偏頭痛の原因にはいろいろありますが一説には眼瞼下垂症(がんけんかすいしょう)による
アドレナリンの過剰分泌が原因ではと言われています。以下は三浦 久さんの記録から
抜粋させていただきました。



「眼瞼下垂症」との不思議な出会い

三浦 久


昨年(2001年)の11月初め、不思議な巡り合わせによって、眼瞼下垂症(がんけんかすいしょう)という聞き慣れない病名を初めて耳にしました。そしてこれまた不思議な巡り合わせによって、本来ならば6か月待たなければいけない手術を、2か月後の今年の1月初めに受けることができました。

手術の効果は劇的でした。眼瞼下垂症について、その名前を初めて聞いたときから手術を受けるまで、ホームページの掲示板に書き込んできました。それに若干の加筆修正をほどこし、以下にまとめてみました。少しでも、頭痛、肩こり、不眠、いわれのない不安などに悩んでいる方々の参考になれば幸いです。


2001年 11月 05日「眼瞼下垂」

昨日は、ニュースウイークリー出演のために朝7時過ぎに家を出て、長野市のSBC(信越放送)のスタジオに8時40分に到着する。コメンテーターはぼくと『乳房再建』(小学館)等の著書のある作家の三島英子さん。

短い時間の中で適切なコメントをするというのは至難の技。いつも終わった後は後悔の念に苛まれる。ああ言えばよかったとか、あれは言うべきではなかったとか。ときにはクレームの電話もあり落ち込むこともある。しかし、コメンテーターの仕事は、様々なニュースを深く掘り下げて考える機会を与えてくれるし、何といっても、いろんな方々とお会いできる喜びがある。

三島さんとは過去数回一緒に仕事をしたが、今回初めて親しくお話することができた。番組終了後、いつものようにメインパーソナリティの武田徹さんを囲んで、スタッフの方々と40分ほど雑談をした後、彼女を車で長野駅までお送りすることになった。ぼくの車のCDプレーヤーには、まだ日本では発売されていないレナード・コーエンの新しいアルバムが入っていた。2曲目の「ア・サウザンド・キセズ・ディープ」が流れてきたときぼくは、「いいでしょう。レナード・コーエンの新しいアルバムです」と言った。

   子馬は走り、少女は若い
   立ち向かうべき勝負はいつもそこにある
   しばらくは勝つが、すぐに終わる
   おまえのわずかな連勝記録
   そしておまえはおまえの無敵の敗北と
   向き合うことになる
   おまえは生きる
   まるで人生が実在するかのように
   千回のキスを重ねて

コーエンの渋い低い声で歌われる歌をしばらく黙って聞いていた三島さんは「こういう音楽を好んで聞くというのは、三浦さん、過労感があるんじゃないですか」と言われた。その通りで、ぼくはもの凄く疲れやすい。

それから、彼女は、形成外科の医師であるご主人が、テレビに映るぼくの顔を見て眼瞼下垂だと言っていたと付け加えた。その病気の名前は知らなかったが、彼女の説明を聞いて、シドニーオリンピックの女子400メートルメドレーリレーで銅メダルを取った選手が、緊張し過ぎて疲れることからその手術を受けたというニュースを読んだことを思い出した。

彼女にそのことを話すと、その人は田中雅美さんで、彼女の夫が手術をしたと言った。その病気のことについてもっと詳しく聞きたかったが、もう車は長野駅近くまで来ていた。それでメールで詳しく教えていただけませんかとお願いしたところ、今日そのメールが届いた。長いメールなので、抜粋して紹介することにする。
三浦さんをテレビで見ております夫が眼瞼下垂ともうしておりました。不眠があると思うとも。不眠とは疲れているのに眠れないとか、2時間おきに目が覚めるとか、2時間ぐらいで目が開いてそれっきり眠れないとか、朝方早くに目が覚めてしまう等。それに、うつで辛いのではないかと・・・。いま、うつは、昔の精神的な病気とは一線をひきつつあり、気分変調性障害という名で、だれでもがかかる風邪のようなものだそうです。同時に、頭痛、肩こり、腰痛、過労感、不眠、手足の痺れ、不定愁訴等などあり。夫の説では、睡眠不足がつづくと、全員「うつ」になる、のだそうです。

この手術は、脳も体も、全身の血流をよくする手術です。極端に言うと、脳の隅々に血流(酸素)がまわるので、頭がよくなります。顔も血流がよくなるので、顔色もよくなり、筋肉にも酸素がいくので、体も10〜20年若返ります。免疫もつよくなります。高血圧も、正常値までかはわかりませんが、術後、血圧が下がる方がけっこういらっしゃるようです。

それに、みなさん術後、声がよくなります。高くなって艶がでます。電話で話すと、若くなったと感じます。また、喉が強くなるっていうか、いままでより長時間歌えるようになります。これもみな喉の血流がよくなる、で説明できるようです。
これを読んで驚いた。眼瞼下垂が引き起こす頭痛、肩こり、過労感、不眠等、すべてぼくに当てはまる。三島さんのメールによると、希望者が極めて多く、手術は診察を受けてから6か月後になるとのことだが、とにかく一度診察してもらいたいと思っている。

皆さん、知っていました?眼瞼下垂。


2001年 11月 09日

信州大学附属病院形成外科の松尾先生が外来の診察を受けつけるのは木曜日のみとのことで、今日信大農学部の1時間目の授業が終わった後、高速で伊那から松本へ行った。どんなに急いでも11時過ぎになる。三島英子さんから、木曜日は全国から診察を受けに来て大変混むと聞かされていたので、妻に朝早くから並んでもらい順番を取ってもらうことにした。そしてせっかくだから彼女も一緒に診察を受けてみようということになった。

ぼくが形成外科に着いたときは11時半を過ぎ、妻はすでに診察室に入り、松尾先生から説明を聞いていた。目の大きな若々しい先生である。ぼくが診察室に入ると先生は再び最初から、眼瞼下垂症について紙にイラストを描きながら丁寧に説明をして下さった。

説明が終わるといよいよ診察が始まった。デジタルカメラで写真を撮ったり、瞼に錘をつけたり、瞼にクリップをつけたり、最後には脳内の血流を調べるために、ヘッドバンドをつけて電流を流したりと、様々な検査が行なわれた。鬱かどうか調べるための20ぐらいの質問にも答えたが、自信をもって記入できたのは、「まだ異性に関心があるか」というところだけ。

診察の結果、ぼくは案の定かなり重い眼瞼下垂症にかかっていた。驚いたことに、妻の方が重症であるという。彼女は、夜よく眠れるし、大きな二重瞼で、瞼もかなり薄く、化粧もほとんどしないし、コンタクトも使っていない。下垂症にかかっているとは考えられなかった。

別室で看護婦さんから手術の説明を受けた。手術は6か月後に、おそらく市内の相澤病院で受けることになるだろうとのことであった。できたら明日にでも手術してもらいたかったが、とにかく手術の申請書に記入し提出した。この手術を受ければ「頭が良くなり、声も良くなり、免疫力もたかまり、かなり若返るという」というのだから希望者が多いのは当然だろう。

脳内の血流を調べてくれたのは松尾先生ではなく、かなり若いお医者さんだったが、彼もこの手術を受けて、大いに体調が改善されたと言っていた。事実信大医学部形成外科の多くの先生がこの手術を受けているようである。


