を受けた。酔えば『鉄道唱歌』をうたい、生涯老書生的な風格を失わなかったのも、
一高の寮生活を抜きにしては考えられず、それが教育者としての安部の人間的な魅力でもあった。
戦後、安部が文相になったとき、アメリカ教育使節団との初会合で、安部文相は戦勝国のアメリカが
力は正義なりの立場で日本に臨むことがないように要望し、その硬骨と格調の高さで日米両国の人々に
大きな感銘を与えた。安部は一高時代岩波茂雄と親交を結び、岩波書店の最高顧問として親友を助けた
が、戦後46年雑誌『世界』の創刊にあたって名目的には最高責任者となり、また岩波書店を中心とする
平和問題談話会の代表となった。談話会は当時の進歩的学者を網羅するとともに、アメリカとの単独
講和に反対し全面講和と中立主義を主張するなど、わが国の世論に少なからぬ影響を及ぼした。明治
生まれの老リベラリスト、皇室と関係の深い学習院長としては相当の勇気と決断を必要とし、後に
声明の署名から抜けたりしたが、ぎりぎりの限界まで努力したといってよい。安部はまた同人雑誌
『心』の中心的存在でもあった。『岩波茂雄伝』(57年)で、読売文学賞を受賞。『安部能成選集』
5巻(48年、小山書店)がある。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,p71

阿部六郎(あべ ろくろう)

1904.4.12-57.1.7
評論家。山形県生まれ。哲学者阿部次郎、日本史学者竹岡勝也(1893-1953)兄弟の末弟。
1927(昭2)年京大独文科卒業後、成城高勤務。教室から大岡昇平、吉田秀和らが出ている。
同僚の村井康男を通じて河上徹太郎、中原中也らと知り『白痴群』に加わって小説を書いた。
一方、中野重治、鹿地亘らと交わり『プロレタリア芸術』に翻訳、エッセーなどを寄稿。34年、
あたかも転向時代のなかで文学と人間の再構築を提起してシェストフ『悲劇の哲学』を河上徹
太郎と共訳出版し、いわゆるシェストフ・ブームの火付け役となった。翻訳には他に二ーチェ、
ロマン・ロラン、リルケ、トルラーなどがある。評論集には『深淵の諸相』(36年)、『神の
影像』(47年)、『虚無と実存』(48年)、『ドストエフスキー』(49年)などがある。
これらには、戦後になって初めて論ぜられるようになった実存主義的な思考を、著者が早い
時期から独特なスタイルで探究していた跡が見えている。戦後、東京芸術大教授に転じ、
カトリックの信徒として没した。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,pp71-72

岩波茂雄(いわなみ しげお)

