An Interview About
Indonesian 60's Beat/Garage Scene

 ある日、「素敵なホームページ、画像をありがとう。40年前を思い出しました。Ernie Djohan、 Rita Chao、 Sakura、 Naomi And The Boysが私のお気に入りの歌手です。」といったようなことが書かれてあった英文のメールが届きました。不思議なことに、このメールは英文でありながら、私と同じプロバイダーを利用した、日本からのメールでした。私は、きっとシンガポール人で、現在は日本に住んでいる方なのだろうと思いながら、つたない英文で返信したところ、今度は日本語でメールが届きました。そのメールには、「私は一応日本人ですよ。一応というのは、元インドネシアの華僑で、日本に帰化しました。現在横浜に暮らしています。」とのこと。(納得!!) そして、私がそのメールで何よりも驚いたのは、「インドネシアを離れる前に、Rita Chaoのコンサートを見に行ったことがあります。」という、めまいがしそうな羨まし過ぎる体験談が記されていたことでした。これはなにがなんでも根掘り葉掘り訊かなくては!ついでに60年代インドネシアのビート/ガレージ・シーンについても教えてもらおう!と、その時決意しました。なにしろ当時のインドネシアの状況を、日本語で不自由なく訊けるチャンスなんてめったにあるもんじゃないですから.....。
 
 尚、このインタビューはメールの交換によって行われました。Anthena Leoさんには、「僕は文を書くよりも、口でしゃべったほうは楽だよ。(笑)」と言われながらも、最後まで辛抱強くお付き合い頂きまして、本当に感謝しています。どうもありがとうございました♪特に、Dara Puspitaの元メンバーのTitik Hamzahさんとお知り合いであるAnthena Leoさんだからこそ語ることができたDara Puspitaに関しての詳細な記述は、非常に貴重な資料に成り得ていると思います。

*公開してもよい範囲で簡単な自己紹介をお願いします。

ハンドルネームは
Anthena Leoです。(これは高校生の時から使っているペンネームです。)1953年7月8日生まれ。そろそろ52歳ですね。人生のターニングポイントは過ぎてしまいましたが、未だに青春のど真ん中だと勘違いしている2児のバカ親父です。インドネシアには、1974年12月まで住んでいました。

*初めて買ったレコードは何でしたか?

だいぶ後になって、シンガポールの歌手であることがわかったSakura & Rita Chaoの「新桃花江」というタイトルのEPです。LPでは、インドネシアのスラバヤ出身の華人歌手である愛慧(女那)と、香港歌謡コンテスト優勝の林美儀のアルバムでした。



*60年代に好きだったアーティストを教えて下さい。

もちろんRita Chao、Sakura、Titiek Puspa、Ernie Djohan、Tetty Kadi、張小英(本当はあまり好きではありませんが、家の中はほとんど彼女のEP、LPばかりで、なんとなく親しみがあります。)、Naomi & The Boys、姚蘇蓉、Dara Puspita、Diah Iskandar(インドネシアのコニー・フランシス)、Aneke Gronloh(インドネシア出身シンガーで、オランダでデビュー。どういうわけか、シンガポールにファンが多く、あのディック・リーの家族も!)、Lulu等...。



男性歌手でしたら、凌宵、凌震、青山、Koes Bersaudara(メンバーチェンジに伴ない、後にKoes Plusに改名されました。)、CCR、Engelbert Humperdink,Tommy James & The Shondells、Percy Sledge、Urish Heep、フィリピン出身のEddie PerginaとVictor Wood、オランダ出身のThe Cats等...。



*60年代に、インドネシアで特に人気があったアーティストを教えて下さい。(欧米のアーティストも含む。)

インドネシア歌手でしたら、Titiek Puspa(なんと、今でも活躍中。日本で言えば、中島みゆきみたいな存在でしょうか、60年代からのシンガー・ソング・ライター、すごいです。)。あとは、Lilies Suryani、Ernie Djohan、Tetty Kadi等...。1960年代末から1970年代初め頃、Titiek Sandhoraが台頭し、特徴のある歌い方に人気が集中しました。(Lilies、Ernie Djohan、Tetty Kadiの人気は少し下火に...。)そして、なんといっても4人組の女性バンド、Dara Puspita !!(Titiek Puspaの作品をよく演奏していました。)ザ・ビートルズの格好をしていた彼女達は、ア・ゴー・ゴー、ツイスト風な、当時としてはかなり珍しい作風で、いきなりトップの座に着きました。若者のトップ・アイドルになったのです。
1966年、彼女達はデビュー前に、バンコク(タイ)公演を行っています。その時のバンコクの思い出を元にしたいくつかの作品は、ファーストと、セカンド・アルバムに収録されています。
*1