2001年 11月 10日
http://sula-ny.hoops.ne.jp/ganken.htm

眼瞼下垂症というのは瞼を上下させる筋肉が弱っているか、切れているために額の筋肉がその代わりを務めることによって、過負担が連鎖的に首筋や肩の筋肉にかかり、肩こり、頭痛、めまい、脳の血流(酸素)不足などを引き起こすもののようである。詳しくは上記のURLをクリックしてみて下さい。信大病院で治療を受けた大阪の女性の手記が載っています。

昨日診察を受けたときに、妻が「手術まで6か月ということですが、それまで何か応急処置がありませんか」と聞くと、先生は「起きているときや運転をしているとき、セロテープで瞼を持ち上げると、かなり効果があります」とおっしゃった。

家に帰って早速試してみた。セロテープを4センチほどに切り、目をつぶった状態で、セロテープの片方の端を目やまつ毛にかぶさらないように軽く貼ってから、目を開きながら引っ張り上げ、もう片方の端を眉毛の上の額に貼りつける。このときあまり強く引っ張り上げる必要はなく、ほんの少し引っ張りあげる感じが違和感がなくていいようだ。

この3日間(木の夜、金、土)人前に出るとき以外は両瞼にセロテープを貼っていた。実は今も貼っている。効果は初日から出た。首筋、肩のこりが取れ、瞼の奥のなんとなく重く痛い感じがなくなった。そして何よりも金曜日の朝の目覚めが本当に快適だった。こんなにすっきりした気分で目覚めたことはここ十数年もなかったような気がする。

2時間授業が続くと普段はすごく疲れるのが、金曜日はほとんど疲れもなく、松本への往復60キロの運転中も眠くなることはなかった。いつもは眠くなって止まって少し休むこともあるのだが。

セロテープで瞼を持ち上げている状態は「覚醒」の状態なので、寝る前にはセロテープをとったほうがいいようだ。また人前に出るときセロテープをとるのを忘れると清水アキラになってしまうので要注意。


2001年 11月 13日

今日(といってもすでに昨日)作家の三島英子さんからメールが入った。驚いた。彼女のご主人、つまり先日診察していただいた松尾先生もこの掲示板を読んでいるとのこと。
鬱かどうか調べるための20ぐらいの質問にも答えたが、自信をもって記入でき  たのは、「まだ異性に関心があるか」というところだけ。
と先日書いたが、ここを読んで大笑いされたとのこと。ここはみなさんあまり正直に答えないところのようである。ぼくは「大いに関心がある」に即座に躊躇することなく○をした。

三島さんはセロテープを貼ることに関して次のように書いて下さった。
私も、セロテープ貼らされました。おでこの皮が剥げました。私は肌色テープを5×1.5センチの長方形に切ってまぶたにはっていました。(化粧品に二重にする糊があるようですが同じこと。)たるんだ皮が奥に折りたたまれて、ずいぶんと楽でした。

肌色テープは、薬屋さんやコンビニに売ってます。薄い不職布のようなばんそうこですから、蒸れないですしよくつきます。目もぱっちりしますし、ブラウンのアイシャドウをすると、まず、気づかれることはありません。顔も洗えますし、蒸れませんし、貼ったまま数日いることもありました。
女性には肌色テープがいいかもしれないが、ぼくは今のところセロテープで満足している。実は妻もセロテープをしばらく貼って、その効果のあることは分かったのだが、かぶれたり、眉毛が取れてしまったりという理由であまり積極的には貼っていないようである。

前の書き込みで、セロテープは4センチほどに切ると書いたが、これは長過ぎる。2.5センチで充分。最近は両目の外側の上のほうの瞼にテープの端を貼り、斜め上に引っ張り上げるようにしてもう片方の端をおでこに貼る。こうすると狐目になって、人前には出られないが、とても調子がいい。


2001年 11月 15日 14時「セロテープ」

長野ジャーナルのエッセイを書き終わってから数日は、毎回、両腕、首筋、肩が凝り、時には頭痛もしたが、今回はまったくその徴候がない。年を取ると疲れは一日おいてでることがあるので、様子を見たが今朝も快適である。昨夜は12時前に寝て、一度も目覚めることなく6時間以上熟睡した。こんなことはめずらしい。

以前、身体の中に鉛がつまっていて、沈み込みそうになるくらい身体が重いことがあると書いたが、今朝は身体の芯がぽかぽかと暖かい。身体が軽い。両瞼に貼ったセロテープの効果としか考えられない。ありがたいことである。

昨日の午後、会議があった。当然のことながら、研究室を出る前にセロテープをはがすつもりだった。ところが、事務局の人が、すでに会議が始まっているとドアをノックしに来るまで、会議に遅れていることに気づかなかった。あわてて部屋を飛び出て、会議室へ走った。セロテープのことはすっかり忘れていた。

会議の途中、普段は会議中は両瞼が重く、奥のほうが痛い感じがするのに、今日は調子がいいな思いながら、手を瞼にもっていった。ガーン!セロテープの感触!しまったはがすのを忘れていた。そこではがすのはなおさら目につくのでそのまま貼っておいた。会議の終了とともに顔を隠すようにして、急いで部屋に戻った。

気がついた人がいるかどうか分からないけれど、気がついた人は、いよいよ三浦先生もおかしくなったと思ったかもしれない。普段は垂れ下がった目尻がセロテープで吊り上げられていたのだから。


2001年 11月 25日 「セロテープその後」

セロテープを貼って効果があったという報告はその後ひとつも届いていないのだが、ぼくはもうそれこそ毎日愛用している。今朝も起きてすぐに貼りつけた。

テープの貼り方も徐々に変わってきて、家にいて長時間貼っていられるときは2センチの長さのものを6枚用意し、それぞれの瞼を3枚でまんべんなく吊り上げる。これが一番安定していいようだ。

数日前、2階の部屋で仕事をしているとドアベルが鳴った。ぼくしか家にいなかったので、あわてて下に降りて行きドアを開けると、モップを取替えに来た人である。顔を合わせたのは最初挨拶をしたときだけ。彼女はずっと下を向いている。取替えるときは下を向いていたとしても、お金を受け取るときぐらいは顔を上げたらいいのに失礼な人だと思っていた。ドアを閉めて彼女が出ていってから気がついた、6枚のテープで両目が吊り上げられていたのだ。

あまりの気持ちのよさに最近はテープを貼っていることを忘れることがある。気をつけなければいけない。みなさんもご注意を。


2001年 11月 26日「セロテープその後」への反応

「セロテープを貼って効果があったという報告はその後ひとつも届いていない」と、前回書いたところ、
おそらく何人かの方々が密かにセロテープを貼りつけていたり、書き込みを読んでおられると思いますので、「セロテープ効果」の進捗状況をこれまで通り書きこんでいただければ大変ありがたく存じます。
と、ご丁寧なメールが届いた。この方のお母さんが目から頭にかけて常に不快感があるので、セロテープを数日前から試しているとのこと。あまり長い間はってはいないが、「ききめはあるようです」とのこと。今後も進捗状況を書いてほしいとのことであるが、勿論6か月後の手術まで、折りにふれて書き込むつもりである。