1881.8.27-1946.4.25
出版人。岩波書店の創業者。長野県生まれ。郷里の諏訪実科中時代に父を失い、中農の家に
残された母を助けてみずから農耕に励んだ。のち、杉浦重剛(1855-1924)の思想に感激して
一書を呈し、認められて東京の日本中学に入学した。1901(明34)年一高に入学したが、華
厳滝に投身自殺した一高生藤村操の「巌頭之感」に共感し、「煩悶」の末、学業を放棄して
一高除名となった。しかし母の努力によって再び学業に立ち戻り、05年東大哲学科に選科入学
し、08年卒業した。その母に、晴れの卒業を見せる事なく逝かれたのは、早く失った父と併せて
茂雄一生の恨事で、その風樹の嘆が後の学究援助の風樹会設立につながる。卒業の翌09年神田
高等女学校に勤め教頭になったが、「人の子を賊ふ」に耐えずとして教育界を去り、13(大2)
年神田神保町に古書店を開業した。
ここでまず挑戦したのが、正札販売厳守であった。当時の業界では非常識ともいえるこの商法は
あきれられ危ぶまれたが、嘘や駆け引きをきらう茂雄は信念をもってこれを貫いた。夏目漱石が
書いてくれた「岩波書店」の額は、古本屋時代は帳場の上にあった。その漱石が『朝日新聞』に
連載した『こゝろ』が完結して、それが岩波書店の最初の出版物となったのは、古書店開業の翌年
のことであった。15年には哲学科在校時代の友人・先輩の協力を得て「哲学双書」を刊行したが、
これはまさに時宜にかなった出版で、一躍哲学書出版書店として注目された。さらにその翌16年、
漱石が『朝日新聞』に連載中の『明暗』を未完のまま逝去するや翌月大冊の刊行を実現させ、その
年末から「漱石全集」の刊行を開始した。
この「哲学双書」と「漱石全集」の出来栄えと成績が、岩波茂雄の出版態度を示すとともに岩波
書店の経済的基盤を固める為にも大いに役だった。哲学書のほかにも、自然科学、社会科学など
最高水準の学術書の刊行にも力を注ぐと同時に、岩波には、一貫して「学問を万人のものに」という
念願があった。27(昭2)年の「岩波文庫」、33年の「岩波全書」、38年の「岩波新書」の刊行や
「岩波講座」の刊行開始は、その具現である。このような出版の志は、戦前戦後を通して更新され、
発展を続けている。茂雄が出版界に存った全生涯の丁度半分に当たる32年間の中でも晩年の出来事
として、津田左右吉の出版法違反事件が42年有罪判決を受けたのは心外事であったが、控訴中時効
により、44(昭19)年免訴となった。45年3月貴族院議員東京補欠選挙に当選、46年2月出版人
として最初の文化勲章を受章したが、その4月熱海の別荘惜櫟で2度目の脳溢血発病により死去した。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,p231

魚住影雄(折蘆)(うおずみ かげお<せつろ>)

1883.1.27-1910.12.9
明治期の評論家。兵庫県加古郡生まれ。本名は影雄。東京帝大哲学科卒。
「東京朝日新聞」文芸欄に「自然主義は窮せしや」「自己主張の思想としての自然主義」
(共に明43)などを発表し、教養派左派の立場から、国家を把握し得ぬ当時の自然主義を批判した。

出典
新潮社辞典編集部(編)『新潮日本人名辞典』新潮社991ゐ251


内村鑑三(うちむら かんぞう)

1881-1930
キリスト教思想家。江戸生まれ。札幌農学校在学時キリスト教に入信。
日露戦争開戦にあたっては非戦論を唱えた。雑誌『聖書之研究』を創刊。
従来のキリスト教に対し無教会主義を主唱。
著『基督(キリスト)信徒の慰め』『求安録』など。

出典
松村明(編)『大辞林』三省堂,1988 p218

太田水穂(おおた みずほ)

明治9.12.9-昭和30.1.1(1876-1955)
歌人。本名、貞一。長野県生まれ。長野師範卒。
象徴主義の歌風で知られる。歌誌『潮音』主宰。歌集『つゆ草』、
歌論『和歌立言』など。

出典
梅棹忠夫、金田一春彦、阪倉篤義、日野原重明(監修)
『講談社カラー版 日本語大辞典』講談社,1989 p247

大塚保治(おおつか やすじ)

明治元.12.20-昭和6.3.2(1869-1931)
明治・大正期の美学者。前橋生れ。旧姓は小屋。帝大哲学科卒。
明治二九年より四年間滞欧。明治三三から昭和四年東京帝大教授。西周以来移植され続けた
西洋美学に、経験的心理主義に基づく学問的基礎を与えた。『大塚保治講義集』(昭8)がある。
妻は大塚緒子。

出典
新潮社辞典編集部(編)『新潮日本人名辞典』新潮社991ゐ343

岡崎義恵(おかざき よしえ)

明治25.12.27-昭和587.8.6
(1892-1982)
大正・昭和期の国文学者、文芸学者。高知市生まれ。東京帝大卒。大正一二年(1935)東北
帝大助教授、のち教授戸なる。美学を基礎とする日本文芸の様式論的研究方法を模索して
日本文芸学を主唱した。著に『日本文芸学』(昭10)、『美の伝統』(昭15)など。
著書『日本芸術思潮』など。