*1 : ファースト・アルバムからは、Pantai Pataya(日本でもお馴染みのパタヤ・ビーチ。)、Pusdi(日常の世話をするタイ人のおばさんの名前。)。セカンド・アルバムからは、Puyaili(タイのフォーク・ソングで、タイ語で歌われた。)。



フォース・アルバム*2をリリース直後(1968年7月)、彼女達はヨーロッパ公演へと旅立ち、1969年10月までおよそ1年3ヶ月もの間、中近東のイラン、西ドイツ、トルコ、ハンガリー他をツアーしました。トータルで、70都市、250回のコンサートを行ったのです。

*2 :
今までの3枚のアルバムはすべて12インチ(各12曲を収録)、Mesraというレコード会社からの発売でしたが、この最後の(4枚目の)オリジナル・アルバムはEl Shintaというレコード会社から10インチで発売されました(収録曲は8曲)。Titiek Hamzahさん曰く、「これは今まで育ててくれたMesraに対しての裏切り行為でした。でも、本当に新しい環境が欲しかった。とくにEl Shintaの購買層は若者ばかりということが、一番大きい理由でした。新しい環境で自分達の力を試したかったんです。」って語ってくれました。



ちょうどその頃、彼女達の前にCollin Johnsonという方が現れました。氏は、The Beatles初期のマネージャーでした。氏の要請で彼女達はすぐにイギリスに渡り、Welcome To My House/I Believe In Loveでデビューしたものの、不発に終わりました...。2枚目のBa Da Ba Dum/Dream Stealerもヒットしませんでした...。「だって、私達みたいな無名女性バンドのレコードなんか、誰も買うわけがないでしょう。」と、当時のことをドラマーのSusy Nanderが振り返っています。ちなみにSusyは華僑(父)と、オランダ人(母)のハーフで、メンバーの中では一番人気がありました。でも、歌唱力は一番ビリでした!
イギリスではよく彼女達のコンサートも行われました。単独公演もありましたが、Uriah Heep、Shocking Blue等、当時のトップ人気バンドの前座を務めたこともしばしばだったそうです。
イギリスを去って、花の都パリ、ベルギー、スペイン、そして最終地点のオランダへ。オランダでは特に歓迎されたそうです。ファースト・アルバムに収録されているSurabaja(スラバヤ)を演奏したら、みんな泣いていたそうです。(インドネシアは360年間もの間、オランダの植民地でした。)オランダでは1枚のシングル盤が発売されました。コンサートで一番人気があったSurabajaの英語ヴァージョンと、CabaleuroをB面に収録しています。
その後、インドネシアに帰国して、スタジアム級の凱旋公演が行われて彼女達の人気はピークを迎えます。その時のコンサートで、私の記憶に一番残っているのは、ベーシスト兼司会役のTitik Hamzahさんが、海外での生活の話を交えながら、「海外でデビューしましたが、失敗に終わってしまいました...。」と、素直に語ってくれたことです。その誠実な発言を聞いて、より一層彼女達応援する気になりました。
これは、後にTitik Hamzah本人から聞いた話なのですが、Dara Puspitaには、帰国する前から既に”解散”という話が出ていたそうです。もちろん、外部に漏れないようその事は内密にされました。解散という話を持ち出したのは、ベーシストで、4人の中では最も才能があったTitik Hamazahさんでした。彼女曰く、「他人の作品ばかり演奏して、アーティストとしてこれほど退屈な事はない。解散するなら人気がある内に。」他のメンバーは、「今は、トップにいるんだから勿体ないよ。続けましょう。」と、彼女を説得しましたが、彼女の強い意思には勝てませんでした。そして、凱旋コンサート最終日に、彼女達の口から解散が発表されました。その頃には、既に噂にはなっていたのですが、我々ファンにとっては、とても衝撃的な悲しい出来事でした...。
その後、何年か経ってからリード・ギターのTitik A.Rは、ドラマーのSusy Nander、新メンバーにJudith Manopo(ベース)、Dora Sahertian(キーボード)を迎えて再結成しました。(このメンバーで1枚のアルバムをリリースしていると思いますが、長くは続かなかったようです。)Titik Hamzah、Lies A.Rはその時既に結婚していた為に参加しませんでした。
それから後に、決して歌うことを忘れていなかったTitik Hamzahが復帰し、これまたドラマーのSusy Nanderと二人だけで組んで、2枚のアルバムをリリースした後、また解散...。この時の、新生Dara Puspitaは、以前のDara Puspitaとは違い、いろんなジャンルに挑戦していました。「ヒットを狙うつもりは全くなかった。音楽に対する私の情熱を示したかっただけなの。」とTitl Hamzahさんは振り返っています。



