Gunma Life
本文へジャンプ群馬観光 ぐんまの街道 登録: 2008/11/ 5
更新: 2009/03/19
名称 東山道 とうざんどう
別称 とうせんどう  
やまのみち  
区分 ぐんまの街道 古代街道
出発/終着 畿内 東北地方

東山道 / 概要
東山道とは? 東山道は、律令時代(700年頃)に整備された畿内と各国にあった国府(今の県庁)を結ぶ七道(当時の幹線道)の1つで、都から東へ向かう道は3つあり、太平洋岸を通る東海道、日本海側を通る北陸道、そして内陸部を通る東山道であった。 東山道は畿内から近江国、美濃国、信濃国、上野国、下野国、武蔵国(東山道武蔵路、後に東海道に属す)、磐城国、羽前国、羽後国、陸前国、陸中国、陸奥国、に通じていた。 また、直接東山道が通っていなくても近隣の国には、途中から支路と呼ばれる分岐した小路が通っていた。 古代道路は重要性に応じて、大路(道幅が36m〜42m、畿内では100mに及ぶものもあった)、中路(道幅12m)、小路(道幅6m)とされていたが、畿内と大宰府を結ぶ山陽道西海道大路であったが、東山道中路であった。

東山道は駅と駅の間を極力直線道路とし、道幅も12mの幅が有ったことから、非常時には短期間に大量の軍事力を移動することが可能な、高速道路であったと考えられている。
 
東山道は10世紀後期〜11世紀初期にはすたれてしまったが、後に、木曾街道として復活し、また江戸時代には中山道日光例幣使街道奥州街道に整備され直した。
 
駅馬・伝馬 大化の改新で646年に発せられた詔により、駅伝制を布く旨が発表され、東山道は680年頃までに整備され、約16kmごとにがおかれ、各には10疋の馬が配置され、また宿泊が可能な設備も造られた。 また、置かれたの名称は、平安時代中期に編纂された延喜式(律令の施工細則)に記述いされてる。
しかしながら、10世紀後期〜11世紀初期には駅伝制は完全にすたれてしまった。 しかし、この制度の代わりに宿場が発達して言ったわけである。
 
種別 馬の配備数 群馬県内の駅馬・伝馬
駅馬 15疋 坂本
10疋 野後、 群馬、 佐位、 新田
伝馬  5疋 碓氷、 群馬、 佐位、 新田
 
誰が利用したの? 国府の役人の往来、軍人特に防人達が多く通過した。 また、国が律令で定めた税である租庸調のうち、は国衙(国府)に納められ備蓄されていたが、調は労力を都へ行って提供したり、代わりの物品を納入していたので、それらの人々や物の運搬に東山道が利用されていた。
必要日数 必要日数の上りと下りに差があるのは、多くの場合上りには調を運搬しており、下りの場合には人物のみの移動が多かったからである。
国府名 現在地住所 上り日数 下り日数
畿内   0日   0日
近江国府   1日 0.5日
美濃国府   4日   2日
信濃国府  21日  10日
上野国府 群馬県 高崎市 東国分町  29日  14日
下野国府  34日  17日
陸奥国府  50日  25日
 
街道のレベル? このころの古代道路は、大路、
ぐんまの東山道
信濃国
========= これより上野国 =========
熊野神社/碓氷峠
坂本(さかもと)駅
野後(のじり)駅
群馬(くるま)駅 群馬駅は、旧群馬県群馬郡群馬町(現:高崎市東国分町か引間町あたり)にあったと思われる。
近くに上野国府(現:高崎市東国分町)や上野国分寺(現:高崎市引間町)などがあった。
佐位(さい)駅
新田(にふた)駅 新田駅は新田荘ではなく入谷遺跡が東山道・新田駅と推定されている。
========= これより下野国 ==========
下野国 渡良瀬川を渡った国府野遺跡が足利駅であったと推定されている。
インフォメーション
出典資料 資料で読みとく群馬の歴史 編集: 群馬県歴史教育者協議会
出版: 山川出版社
初版: 2007年3月
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