出典
新潮社辞典編集部(編)『新潮日本人名辞典』新潮社991ゐ370

荻原藤吉(井泉水)(おぎはら とうきち<せいせんすい>)

明治17.6.16-昭和51.5.20(1884-1976)
明治-昭和期の俳人。東京生れ。本名は藤吉。東京帝大言語学科卒。河東碧梧桐門として登場。
明治四十四年「層雲」を創刊、季題無用論を唱え、印象の詩としての俳句を提唱。大正三年
(1914)からは自由律俳句を実践する。『新俳句提唱』(大二)では自然・自己・自由の
三位一体境の体現を説いた。門下に尾崎放哉、種田山頭火ら。昭和女子大教授。『原泉』
(昭三五)、『長流』(昭三九)等の句集を含め著書多数。

出典
新潮社辞典編集部(編)『新潮日本人名辞典』新潮社991ゐ392

小山内薫(おさない かおる)

1881.7.26-1928.12.25
演出家、劇作家、演劇評論家、小説家、詩人。広島県生まれ。1885(明18)年父の死で上京、
1902年に東大英文科入学。この間雑俳を学び後の2代目市川左団次を知る。また森鴎外と弟の
三木竹二を知り、その線から新派の伊井蓉峰に近づいて06年に大学を卒業すると伊井一座に加入
したが、新派に絶望して退座。07年に柳田國男らとイプセン会を組織、それを背後に洋行帰りの
左団次と組むと09年に自由劇場を旗揚げした。12年に演劇研究に渡欧、この経験から翻訳劇に
疑問を感じ、15(大4)年に歌舞伎研究の古劇研究会を結成、18年に市村座の人となるが20年
に身を退き、24年に土方与志と築地小劇場を創設。演出という仕事を確立し、多くの新劇俳優を
育てた。晩年は新劇にとどまらない新しい国劇の創造を目指したが業半ばに急死。詩、小説、戯曲、
評論を含む『小山内薫全集』8巻が、29(昭4)年から32年にかけて刊行された。初期の映画にも
貢献し、また命名者となったラジオ・ドラマでも活躍した。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,p397

狩野亨吉|清沢満之|ケーベル|幸田露伴|小宮豊隆|

狩野亨吉(かのう こうきち)

1865.9.27(慶応1.7.28)-1942.12.22
明治時代の百科全書的唯物論者。秋田県生まれ。1888(明21)年東大哲学科、91年数学科卒業、
同窓の夏目漱石、沢柳政太郎の親友、98年33歳で一高の校長となり、田辺元たちに深い影響を
与え、1906年京大文科初代学長となり、幸田露伴、内藤湖南など大学出身でない民間学者を招いた。
08年文部省と衝突し、辞職。その後、民間に書画の鑑定売買を業とし生涯を独身で過ごした。
昭和天皇の皇太子時代に東宮御学問所の御用掛として杉浦重剛に先立って推薦されたが、唯物論者
たるゆえをもって固辞した。西洋近代の啓蒙の合理主義の最も忠実な信奉者として、自然科学、
無神論の立場をとり、物理学の方法によって自然、社会のいっさいの問題を客観的に解明すること
を念願とし、J.B.J.フーリエの「熱の理論」を応用して倫理学を講じ、実践理性の3要素をカントの
3大憶断ドグマと批判し、3要素なき倫理学を主張した。日本の自然科学思想史の最初の開拓者と
して、深い書誌学的知識を活用、安藤昌益、本多利明、志筑忠雄らの独創的思想家を歴史の忘却の
中から発掘した。晩年、作品の新贋を鑑定する問題を通じて、同一か非同かの鑑定・検証の論理を
深め、同一、矛盾、排中という論理の三原則の新しい解釈を企てたが、ついに果たせなかった。
著書に『狩野亨吉遺文集』。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,p477

清沢満之(きよざわ まんし)

