「ライスカレー」と「スープカレー」の誕生

***らいすかれーはクラーク博士が奨めた???***


 小生のところには、連日、診断依頼や質問が舞い込んできます。
 その中には、『ジャガイモの漬け物はどうして無いのですか』、『ライスカレーにカレーライスがあるけど、肉ジャガにジャガ肉が無いのはどうしてですか』等々と言った難問、奇問もあって、答えに窮することもあります。漬け物のほうは旭川市の香貴(こうき)と言う会社が取り組んでいるようですが、未だ試食してみたことがありません。

 日本にカレーが伝わったのは、江戸時代末期の開港以降であり、ライスカレー(当時の表記はタイスカレイ)が北海道開拓使東京事務所で御雇い外国人ホーレス・ケプロンらの食卓に出されたのは1872年(明治5年)のこと(右写真:開拓使の公文書『明治五年 開拓使公文録 八』、昼食にタイスカレイやホイロホテイト、夕食にフライホテトとある☆ )。同じ年にカレーのレシピも敬学堂主の「西洋料理指南」と仮名垣露文の「西洋料理通」に紹介された。この両書の共通の特徴は、カレー粉で味付けし、小麦粉でとろみを出すことと、野菜はネギのみを使用したこと。当時日本ではあまり栽培されていなかったタマネギ、ニンジン、ジャガイモ等は使われていなかった。肉については多様なものが使われていた。
 明治天皇が、肉食を解禁し、それまでタブーとされていた家畜の肉を食べたのが1872(明治5)年。そのような時代、クラーク博士やその前に北海道開拓使の招きで北海道に来ていたケプロンは、日本人の体が貧弱なのは、米食の偏重に原因があるとし、小麦、酪農を導入した欧米風農業にもって行くべきと考えておりました。
『カレーなる物語』(吉田よし子、1992年)によれば、北海道大学には、当時のカレーに関する記録は1877年9月(クラーク離日後)のカレー粉3ダースの納入記録しか残っておらず、クラークの命令もあったのかどうかは不明とされる。ただし、1881年の寮食は、パンと肉、ライスカレーが隔日で提供されていたことは確認されている。クラークとカレーを結びつける文献として古いものは、『恵迪寮史』(1933年)があり、これによると、札幌農学校ではパン食が推進され、開学当時からカレー以外の米食が禁じられていたという。
 「札幌農学校は率先して生徒にパン、洋食を採用し、米はライスカレー(potato curryか?)の外は用いないようにし」とぁったと書いている人もある。これは博士が「生徒ハ、米飯ヲ食スベカラズ。但し、らいすかれいハ コノ限リニアラズ」言ったとか寮の規則にしたとか言い伝えられているに起因している。細かい規則で縛るのが嫌いな博士は、『ビー・ジェントルマン』だけで十分としていたので、本当にそのような規則があったか不明ですが、寮の料理の記録に明治9年にカレーライスの記録があると言われています。
 当時まだ水稲の品種改良がなされていなかった。このため、寒冷な北海道では本州から北前船で小樽に上がったものを陸路札幌へと運んできていたので、本州からきた生徒達の食べたがった米は高価なものであり、札幌に来る前から蛋白質の摂取も十分ではありませんでした。カレー粉は明治5年の作家で敬学堂主人の仮名垣魯文著『西洋料理通』にすでに"カリド・ウィル・ヲ・ルフアウル"と紹介されていたことから、一般にはインドからではなく、イギリスから入っていたものと思われます。
 札幌農学校のあと、明治中期にカレーライスを全国へと広げたのは海軍の影響が大きい。栄養バランスがよく、大量につくることができたので、食堂で度たび出され、兵士が除隊後それぞれ故郷に広めたようです。そして、今は国民食にまでなりました。