たねださんの「笑いながら読んでます」の書き込みに呼応して、「笑い転げているのは私だけじゃあなさそう」というメールが届いた。この人は、
二重瞼にするためにアイテープやアイプチという糊状のものがあり、私のまわりにもされている方がいますが、よく見ないとわかりませんし、まためだちませんよ。ひっぱり度はテープにはかなわないと思いますが。
と書いてくれた。ぼくはセロテープにもう少し固執し、周囲に笑いを提供しようと思う。いや実は、不精で面倒くさがり屋であるというだけなのだ。


2001年 12月 06日「眼瞼下垂症とセロテープ効果」

先日のU-パレードに出演したぼくを見て、明らかに顔つきがちがっていたと数人の方から指摘を受けた。リラックスした柔らかい雰囲気をしていたらしい。ぼく自身は自分の出たテレビを見ないことにしているので以前の顔つきと今の顔つきの違いがわからない。

でもわかることは首筋をつまんでみると柔らかくなっていることである。以前は首がよく回らなかった。特に右を向くときに左の首筋がつるような感じがしたのだが、今はそんなことはない。左を向くときと同じように回る。肩こり、頭痛も少なくなっている。畑や庭で働いたあとは首筋や肩がこるが、以前のような過労感はない。

明らかにセロテープを瞼に貼ることの効果が出たとしか考えられない。松尾先生に診察してもらったのが11月9日で、その晩からセロテープを貼り始めたので、ほぼ1か月でこれだけの効果があったのである。

手術は6か月後だと思っていたのだが、来月手術をしてもらえる可能性が出てきた。信大で手術を受けるなら6か月後なのだが、1月に松尾先生がある南信の病院から依頼されて眼瞼下垂症のデモンストレーション手術を行なうのだが、その手術を受けて見ないかとの打診を昨日受けた。

ふたつ返事で了承した。手術の様子を信大の派遣医局員の方や、他のお医者さんたちに見られるのはちょっと恥ずかしい気もするが、いやいや医学の進歩のためであれば、そんなことは気にならない。というのは真っ赤な嘘。どんな状況であれセロテープであれだけの効果があったのだ。予定より早く手術をしていただけるだけでありがたい。

手術の日程その他詳細が決まり次第、またご報告いたします。Meanwhile, もし頭痛や肩こり、気力の喪失などに悩んでいる方がいましたら、早速セロテープを試してみて下さい。因みに、今はセロテープは2センチのものを4枚切り取り、それぞれの瞼を2枚のセロテープですこし吊り上げるようにして貼っています。ぼくにはそれがいいようですが、試行錯誤を繰り返し、それぞれ自分に合った方法を見つけるのが肝心かと思います。


2002年 01月 06日 「眼瞼下垂症手術」

ぼくの眼瞼下垂症の手術はいよいよ明後日の8日ということになった。今年は年賀状やメールでぼくの眼瞼下垂の手術を心配してくださる方が多く、ありがたいことだと思っている。中には、

 男の方は女より痛みに弱いので心配ですが、ひとつ気合いを入れて臨んで下さい。

と、半分脅されているようなものもあった。いやいや、これは脅しというよりは励ましと受け取るべきだろう。

手術そのものに対してはまったく心配していない。痛みに対して強い方ではないが、麻酔をかけるわけですから、大丈夫だと思う。

ただ、手術後すぐに学校が始まり、授業のほかに、試験をし、採点し、さらにレポートを読むという作業があるので、それが上手くこなせるかどうか一抹の不安がある。またTV出演とライブで人前に出るので、あまり恐怖を抱かせるような腫れ方はして欲しくないなという気持ちもある。でも、腫れたときは腫れたとき。そのときはそのときでなんとか対処できるだろう。

実は、暮の疲れが出て、正月は、喉が痛み、咳がでるひどい状態で、ほとんど寝て過ごしたのだが、ようやく昨日あたりから気分がよくなった。手術の前によくなってほっとしている。


2002年 01月 09日 「眼瞼下垂手術無事終了」

昨日、富士見高原病院にて信大の松尾先生の執刀により、富士見高原病院形成外科の篠原先生のアシスタンスを得て、眼瞼下垂の手術無事終了いたしました。

手術後の3日間が大変とのことで、今日は、コンピュータの文字を読むのも、書き込むの目が大変疲れます。それで詳しい報告は後日ということにさせていただいて、今日のところは、手術が首尾よく終わったこと、そしていくつかのいい兆候がすでに現れていることだけをお知らせいたします。


2002年 01月 10日 「眼瞼下垂手術について その1」

どこからどう書き出していいのか迷っていますが、手術から3日目の現在どんな感じかというところから書いてみます。

何度かこの掲示板に、この手術を受けると、「頭がよくなり、声がよくなり、憂鬱な気分から解放され、10歳から20歳若返る」と、書き込んだが、今言えることは、身体の芯がじわーんとあったかいような気がするということと、いい坐禅ができたときに感じる爽快
感があるということである。

おそらく酸素が今まで以上に身体の隅々にまで行きわったっているのではないかと思われる。昨日は、文字を読むのも書くのも疲れると書いたが、今日は、大丈夫。

ただ鏡を見ると、ぼくの目は作家の三島英子さんがいみじくもおっしゃったように、感情のないぎょろっとした「爬虫類の目」のようで、自分でもぞっとする。

しかし、目の回りの腫れも赤味もずっと減っているので、数日後には、かなり普通に戻るのではないかと期待している。

今朝は1時間目、信大農学部での授業だった。濃いサングラスをかけて教室に入っていくと、ぎょっとする学生もいれば、笑い出す学生もいた。それで今日なぜサングラスをかけてきたかという説明をし、眼瞼下垂症の話をした。

というのは、手術の前に、松尾先生が、学生はぼくの手術のことをどのように受けとめているかという主旨の質問をされ、学生には話していないと答えると、最近は若い人たちにも、特に女性に増えてきているとおっしゃっていたからである。女性は化粧をして、それを落とすために、瞼を強くこするのでかかりやすいらしい。化粧を落とすときはご注意を。

学生たちは、いつもの授業よりも静かに熱心になぜぼくが眼瞼下垂の手術を受けるようになったかという話に耳を傾けていた。おそらく女子学生には思い当たるところがあっただろうと思います。

このクラスは後期、148ページある『卒業』を読んでいます。学生が家で本を読み、3回にわけて、内容チェックとヒヤリングのテストをします。もうすでに2回終わり、最後のテストは1月の終わりです。クラスでは歌を歌ったりビデオを見たり、ディクテーションをしたりします。今日歌った歌は、All My Loving, I Wanna Hold Your Hand, Little Child, All You Need Is Love, Norwegian Wood, Eleanor Rigby, Nowhere Man, Let It Be, The Sound of Silence, April Come She Will.