1863-1903
明治時代の真宗大谷派の僧・哲学者。名古屋の人。真宗大学初代学監となり教育者として活躍。
浩々洞を設けて『精神界』を発行し、近代的な仏教を鼓吹した。著書『精神講話』など。

出典
梅棹忠夫、金田一春彦、阪倉篤義、日野原重明(監修)
『講談社カラー版日本語大辞典第二版』講談社、1995[1989]、p362

ケーベル(Koeber,Raphael)

1848.1.15-1923.6.14
哲学者。ロシアのニジュニ・ノヴゴロドに生まる。
父グスターフはドイツ系ロシア人で実際の帝国顧問官。生地のギムナジウムを
経て、モスクワの高等音楽院に学んだが(1867-82)、音楽家となることを好まず、
翌年ドイツに赴きイェナおよびハイデルベルクの両大学で、主として(K.)フィ
ッシャーに就き哲学および文学を修めた。ショーペンハウアーに関する論文に
よって学位を得(82)、カルルスルーエの音楽学校でピアノ、音楽理論および
音楽史を教えたが(83)、1年でミュンヘンに移り、専ら著述に従事した。
(K,R,E,v)ハルトマンの紹介により東京帝国大学教師となり(93:明治26)、
西洋哲学を講ずる傍ら、好んでギリシア語、ラテン語およびドイツ文学を教えた。
退職(1914)後は、横浜の友人の廷内に仮寓して、(思潮)(思想)および
(制作)等の諸雑誌に執筆。東京音楽学校でピアノを教えたこともある。
狭心症で歿し、東京雑司ヶ谷の外人墓地に葬られた。
彼の広い教養と高い人格とは学生および読書界に深い感化を与えた。彼は自己の
哲学的立場を、超絶的汎神論或いはキリスト教的汎神論と呼んだ。

【主著】
Das philosophische System E.v.Hartmanns,1884
Die Philosophie A.Schopenhauers,1888
Kleine Schriften,3巻,1918-25

出典
岩波書店編集部(編)『岩波西洋人名辞典増補版』岩波書店、1981[1956] p507

幸田露伴(こうだ ろはん)

慶応3.7.23/26-昭和22.7.30(1867-1947)
明治-昭和期の小説家、随筆家。江戸下谷生れ。郡司成忠の弟、幸田延、同成友、安藤幸の兄。
本名は成行、別号は蝸牛庵。電信修技学校卒。電信技手として北海道に赴任するが、文学への
思いやまず、明治二〇年(1887)職務を放棄し帰京。二二年『露団々』『風流仏』で作家的
地位を確立、尾崎紅葉と人気を二分した。紅葉の写実に対し、露伴は理想詩人といわれ、
『五重塔』(明二五)はその代表作。最初の長編『いさなとり』(明二四)が書かれ、次第に
客観小説へも意欲をみせ、大作『風流微塵蔵』(明二六-二八)でその一端を試みたが、中絶。
『天うつ浪』(明三六-三八)での再度の挑戦も、未完に終った。『一国の首都』(明三四)と
いった都市論も書く。日露戦争後は、文壇を離れて考証と史論の世界に入り、史伝『運命』
(大八)や『芭蕉七部集』の評釈など。晩年の小説では『連環記』などを含む作品集『幻談』
(昭一六)が圧巻。昭和一二年第一回文化勲章受章。

出典
新潮社辞典編集部(編)『新潮日本人名辞典』新潮社991ゐ696

小宮豊隆(こみや とよたか)

1884.3.7-1966.5.3
ドイツ文学者、文芸評論家。福岡県生まれ。1908(明41)年東大独文科卒。
ドイツ留学後、東北大教授。東大在学中夏目漱石門下生として、高浜虚子、寺田寅彦、
森田草平、鈴木三重吉らと共に漱石の木曜会に出席し、のち09年漱石主宰の『東京
朝日新聞』文芸欄の仕事にたずさわる機会を得て、阿部次郎、安部能成らと親交を
結んだ。生涯漱石を敬愛し、漱石の没後は『漱石全集』の編集に専念した。『夏目
漱石』(38年)、『漱石の芸術』(42年)のほか『芭蕉の研究』(33年)、
『能と歌舞伎』(35年)などの著書がある。戦後、46(昭21)〜49年東京音楽学校
校長、50年学習院大教授を歴任。51年学士院会員となり、53年芸術院賞受賞。大正期
教養主義の代表的知識人。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,p689

