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ガダルカナル島戦の概略


 明治22年2月11日大日本帝国発足(大日本帝国憲法発布)以来、負け知らずの帝国陸軍が、初めて敗北したのは、このガダルカナル島の闘いである。

ガ島戦直前の状況

 昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦時の大本営は、「フィリッピン、グアム、香港、マレー、ビルマ、ジャワ、スマトラ、セレペス、チモールの資源地帯地域の他、特にビスマルク諸島を攻略した後、戦略守勢に転じ、マーシャル諸島以西、ビルマ以東で長期不敗態勢を確立し、持久戦へ持っていく」ことを決定戦略としていた。
 この間に「日本独力で蒋介石政権(中国)を連合国から脱落させ、日独伊の協力でまず英を屈服させ、米の戦争継続意志の喪失を待つ」とした。ところが、初戦の、真珠湾攻撃、マレー沖海戦など予想をこえた戦果にぬか喜びし、昭和17年春以降、特に海軍に国力をはるかに越える濠洲攻略案、ハワイ攻略案等、この決定戦略からの逸脱する意見も出てきた。


 当初、決定戦略に固執する陸軍と若干の対立をみたが、陸海軍の妥協案として、「FS作戦」(フィジー、サモア、ニューカレドニアを攻略、米濠遮断をはかる作戦)を行うことになった。
 開戦当時の我が国の船舶事情からの計算によれば、国民生活と作戦を併存させるには、内南洋(マーシャル以西)を東方に越える作戦は国力の限界を越えるとされ、専守防衛の戦略決定はこのことにも発していた。
 この「FS作戦」の決定は、明らかに当時の国力の限界を越えていたのである。

FS作戦立案の根拠

 但し、これには作戦立案者にも立案するだけの根拠があった。

 昭和17年3月9日開催の大本営政府連絡会議における「世界情勢判断」がそれである。「差し当たり、米は、英、ソ連と相携へて、先つ速に独伊戦力の撃破を図ると共に、濠洲及び印度洋方面に於いては、対日反攻拠点の確保強化に努め、且つ有力なる海上及び航空兵力を太平洋方面に集中し、其の一部を以て我が海上交通の妨害、日本の中枢地区に対する奇襲其の他各種ゲリラ戦実施に努むべし」としつつ、「而して其の大規模攻勢を企図し得べき時機は、概ね昭和18年以降なるべし」と予測していたのである。


 この判断理由として、「物的戦力膨大なるも米英、特に米の政治経済機構は、今尚国家総力戦に必要なる臨戦態勢を整備し居らず、之を確立には、今後幾多の摩擦紛糾を生ずべし」「米の海上輸送能力は国力に比し貧弱にして、援英に徹底し得ず」、「米英国民は生活程度高く之が低下は其の頗る苦痛とするところにして、戦捷の希望なき戦争継続は社会不安を醸成し一般に士気の衰弱を招来すべし・・・」と判断された。

 すなわち、戦争指導の最高機関であり政府各省、大本営陸海軍部代表で構成される同連絡会議が「米国の大規模攻勢は昭和18年以降なるべし」としたからには、いま「FS作戦」を決行しても大規模反撃はないと結論づけたのであった。


ガ島戦開始と部隊逐次投入の愚

 「ガダルカナル島」は日本本土より東南7千キロ余、マーシャル諸島の東南5千キロの同島に昭和17年7月6日海軍が飛行設営隊を上陸させた。昭和17年6月5日、ミッドウェー敗戦によりこの「FS作戦」が延期されてもなお、この米濠遮断指向を進めようとするにあった。これに対し連合国側は、同島飛行場が概ね完成した昭和17年8月7日、戦略兵団(海兵1個師団1万、すぐ数個師団4万を追加)を上陸させ、この遮断作戦への本格反攻を開始した。

 これに対し、大本営は「本格反攻は昭和18年以降なるべし」の判断に基づき、米軍のガ島上陸をゲリラ戦もしくは威力偵察程度のものと判断していた。

 日本軍は、ガダルカナル島のルンガ飛行場(米名称・ヘンダーソン飛行場)を早期に奪還するため、

 まずミッドウェイ攻略部隊として準備していたが、海軍の作戦失敗により同攻撃は中止となり、トラック島に駐留していた一木支隊(一木清直大佐 (28) 指揮、旭川歩兵28連隊基幹9百余名)を急遽、駆逐艦6隻で輸送し昭和18年8月18日上陸したが、予期しなかった猛烈な火力攻撃で死傷者続出し全滅。
一木清直大佐
一木清直大佐
 次に、川口支隊(川口清健少將(26)麾下歩兵第 35旅団、福岡歩兵124連隊基幹連隊長・岡明之助大佐(24)以下約四千名)は、一木支隊の残存兵力(上陸していなかった第二梯団)と共に9月初めにガダルカナルに上陸し奪還をこころみるが失敗。 川口清健少将
 それなら日本軍の本当の強さを見せてやろうではないかと、 川口清健少將
 