その後、彼女が歩んできた道のりは、正に彼女の言葉を証明するものでした。彼女は1981年の第12回世界歌謡祭に、Siksa(ひきさかれて)という作品を提供しています。歌い手は、Euis Darliah、Hetty Koes Endangでした。http://www.yamaha-mf.or.jp/history/e-history/wpsf/wpsf12.html
また、1982年に、彼女はソロ・シンガーとして再デビューしています。同時に、他の歌手にも作品を提供したりして、再び注目されるようになりました。



1983年、Festival International De La Cancion Vina Del Mar Di Cileで彼女の作品Sayangという曲が、第3位に入賞。その時の歌い手Hetty Koes Endangは最優秀歌唱賞を受賞しています。
1987年には、3人の有名なロック女性歌手(Titik D.J.、Atik C.B.、Endah)と、Adaraptaというグループを結成。Dara Puspitaのカヴァー・アルバムをリリースしています。



ちなみに、Dara Puspitaの初期の4枚のアルバムは、カセットもなかった時代だったので、レコード盤しか発売されず、その後も、再発売されてはいません。Titik Hamzahさんによると、1980年代に一度、Dara PuspitaのメンバーであるTitik A.R.、Lies A.R.の父親から、「カセットとして、再発売したいので了解して欲しい。」との話があったそうですが、版権問題が山ほどあったために断ったそうです。そういったわけで、オリジナルメンバーによる4枚のLPは、現在ではなかなか入手できません。(私は運良く全て持っています。)

*1960年代当時、日本ではレコードはかなり高価な物だったらしいのですが、インドネシアでは如何でしたか?また、レコードにまつわる思い出がありましたら教えて下さい。

当時は、レコードか、オープン・デッキ・テープしかなく、レコードも西洋の物か、中華歌謡物(主に台湾、香港、シンガポール)と、ごくわずかなインドネシア物だけでした。著作権もなかった時代だったので、オープン・デッキ・テープを聴く場合は、いつもよく行くレコード屋さんに行って、まず空のテープ(当時は90分の西ドイツBASFが主流でした。)を買い、テープの長さに合わせてレコードから好きな曲を選んで録音してもらいます。録音代金は1曲につき、いくらという決まりで、レコードを買うよりも経済的で、お買い得です。レコードはやはり高価でしたね。一般庶民にはなかなか手が届かない金額でした。録音テープはほとんどの場合、中4日間か、1週間ぐらいで出来上がります。もう入手するまでずっとソワソワ、ワクワクして、すごく待ち遠しかったです。(笑)

*非常にユニークなシステムですね。レコード店は儲かりますが、アーティスト、レコード会社は堪ったもんじゃない...。(笑)


*Rita Chaoのコンサートに行かれたことがあるそうですが、彼女のレコードはインドネシアでも発売されていたのでしょうか?それとも、シンガポール等から入ってきていた所謂輸入盤だったのでしょうか?


彼女のレコードは、全て輸入盤でした。当時のインドネシアには、著作権もありませんでしたが、海賊盤のLPもありませんでした。インドネシア物は、シンガポールで製造・発売された物(Ernie Djohan、Aida Mustapha、The Steps等。)を除いて、全てインドネシアで製造されていました。
Rita Chaoと、Sakuraは、ソロになったり、デュエットになったりで、ちょっとややこしかったが、情報も非常に少ない時代だったので、買う度に、「ありゃっ、今回はソロだ!」って感じで、何か意表をつかれるような意外性があって、いつも新鮮でした。

*コンサートを開くぐらいだから、インドネシアでも人気があったことは想像できるのですが、実際はどれくらいの人気だったんでしょうか?インドネシアのテレビ番組で歌ったり、雑誌に載っていたりしたのでしょうか?

Rita Chaoのインドネシアでの人気はとにかくすごかった。彼女とSakuraは、今の50代の華僑であれば、ほとんど皆知っていると思います。しかし、当時の政治的背景では、1966年から(1998年まで)、中華人民共和国の雑誌、新聞は一切禁止されていたので、中国の匂いのする物は、テレビ番組、雑誌、マスコミとは無縁でした。せいぜいが、香港出版の歌謡雑誌、情報誌等に頼って精一杯の情報を収集するだけ。あとは、レコードとか、ラジオで聴くぐらいでした。それだけクチコミの力がすごかったということでしょう。

*Rita Chaoのコンサートに行かれたのは、いつ、どこで、どれぐらいの規模の会場でしたか?