なぜこんなことを詳しく書いたかというと、自分でも驚いたからだ。バックパッカーのギターを弾いて、学生と一緒にこれらの歌を歌っても、まったく疲れなかった。まだ目に違和感はあるが、身体のほうは確実に元気になっているような気がする。

そのもうひとつの兆候は、年末以来、左上の歯茎が腫れ、痛くて噛むこともできなかったのだが、手術以後、嘘のように腫れも痛みも引け、ものが噛めるようになっていることである。

とりあえず、今日はこのくらいにしておきましょう。そうそう、テープを貼っていたときの気分に近い感じがあります。手術をしてみて、テープの効果を確信しました。


2002年 01月 12日 「眼瞼下垂手術について その2」

1月8日、手術当日。いくつかの事情が重なり妻に送ってもらうことができなくなったので、自分で運転して行くことになった。午前9時過ぎに富士見高原病院に着く。すぐに形成外科の受付に行き、看護婦の平島さんにお会いする。診察室に通され、形成外科医の篠原先生に紹介される。その後、入院案内と記入すべきいくつかの用紙を渡され、廊下のソファにすわって記入した。

手術をして下さる松尾先生は、9時40分頃に特急あずさで富士見駅に到着されるとのことだった。10時診察室に通されると、すでに先生がすわっておられた。先生にお会いするのは、11月に信大病院で診察していただいたとき以来である。

手術同意書に署名する前の説明が始まった。これがインフォームド・コンセントというものだなと納得。中学3年生のとき盲腸の手術を受けたが、説明は一切なかった。突然に部屋に入ってきた看護婦が、毛を剃るからズボンを下げてと言っただけだった。

11月に診察を受けたときも、先生はいかに眼瞼下垂症になるかという説明して下さったが、そのときは瞼を持ち上げる筋肉がはずれるということぐらいしか分からなかったが、今回はメモを取りながら、分からないところは質問しながら、説明をお聞きしたので前よりはよく理解できたと思う。

瞼の開閉は、眼瞼挙筋(がんけんきょきん)が収縮したり弛緩したりして生じる。眼瞼挙筋の先端は、薄い腱膜(けんまく)と呼ばれるものになっていて、瞼板(けんばん)という軟骨にくっついている。眼瞼下垂のというのは、腱膜と瞼板の結合がゆるんだり、はずれてしまったりするために、眼瞼挙筋の収縮だけでは瞼が開きづらくなる症状である。

眼瞼挙筋の収縮では開かない瞼を開かせるために、眼瞼挙筋に付随しているミュラー筋を収縮させ瞼をあげようとする。ミュラー筋を収縮させるためには交感神経を入れる必要がある。つまり、眼瞼下垂症になると、常に交感神経を緊張させていることになる。そのことが偏頭痛、首や肩の凝り、さらに不安や疲労感の原因なのである。夜眠れないのも、交感神経が興奮しているからである。

だから眼瞼下垂の手術は、外れた腱膜を元の位置に、つまり瞼板に固定し、瞼の余分な皮膚を切除する手術である。

以上がぼくが理解できた先生の説明である。余談になるが、このとき松尾先生は、白人には肩こりがないと言った。そして、白人の瞼は薄いからだと付け加えた。そういえば、アメリカに住んでいたとき、「肩が凝る」とか「肩を揉む」という表現を聞いたことがなかった。研究社の英会話の教科書、「Spoken American English 入門用」には I have a stiff shoulder.という例文が出てくるが、実際にその表現を聞いたことがない。一番よく聞いた表現は、back rub である。Give me a back rub. というように使う。背中が凝る、あるいは張る、ということは白人にもあるのだろう。

最後に、先生は、6年前から眼瞼下垂の手術を2700回してきて、失敗は一度もなかったが、感染症を起こした、つまり手術後ばい菌が入って化膿した患者が3人いたこと、そして合併症の可能性として血腫、感染症、非対称症があると説明された。勿論、説明を聞いたあとすぐ、手術同意書に署名した。

署名すると即座に、手術室に通され、手術着に着替えさせられ、髪を被うキャップをかぶらされた。そして手術台の上に横たわるように促された。天井からはテレビドラマで見かける大きな丸いライトが下がっている。血圧、鼓動、血中の酸素量を測定する管が身体に固定された。さらに左足には電気メスを使うためにアースもとりつけられた。顔は両目の部分を除いてすべて被われた。

「これが手術の中で一番辛いところです」といって、両方の瞼に麻酔の注射がうたれた。


2002年 01月 12日 「眼瞼下垂手術について その3」

麻酔液は歯科医が使うものと同じで、注射の針も一番細いものであると、松尾先生はぼくの頭の後ろから話しかけながら、両瞼の何ヶ所にも麻酔を打つ。「これが手術の中で一番辛いところ」とのことだったので、身構えたが、耐えがたい痛さではなかった。

麻酔はすぐに効いて、瞼の切開が始まった。まったく痛くない。でもかなり緊張していて呼吸が荒かったのだろう、先生が「呼吸を長く深くするように」と言う。深く息を吸い込み、一旦止め、ゆっくりと息を吐き出した。次に先生が「45度の角度を見るように」という。45度の角度?一瞬考えた。仰向けに寝た状態で45度の角度を見るというのは、どこを見たらいいのか。そして咄嗟に、「壁と天井が合わさっているところですか」と聞いた。すると先生は、「それはこの部屋の45度の角度だ。瞑想のときの目の位置に」と言われた。

その説明は分かりやすかった。つまり、仰向けに寝て、坐禅の形をとればいいのだ。坐禅のときは、足を組み、背骨を伸ばし、右手の指の部分に左の指の部分を乗せ、親指を接触させ、両手で輪をつくり、それを軽く膝の上におく。そして目は半眼にして、およそ1メートル先の床を、見るともなく見る。そして、深く長く息を吸い、そして吐きながら、呼吸を数える。

「瞑想のときの目の位置」と聞いたとき、なるほどと思った。禅僧に長生きする人が多いのも、12月の初めの1週間にわたる臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)に耐えられるのも、坐禅というものが、交感神経の働きを抑え、副交感神経の働きを促すからだろう。つまり目覚めていても、ミュラー筋がリラックスしている状態である。

手術を受けるときは当然交感神経が働くが、できるだけリラックスしたほうがいいだろう。ぼくは数息観(すそくかん)を行い、眼球を、坐禅をしている気持ちになって、下へ向けた。抵抗しないで、すべてを受け入れようとした。しばらく何の痛みもなく、手術は続いた。時々先生が、「バイポーラーをもっと強く」とか「バイポーラーを弱く」と指示を出している。「バイポーラーって何ですか」と聞くと、よく理解できなかったが、止血のための装置のようであった。目には見えないけれどもかなり出血していたのかもしれない。

その内に、少し痛み始めた。先生はここは麻酔が効きにくいところだといいながら、麻酔液を数カ所に注射する。おそらくここで瞼膜が瞼板に固定されたのだろう。目が上に引っ張られるような感じがする。痛みはそれほどでもない。

痛みは最後のほうに来た。最後の20分かなり痛んだ。20分ぐらいにぼくには感じられたが、実際はもっと短かったかもしれない。両瞼の余分な皮膚が切除され、脂肪が削られた。これは瞼を奥二重にする作業であると思われる。「目尻が下がっていたほうがいいか、上がっていたほうがいいか」と聞かれたので、「上げて下さい」と頼んだ。年と共に目尻が下がってくるのを感じていたからである。

先生は、手術前の説明の中で、「奥二重の大きさによって、かなり若く見えるようになる」と言ったので、「それではかなり大きくして下さい」というと、「しかし、他とのバランスというものがあるからね」と言った。確かにそうだ。目だけが36歳で、他の部分が56歳ではちょっとバランスが悪い。果たして先生は、ぼくを何歳若返らせようと思って下さったのだろうか。