斎藤茂吉|島崎藤村|

斎藤茂吉(さいとう もきち)

1882.5.14-1953.2.25
歌人。山形県上山市生まれ。農業守谷熊次郎の3男。
親戚の斎藤家に1896(明29)に寄寓し、のちに入籍、同家の次女てる子と
結婚する。1910年東大医学部(精神病学専攻)を卒え、県立長崎病院などを
経て、27(昭2)年養父の青山脳病院を院長として継ぎ、45年までその任に
あった。
一高時代に正岡子規を読み、06年に伊藤左千夫に師事。08年の『アララギ』
創刊に参加し、生涯その中心的存在として活躍した。13(大2)年処女歌集
『赤光』を刊行、大正初頭の歌壇で脚光を浴びる。なかでも「おひろ」「死に
たまふ母」の2大連作が話題となり、その万葉語を駆使した重厚な文体と、
鋭利に生命を凝視した感覚とが調和した、異次元の世界が注目された。20年
「『短歌と写生』一家言」を執筆し、その写生理論を提唱。第2歌集『あらたま』
(21年)は、写生説を反映し、日常や自然にたいする沈潜した観照を示している。
第12歌集『寒雲』(40年)は、『あらたま』から19年後の歌集で、生きる
悲しみに敏感な感性と、重厚円熟をきわめた歌調を完成させた。
茂吉の作品史のうえでは、しかし、昭和に入ってからの妻との軋轢、精神的な動揺、
戦争賛歌を詠むなど、戦時態勢への強力といった傷痕を経て、戦後における晩年の
結実、『白き山』(49年)には敗戦直後の心情を詠んだ作品が含まれるが、
「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」などは、秋雨の降る
さびしい写象にとどまらず、国家が崩壊した悲しみや、時代にふり回された悔しみ
を内在させている。
研究『柿本人麿』5巻で40年学士院賞を受賞。51年文化勲章を受章。
『斎藤茂吉全集』36巻(73-76年、岩波書店)がある。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,pp712-713

島崎藤村(しまざき とうそん)

1872.3.25(明5.2.17)-1943.8.22
詩人、小説家。本名・春樹。長野県の中山道馬籠宿で本陣、庄屋を務めた旧家の4男として
生まれた。
1891(明24)年明治学院卒。在学中にキリスト教や馬場孤蝶、戸川秋骨ら友人の影響で
文学への関心を深め、やがて終生の先達となる北村透谷と知り合い、『文学界』(93年〜98年)
創刊に参加した。
当初は劇詩を志したが透谷の死後叙情詩に進み、97年『若菜集』によって新体詩人の地位を
確立した。
以後、『落梅集』など3詩集を刊行するが、次第に詩形式と自己のモチーフとの差を感じはじめ、
自然と人生の鬼兒¨兇鮨瓦けて小説に転じた。被差別部落出身の青年教師の苦悩を描いた
『破戒』(1906年)は、わが国の近代小説の記念碑的存在である。引き続き『春』
(08年)、『家』(11年)などの自伝的小説を発表、田山花袋らとともに自然主義文学の
方向を決定するが、その基調は、イエやヨノナカの抑圧に対して、擬磴だ弧侵兇麟K罎世
ねばり強い抵抗を描く点にある。13(大2)年、単身フランスへ渡り、3年間滞在。
直接の動機は、姪との過失が生む混乱からの逃避で、この間の経緯は退廃からの甦りとして
『新生』(19年)に描かれるが、もうひとつの動機は、父正樹の生涯を通じて
浮かんできた東洋と西洋の文化の異同、または日本の近代化の問題であった。
『夜明け前』(32、35年)はこの問題に対して全力を傾けた大作であり、青山半蔵の眼を
通じて明治維新の虚妄性が暴かれるとともに、人間の営みを超えた蟻腓なもの兇梁減澆
示されている。しかし、絶筆『東方の門』(43年、未完)は、東西文化の総合をめざしつつも、
当時の大東亜共栄圏的発想との癒着をまぬがれることができなかった。『藤村全集』17巻、別巻
1(66〜71年)がある。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,p806