 5千円札の新渡戸稲造さんも学生時代食べて卒業したのか記録はないようです。明治9年に出た寮のライスカレーrice curryはあったが、これに五升芋(ジャガイモ)が入っていたかどうかは定かではありません。しかし、宝永年間(1704〜1710年)に北海道は瀬棚町で栽培されていたことが記録されており、18世紀末の天明、寛政年間にも入った記録があり、函館から捕鯨船にジャガイモを供給しており、開拓使札幌官園や札幌農学校でジャガイモを導入していたことから、ジャガイモが入ることもあったのではないでしょうか。
まだコメのできなかった北海道でしたが、ライスカレーには、クラークの言葉が正しいとヒエやアワに代わり本州から入れたコメを使っていたようです。  横浜、東京のカレー粉を使ったものの具としては"ながねぎ"だけのようでした。西洋野菜(ジャガイモ、タマネギ、ニンジンなど)、リンゴ、牛乳、ハム、ソーセイージ、ビールなどは北国から広がったと考えるのが自然だ。これらが入ったのは"ライスカレ−"として北海道に広がり、全国統一の"カレーライス"を北海道で使い出したのは戦後の高度経済成長にともなう人事交流やテレビの普及によるところが大きい。
 『身土不二』という言葉のように、北海道に住むなら、その冷涼なところでよく育ち、御飯に比べて、各種ビタミンが明らかに豊富なジャガイモを主食にすべきですが、本州からきた人びとによって開拓されてきたため、故郷の御飯を見放すことなく、いやかえって真剣に、安定しておいしい米の改良を求め、「きらら397」、「ほしのゆめ」...へと進んで行ったものと思われます。北海道には南と北(ロシヤ)から入ったと書いている人がいますが、北からの証拠はありません。もしも、ロシヤ人によって開拓されたなら、ジャガイモが主食でボルシチの好きな道産子ができていたことでしょう。
ところで、昭和30年代あたりから最近は「ライスカレー」とは言わず、「カレーライス」と呼ぶ人が多くなりました、これは多分よりおしゃれな語感を、ということで“カレーライス”の呼び方が普及するようになったのでしょう。つまり、正確にいつ誰が呼び始めたか、よく判りませんが、一説によりますと、カレーを別の器に入れて出すのが「カレーライス」であるとか、家庭ではなく食堂など余所で食べるのが「カレーライス」だとか言われていますが定説にはなっていません。故向田邦子さは、そのエッセイで、昔小麦粉をたくさん使ったのを「ライスカレー」と呼びたいとしているようですが...。
 最近のレストランでは、お袋の味とは違って、ジャガイモの無いのが、目立ちます。これはジャガイモを入れると日持ちが悪くなり、余ったものを翌日に回しにくくなるからでしょう。お袋の味にはジャガイモの美味しさがありましたが、離れつつあります。
July,1998+後日加筆

***北大生がスープカレーブーム先導***

北海道新聞記事より


ブームを起こしたのは北大生だった。

 スープカレーの元祖については諸説がありますが、1993年開店し、とりあえずこの食べ物を「スープカレー」と名付けて世に爆発的に広めたのは札幌市白石区本郷通8丁目南6-2にある【マジック・スパイス】と言われています。
インドネシアのバリ島のソトアヤムという料理(スパイスを多く使った鶏肉のスープ。ソトはスープでアヤムが鶏肉の意)を日本に広めたい、という下村泰山店主の思いがこのスープカレーになった(NHK, 2010.4.20)。メニューの中心はチキン。ビーフやベジタブル、ポークやハンバーグなど多彩なトッピングメニューがあるが、初心者ならこのシンプルにチキンから始めるとよいとか。独特のあっさり味で、黒いバジルと白い揚げ春雨が特徴。柔らかく煮込まれていてなかなかうまい。
注)下村泰山著「Magic Spice ?魂の旅、アジア、医食同源そしてNYへ」

  その後1996年、札幌中央区北大近くに一風変わったカレーを出す「ヴォイジユ」も開店。スパイスの効いたさらさらスープ。骨付き鶏に野菜がごろり。若者達にすべてが新鮮だった。ヴォイジュはいまや、スープカレー界のカリスマ的存在。スープカレーは、札幌食文化の代表的ブランドとなった。しかし、「当初は売り上げゼロの日もあった」と経営者の須藤修さん(49)は振り返る。評判は急速に広がり、周辺には新規出店が相次ぎ、「スープカレー激戦区」が誕生した。
 