最後に切除した瞼の皮膚を縫い合わせた。ぼくは低い呻き声を上げた。痛かった。先生は、「麻酔が切れてきた」と言った。麻酔というのはアルコールと同じで、酒の強い人は、麻酔が早く切れるとのこと。昔はよく大酒を飲んだが、最近はほとんど飲まなくなった。それでもアルコールを分解する酵素が依然としてぼくの中にあるということなのだろう。麻酔が切れてきたのならもう少し麻酔を注射してくれたらいいのにと思ったが黙っていた。そのまま手術は続いた。翌日篠原先生にそのことをお聞きすると、あの段階で麻酔を打つと後で腫れがひどくなるとのことであった。

手術が終わった後、両瞼がずきずきと痛んだ。でも切開したり、縫い合わせたりしているときの痛さではない。ぼくがベッドの上に起き上がると、先生は「そこにすわって」といって、デジタルカメラでぼくの顔の写真を撮った。実は手術の前にも同じ位置で写真を撮って下さった。この写真を送って下さることになっているので、ひょっとしたら公開することができるかもしれない。公開するかどうかは、見てから決めることにする。

手術にどのくらい時間がかかったのか定かでない。先生に説明を受けるためにお会いしたのが10時だったので、手術が始まったのは10時20分ぐらいだったと思う。終わったのは11時半を超えていたと思う。だから1時間以上かかっているように思われる。


2002年 01月 14日「眼瞼下垂手術について その4」

手術が終わり、松尾先生から写真を撮っていただいたあと、車椅子で病室へ連れていかれた。病室は個室をお願いしておいた。比較的部屋数の多い1日3000円の個室は空いていなくて、1日8000円の個室しか空いていないとのことだった。長期入院の場合1日8000円というのは大変だが、1日ならビジネスホテルに泊まるのと変わらないと思い、個室にしてもらった。

ぼくの病室は北2階の235号室。トイレ、シャワー、テレビつき。それに高低と上半身の上げ下げが自由にできるベッド。かなり大きなソファとコーヒーテーブルも置かれている。部屋に入ったときの時間は12時10分前ぐらいだったと思う。

手術着を脱ぎ、持参したパジャマに着替えベッドに横になった。車椅子を押してくれた看護士が、アイスキューブ入りの水の入ったプラスティックの洗面器と10×10センチぐらいのガーゼを二つ折りにしたものの束をもってきて、ベッドの横の細長いテーブルの上に置いた。なかなかハンサムな若い看護士である。

「これから夜の9時までひっきりなしに冷やして下さい。ガーゼを水に浸して、両瞼にあてて下さい。血がつきますが、出血したほうが腫れないので心配ないです。ガーゼは新しいのをどんどん使って下さい。足りなくなったらもってきます」

早速、2枚のガーゼを水に浸し、ふたつに折り、それぞれの瞼に乗せた。冷たくて気持ちがいい。しばらくしてガーゼを取ると両方とも横に長く血がにじんでいた。左のほうが出血が多いようだ。

12時15分、ドアにノックがあり昼食が運ばれてきた。洗面器の横に置かれた昼食をベッドにすわって食べた。メインのおかずは苦手な青味の魚の煮付けだったが、思いきって食べた。美味しかった。ご飯も大盛りだったが残さず食べることができた。食欲は落ちていない。

素早く食べ終わり、再びベッドに横たわり、ひたすら冷やした。血のついたガーゼは冷水の中に浸しておくと血が落ちて真っ白になっている。少し血がついているときもあるが、揉めばすぐに落ちる。4枚のガーゼを回しながら使った。

時々ベッドから起きあがり、洗面台の前に行って鏡をのぞきこんだ。瞼は縫ったところから下が赤紫色に腫れ上がり、目の両横も赤紫色が広がっている。瞼の部分はかなり腫れている。これが自分の顔かとちょっとぎょっとする。

看護士は何度も部屋に入ってきていろいろと世話をしてくれる。洗面器に新しいアイスキューブを山盛りに入れてきれくれたり、新しいガーゼを使うように促したり。眼瞼下垂の手術後は、腫れないようにするために、ひたすら冷やす必要があるらしい。眼瞼下垂の手術の後、病院によっては入院しなくてもいいところがあるようだが、ぼくの経験では、手術後1泊したほうがいい。家では、あんなにアイスキューブを用意することは大変だし、衛生的に傷口を冷やすのも困難であるように思われる。


2002年 01月 15日 「眼瞼下垂手術について その5」

16時前に、「氷をかえてきましょうか」と再度看護士がやってきた。彼は、洗面器に山盛りのアイスキューブを入れて戻ってきて、
「今日はぼくはこれで終わりです」と言った。
「いろいろお世話になりました。助かりました。お名前は?」
「山崎です」と彼は胸の名札に手をやりながら言った。
「ぼくは明日退院するので、もうお会いできないかもしれませんが、ありがとうございました」
「明日の朝また来ます。3交代で働いているんです」

16時50分:次にきた看護婦が血圧と熱をはかってくれた。彼女は血圧計の目盛をみながら、正常ですという。数字はいくつですかと聞くと、「上が126、下が70です」という。驚いた。血圧が、特に下が高いということに気づいてから1年以上経ったが、こんないい数字はみたことがない。手術直後は上が160で下が100だった。

眼瞼下垂手術をすれば血圧が正常化すると聞いてはいたが、これほど急速に結果がでるとは思っていなかった。但し、これほど見事な数字は1度だけで、同じ日の21時15分には、上148、下88。翌日6時30分には、上140、下92。10時10分には、上154、下100。11時15分には、上150、下90。その後家に帰ってきて計る限りでは、上140〜150、下95〜105といったところで、術後血圧が正常化したとは今のところ言いがたい。

16時50分の時点で、体温は37度4分で微熱があったが、それ以後は36度4分から6分の平熱だった。つまり熱は出なかったと考えていい。

18時40分:夕食。豆腐ステーキ。大盛りのご飯。味噌汁。美味しかった。

20時(手術後8時間経過):痛みもほとんどなくなり、出血も止まる。痛みがなくなったせいか、冷静に瞼がどう感じるか考えることができた。セロテープでしっかり吊り上げたときの感じに極めて近い。

個室でよかった。消灯の9時になっても自由に明りをつけていられる。冷やすのは21時までとのことであったが、23時ころまで冷やしていた。その後しばらく眠ったが、それほど深い眠りではない。

翌日午前3時30分、左目が開けづらい。4時30分、両目が赤く充血し、目の回りが腫れている。「12ラウンド闘ったボクサーのように腫れる人もいる」と聞いていたが、それほどひどくはない。しかし前日よりも腫れている。

7時:洗面。歯をみがいたときに、左上の奥の歯茎がまったく痛まないことに気づいた。昨年末、近所の家の葬式の際、山の麓にある墓の掃除を担当し、墓の回りに押し寄せていた枯れた藪を剪定鋏を使って、午前中かけて切ったときから痛んでいた歯茎である。それ
が手術の効果だったのか、ちょうど痛くなくなるだけの時間が経過したのか分からないが、前者だろうと思う。