スピノザ(Baruch de Spinoza)

1632-77
オランダの哲学者。無神論者としてユダヤ教団より破門される。
デカルト哲学の強い影響を受け、神を唯一の実体とする一元論と、神はすなわち自然であるとする
汎神論に立ち、最高の幸福は神の知的愛にあずかることとした。主著『エチカ』。

出典
梅棹忠夫、金田一春彦、阪倉篤義、日野原重明(監修)
『講談社カラー版日本語大辞典第二版』講談社、1995[1989]、p1156

竹岡勝也|土居光知|豊竹昇太夫|

竹岡勝也(たけおか かつや)

1893.11.10-1958.9.30
日本史学者。山形県生まれ。阿部次郎の実弟。1918(大7)年東大国史学科卒。19年内務省
嘱託となって神社調査事務を担当、中国、ドイツに留学して精神史を研究、29(昭4)〜46年
九大法文学部教授。のち北大、東北大、国学院大教授を歴任。日本の伝統文化の哲学的考察を
めざし、日本人の心性への愛着に満ちた『日本新文化史 平安末期篇』(24年)は大正人道
主義の思想的影響が色濃くでていて、平安貴族を他人の労働で生活を支える「ブルジョア」と
みる立場や、恋愛や結婚生活で男のために苦しめられる女性と貧窮な庶民への暖かい視点が
特徴的である。ほかに『日本の人道主義の歴史』『創学校啓−国学の建設』がある。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,pp964-965

土居光知(どい こうち)

1886.8.29-1979.11.26
英文学者、日本古典文学研究者。高知県生まれ。1910(明43)年東大英文科卒。
東京高等師範教授になった22(大11)年米、英、仏に留学。24年帰国後東北大教授となり、
48(昭23)年定年退官するまで熱心に後進研究者を指導した。早くからシェイクスピア、
ロマン派詩人、ペーターなど幅広いイギリス文学研究をおし進める一方、日本の古典文学研究
にも本格的に取り組み、22年にこの2つの研究を結びあわせた画期的な著書『文学序説』を
出版して、日英両文学の研究に大きな刺激を与えた。以後冷文学関係の論文、テキストの注釈
などの仕事をすると同時に、日本文学研究も怠らず、35年には評伝『シェイクスピア』と、
豊かな感受性によるすぐれた論述からなる『英文学の感性』を著した。37〜38年外務省嘱託
として再度渡英して日本文学に関する講演を行い、39〜41年東北大法文学部長となった。
第2次世界大戦中の42年ガダルカナルに長男を失う悲運にあいながらも43年には独特な日本語
研究『日本語の姿』を出した。戦後は日本ユネスコ協会連盟理事として献身する一方、48年
津田塾大教授となり、54年東京に居を移して充実した研究生活を送りつつ、『古代伝説と文学』
(60年。読売文学賞受賞)のほか、『文学の伝統と交流』(64年)などスケールの大きい比較
文学・文化研究の大著を著した。晩年にも対談による論集『無意識の世界』や『神話・伝説の
研究』、魅力的なエッセー集『文芸その折り折り』などがあり、『土居光知著作集』5巻(77年)
がある。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,p1083

豊竹昇太夫



中村吉右衛門(初世)|夏目漱石|

中村吉右衛門(初世)(なかむら きちえもん)