1971年だったと思います。とにかくすごい人気でした。彼女はインドネシア中を回ったのではないでしょうか。僕は、中間都市(市内人口はおよそ30万人ぐらい。)に住んでいまして、コンサートは3日間、毎日3回公演で、合計9回行われました。当時は、コンサート会場というものがなく、映画館を使ってコンサートは行われました。映画館は600人収容という規模で、チケットは全公演売り切れでした。

*Rita Chaoのコンサートでの様子、バックバンド、観客の反応等、どんな些細なことでもよいので、憶えている事を詳しく教えて下さい。


コンサートは大体2時間の段取りで、バックバンドはシンガポールから連れて来ていたと思います。確か、3回衣装をかえました。全てカラフルな超ミニ・スカートに、ロンドン・ブーツ。スローな曲(苦情花、I Know等)を交えたり、MCではジョークを飛ばしたりして観客とのコミュニケーションもよくとれていました。終盤はもっぱらア・ゴー・ゴー調(Hanky Panky、Venus等のカヴァー。)で、ステージを一気に”ハイ”にしてしまいました!観客を乗せるのが本当にうまい。20年後に出てきたピンクレディーも真っ青な激しい踊り!あの超ミニ・スカートは...うっ!もう下着は丸見えで...僕は...鼻血が!!!彼女のお人好しの性格のせいでしょうか?なんと、5回もアンコールに応えてくれました!!!信じられません!おかげで、次の公演の開演時間は大幅に遅れたことは言うまでもありません。


*そのコンサートには、Rita Chao以外は出演していなかったのでしょうか?

彼女のワンマン・ショーでした。


*他に、当時観に行かれたコンサートはありますか?

ありますよ!!!よくぞ訊いてくれました。なんと、Nancy Sitも!彼女は、妹さんとご一緒に、インドネシア全国を回ったのではないでしょうか?確か2周しましたよ。2周目は、チケットが少し安くなったんじゃないかと思います。会場も少し小さくなったりして。(笑)彼女の宿泊先は知っていたので、朝早く友人と一緒にバイクで行きました。彼女はファンに対してすごくやさしい...。50枚のブロマイドにサインして欲しいとお願いしたら、「わ〜!すごい!買ったの?」って質問された記憶があります。1枚1枚丁寧にサインして頂きました。50枚ですよ!本当にいい方です。(でも、あのブロマイドは、今何処?)
ステージ上では、彼女と、妹さんはインド人の格好か、中国の西蔵地方の民族衣装を着て、「草原情歌」、中華歌謡ヒットパレードを、踊りながら歌ってました。彼女もRita Chaoと同じく、9回のステージを消化しました。
あとは、香港の女優兼歌手の苗嘉麗、台湾の青山、インドネシアのDara Puspita、Ernie Djohan、Tatiek Puspa、Tetty Kadi、そうそう、あとは「ママ」という曲を歌ったオランダからの大人気歌手Heintje(ヘインチャー)に行きましたが、既に変声期を迎えていました...。もう、がっくり!あの天使の歌声は何処へ行ってしまったんだ?暴動が起きなくてよかったよ、今にして思えば...。


*Nancy Sit の妹さんもステージに立っていたんですか?妹さんも有名だったんでしょうか?

彼女はインドネシア・ツアーだけ、その後確か1、2回は香港の雑誌に載ったことがありました。その後、ご隠居なさったのでしょうか?(笑)名前も忘れました。

*ちなみに、Fong Po Poは、インドネシアで人気がありましたか?

結構有名でしたよ。この方は元々は子役の俳優さんでした。出生が悲しい物語のようで、小さい時に、劇団の馮家に引き取られ、子役として映画界に売り出されました。芝居はとっても上手い。ただ、歌を歌っていたって全然知らなかった。
香港の映画は当時、中国語と、粤語(広東語の意味)に大きく分かれていました。どちらかといえば、中国語の方がメジャーでした。彼女は、長く粤語の映画界にいながら、時々中国語の映画にも出ていました。

彼女はいつも、継母に苛められる役ばかりで、可憐で、かわいそうで...すごく印象に残る女優さんです。嫌味の無い俳優さんですね。
粤語映画のトップスター達と、「七公生ー7プリンセス」という少女組を作り、彼女は一番年下のプリンセスでした。
*3