7時50分:朝食。ご飯大盛り、味噌汁、海苔、納豆、漬け物。美味しかった。

8時15分:朝食後、ノートに書こうとして気がついた。視力が落ちている。書いた文字が二重に見える。書いているボールペンも二重に見える。目を凝らしても直らない。

8時50分:文字が二重に見えるのは、左目で、右目は正常に見えることが判明。

10時30分:看護婦さんがやってきて、回診は行なわれないので、直接形成外科の診察室へ行って篠原先生に診てもらって欲しいと言う。

先生は、ぼくを見るとすぐに、「そんなに腫れていませんね。いいですね、腫れていません」と言った。結構腫れていると思っていたが、かなり順調に進んでいるようだ。その後、先生は抜糸の時期と、今後の注意を説明してくれた。抜糸は2度に分けて行なわれる。1週間後に半分を、2週間後にもう半分を。それから今後の注意としてはとにかく瞼をこすらないこと、洗顔のときも瞼の回りを洗ってもいいが、しばらくは瞼は水をそっとかけるぐらいにしておくこと。

10時50分:部屋に戻り、シャワーを浴びる。浴びる必要もないと思ったが、せっかく個室に泊まったのだから、記念に浴びておこうと思った。トイレ、シャワーつきの病室に泊まるなんていうことはめったにあることではない。気持ちよかった。瞼の上にもそっと温水をかけた。

シャワーから出たところへ、昨日お世話になった看護士の山崎さんが、「どうですか」といいながら入ってきた。彼もぼくを見て、「あまり腫れてませんね」といった。しばらく個人的な話をした。好青年である。

ちょっと長くなりました、明日につづきます。そうそう本来なら1週間後は今日の火曜日ですが、授業の関係で、明日の水曜日の午前中に第1回目の抜糸が行なわれます。まだ外に出るときや学校ではサングラスをかけていますが、目の回りの赤紫色も目立たなくなり、腫れもありません。もうサングラスも必要ないかもしれません。感情のない爬虫類の目にも人間的な表情が戻ってきました


2002年 01月 16日 「眼瞼下垂手術について その6」

1月9日(水)11時15分:服を着替え、そっと駐車場まで車の中に置いてきたサングラスを取りに行く。退院するとき、会計で支払ったりするときに係の人と顔を合わせてもいいように。

11時30分 手術からちょうど24時間たった。目の回りの赤紫色もかなり縮小している。ただ横になると、左の眼球に違和感を感じる。その違和感を言葉で表すのは極めて難しいが、眼球がずれるような感じとでも言おうか。

12時15分:昼食。何を食べたか、書きとめるのを忘れた。昼食後すぐに帰り支度を始めたのだろう。

13時:退院。形成外科の看護婦さんが持ってきてくれたカルテのファイルをもって、会計に行く。名前が呼ばれ、53,790円ですと言われ、お金を渡す。手術代は保険が利いて4万円ぐらいだと聞いていたので、個室の部屋代8000円と食事代を足せばそんなもんだろうと思った。

家に帰って明細書を見たら、内訳は次のようになっていた。

  診療分負担額 : 35,430
  食事負担 :     1,560
  室料差額料 :  16,000
  消費税 :       800
  --------------------
  合計請求額:  53,790

病院とホテルは日数の数え方が違うということを初めて知った。ホテルはチェックインからチェックアウトまでを1日と数えるが、病院は1泊した場合は2日にわたっているので2日と数えるのだ。ちょっとしまったと思ったが、でも個室でよかった。

13時15分:精算を済ませてから、駐車場へ行き車に乗った。もし危険を感じるようだったら車を置いて電車で帰ろうと思っていたが、文字は二重に見えるが、大きなものはしっかりと見えるので大丈夫運転できると言い聞かせた。前日来たときは高速道路を使ったが、帰りは高速はもちろん、国道も避けて、車の少ない裏道を通って帰った。車にナビゲーターがついていてよかった。

最初は問題なかったが、しばらくして、左目がかなり痛くなってきた。横になったときに感じた違和感が運転していても感じられた。少し眼球がずれる感じ。バックミラーに顔を写してみると、目の回りが腫れて目が小さくなっているように見えた。

運転しながらいろいろなことを考えた。ひょっとしたら、左側の手術が上手くいかなかったのではなかったのかとか、やはり運転して帰るのは無理だったかもしれないとか。(左目のこの違和感は翌日はなくなり、逆に右目に同じような違和感を少し感じたが、次の日にはなくなった。)

裏道を休み休みゆっくり運転してきたので、家に着いたのは3時少し前だった。距離は37キロ。辰野から松本へ行く距離よりも長い。今思うのは、手術の翌日に37キロ運転するのは少々無謀だったということだ。

その晩は、大事をとって早く床に着いた。といっても午後11時ごろ。翌朝4時には一度目が覚め、そしてその後また少しうとうととしたが、身体がとても休まっていて、以前のように、朝起きても身体の芯が重いという感じがしなかった。その日の1時間目の授業の様子は「その1」に書いた。

今日(1月16日)は、午前中に富士見高原病院へ行き、半分の抜糸をしてもらった。名前を呼ばれ診察室に入ると篠原先生がぼくの顔を見て、「すっかり目立たなくなりましたね」と笑顔で言われた。「どうですか」と聞くので、正直に「本当に身体が楽です。ここ数日忙しくて寝不足なんですが、それでも身体は軽いです。身体の芯がぽかぽかしています」と言った。篠原先生は、「ぼくも手術してもらおうかな」と真顔で言われた。

篠原先生からカルテに貼られていた手術前の写真をみせてもらった。うむむむー。ひどい顔だ。こんなひどい顔をしていたのかと思った。両瞼、特に左の瞼が眼球の上に覆い被さっている。陰気な顔だ。顔色も悪い。

篠原先生は、交感神経とアドレナリンの関係を説明して下さった。眼瞼下垂の場合、眼瞼挙筋を収縮しても瞼が上がらないので、交感神経を入れてミュラー筋を収縮させるのだが、交感神経を働かせるためにはアドレナリンが分泌される必要がある。眼瞼下垂の人が疲れるのは、四六時中、アドレナリンが分泌され交感神経が興奮しているからなのだ。

抜糸はすぐに済んだ。少しちくっとしたが、痛いうちには入らない。来週水曜日に、2度目の抜糸。それでとりあえず眼瞼下垂の手術は完了。

数日前から、三島英子さんの『乳房再建』(小学館文庫)を読み直し始め、昨夜読み終えた。読み直したというよりも、初めて読んだといったほうがいいかもしれない。数年前にこの本をいただいたとき、妻が先に読み、「いい本だったわ。お母さんのことを書いたところは特に感動的だった」と言った。その後でぼくが読み始めたが、最初の数ページを読んで後はぱらぱらと拾い読みした程度で、読んだとはいいがたかった。