1886.3.24-1954.9.5
歌舞伎俳優。東京生まれ。本名・波野辰次郎。屋号・播磨屋。3世中村歌六の長男。母は市村座の
芝居茶屋万屋吉右衛門の娘。1897(明30)年3月、市村座で中村吉右衛門と名のり初舞台。
浅草座で始まった子供芝居に参加、やがて座頭となって人気を得た。1902年、歌舞伎座の座付に
抜擢され、晩年の9世市川団十郎と同座し、その芸風を学んだ。このころから6世尾上菊五郎と
並んで、若手花形としていよいよ人気を高める。田村成義の企画により、08年11月、7世坂東
三津五郎が座頭をしていた二長町の市村座に、吉右衛門と菊五郎を上置として入座させた。これ
以後、21(大10)年3月に市村座を脱退するまでの13年間、菊・吉の競演によって、団・菊
没後の劇界に新風を送りこむ「市村座時代」を築き上げた。
昭和に入ってのちは芸に円熟味が加わり、劇壇に重要な位置を占めるとともに、43(昭18)年に
中村吉右衛門一座を組織した。戦後、47年日本芸術院会員、51年文化勲章受章。9世市川団十郎
の芸風を継承する時代物役者として、古格を正しく伝える一方、父歌六譲りの上方風の芸風も加味
し、悲劇の主人公を演じては他に真似手のない至高の芸を見せた。とくに口跡がよく、せりふ回し
の巧みさ、名調子は卓越していた。秀山と号して俳句をたしなみ、小唄を楽しむ風流人でもあった。
著書に『吉右衛門自伝』『吉右衛門日記』があり、評伝に河竹繁俊『中村吉右衛門』小宮豊隆
『中村吉右衛門』他がある。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,p1174

夏目漱石(なつめ そうせき)

1867-1916
英文学者、小説家。本名、金之助。東京生まれ、東大卒。松山中学、五高の教師を経てイギリス
留学。帰国後、旧制第一高等学校、東大で講義。のち朝日新聞社に入社。俳句・漢詩に親しむ。
日本の近代を深く洞察し、知識人の内面を描出した。近代日本文学の確立につくした代表的
作家。作品『我輩は猫である』『倫敦塔』『坊つちやん』『草枕』『虞美人草』『三四郎』
『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』『道草』『明暗』など。

出典
梅棹忠夫、金田一春彦、阪倉篤義、日野原重明(監修)
『講談社カラー版日本語大辞典第二版』講談社、1995[1989]、p1603

藤村操|

藤村操(ふじむら みさお)

明治19.7-36.5.22(1886-1903)
明治期の哲学青年。明治三五年一高に入学。人生の意義に関する懐疑を抱いて煩悶から
「ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ、万有の真相は唯一言にして
悉す、曰く不可解」という「巌頭の感」を遺して日光華厳の滝に身を投じ、当時の知識
青年たちに衝撃を与えた。

出典
新潮社辞典編集部(編)『新潮日本人名辞典』新潮社991ゐ1478

武者小路実篤|森田草平|

武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)

1885-1976
小説家・画家。東京生まれ。東大中退。志賀直哉と並ぶ白樺派の代表的作家。友人らと
雑誌『白樺』を創刊。平明清新な文体で率直な自己肯定の思想を描く。「新しき村」
運動を主唱。昭和二六(1951)年文化勲章受章。小説『お目出たき人』『友情』、
戯曲『人間万歳』など。

出典
梅棹忠夫、金田一春彦、阪倉篤義、日野原重明(監修)
『講談社カラー版日本語大辞典第二版』講談社、1995[1989]、

森田草平(もりた そうへい)

明治14.3.19-昭和24.12.14(1881-1949)
明治−昭和期の小説家。岐阜県生れ。本名は米松。東京帝大英文科卒。夏目漱石の推挽により、
平塚らいてうとの恋愛事件を綴った『煤煙』(明42)を「東京朝日新聞」に連載、
注目を浴びる。代表作に自伝的長篇『輪廻』(大」15)。翻訳も多数あり、評伝に
『夏目漱石』(昭17、18)がある。戦後、共産党に入党。