*3 :大公主ー馮素波、二公主ー沈芝華、三公主ー陳賓珠、四公主ー蕭芳芳(ジョセフィン・シャオ/シャオ・フォン・フォン)、五公主ー薛家燕(ナンシー・シット)、六公主ー王愛明、七公主ー馮賓賓(フォン・ポー・ポー)。

大公主ー馮素波は、馮賓賓のお姉さんにあたります。

三公主ー陳賓珠と、四公主ー蕭芳芳のファン同士は一番仲が悪い。というのも、二人共トップを張るスターだったから。蕭芳芳は日本で言えば...誰だろうか...。聡明な感じの方ですね。陳賓珠は、吉永小百合さんのようなタイプで、清楚で綺麗な方。ちなみに僕は、陳賓珠の方が好き。

*私は、断然!蕭芳芳の方が好きです。(笑)



あっ、もう一つの情報ですが、中国人なら誰でも知っている曲、「世上只有媽媽好」(世界中で、ママが一番)のオリジナルはなんと、蕭芳芳です。

*60年代後半は、The Beatles、The Rolling Stones他の影響で、世界中にビート・グループが数多く誕生しました。日本でも”GSブーム”と呼ばれる現象があったのですが、インドネシアではどうでしたか?

そうですね、Dara Puspitaのちょっと先輩にあたるKoes Bersaudara(Koes Plus)は正にその系統でした。当時のスカルノ大統領が提唱した、アメリカの精神汚染反対の元に、Koes Bersaudaraと、Dara Puspitaは何度も、警察署に出頭させられ、厳しく追及されたそうです。Dara Puspitaは難を逃れましたが、Koes Bersaudaraは牢屋に入れられたこともありました。


*それは、歌詞に問題があったのでしょうか?それとも、サウンドそのもの、または佇まい等に問題が?

歌詞というよりも、サウンド、振付け、ファッションが、アメリカ的(というか西洋的)過ぎたためです。当時の大統領であったスカルノ氏が、独立記念日の演説で、このKoes Bersaudaraのことを名指しで批判したぐらい大変な状況になっていました。要するに、精神汚染のレッテルを貼られたんです。(まるで、20年後のテレサ・テンさんみたい。)

*俄然、Koes Bersaudaraというバンドに興味がわいてきました。どんなバンドだったんですか?レコードは何枚ぐらい出しているんでしょうか?

数としては、物凄い数だったんです。最低でも400曲はあったんじゃないのかな。ポップ、カントリー、マラユー(ダンドュットの原型)、クロンチョン、洋楽、ジャワ語ポップス、クリスマス・ソング、童謡、ボサノヴァ等、色々なジャンルに挑戦していました。1987年に、リーダーのTonny氏が亡くなるまで、およそ40年間ずっと活動していました。インドネシア歌謡界のリーダーと言えるんじゃないかと思います。

*ガレージ・パンク・バンドというわけではなかったんですね。勝手にLos Saicosや、The Bluestarsみたいな反体制的なパンク・バンドをイメージしてました。(苦笑)

*インドネシアでは、所謂”ビート・ブーム”以前には、”エレキ・ブーム”はありましたか?日本では、The Ventures、シンガポールではThe Shadowsがブームを引き起こしたそうですが。

ありました。中でもThe Stepsが一番人気でした。その人気は隣の国のシンガポール、香港にまで及んで、シンガポール製造のレコードも何枚かリリースされました。




*個人的な質問なのですが、私がシンガポール/マレーシアで買ったインドネシアのレコードに、”Keronchong”という文字がよく記されているのですが、どういう意味でしょうか?

このジャンルの由来は、おそらくほとんどのインドネシア人も知らないでしょう。皆勝手にインドネシアの民族音楽だと解釈しているようです。それぐらいインドネシア人にとっては身近な音楽ジャンルです。実際は、古くはポルトガルから輸入された音楽です。「クロンチョン」とは「ちりんちりん」といった擬音で、最初はポルトガルから伝わった小型のウクレレ型ギターを指したが、間もなく音楽そのものを指すようになったのです。

*最後の質問です。1960年代は、Anthena Leoさんにとって、どのような時代でしたか?

難しい質問ですね...。オモチャ箱から飛び出して、跳ね廻っているボールに乗っかっていたようなものでした。ショッキング・ピンク、ショッキング・ブルー等の鮮やかな色彩があふれていて、見るもの全てが新鮮だったんです。


2005年5月 thanks to Titik Hamzah

Top