本の内容にはここでは触れないが、夫である松尾先生がいかに形成外科というものを考えているかというところを以下に引用する。
「日本では形成外科医が忘れられている。ぼくたちすごくがんばっているよ。知らないだろうけど・・・。
アメリカなんかでは、外科の研修を終えて、さらに専門医として研修を積んだ医師と考えられているんだよ。形成外科医は特別なことができる外科医という見方がされているんだが・・・」
   (中略)
「みかけって大事なんだ。形も大事なんだ。たとえ機能しなくてもね」
「みかけは必要よ。『必要』は機能よ。精神的機能だと思うわ」 母乳が出なくてもいい。少し固くても、少し形が変でもいい。服を着たとき自然でありたい。遠くで見たときわからなければいい。」
「たとえば、ぼく、耳も造るんだけど、六つや七つの子がね、『耳が欲しい』ってはっきり言うんだよ。みんなと同じ耳をつけてもらいたいって真剣に言うんだよ」
   (中略)
夫のたくさんあるライフワークの一つに、耳の形成術がある。夫は、毎日持ち歩いているノート型パソコンをバッグから出して、最近行なった手術の説明を始めた。生まれつき耳のなかった子どもさんの耳を再建した画像である。
   (中略)
新しい耳の中身は、本人のあばら骨の軟骨を切り取り耳の形に彫刻したもの。新しい耳の皮膚は、ない耳の周りの皮膚を複雑にデザインして肉付きで切り、伸ばし、あばら骨から造った耳の中身に被せるのである。耳の穴のへこみまであった。正常な耳と再建した耳を並べて比較した画面を見たときには、パソコンと夫に頭を下げてしまっていた。造った耳だとは思えない。
「聞こえるために耳を造るんじゃないよ。人と同じ耳が欲しいからなんだ」
夫は、普通に生きていくための医学を極めている。形成外科医は、コンプレックスをときほぐす外科医として、目立たず、生きていくうえで当たり前の部分を一生懸命支えていたのだ。
昨年の11月初め、三島さんが、「三浦さんをテレビで見た夫が眼瞼下垂症だと言ってました」と言ってくれなかったら、今でもぼくは眼瞼下垂症という言葉さえ知らずにいただろう。偏頭痛と肩こりに悩まされ、夜、家に帰って鉛のように重い身体をソファに横たえていただろう。三島さんと松尾先生には感謝してもしきれない。


2002年 01月 18日「眼瞼下垂手術について その7」

手術をしたのが1月8日であったから、術後ちょうど10日経ったことになる。人間の回復力の速さに驚かされる。もう半分の抜糸が残っているが、腫れも痛さもない。

手術の効果を思い出すままに記述してみると、
   1. 頭痛、首筋と肩の凝りがなくなる。歯茎の痛みもなくなる。
   2. よく眠れる。爽やかな目覚め。少々寝不足しても目覚めは爽やか。
   3. 長時間の授業後も疲れない。
   4. 便秘気味だったが改善され、残尿感も減る。
   5. 鏡を覗き込むとそこに明るい元気な顔の自分がいる。

今日の1時間目は、豊南で比較文化論のクラス。Imagine, We Are the World, Amazing Grace の3曲を歌った。朝一番のクラスでは、音を下げないと声が出ないことがあるが、今日はいつもより半音あるいは1音上げて歌ってもよく声が出た。これも眼瞼下垂手術効果に違いない。


2002年 01月 20日 「ニュースウイークリー」

今朝のSBCニュースウイークリーに今年初めて、また眼瞼下垂手術後初めて出演した。午後家に帰ると、「若くなって元気そうに見えました」「目がぱっちりしていて、眼鏡とヘアスタイルも違っていて印象が変わって見えました」というようないくつかのメールが届いていた。

番組のスタッフも、8時45分、スタジオに入ったときは、興味津々といった面持ちで、ぼくの顔をのぞき込み、「目が変わりましたね」「すごーい、若くなったみたい」と口々に言う。

実は昨夜は、理由があって、あまり眠れなかった。それで今朝起きたときは顔が腫れぼったかった。瞼の部分も昨日よりも腫れているように見えた。「眼鏡とヘアスタイルも違っていて・・」というのは、普段ぼくは縁なしの眼鏡をかけているが、少しでも腫れが目立たないように、比較的太い縁のある老眼鏡をかけたからであり、ヘアスタイルはブラシを忘れたので手で適当になでておいたからである。

ほとんで眠っていなかったにもかかわらず、いつもよりも若々しく元気に見えたとすれば、それは眼瞼下垂手術のおかげ以外の何ものでもない。しかも、帰りは姨捨のSAで15分ぐらい横になっただけで、辰野までもどってきた。しかもいつものときよりも疲れ方が少ない。


2002年 01月 22日「眼瞼下垂手術 その8」

明日午前中に富士見高原病院へ行き、2回目の抜糸をしてもらう。これで一応手術は完了ということになる。しかし篠原先生からいただいた「傷をきれいに治すために」という資料には次のように書かれている。
糸を抜いた直後は1本の線だった傷も、2週間くらいするとだんだん赤くなってきて、3?4か月を過ぎるまで、どんどん赤さと硬さが増してきます。この時期を過ぎると少しずつ赤さと硬さがひいてきて、半年から1年くらいで傷は落着いてきます。
つまり、抜糸がすんだからといって、安心してしまってはいけないということだろう。三島英子さんからも、「6週間から8週間すると手術の後が硬くなって、肩こりや頭痛が引き起こされて、元に戻ってしまったのではないかと心配する人もいる」と聞いたことがある。だから、手術が完了したなんて思わないほうがいいのかもしれない。

18日の書き込みには、手術後の肉体的変化について書いたが、精神的な側面はどうかと考えてみると、気持ちが前向きになったということが言える。

去年の11月の初め、三島さんをSBCのスタジオから長野駅までお送りしたとき、ぼくの車のCDプレーヤーからはレナード・コーエンの新しいアルバムの2曲目、Ten Thousand Kisses Deep が流れていた。それを聞いて彼女は、「こういう音楽を好んで聞くというのは、三浦さんには過労感があるでしょうね」と言った。「ええ、ぼくはもの凄く疲れやすいです」と答えた。

翌日、三島さんから眼瞼下垂症についてのメールが届いた。そこには、この手術を受けると「頭がよくなり、声がよくなり、憂鬱な気分から解放され、10歳から20歳若返る」という主旨のことが書かれていた。

身体から過労感がなくなるだけでなく気分的にもとても楽になっている。まだ2週間だからはっきり分からないところもあるが、気持ちが前向きになっている。あまり過去のことをくよくよ考えなくなっている。ある種の劣等感から解放されている。

時には、人から三浦さんは活動的ですねと言われることがあるが、それは、自分を切羽詰まった状態に追いやって、二進も三進もいかないところで、えいやっとやっつけ仕事をしているのである。それは、自分に対する自信のなさに起因している。今後これが改善されるかどうかはわからないが、手術の後、そのことがよく理解できる。

前向きな気分にはなったが、いまだにレナード・コーエンのCDはぼくの車のプレーヤーからなり続けている。前よりも、さらにコーエンの声が、心にしみわたる。

     子馬は走り、少女は若い
     立ち向かうべき勝負はいつもそこにある
     しばらくは勝つが、すぐに終わる
     おまえのわずかな連勝記録
     そしておまえは無敵の敗北と
     向き合うことになる
     おまえは生きる
     まるで人生が実在するかのように
     千回のキスを重ねて