 10月初旬にガダルカナルに派遣されたのが、ジャワ島にあった仙台「勇」第二師団(師団長丸山政男中將(23)仙台・歩兵第4連隊、新発田・歩兵第16連隊、会津若松・歩兵第 29連隊)(1万余名)を送り込むが、あえなく失敗、更に、11月初旬、名古屋「沼」第三十八師団(師団長 佐野 忠義中將(23) 名古屋歩兵第228連隊、岐阜歩兵第229連隊、静岡歩兵第230連隊)(約7千6百余)であるが、一部の部隊は、第二師団の増援としてすでに戦闘に参加して敗退していたが、師団の主力が11隻の輸送船団に分乗してガダルカナルに派遣されたが、ことごとく失敗している。

 このように、戦闘において最もタブーとされる兵力の逐次投入の愚を繰りかえしたのである。
丸山政男中将
丸山政男中將
  
 大本営も、ガダルカナル島での戦いはすでに日本の戦闘能力の限界を超えた状況にあると気づき、昭和17年年末に日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたのであった。

 戦後よく非難されていることであるが、当時の日本軍の戦法は、ただただ「突っ込めー、突っ込めー」の肉弾切り込みの白兵戦を強いるだけで、作戦、謀略等の計略等全くなかった。

 その戦法は、一木支隊、川口支隊、第二師団と変わりなかったのだから、余りにも一般兵士の人命を無視した攻撃であるが、これが敗戦の日まで続くのであるから、全く救いようがない戦法である。

 このようにガ島戦には、日本軍の欠点と体質が余すことなく露呈された戦いであったのに、以後の戦いにおいて、これが是正されることはなかったのだから、日本軍に勝ち目は全くなかったと結論づけてもいい。

 反面、「国力に比し貧弱」などと侮っていた米軍は、輸送船団で連日戦略物資を同島へ揚陸させるのに対し、早くも制空権、制海権を失った日本軍は補給輸送船を次々撃沈させられ、同島派遣の日本陸軍総計3万1千余名は言語に絶する飢餓に陥った。

そして、ガ島戦末期には「不思議な生命判断」が流行った。

  ●立つことのできる人間は・・・寿命は30日間
  ●身体を起して坐れる人間は・・・・・・・3週間
  ●寝たきり起きれない人間は・・・・・・・1週間
  ●寝たまま小便をするものは・・・・・・・3日間
  ●ものを言わなくなったものは・・・・・・2日間
  ●またたきしなくなったものは・・・・・・・明日

  これは、ガダルカナル島のアウステン山を守備していた将兵の間に流行していた「不思議な生命判断」である。歩兵124連隊旗手「小尾靖夫少尉」の日記には、「この非科学的であり非人道的な生命判断は決して外れなかった」と記録している。

 それも、戦争が開始されて間がないこの時期にである。

 それなのに、
この生命判断と同様の状況は、太平洋南方のいずこの島々でも発生したのであるから、各地で散った数十万の将兵の死は、犬死にというほか表現のしようがない
小尾元少尉の証言

ガ島からの撤退

 撤退作戦は、昭和18年2月1日、4日、7日の3次にわたり、駆逐艦各20隻をもって、1万6百余名のみを撤退させることが出来たものの、戦死4千余名、飢餓死1万5千余名という日本陸軍創設以来の惨状であった。
 因みに、ガダルカナル島撤収作戦の主任参謀は、瀬島龍三である。ガ島戦で唯一お見事と評価されているのが、この撤退作戦であるから皮肉なものである。
 
 さて、ガダルカナル島を完全に支配したアメリカ軍は、この島を反攻の拠点とし、マッカーサー大将(後に元帥)の陸軍と太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将(後に元帥)率いる海軍が二手に分かれて侵攻が開始された。
 マッカーサーは、ブームゲンビルからフィリピン方向に、一方のニミッツはマキン島、タラワ島、サイパン、硫黄島へと飛び石作戦で兵力を北上させ、制空権、制海権を伸張しつつ、大々的反攻を繰り返し、日本本土攻撃を目指したのである。米軍は、この侵攻作戦を車の両輪にたとえて「カートホイール作戦」と呼んでいた。