相次ぎ首都圏へ

 日本で初めてカレーを常食にしたのは、北大の前身・札幌農学校の寮生、との説がある。勧めたのは、あのクラーク博士。寮則に「生徒ハ、米飯ヲ食スベカラズ。但シ、ライスカレーハ是ニ非ズ」とある。具は構内で栽培したタマネギやジャガイモだったろう。カレーと北大生の結びつきは、一世紀以上前に始まっていた。
 北大周辺の動きをいち早くとらえたのは、エスビー食品(東京)。97年から4年間、札幌の事業所に勤めた営業マンが、街に増える「スープカレー」の看板に興味を持ち、リサーチを始めた。同じころ、同社の採用試験では、好物を聞かれて「スープカレー」と答える北大生らが相次ぎ、面接官の興味を引いた。
 「二十一世紀最初の商品は、札幌で大人気のスープカレー」。2001年1月、こんな売り文句でレトルト食品の第一号が誕生。スープカレーは一躍、全国に知られた。  地元メーカーもこれに続いた。タレント大泉洋さんが監修する「本日のスープカレーのスープ」(ベル食品)は、2004秋に全国発売されるや、年間60万食の大ヒットに。「スープカレー大使」を自任する大泉さんは、出演番組でも熱心に売り込みを図る。
 専門店の首都圏進出も相次いでいる。仕掛け人の須藤さんも昨年(2005年)末、自らプロデュースした店「札幌ピカンティ ホライズン」を中央区内に開き、東京進出への足がかりをつくった。運営を担うのは、道内で回転ずし「トリトン」を展開する北一食品(北見)の社内ベンチャー。年内にも東京に支店を開き、後にフランチャイズ化を目指す。雨宮茂典社長(45)は「学生街なら必ず口コミでファンを増やせる」と自信をみせる。
もちろん『マジック・スープ』も【東京下北沢店】(東京都世田谷区北沢1-40-15)をこれより前の2003年8月オープンさせています。

 

一層の質向上を

 スープカレーが短期間にブランドとして定着したことは、札幌っ子の進取の気性と切り離しては考えられない。先例や伝統にとらわれず、「新しいもの好きで、大胆にアレンジする柔軟さがある」(須藤さん)札幌の土壌が生み出した。その爆発的な広がりは、北大生から火がついた「YOSAKOI」と重なる。
 野菜、肉、魚介類と、スープカレーはその土地の食材を生かせる格好の料理だ。スープカレー店は市内に200店あまり。「沖縄まで広がる可能性はある。でも、まずは道産品をふんだんに使い、質をさらに高めないと」。冊子「カレー賛味(ざんまい)シリーズの発行人、玉木正人さん(36)はこう指摘する。
 スープカレーが「第二の札幌ラーメン」になる可能性は十分。「スープカレーよ、大志を抱け」と、クラーク博士は言うかもしれない。【2006年1月11日北海道新聞】
 2013年には札幌市内だけでも15店を越える出店があり、246店になり、東京、横浜、沖縄、さらに台湾にまで広がったとか。web「スープカレーinfo」が役立ちます。

 

わが国野球事始め

 西郷隆盛らが活躍していたころの話ですが、開拓顧問ケプロンは開拓次官黒田清隆に、北海道に科学的にして実用的な農業を興すため、東京および札幌の開拓使官園(農業試験場のようなもの)に連携して農業専門学校を設けることを説いた。黒田は、この献策をとりあげて農工諸科を教える学校をまず東京に設け、のちこれを北海道に移すこととした。こうして明治5年(1872)4月札幌農学校の前身である開拓使仮学校が芝増上寺の一隅に誕生した。この学校ではアイヌ青少年の教育と実習も始められ、また同年9月には女学校も併置された。
 明治6年2月この開拓使仮学校にアルバート・ベーツという英語教師が赴任してきた。札幌農学校に移行するまでの僅かな間でしたが、彼の持ち込んだボール3個とバットを使い、生徒にゲームの方法を教えたことが日本での野球の始まり、とされています*。
 当時ベース・ボールは『のボール』と呼ばれ、この直後にホーレス・ウイルソンの指導で野球を始めた開成学校(東大の前身。神田一ツ橋)では『打球鬼ごっこ』と、またあるときは『底球』と訳されていたようです。その後熱心に野球をやったのは、官立の英語学校であり、盛んにやられるようになったのは明治21年ころからで、今にも続く有名校が中心でした。『野球』と訳したのはかなり後の明治27年のことで、一高野球部の中馬庚(なかまかなえ)と言われています。つまり、俳人の正岡子規ではありません。**
*大島正健(おおしままさたけ)『クラーク先生と その弟子たち』1993、教文館
**全日空『翼の王国』2006.11

 

Q カレーライスをつくりすぎました。ジャガイモの入ったカレーを冷凍してもいいですか ?


A. マッシュポテトもポテトサラダも、茹でてからつぶしているので、ジャガイモの繊維が断たれていますので、家庭で冷凍ができます。
しかし、ジャガイモが原型のままのカレーライスでは、家庭のゆっくり冷凍で繊維の組織が壊れ、再び解凍したときにはジャガイモならではのホクホク感が無く、スポンジのようにぱさぱさして美味しくないので、ジャガイモは(急速冷凍できる業務用は別として)冷凍にむいていません。
多量に残ったとかで、どうしても冷凍して少し長めに保存したいときは、
(1)ジャガイモをつぶして混ぜてしまうか。
(2)ジャガイモはすべて取り除いてから冷凍する。

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『肉じゃが』の誕生
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