今は「無敵の敗北 (invincible defeat)」でさえ打ち負かせそうな気分だ。

2002年 01月 23日 「眼瞼下垂手術 その9」

2回目の抜糸のために富士見高原病院へ行ってきた。富士見へは過去何回か行ったことがある。もう10年以上前になると思うけれど、パノラマスキー場で開かれた「いのちの祭り」というコンサートに行ったことがあるし、富士見高校へも何度か学生募集のために足を運んだ。

でも富士見の町に対して本当に親しみを感じたのは、今回この町の病院で眼瞼下垂症の手術を受けたからである。偶然ながら、昨年の9月にもこの病院で一日人間ドックに入った。そのときも感じたが、この病院はとてもいい。大きな病院にありがちな厳めしさというか、「人を寄せつけない」ような雰囲気がない。スタッフがフレンドリーで、病院全体がのびやかである。その昔、堀辰雄や竹久夢二が療養していたときもこうだったのに違いないと思わせる何かがある。

中でも形成外科は、受付をすませるとすぐに名前を呼ばれるほどに患者の数が少なく、特にのんびりしている。

診察室に入ると篠原先生がにこやかに、「すっかりきれいになりましたね」とぼくの顔を見ながらいう。
「おかげさまで、ありがとうございました。頭痛や肩こりもなくなり、とても気分がいいです。ところで質問があるのですが、手術した後、腱膜と瞼板が何らかの理由で再びはがれてしまうということはあるんでしょうか。例えば人とぶつかったりしたときに」
「無理に強くこすったりしないほうがいいことは勿論ですが、普通に生活していてちょっと何かにぶつかった程度の衝撃でははがれることはないと思います。瞼膜はカーテンのように瞼板の前に垂れているのですが、それを3箇所、非吸収性の糸で縫い合わせてありますから」
「瞼を縫った糸はほっておけば溶けてしまうんでしたよね」
「それはPDS2という糸で、3か月から6か月で加水分解されます」

その後、横になり残りの糸を抜いてもらった。今回は前回よりも痛くなかった。痛くなかったというよりも何も感じなかった。かなり分解され始めていたのだろうか。

一応これで、富士見高原病院での手術および治療は完了したが、篠原先生のお話では、手術をして下さった松尾先生が1か月後にぼくの瞼の状況を見たいとおっしゃっていたとのことなので、2月の終わりか3月の初めには信大病院へ行くことになるだろうと思う。

昨年新大久保駅で、カメラマンの関根史郎さんと韓国からの留学生イ・スヒョン君がホームから落ちた男を助けようとして亡くなってから今度の土曜日で丁度1年が経ちます。

「カムサハムニダ・イ・スヒョン」の歌を韓国語に翻訳してもらって、日本語と韓国語の両方で歌ったらどうかと、ずっと前に掲示板に書き込んで下さった方がいました。他にも最近この歌は韓国でこそ歌われるべきだという人もいて、ぼく自身その気になってきました。

誰か韓国語に訳してくれる人がいないかなと探していましたら、信州大学で韓国語を教えている先生に紹介してもらえることになりました。もし歌えるような訳ができたらハングルの発音を覚えて、ぼく自身韓国語で歌いたいなと思っています。そして日本語と韓国語のヴァージョンの入ったシングル盤をつくりたいと思っています。

こんなに積極的になったのも眼瞼下垂の手術のおかげかな。


2002年 01月 24日 「眼瞼下垂手術について その10」

今後も折にふれて眼瞼下垂症については言及することになると思うが、とりあえず、手術の報告としてはこの「その10」をファイナルレポートということにする。

手術後、体調がよく精神的にも前向きであることはすでに述べた。もうひとつだけ付け加えたいことがある。それは自動車の運転についてである。カリフォルニアで免許をとってから、もう35年ほど運転してきたことになる。この間、ひやっとしたことは何度もあるものの、無事故だったのは幸運だった。

ぼくは車の運転が好きではない。好きではないというよりも嫌いである。特に長距離の運転は苦手だ。友人の中には日本中どこへ行くにも、車で出かけていく者がいるが、ぼくは県外の場合は電車を利用することが多い。慣れない土地で長い間運転すると疲労困憊してしまう。

特に10年ほど前から異常に気づいた。スピドミターやタコミーターを見るためにすばやく下を見て、次に顔を上げて道路を見ようとすると、焦点が定まらず、ときには道路が浮かび上がるような感じがする。当時乗っていた車はスカイラインのターボ車だった。加速がものすごい上に、車体が低く道路を舐めるように走る。焦点が定まらなかったり、道路が浮かび上がたりするのは、そのせいではないかと思いローレルに変えた。少しはよくなったが、それでも道路が浮かび上がるような感じは残ったし、視線を上下に移動するときには、焦点が定まらなかった。眼鏡が合っていないのかと思い、かえてみたが同じだった。

ほぼ2年前に、車高の高いホンダCR-Vに乗り始めてからは道路が浮かび上がるような感じはかなり減ったが、視線の上下移動の際に焦点が定まらないという感じはまだ残っていた。

手術をしてから、視線の上下の移動が楽になった。昨日富士見高原病院へ行くために伊北インターから諏訪南インターまで高速に乗った。そのとき意識して、視線を上下に移動してみた。驚いた。ぴたっと焦点があっている。あの嫌な、一瞬焦点がぼやけ、意識が遠くなるような感じがなくなっている。

松尾先生は、45歳を過ぎればほとんどの人は眼瞼下垂症であるとおっしゃっているが、ぼくが車を運転しているときの異常な感覚に気づいたのはちょうどその頃である。

今ならよくわかる。計器を見ようと下を見て、次に道路に視線を移したときには、眼瞼挙筋が瞼板からはずれていたために、ミュラー筋を使って瞼を上げていたのだ。そのために多量のアドレナリンが分泌され交感神経がフル稼働していたのである。今から思えば、無事故できたことが不思議なくらいだ。

ぼくひとりの眼瞼下垂手術の体験だけでは何か決定的なことを言うことはできない。そのことはよく分かっている。それでも敢えて言わせてもらえば、ぼくは今、もしこの手術を多くの人が受けることになれば、社会が変わるかもしれないと思っている。また聞きではあるが、松尾先生によれば日本人の8割は眼瞼下垂症にかかっているとのこと。

今交通事故で年間1万人の人が死に、3万人が自殺しているという。その数をかなり減らすことができるのではないだろうか。

さらに、不定愁訴の多くが治るならば、医療費の増加を抑えることができる。健康保険制度の破綻をくいとめることができるかもしれない。

年々増加しつづける犯罪の数も、鬱状態や過労感を取り除くことによって、抑えることができるかもしれない。松尾先生によると、若い人たちや子供たちにも眼瞼下垂症は増えているとのこと。いじめを含む少年犯罪に対してもいい影響があるだろう。

そして何よりも、強迫観念的に経済的な豊かさを追い求める価値観から脱却し、無用な競争や軋轢から自由な社会をもたらすことができるかもしれない。

すべて仮定の話である。そんなに事は簡単ではないよ、という声が聞こえてくる。確かにそう簡単であるはずがない。でももしあなたが、頭痛、肩こりに苦しめられ、自分でも原因のわからない不安感に悩まされていたら、一度眼瞼下垂症ではないかと疑ってみることをお勧めする。一度診察を受けてみることをお勧めする。