 残念ながら、このアメリカ軍の日本本土を直撃するという長期展望に立った計画を見抜けず、日本軍はガダルカナル島争奪戦を単なる局地戦程度の認識しかなかったのである。

  なお、この陸海両総司令官の二人三脚はそのまま終戦まで続いた。メンツの主張や縄張り争いが多かったという帝国陸海軍と違い、米陸海軍の息はぴったり合っていた。 

太平洋戦争の原因

 なぜ日本が太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を余儀なくされたかを、世界の著名人の証言等を引用して、見事に看破しているサイトがありますので、ここでご紹介したいと思います。
太平洋戦争の原因 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-0-1-1.htm
日本史をみなおす http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/minaosu.htm
 がそれです。


17軍の主な将校(ガ島から撤退後、ブーゲンビルで撮影)




第17軍
 
開戦以来の帝国陸軍の不敗の思想が、米軍の前に始めてつまずいたのがこのガ島作戦であった。
 ここで始めて大本営と第17軍によるガ島奪回と南太平洋の戦局好転への本格的作戦がとられることになり、師団規模のガ島投入が企図されることになった。
 支隊の寄り合い世帯であった第17軍は、第二師団を主力とする建制2個師団を根幹とすることに増強され、参謀陣も大本営派遣参謀を加えると一挙に3名から11名に増員された。
 昭和17年9月下旬、百武司令官に招致された川口少将は、ガ島戦況について説明を行った。我が戦力の貧困、地形の峻険、敵戦力の強大などで、ガ島の実状に則した説明ではあったがその悲観的な事実認識は、必勝の信念に燃える軍司令部員の反感を買いのちの罷免事件へと繋がった。また離島決戦の不利を悟り自重論を展開した第17軍二見参謀長は、病気を理由に10月19日更迭された。

 ガ島を「飢島」たらしめた責任は後方の司令部、大本営に在る。
 その結果第1線の将兵は悉く飢餓に瀕し、病に冒されたのである。 軍の戦力は極度に低下し個人を見ても軍隊を見ても悉く半身、否全身不随になっていたのであった。(撤退直後の井本日誌)
第17軍司令官 百武晴吉中将は、撤退後敗戦の責任をとって自決する覚悟であった。だが、2月14日 第8方面軍司令官 今村均中将から「あなたが兵を飢えさせたのではない。2万の戦友の霊を見守るためにも生きてください」と説得され、ようやく自決を思い止まった。(だがその後百武中将は脳溢血に倒れて半身不随となり、それを知らされた今村中将(のち大将)は、あのとき自決を許すべきだった、と後悔したという)

      17軍参謀
軍司令官 参謀長
参謀長
高級参謀兼作戦主任
参謀長
高級参謀兼作戦主任
大本営派遣作戦参謀
右同情報参謀
船舶参謀
後方参謀
通信参謀
航空参謀
情報参謀
作戦参謀
後方参謀
海軍大佐同
海軍大佐同
中将
少将
中佐
少将
大佐
中佐
中佐
少佐
少佐
少佐
少佐
少佐
少佐
少佐
少佐
中佐
少佐
大佐
少佐
百武晴吉
二見秋三郎
松本博
宮崎周一
小沼治夫
辻政信
杉田一次
篠原優
越次一雄(参謀中、ガ島でただ一人戦死)
平岡輿一郎
田中耕二
山内豊秋
林忠彦
杉元尾三夫
山本筑郎
神谷義治
田熊利三郎
門前 鼎
岡村徳長


