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黄檗宗
遠江49薬師
第25番札所

 由来

当山の伝承は遠く平安初期、人皇五十代桓武天皇の延暦十四年(791年)、征夷大将軍坂上田村麻呂東征のみぎり、遠江国岩田の海に赤蛇が住み、渡海の旅人に危害を加えていた。田村麻呂将軍は諸住民の難渋を救うべく遠江国小笠郡堀之内潮海寺より薬師如来を歓請し、当地に薬師堂を建立し祈願。
佛道に依り、赤蛇は将軍の子を形見として田村麻呂将軍に預け、以後岩田の海の航行往来の安全を約し二俣鹿島の椎ヶ脇の渕に沈むと伝えられる。
境内には田村麻呂の子・二代将軍俊光公誕生の産湯の池があります。寺伝に依れば、当寺は真言宗廣厳城山潮海寺末赤池山光福院と称し東円院、三松院等末寺六ヶ寺を有すると伝えられる。時代の推移により末寺は廃寺となり、室町幕府時代まで光福院も無住にひとしい廃寺の状況でありましたが今も地名に残る大門・大門下天白、光福院守護町、膳桃、柿ノ木・定観治等に名称をとどめ、居い寺とも寺院は何時の時代からか無住荒廃しましたが薬師堂への里人達の信仰に依り存続され江戸時代より眼病祈願成就の霊験ありと知られ、祈願者参拝多数と伝えられ、又遠江四十九薬師第二十五番札所として薬師霊場巡りに巡拝も盛んになり、毎年二月八日の例祭には薬師堂内に近隣の念佛講中による和讃も大正末期迄行われました。
明治二十九年(1896)当時光福院兼住上島村延命寺一六世杉逢三和尚より積志村半田実相寺住職館燈外師に引き継ぎ引佐郡・細江町より白華寺を移し、黄檗宗に改宗、館燈外師も当時兼住、名実共に黄檗宗として寺院を保持す。
昭和年代京都より松居弘倫師(後に盛岡市大慈寺住職)住職として迎えた。現在は松居信善が住職となる。