出典
新潮社辞典編集部(編)『新潮日本人名辞典』新潮社991ゐ1739

山田孝雄|

山田孝雄(やまだ よしお)

明治8.8.20-昭和33.11.20(1875-1958)
明治-昭和期の国語学者。富山生れ。富山中学中退。殆ど独学で教員免許を取得、各地の小・中学校
に勤め、昭和二年東北帝大教授。神宮皇学館大学長、貴族院議員、国史編修院院長を歴任。戦後
公職追放にあう。文法論の分野で独自の論理学的文法体系を構築するなど国語学、国文学、史学に
わたり多くの業績を残す。昭和三二年文化勲章受章。著に『日本文法論』『平家物語につきての
研究』『万葉集講義』『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』『国語学史』など。

出典
新潮社辞典編集部(編)『新潮日本人名辞典』新潮社991ゐ1788

和辻哲朗|

和辻哲朗(わつじ てつろう)

1889.3.1-1960.12.26
哲学者。兵庫県姫路市郊外の農村の医家に生まれ、「医は仁術」という父親の信念に影響を受けた。
姫路中、一高を経て東大哲学科に入学。このころ、夏目漱石に傾倒して文学者を志し、谷崎潤一郎ら
と第2次『新思潮』を発刊し文筆活動に入った。1912(大1)年東大を卒業、『ニイチェ研究』
(13年)、『ゼエレン・キェルケゴオル』(15年)を発表。これらの著作は日本における二ーチェ、
キェルケゴオル研究の最初の作品である。小山内薫の新劇活動にも参加したが、
やがて文学への志を断った。『古寺巡礼』(19年)はこの頃の作品であるが、みずみずしい
情感にあふれたロマンティックな名文が青年子女たちを魅了し、後の奈良飛鳥めぐりブームの
さきがけをつくった。これにつぐ『日本古代文化』(20年)は、津田左右吉の古代史研究に
刺激されつつ、津田とは逆に古代人の心をその内面からさぐるという意図に立った著作で、
その後の和辻の日本思想研究を貫く姿勢を示している。25年京大に赴任、翌年ヨーロッパへ
留学した。この経験にもとづいて書いた『風土』(35年)は、アジア、アラビア、ヨーロッパ
の文化の違いが歴史的発展によるだけでなく風土の違いによることを考察したもの
で、当時支配的だったマルクス主義の歴史観、文化観とは対照的な思想を示している。
このほか京大時代には、『原始仏教の実践哲学』『日本精神史研究』
『原始基督教の文化史的意義』など、日本を中心に東西の思想史についての研究を発表し、
『沙門道元』は道元の思想を広く知らせた。
34(昭9)年東大教授となり、『倫理学』3巻(37、42、49年)の体系化に取り組んだ。
その倫理学は、「人間の学」とよばれ、西洋の倫理学が個人から出発するのとは
全くちがった特色をもっている。戦後に進歩派からは当時の国家主義の影響を受けたもの
としてきびしい批判を受けたが、外国の日本研究者や精神医学者などからは、
日本人の倫理観の特長をよくとらえたものとして高く評価されている。この立場から和辻は、
敗戦後、天皇制をめぐる論議が起こったとき、天皇制と新憲法の精神は一致すると主張し、
天皇制を支持する論争を展開した。彼は、天皇制の本質は日本文化の歴史的伝統とひとつであり、
また政治や法の論理の根底には、民族文化の伝統がはたらいていると考える。
世界的にポストモダンの時代が語られ、諸民族の民族文化のもつ意味が問われるように
なった今日、その日本文化論は内外の研究者から新しい目で評価されている。
49年に東大を退官してからも、『鎖国』(50年)、『日本倫理思想史』(52年)などを
発表。55年文化勲章受章。墓は西田幾多郎、鈴木大拙らと同じ鎌倉の東慶寺にある。

出典
小泉欽司(編)『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990,pp1801-02