川口清健少将
前列中央が川口清健少將


昭和17年〜18年 ソロモン諸島ガダルカナル島
年 月 日   記事
5月3日   海軍横浜航空隊ガダルカナル島対岸の小島ツラギに上陸し、飛行艇用の航空基地開設
5月4日   米機動部隊ツラギに来襲
5月6日   機動部隊が米機動部隊を発見するも距離の問題で攻撃断念
5月7日   ポートモレスビー攻略部隊の空母翔鳳が米機動部隊の攻撃を受け沈没
5月8日   珊瑚海海戦にて米空母レキシントンを撃沈、ヨークタウン大破の被害を与え、空母翔鶴が大破
5月18日   陸軍第十七軍(百武晴吉中将)の戦闘序列下令(東部ニューギニア・ポートモレスビー)
6月16日   ガダルカナル島に海軍第十一設営隊(門前鼎大佐)上陸
7月1日   ガダルカナル島に海軍第十三設営隊(岡村徳長少佐)上陸
7月10日   ニミッツ提督は南太平洋方面司令官ゴームレー中将にガダルカナルとツラギの攻略を指令
8月7日   ガダルカナルおよびツラギに米第一海兵師団(バンデクリフト少将)上陸
8月8日   第一次ソロモン海戦にて日本軍快勝
8月18日   陸軍一木支隊(一木清直大佐)先遣隊ガダルカナルに上陸
8月20日   一木支隊先遣隊が夜襲をかけるも失敗
8月21日   一木大佐自決
8月28日   第二次ソロモン海戦にて空母龍驤が米機動部隊の攻撃を受け沈没し、米空母エンタープライズ中破
    陸軍川口支隊(川口清健少将)のガダルカナルへの輸送開始
8月31日   米空母サラトガが伊26の雷撃を受け大破
9月13日   川口支隊が夜襲をかけるも失敗
9月15日   米空母ワスプが伊19の雷撃を受け沈没
10月3日   第十七軍司令部、陸軍第二師団(丸山政男中将)のガダルカナルへの輸送開始
10月6日   第十七軍司令部、第二師団タサファロンガに上陸
10月10日   百武司令官がラバウルの宮崎参謀長に人員輸送を中止して食料と弾薬輸送を命じる
10月11日   サヴォ島沖夜戦にて米軍のレーダー射撃により大被害
    飛行場攻撃用の重砲揚陸に成功
10月13日   ニューカレドニアの米アメリカル師団第164連隊ガダルカナルに上陸
    第二師団が揚陸した重砲で攻撃開始
    戦艦金剛と榛名がガダルカナル島米軍飛行場を艦砲射撃
10月14日   重巡鳥海と衣笠がガダルカナル島米軍飛行場を艦砲射撃
10月15日   輸送船団が攻撃を受け人員は揚陸したものの食料と弾薬を損失
    第十七軍が20日の総攻撃を予定する攻撃命令下令
10月18日   ニミッツ提督が南太平洋司令官ゴームレー中将を解任しハルゼー中将を任命
10月20日   ジャングルで攻撃地点への進出が困難であるため総攻撃を22日に延期
10月21日   総攻撃を更に23日に延期
    川口少将24日への延期を進言して解任される
    川口支隊の指揮を委ねられた東海林部隊の進出が遅れ総攻撃を24日に延期
10月24日   悪天候のために攻撃を見合わせる中、一部部隊が攻撃を開始
10月25日   百武司令官前夜の攻撃を知って再攻撃を命令
    総攻撃を開始するも前夜の攻撃で体制を整えた米軍に阻まれ失敗
10月26日   南太平洋海戦にて米空母ホーネットを撃沈しエンタープライズを大破、空母翔鶴と瑞鳳が大破
11月10日   陸軍第三十八師団(佐野忠義中将)先遣隊ガダルカナルに上陸
11月12日   第三次ソロモン海戦
11月13日   飛行場砲撃に向かった戦艦比叡と霧島が米艦隊と交戦して攻撃断念(比叡大破自沈)
11月14日   第三十八師団主力を輸送中の船団が空襲を受け11隻中の6隻が沈められ1隻落伍
    昨日の攻撃失敗のため巡洋艦隊が飛行場砲撃に向かうも米艦隊と交戦して攻撃断念
11月15日   戦艦霧島が再度飛行場砲撃に向かうも米艦隊と交戦して沈没
    輸送船が揚陸を開始するも空襲を受けて物資とともに炎上
11月18日   第三十八師団が攻撃をするも失敗
11月21日   大本営政府連絡会議にて東条首相が陸海軍の船舶徴傭を問題視
11月26日   陸軍第八方面軍(今村均中将)、第十八軍(安達二十三中将)の戦闘序列が下令
11月30日   ルンガ沖夜戦
12月5日   臨時閣議にて東条首相の船舶徴傭問題決断に関して参謀本部反発
12月7日   参謀本部田中第一部長が前日の東条首相に対するバカヤロウ発言で更迭
12月9日   アメリカル師団長パッチ少将に指揮権を委ね第一海兵師団後退
12月14日   参謀本部作戦課長が服部卓四郎大佐から真田穰一郎大佐と交代
12月24日   宮崎第十七軍参謀長各方面に食糧と医薬品を切望する旨打電
12月28日   参謀本部第八方面軍にガダルカナル島からの撤退を指示
12月31日   参謀本部作戦重点をニューギニアに転換
1月2日   パッチ少将第十四軍団長に就任(アメリカル師団、第二十五歩兵師団、第二海兵師団)
1月4日   参謀本部第八方面軍にガダルカナル島からの撤退を下令
    撤収に関する陸海軍中央協定が指示され「ケ」(捲土重来)号作戦と命名
1月12日   方面軍の撤退命令を第十七軍に伝達(方面軍参謀井本熊男中佐)
1月16日   パッチ少将混成陸海師団を編成し攻勢開始
1月20日   第十七軍撤退命令を下令
1月23日   日本軍撤退開始
2月7日   日本軍撤退完了
2月9日   パッチ少将ガダルカナルに日本軍の残存無しを確認して勝利確信と報告

ガダルカナル島・陸軍派遣部隊一覧表

詳細は「ガダルカナル島の戦い」にリンク

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